最後の賭け
鏡美琴は、今は走るのを止め、敵を迎え撃つ準備を整えていた。
周囲は酒類を置いてあるコーナーで、普通のスーパーでは絶対に置いてないような値段の桁が一つ二つ違う洋酒などが平然と置かれている、ここには安物のワンカップなどは異物扱いなのだろう。
ワインも、日本酒も、洋酒も、どれもその外見からして高そうに見える。
そして、品揃えが豊富だ。
街にある普通の酒屋並みの、いやそれ以上の品数だろう。
このスーパーの広さは、都心にありながら、郊外の大型スーパー並みの広さを誇る、だからこその品揃えであり、これだけの商品を置きながらも薄利多売ではなく、高価な物を沢山置いておくという商法で成立している珍しいスーパーなのだ。
美琴の周囲にはどこから持ってきたのか、何枚もの大きな鏡が置かれている。
中には明らかに強引に引っぺがしてきたのが分かる物も有る。
美琴の策は、自分の持っているこの髑髏の形をした”手鏡”を、あのおばさん――佐和須磨子をどうにかして見せる為の策だ。
この周囲に散らばらせた鏡も、確証は無いが自分の持っている”手鏡”が反射してそれが相手の眼に映れば、同じ効力を持つのではないかと考えたからである、本当に効果が無いとしても、少なくともそれで相手が警戒すればそれで良い。
相手が眼を閉じて襲ってくると想定すると、どうやれば相手の眼を開かせるかが重要になる。
だから、その為の策も既に考えている。
だが、それらの作業をしながらも、美琴はどこか上の空のような、他人事のような気配すら漂っている。
何と、この緊迫して本来ならば手が震えてしまうような状況で、美琴は鼻歌を歌っているのだ。
勝利を確信してではない、どこかそれすらも遠い物のように感じてしまっているのだ。
「私がぁ、いま……死んでもォ〜♪」
自分の好きな歌手の歌を口ずさんでいる。
それが、この静かな店内に響いている。
かなりシュールな場面であった。
二人の女以外全ての動きが停止している高級品を扱うスーパーで、一人の女が、自分に襲い掛かってくる女を迎え撃つ為の作業をしながら、呑気に鼻歌を歌っているのだ、この戦いの結果は死であるというのを既に理解しているというのに。
だが、投げやりに見えて、作業自体はテキパキと効率的に行われている、この作業が成功すれば、相手が眼を閉じていてもそれを開かせるに充分な役割を果たすだろう。
まるで試験前夜にやるだけの事はやったという気分だった。
後は、じっくりと体を休めて、試験を待つだけだ、本当に真剣に勉強に取り組み、そしてもうやるべき事が無いと確信に至ったら、後は無理に詰め込む事をせずに静かに静養するに限る。
美琴は胸ポケットから、ハイライトの箱を取り出してトントンと指先で叩いて一本だけ取り出すと、それを口に銜えて、今度は尻ポケットからライターを取り出すと、それに火を付けた。
百円ライターではない、一万ちょっとしたジッポーのオイルライターだ、美琴が初めて貰った給料で買った生活必需品以外の品物だった。
全てが停止しているこの空間でも、ライターのような道具は使用できるようだ、美琴がそれを深く考えずに当たり前のように煙草を吸った。
紫煙が本来禁煙であるスーパーに舞った。
一体どこから来るのか。
見失うと言う事は有り得ないだろう。
血の跡が地面に付着しているし、こうして煙草まで吸って場所を分からせているのだから、逆に言えばこれを罠だと警戒して近寄ってこないのかもしれない。
美琴は腕時計を見た、残り時間は31:14、13、12……と数字を減らしている、いつの間にか、この異常な状況に陥ってからもう30分近く経過しているという事に美琴は僅かな驚きの表情を浮かべた。
そして、どう足掻いても勝っても負けても生きても死んでも、後30分もしたらオシマイという事だ。
美琴はただ静かに待っている。
それは自分の死を待っているような――、そのようにすら見える。
それにしても遅い気がする。
あのトイレでどのくらい意識を失っているのか知らないが、あの時からもう5分以上は経過している、まだ気を失っているのならばともかく、起き上がれば一分足らずでここに辿り着くだろう。
もしも、まだ気を失っている状況ならば、こちらからまたあのトイレに向かう必要が有るのかもしれないが、こっちから動くのは危険かもしれないな、とかどこか他人事のように美琴は思っている。
その時だった。
美琴の耳に確かな足音が聞こえた。
妙だった。
先ほどは、背後から襲い掛かってくる時は、あの叫び声のような恐ろしい雄叫び以外の音は驚くほど聞こえなかった、それなのにわざとなのかと思うほど確かな足音がこちらに近づいて来る。
美琴は”手鏡”を握った。
口にはまだ煙草を銜えたままだ、その先からは白い煙が天井へ向け舞い上がっている。
この距離ならば、眼を閉じるか、あるいは眼を隠して近づいて来るとしてもかなりの距離がある、こっちに突っ込んできたとしても、考えている策を使えば、眼を開かざるを得なくなるだろう、そうすれば周囲に置いた鏡のどれかが間違いなく反射して相手の眼に入る、そう考えている。
美琴はその足音に近付いた、そして”手鏡”を構えた。
だが――
それは致命的な勘違いであった。
それを見た時、それとはつまり相手の姿だが、美琴は思わず口に銜えた煙草を地面に落としていた。
その瞬間、美琴は自分が考えた『いかに相手の眼を開かせるか』という作戦が脆くも崩れ去った事を悟った。
その作戦が意味を失ったのだ。
煙草だけではなく、美琴は手に持っていた”手鏡”すらも地面に落としていた。
”手鏡”は、地面に落とされた衝撃で、儚い音を立てて割れ砕けた。
だが美琴はその”手鏡”に視線すら向けない。
唯一の武器であるその”手鏡”が地面に落ちて、割れても、今の美琴には大した事ではなかった。
もう無用の長物である。
それが壊れていようと、健在だろうと今の状況にはまるで左右されない、それが分かっているからである。
美琴は見ていた。
相手の顔である。
その顔、佐和須磨子の鼻の上の位置に、真横から漢字の一の文字のような紅い線が引かれていた。
それはつまり――
須磨子は、包丁で自分の両眼を一息に切り裂いているのだった。
常軌を逸している。
まともならばそんな事はしない、ただタオルか何かを顔に巻いて目を隠すだけで事足りる、その方法ならば必要とあらばタオルを取って眼を使うことも出来るのに、眼を自分で切ってしまえば二度と使えない。
美琴も須磨子も、この戦いが終わった後、傷も何も治るとは知らない、だからこそ美琴は驚愕しているのだ。
その姿からは一欠けらも以前の面影が見当たらない。
それほど深く知っている訳ではないが、高級住宅街に住むお上品で高慢なおばさんという印象を美琴は受けたのだが、今はまるで別人であった。
足は素足。
手には包丁。
そして顔は両眼が切り裂かれ、顔がまるで鮮血のシャワーを浴びたように紅く染まり、その血が服にも流れて凄まじい様相になっている。
眼を潰す。確かにそうすれば、”手鏡”による攻撃を受けないだろう、だがそれでは……
須磨子は、美琴の10m程手前の位置で立ち止まり、鼻をひく付かせた、まるで犬か何かの動物が獲物の臭いを嗅ぐように見えた。
次の瞬間、両眼の位置から溢れ出る鮮血に染めたその顔を、歪めたように笑った。
そして。
「見つけたぁ……」
それだけ言った。
嬉しそうな声であった。
美琴の反応は決定的に遅れた。
「っ……!」
逃げる動作も、避ける動作も、全てが手遅れだった。
須磨子の動きは、野生動物のそれと同じかそれ以上であった。
10mほどの間合いがあり、油断していた事と、自分の両眼を潰すという異常な行動に思考が停止してしまっていたのだ、その瞬発力を見くびっていた事も原因の一つだ。
一瞬で間合いを詰められ、美琴が反応した時には既に須磨子が包丁を振り下ろした後であった。
ふっ、と包丁の風圧が顔を掠めた。
視力を失っているから、攻撃の精度が落ちているのだろう、もしも両眼がちゃんと機能しているのならば今の攻撃で美琴は頭蓋骨をスイカのように割られていたのは間違いない、それほどの威力だった。
美琴は、背後に飛び退いて、それから気が付いた、今の攻撃は避け切れた訳ではないのだ。
美琴の唇の、左端の部分がまるで歯医者で麻酔をかけた後のように、だらりと反応を失っていた、下唇の端が今の攻撃で裂かれてしまったのだ。
口を閉じても下唇のその部分だけが動かないでそのままの状況である、もちろんそれだけで済んだのは僥倖であったが、美琴にとっては自分の命がどうのこうのというよりも”商売道具”が傷つけられたという事で頭にきていた、胸の傷ならばまだ何とかなるが、顔のしかも唇を切られたらかなり目立つのだ。
「っなにすんのよ!」
怒りに任せて、すぐ近くにあったワインボトルを右手で掴むと、それを須磨子に向かって振り下ろしていた。
ぢっ
そういう音がした。
その音と共に、ワインボトルが宙を舞っていた、美琴の右手首と共に。
振り下ろされるそれを須磨子が包丁で下から一息に切り裂いたのだった。
ワインボトルがかなり遠くの場所で、砕ける音がした。
「……え?」
自分の手が吹っ飛ぶさまを見た人間は、悲鳴を発するという選択肢すら頭に浮かばないのかもしれない、少なくとも美琴はそうだ。
その状況を理解できなかったのだ。
それでも須磨子は、お構いなく間合いを詰めて攻撃を仕掛けてきた、だが臭いのみでの追跡であり、しかも今の攻撃で美琴の手首からの血が顔にかかったことにより嗅覚が鈍ったのか、その攻撃はデタラメであった。
相手を追跡する場合には嗅覚の鋭さは役に立つが、相手に近付きすぎると動いている相手の臭いを嗅ぎながらの攻撃だと正確性にかけるようだ、だがそれでも包丁を持った超人的な身体能力を持った須磨子にとっては、充分すぎる、とりあえず近付いて包丁を振り回せばいつかは勝利が訪れるだろう。
美琴は自分の右手首から際限なく溢れる血を抑えながら、須磨子から距離を取った。
どうすれば良いのか。
さっきまで考えていた策だ、それしかない。
その策はあくまで相手に眼を開かせる為の策だったのだが、相手が眼を開かなければ切り抜けられない状況を作り出すのが目的ともいえる、つまり視力が無い今の相手には効果を発揮するはずなのだ。
それにしても血を失ったからか、体が軽い。
地に足が着いていないような気さえする、高熱に浮かされているようだった。
このまま倒れてそのまま眠ってしまいたい気もする。
多分、左手で右手の出血を止めなければ、五分もしないで体は動く事を止めるだろう。
だが、美琴は顔色を蒼白に近付けながらも、まだやるべき事をやらなければならないのだった。
須磨子は、包丁を振り回し、辺りの商品を破壊し続けている。
その破片が須磨子自身を傷つけているのだが、本人はそれにまったく構う気は無いようだ、素足なのでガラスの破片などを踏みつけて痛いはずなのだが、それでも動きを止めようとしなかった。
(痛みで止まらないなら――)
須磨子が暴れてくれたのは、美琴にとっては好都合だった、手間が省けたと言っても良い。
床は、須磨子が暴れたお陰で所々に水溜りが出来ている、一つ一つはきっと薫り高いのだろうが、混ざってしまえばただのアルコールの異臭にしか感じられない、個性が強すぎる臭いがぶつかり合っているせいだろう。
これで、もう床は事前の準備が済んでいるような物だ、”灯油”が見つかれば良かったのだが、置いてあるのかもしれないが見つからなかった、だから代わりに酒を使う、度数の高い酒がここには吐いて捨てるほどあるのだ。
そう、ウォッカのような床に少し零しただけで蒸発してしまうような、そんな酒も置いてあるのだ。
それを浸した布を既に用意している。
美琴はポケットからライターを取り出し、血でぬるぬるとして滑り難儀したが、それでもそのジッポーライターで、その布に火をつけ、そして次に床にライターを放った。
炎が、美琴の想像よりも勢いよく燃え上がった。
これが美琴の最後の賭けだった。




