哀願する炎
「俺を殺してくれ……」
高梨健吾は、紅蓮の炎に身を包み、あらゆる生命の接近を許さぬ圧倒的な超火力で自身を防御していながら、目の前にいる山南敬に対して、そう哀願していた。
敬は、その近寄るだけで皮膚が焦げ付きそうな炎の塊を前にして、さすがに怖気づいたりはしないが、どう攻撃をしたものか戸惑っていた。
だが、迷うだけの暇を与えてくれそうに無い。
口では「殺してくれ」と言っているが、その存在自体が脅威に他ならない、近寄ってくるだけで絶命は必至だからだ。
とりあえず敬は、手に持っている銃の中の最後の”弾丸”を使う事にした。
敬が、構えると、健吾の周りの炎がそれ自体に意思があるようにうねうねと動き始めていた。
(何だ――?)
敬は訝しげにそれを見ながら、それでも引金を引いていた。
銃口から放たれたのは、土の塊であった。
まるで土石流のように、それが健吾に襲い掛かっていた。
敬の持つ銃。
健吾に接近する前に、弾倉にある黒い球体の部分を地面に押し当てたらどうなるのか、を試してみた所、まるで押し当てた場所が陥没したようになった事から、その部分が”弾丸”として認識されたという事が分かった。
多分、かなり色々な物を”弾丸”に出来ると予想されるから、汎用性は高い、敬は今回の戦いも楽勝ではないだろうが、かなり勝ち目が濃いと内心では思っていたが、目の前の強烈な熱の怪物を眼にすると、些細な汎用性など問題にならないほどの圧力を感じる。
(勝てるのだろうか――)
敬はそう思わざるを得ない。
元々が強気な性格ではない、人の性格は一瞬で変貌を遂げるが、根っこにある性格は一時は変化をしても、根本的に改革するのは時間が掛かるのだ。
それでも、自分の中のありったけの勇気を振り絞り、敬はそれと対峙している。
敬の持つ銃から放たれた、土の塊は、健吾に命中するかと思った瞬間に、健吾の全身を多い尽くしている炎の壁が、まるで触手のように動き、それを見事に防いでしまっていた。
殺してくれと言っておきながら、防御をするというのが腑に落ちないが、そういう抗議をしている程の余裕は敬には無い、何故ならば敬の攻撃を弾いた炎の触手が、今度は敬目掛けて飛び掛っていたからだ。
あれに捕まれば、恐らくそれで終わりだ。
捕まったら逃れられないとか、そういう次元じゃなく、捕まった瞬間に骨まで燃えてしまうだろう、それだけの熱量がそこに込められているのが分かる。
だが。
敬の瞬発力がいかに優れていても、その触手の速度は並大抵ではなかった、しかも敬は攻撃を終えた直後という僅かな気の緩みが発生してしまう間であった、攻撃が弾かれただけでも驚いたのに、弾いたそれがそのままこっちに向かってくるのは予想外だったのだ。
(やばい!)
敬がそう思った時には、炎の触手はもう目前にまで迫っていた。
どれだけの瞬発力で飛び退いても、その触手から逃れる術は無いように思えた、何しろ手に持っている銃の弾はもう空であり、それを補充しているだけの余裕も敬には残されていなかったのだから。
だが、それでも動かずにやられる訳には行かない、逃れるのは無理かもしれないがそれでも全力で飛び退くしかなかった。
その時だった。
びちちちちち。
そういう音が下半身から、した。
ズボンが避ける音ではない。
履いているジャージの足首のチャックが開く音だった。
え? と敬が思った時には、体がまるでロケットのように一気に川へ向かって跳んでいた。
炎の触手も、さすがにその速度は追い切れずに、諦めたように元の位置に戻っていた。
一体何が起こったのか。
敬は、川の中腹にある一定の時間にだけ姿を見せる砂地に、頭から突っ込むような形で、転がっていた。
水に突っ込まなかったのは運が良かったのか悪かったのか。
とりあえず、健吾との距離は一気に100m以上は開いた、まだ地面に転がっている状況だが、そんな姿勢でも赤々と燃え上がる健吾の姿は確認できる、それほどの質量を誇っている。
敬は自分に何が起こったのか確認する為、自分の下半身を見て驚いた。
両足が、まるで熊か何かのように太く、そして獣毛がびっちりと生えた状態に変わっていたのだ。
足が急激に太くなったから、ジャージのズボンのチャックが勝手に開いてしまったのだというのが分かった。
収縮性のあるズボンだったから伸びるだけで破れなかったが、これがもっと収縮性の低いジーパンとかだったなら弾けるようにして破れていただろう。
「これは……?」
敬が疑問に思っている間に、その足は元の状態に戻っていた。
どう言う事なのか。
想像であれば、いくらか推測できる。
危機に瀕した時、いや必要な状況になった時だろうか、その瞬間だけこのような怪物的な力を発揮する能力を敬は手に入れたと言う事かもしれない。
どちらにせよ敬にとって害のあることではない、むしろ今の爆発的な瞬発力が無ければ、あれで戦いは決着してたのは間違いない。
そうこうしている間にも、熱気の塊が近寄ってくるのが分かる、相手が接近してくれば気温自体が上昇するのだから接近はすぐに分かるが、本当に殺してくれと思っているなら近寄らないでじっとしていて欲しいと敬は思った。
それでも、健吾は炎の塊と化しながらも、まだ。
「……殺してくれぇ」
と言いながら、近寄ってくるのだった。
もう健吾は、川の辺にまで近寄っている。
敬はちょうど川の中心の位置にいるので、近寄るには川を渡らなければならない。
あの炎の触手による攻撃も、これだけ距離が有り、なおかつ気を張っている状況ならば避けられない攻撃ではない。
面白い事になった。
敬はそう思った。
さすがに水に触れれば、あの炎がどれほどの熱を持っていようと、その火力が減少するのは眼に見えている、もしかしたら消えてくれるかもしれない、そうなったらもうこちらの勝利は揺るがない、あのライターで再度火を付ける前に弾丸を叩き込む自信は敬には有る。
さて、どうなるか――
色々と考えながらも待つだけではなく、敬は次の”弾丸”を補充していた、辺りにいくらでもあり、そして相手が『炎』だという事を考えれば、これ以上無い”弾丸”がいくらでも転がっている。
それはつまり『川』だ。
川に銃の弾倉の部分の黒い球体を押し当てると、そこだけ切り取ったように凹んだ、かなりの大きさの穴が川に開いていた。風すらも止まっているこの状況だからか、その穴もそのまま凹んだまま残っている。
実際に水に触れると、奇妙な感触がそこに有った。
最初は砂のような感触なのだが、触れているうちに普通の水と同じような感触に変わるのだ。
つまり、触っていれば徐々に液体も普通の状態に戻ると言う事なのだろうか? 敬はそこら辺の事を詳しく考えようかとも思ったが、それほどの余裕は無いようだった。
健吾は炎に身を包みながら、一片の迷いも無いように川へ足を踏み出していた。
敬はジュウゥゥという音が響くかと思っていたのだが、予想に反して何の音もせずに健吾は歩いてくる。
最初の数歩は平地を歩くように進むが、そこからは徐々に体が沈み始めていた。
炎に隠れていて健吾の表情は窺えないが、躊躇いとかそういう感情は持っていないようで、体が沈み行く状況でも、歩みを止めようとしない。
敬にとってそれは絶好の機会だった。
足場が悪い相手。
しかも触手で攻撃してくるかと思いきや、そんな素振りすら見せない。
そして周りには敵の『炎』の天敵とも思える水ばかり。
これを逃す手は無い。
敬は、銃を構え、そして一切の間を置かずに引金を引いていた。
かなりの量の水の”弾丸”が健吾に向かって放たれていた、学校のプールの水の半分程度の量である、人一人を飲み込むには充分すぎるほどの水量であった。
それを見ているはずの、健吾はそれでもなお攻撃的行動も防御的行動もせずに、ただ淡々とその足を敬に向けていた、もう既に体の半分、腰の位置まで水に浸かっている状況なのにも拘らずにである。
水の”弾丸”は、健吾の体をすっぽりと丸呑みするように、飲み込んでいた。
健吾の姿が敬の視界から完全に消えていた。
水の勢いで元の岸に吹っ飛ばされたのではない。
恐らくだが、川底に沈んでいる途中だろうと思われる。
どれだけ圧倒的な炎の鎧で身を包んでいても、溺れてしまえば関係無い。
敬がよくよく考えると、健吾は攻撃らしい攻撃は一切していない、したのは敬がした攻撃に対する反射的な攻撃のような物だけだ、だがそれでも冷や汗が止まらない、恐るべき敵であった。
もしも、近くに川が無い状況ならば、もっと苦戦していてもおかしくない相手だった。
こっちの攻撃を自動的に防御して、そして反撃もほとんど自動的。
そして向こうがしてくる攻撃らしい攻撃は無く、ただ近寄ってくるだけの単純な相手。
だが、それでも掛け値無しに恐ろしい敵には違いなかった。
無傷で生き延びた事に感謝しなければならないのかもしれない。
ふと敬は、健吾が沈んだ川に視線を向けていた。
その時に気が付いていた。
周囲の異変にである。
霧が立ち上っている。
辺りを覆うような霧である。
(……霧? 馬鹿な。 いや……まずい!)
咄嗟に敬はその場所から飛び退いていた。
その瞬間に、先ほど健吾が沈んでいたはずの場所が爆発するように、水柱が一気に天を衝くように立ち昇っていた。
通り雨のように水飛沫が辺りを濡らしていた。
そこには、まるで火力を衰えさせない健吾の姿があった。
火とは、周囲の酸素を消費して延焼し続ける存在である、だから水の中に浸かればどれほどの高温で燃えていようと、燃やすべき酸素が存在しない訳なのだから火は消える、だがそんな常識など健吾の体を覆っている火には通用しないようだった。
敬は健吾とは反対側の岸に転がっていた。
顔やら服やらが土と泥に塗れて、転がっている砂利が顔に食い込んだが、それに構っている暇は無い。
体の半分がまだ川に使っている状況だが、足先から伝わる異変に気が付いていた。
(熱い! 馬鹿な、あそこからここまでの距離がどれだけあると思っている、それなのに……一体どれだけの温度で燃えているんだ、アレは!)
まるで、湯船に浸かっているような熱を、足が浸かっている川から感じていた。
あの健吾の炎がそれほど川を温めたのは間違い無い、どうやら現実的な火と混同すると文字通り大火傷をしてしまうかもしれない。
何しろ、かなり離れた場所ですらこれほどの熱を感じるのだから、あれの中心地の水の熱はそれこそ触れただけで皮膚が爛れてしまうほどだろう。
実際、さっき咄嗟に飛び退いていなければ、健吾が水中から出現した時に巻き起こした水飛沫が、熱湯の雨のように降り注いでダメージを負っていたのは間違いない。
何か策を考えなければ――
敬がそう思った時、健吾は川から体を完全に出した状態で立っていた。
自らの炎を足場にして立っている――そのようにしか見えなかった。
水の上で、炎を足場にして立つ、その事からしてその炎が、常識という敬が今まで二十余年間の生涯で培ってきた物差しでは、決して計れない物体である事が分かる。
しかも、水に浸かっていながら、先ほどよりも一回り以上その火勢が強くなっているように見えるのだ。
「……殺してくれよォォォォォォォォ!」
健吾は叫んでいた。
誰に向かってなのか、あるいは天に向かってそう懇願しているようにすら見えた。
何故自分を殺してくれないのか。
敬に対する強烈な憎悪すらもそこには感じられた。
こっちの頼みを聞いてくれない相手に対する、底無しの憤りが荒々しい雄叫びとともに辺りに撒き散らされていた。
健吾の周りを取り巻く紅蓮の炎を、まるで歌舞伎役者が髪を振り回す様、つまり『髪洗い』のように、振り乱していた。
炎全てがそれ自体に意思があるように、神話の怪物ヤマタノオロチがその首全てを狂気に任せて振りたくっているように、健吾の炎は暴力的に燃え広がっていた。
圧巻であった。
息を呑むような光景が敬の前に広がっている。
敬はその時気が付いていた。
戦いが始まってからある程度の時間は経過しているというのに、奇妙な事に敬はその時初めて健吾からの敵意を感じたのだった。




