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      間違い

 

 炎が鏡美琴かがみみことと、佐和須磨子さわすまこの二人の周りに広がっていく。


 どちらかと言うと、火の中心は美琴である、須磨子はまだ火の外側に立っているようにさえ見える。

 足元の度数の高いアルコール類は、度数こそ高いがガソリンでも灯油でもない、そこそこ燃えているが過敏な反応を示している訳ではないのだ。

 だが、それでも盲目状態の須磨子にとっては十分すぎるほどの脅威であった。

 先ほどまでは、ガラスの破片が足をいくら傷つけても構わずに動き回っていたというのに、その熱が動物の本能的な恐怖を呼び起こしているように見えた。

 僅かだが須磨子の正気が戻ってきたのだ。

 足元から伝わる熱の感触、焦げる物の臭い、熱風……

 須磨子は怯えていた。


 美琴は、ただ静かに待っている。

 自分からは近づけない。

 自分が近付いたらそれで終わり、そしてもう一つ。

 相手が逃げてもそれで終わりだった。

 出血が酷いのだ。

 いや、この状況のままだと丸焼けになるのは時間の問題だ、出血がどうこういう前に炎が美琴を包み込むだろう、ウォッカを染み込ませた布を床に置いて火を放ったから、美琴の周囲の炎の勢いは、須磨子の周辺とは明らかに違う。

 美琴の勝機は唯一つ、相手がこの炎の中近付いてくるだけである。

 近付いてきたら、左手に隠し持ったウォッカの中でもとりわけ度数の高い、工業用エタノールとほぼ同じ性質のスピリタスを浴びせるつもりだった、その炎で焼き殺すつもりなのだ。

 だが、炎に全身を焼かれながらも、あの包丁を振り回されたとしたら、美琴の命は無い。

 先に述べたとおり、須磨子が来なければ後5分もしないで火の手が美琴を襲う、須磨子はただ待つだけ、あるいは逃げるだけで勝利を得る。

 とんでもなく分の悪い賭けだった。

 自分自身の命を屁とも思わないと出来ない賭けである。

 まず相手の接近が条件であり、そして近付いてきてもそれで勝てる可能性は薄いという、望みの乏しい賭け。

 美琴と須磨子の立場の違い、意識の違いがそこにある、自分の命に対する価値観の違いだ。

 美琴は自分の命を放り出しても良いと考えている、それは覚悟とか以前の問題である、幼少期からの渇望に近い。

 だが、須磨子は生きたい、大半の人がそうであるように生への執着はある、だからこそ正気を失い狂気に突き動かされながらも、生き延びる為に美琴に攻撃を仕掛けているのだ。 

 

 マイナスばかり目立つが、美琴にもプラス要素はある。

 それは、須磨子の眼である。

 両眼を失った事により、須磨子は時間を見ることも出来ない、残り時間がどのくらい残っているのか、それを確認する術を持たないのだ、しかも自分の両眼を切り裂いた時、残り時間を見ていなかった、だからどのくらい気を失っていたのかも想像の範疇を超えない、もしかしたら後5分も時間が残されていないかもしれない、そう須磨子は考えてしまっているのだ。

(どうすれば良いの……)

 僅かに正気を取り戻している須磨子は、足の裏の痛みと顔面の痛みに顔を歪めながらも考えていた、まだ狂気に心の大半を占められているが、思考は稼動しているようだ。

 臭いで分かる。

 少なくともこの場を離れてしまえば、炎の危険性は薄いという事に、何しろ獲物である美琴の方が火の臭いが強いのだ、背後に逃げればそれだけで充分火の危険は回避できる。

 だが――

 一度離れたら、この炎により臭いが掻き消されて逃げられたらもう探しようが無いのではないか、そうも思える。

 ほとんど無意識状態だったので、美琴の右手首を切断した事を須磨子は知らない、それを知っていたら逃げるのも考えたかもしれないが、自分の放った炎で焼かれる事が無いように何かしらの策を練っているかもしれないと考えている。

 思考の基本は自分が中心である。

 自分ならば、自分自身を焼くような炎を放つ事は無い、だから相手もそうだろうと考える。


 須磨子は恐怖を味わっている。

 足元から世界が崩れ落ちてしまうような恐怖である。

 この炎。

 眼で確認すればそれほど大した物ではないのかもしれない。

 だが、視覚が奪われた状態だと、その炎の勢いが何倍にも増して感じられる。

 これではまるで、さっきから何度も喰らっている死の幻影そのものではないか、これを味わいたくないから眼まで潰したというのに、どうしてこうなってしまったのか。

 子供の頃に何かの本で魔女狩りにより、生きたまま吊るされて焼かれる絵を見たが、自分とは無縁とは考えながらも、そのような死に方をする事になったらどうなるのだろうと考えると恐ろしかった、それがまさに自分の身に降りかかろうとしているのだ。

 須磨子はこれまで順風満帆に生きてきた。

 少なくとも同じ社員寮に住む奥様達からはそう思われている。

 須磨子自身も、自分の人生は他の人よりもまっとうで、健全で、正しい人生を歩んできたと思っている。


 だが、彼女は一度自分の世界の崩壊を味わっている。

 須磨子が、通っていた幼稚園から誰もが知っている有名所で、小中高とエリートコースを歩んできた須磨子は、その頭の良さと気の強さからいつしか7人ほどのグループのリーダーのように振舞っていた。

 彼女にしてみれば、それが当たり前の生活だった。

 神は彼女に、裕福な家庭と、知性を与えたが、彼女には控えめというか思いやりとかそういう物を与えなかった。

 傲慢。

 そう思われても仕方の無い言動と行動が目立った。

 だが、彼女にとってはそれが当たり前の事で、特別なものとは思っていなかったのだ。

 優しい両親は、彼女に対して愛情を注ぐあまり、その性格を個性と受け取り、矯正の類は一切行わなかったのだ

 ある時だった。

 高校生の須磨子は、友達グループの一人に何かを頼んだのだ。

 だが、その一人は須磨子の頼みを断った。

 今考えると何を頼んだのかも須磨子は思い出せない、それほど大した事が無い用だったのだろう。

 だが、その友達に対して、須磨子は一言、「あんた、使えないわね」と言った。

 それが引金となった。

「あんたに使われる為に生きてる訳じゃない」 

 そう唐突に言われ、須磨子は驚きを隠せなかった。

 そして、仲間の誰もがその意見に賛同して須磨子の下を離れ、それから須磨子は孤立した。

 いじめこそ受けなかったが、須磨子にはもう近寄って来ようとはしなかった。

 人が他人に対して一言言って、それで関係が終わる場合というのは、一つはその言葉が本当にあまりにも酷い場合か、あるいはそれまで以前に溜め込んでいたものが、あるきっかけで膨れ上がった風船がちょっとした拍子に割れるように爆発する場合のいずれかである、この場合は明らかに後者であった。


 本人にしてみれば何気ない一言で、彼女を取り巻く全ての世界が変貌を遂げた。

 それはまるで彼女にとって世界の崩壊に等しかった。

 その後、須磨子は孤独な高校生活を歩む事となったが、それでも彼女は決して友達に謝ろうとか、自分から歩み寄ろうとはしなかった。

 相手が悪い。

 自分は決して間違っていない。

 そういう強い思いがあったのだ。

 友達にしても、大学に入った後は普通に作ったし、結婚後社員寮に入り寮の主婦達とも仲良くなった。

 だが、実は須磨子は恐れていた。

 自分は間違っていないとは思っていても、それまで当たり前のように接していた相手が、目の前から消えると言う事は彼女にとっては産まれて初めての恐怖であった。

 足が震える恐怖である。

 それをもう二度と味わいたくはなかった、だから友達を失いたくない為に社員寮から出ないのだ。

 距離が出来てしまうと疎遠になってしまうのではないか、そういう思考が須磨子を縛っているのだ。

 真に友情関係が築けているのならば、相手が海外にいようとあまり関係の無い話なのだが、須磨子には距離も恐ろしいのだ。

 

 足元から伝わる炎の熱は、彼女を断罪するように燃えている。

 まるで今までの全てが間違ってたのだと、彼女に告げているようだった。

「う……、うう……」

 須磨子は呻いていた。

 足が震えている。

 包丁を握った手が震えている。

 体全体が震えている。

 立場的には須磨子が有利にある、それは間違いなかった。

 包丁という明確な武器を持ち、視力こそ失っているが戦闘能力は相手の比ではない、しかも傷も美琴の傷は右手首切断という放っておけば命に関わる傷であるが、須磨子の傷は日常生活ではありえない傷でありながらも、命には関わらない傷である。

 それなのに、須磨子は追い込まれていた。

 精神的にである。 

 先の、二回も見せ付けられた死の幻影のせいで、彼女の精神は外見からは判断できないほどのダメージを負ってしまっているのだった。 


 どうしようもなく間違っていた気がする。

 今から考えると、自分の人生全てが。

 恐怖から逃れる為に眼を潰した事。

 安易にトイレに進入した事。

 靴を脱ぎ捨てた事。

 もう少し隙を伺えば良かったのに、美琴にいきなり襲い掛かった事。

 さらには。

 このスーパーに来た事すらも。

 あるいは、子供を産んだ事、専業主婦という道を選んだ事、結婚した事。

 果ては。

 産まれて来た事も。

 そのどれもが、間違いに満ちているような……

 須磨子は、自分の正しさのみに支えられてこれまで生きてきた。

 意見が合わない人間は、常識知らずであり、自分が知らないが相手は知っている知識に対しては「そんなの知っている方がおかしい」と言い続けていた。

 だが、それはすべてただの勘違いだったのではないか。

 自分には一欠けらの正しさも無く、正しいと思い込んでいただけの滑稽で哀れな――

 自分の小さな価値観と狭い視野で見てきた世界、それが須磨子の全てであるはずなのに、それを今、自分自身が否定しようとしている。

 否定は正さなければならないのに――


 美琴はその様子を、ぼやける意識の中で見詰めていた。

 どうするか。

 いや、どうもできないのだ。

 ただ待つだけだ。

 しかし、それもどうやら時間切れのようだった。

 血を失いすぎたのだ、手近な布で傷口を縛っているが、それも限界だろう、眩暈がするし、立っているのすらも辛い。

 目の前のおばさんは、用心深いのかあるいは火に怯えているのかまるで動こうとしないし、この賭けは自分の負けらしい、美琴はそう思った。

 自分の死を考えた時、哀しいというよりも申し訳無いという思いが彼女を満たしていた。

(すいませんね、美鶴さん。缶詰は諦めてください……)

 彼女にとって、自分が生きて帰る理由は”それ”だけだった。

 そうこうしている間に意識は遠のいていく。


 その時だった。

 

 須磨子が動いたのだ。

 顔は血に染まりながら、口は何かを叫んでいるが、今の美琴には聞き取るのは困難だった。

 叫びながら近寄ってくる。

 そして炎を乗り越えて、自分の衣服に炎が巻き付き始めているのにも構わずに突き進んでくる。

 今だ! 

 今しかない、最後の好機、唯一無二の機会であった。

 そう思って美琴は左手に持ったスピリタスのボトルを須磨子に向けて投げつけようとした。

 だが――

 血を失いすぎて、握力を失った美琴の左手から、無常にもボトルが零れ落ちた。

 そしてそれは割れ砕けて、中の液体が床の炎と混ざり合い、美琴の体を一瞬で見事に包み込んでいた。

 まるで地面に隠れていた怪物が、美琴の体を丸呑みにしたようにすら見えた。

 今まで味わった事の無い熱が体を満たしていく、自分の皮膚が焼ける臭い、出来れば一生嗅ぎたくない臭いだった。

 もう叫ぶ気力すら、美琴には残されていなかった。

 炎で身を焼かれながら、目の前には包丁を持った須磨子が迫っている。

 それでも彼女の表情には、どこか安堵に似た表情が浮かんでいた。

「全てが間違いだったのよ!」

 須磨子のその声と同時に、包丁が振り下ろされ、刃が肉を裂く音が響いた。

 何度も何度も何度も何度も……

 鮮血が舞い散った。

 炎が広がる、スーパーの店内に須磨子の笑い声が響いていた。


                              ・


 「えっ!?」

 気が付くと、元のスーパーに戻っていた。

 傷は……、まるで無い。

 服にもまるで汚れ一つ無いし、店内に火の手などあがっていない。

 辺りは、当たり前のように日常を続けている。

 全ては夢だったのだろうか、白昼夢を見たと言うのか、

 それにしては生々し過ぎる……

 手に持った缶詰が汗で湿っていた。

 あの戦いが、決して幻でない事は分かる、あれほどの経験をして、それが幻だったと言われたら人の精神は耐えられるものではない。


 鏡美琴は、自分の身に降りかかったあの状況を何度思い返しても、どうして自分が生き残ったのか不思議で仕方なかった。

 だが、最後の最後に見たあの光景。

 笑い声を上げながら、須磨子が自分の体に包丁を何度も突き刺すあの光景。

 「間違いなのよ!」と壊れたように叫んだあの光景。

 一度見たら、きっと死ぬまで忘れる事など出来ないだろうと思った。

 きっと精神が先に参ってしまったのだろう、どういう効果があの”手鏡”によりもたらされたのか美琴は知らないが、それが人をあれほど追い詰めるものだと考えると戦慄していた。

 何故か、悔しいという感情が美琴の中に芽生えていた。

 自分が望んで望んでそれでも叶わなかった事を、平然と他人が実行した時に浮かべるような、そんな表情に見えた。

 美琴はそのまま会計を済ませレジを出た。

 背後から悲鳴が聞こえたが、それでも足を止めずに、そのまま風邪で寝込んでいる美鶴先輩の家に向かった。

 とてもじゃないが、命が助かった事による晴れやかな気分などは味わえなかった。


                       ・


 葬式が行われている。

 テレビカメラや、レポーターの姿もかなりの数が来ている。

 当然だろう。

 高級住宅街のスーパーで、会社役員の妻が、突然包丁の実演販売をしている人から包丁を引ったくり、その包丁を自分の体に突き刺して自殺するという前代未聞の事件が起こったからである。

 自殺以外には考えられないのだが、その異常性から朝のニュースには格好のネタだった。

 恐らく一週間程度はこの話題が騒がれ、そして誰も彼もがすぐに忘れるのだろう。

 コメンテーターの何かの専門家やら、芸能人が色々な視点からその自殺が解説しているが、それが真実に到達する事など永遠に無い。

 

 その葬式会場が見える位置に鏡美琴は立っている。

 そしてハイライトを銜えながら、その様子をただ見ている。

 服装は黒を基調とした色であるが、葬式には相応しくない様相だった、この格好だと結婚式の方が似合いそうだった。

 彼女は喪服など持っていないのだ。

 そもそも焼香するつもりも、記帳するつもりも、香典を手向けるつもりも無い。

 野次馬も大勢いるので、その中には紛れたくは無いとは思って少し遠くから見ている。

 ただ見に来ただけだ、好奇心とは違う、何というのだろうか、彼女自身も何故来たのか説明が難しい感情だった、だが一ついえるのは罪悪感からではないと言う事だった。

 その美琴の近くで、恐らく須磨子の顔見知りであろうおばさん達がひそひそと噂話をしている。


「聞いた? あそこの旦那さん浮気してたんですって」

「そうらしいわね、娘さんも援助交際をしていたらしいし」

「そういう事が積もり積もってあんな事をしたのかしらねぇ」

「でも、あの奥さんって何て言うの? ちょっと取っ付き難いっていうか、ちょっと……ねぇ?」

「そうねぇ、仕方が無いって言っちゃアレだけどねぇ」


 美琴は、そのおばさん達に近付くと、何も言わずにただ、ぷぅっと口に溜めた煙を浴びせかけた。

 急にそのような事をされるとはまるで考えていなかったおばさん達は、むせるように咳き込みながら、文句を言おうとしたが、その時には既に美琴は歩き去っていた。

 金持ち喧嘩せずの精神からか、わざわざ美琴を追いかけようとする者はいなかった。

 ただ、美琴の背後から「最近の若い子は〜」の怒気を含んだ声が聞こえたが、美琴はまるで意に介さなかった。


「全てが間違い……ね。一体あたしと、どー違うってぇーのよ」

 

 そう言いながら煙草の煙をまた宙に向けて放った。

 自分と同類に向けながらも、それは紛れも無く負け犬に対して浴びせる言葉に聞こえた。

 その声には憐憫も憤怒も哀愁も込められていながら、不思議とまるで同情は込められていなかった。

 





どうだったでしょうか。女性同士の戦い……というか、会話がほとんど無いから性別があまり関係が無いような……

でも、個人的には結構好きな闘いでした。

予定している戦いはあと4つですが、増えたり減ったりするかもしれません。

次回もお楽しみ頂けたら幸いです。


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