二度目の死
佐和須磨子は暗闇にいた。
周囲に一切の物が見えない無明の闇だ。
何度味わっても、底無しの不安が沸き起こる闇である。
(また、首が飛ぶというの――?)
そのような日常にはありえない恐怖を感じながら、その時をただ待っている。
前回と同じように体はまるで動かず、周囲の一切が失われている。
ただ、前回のようにギロチンの刃が目の前で光っていない。
そして、足の裏から伝わる感触が違っていた。
足の裏から伝わってくるのは、冷たい感触、靴を履いていないので素足に伝わるその感触は、金属の物のように思えた。
前回は、仰向けに寝ていた状態だったが、今は間違い無く立ったままの状態だ。
まさか――
違う幻影が襲ってくるのか?
そのような恐怖が突き抜けた。
喉がぐびりと音を立てた。
呼吸が自然と荒くなる。
ギロチンで首を刎ね飛ばされるのも、一回味わったからもう一度味わっても大丈夫だという質の物ではなかった、例え100回同じ事をされても慣れる事など無いだろうと断言できる、あの恐怖と苦しみに慣れるのならば、それは心がどうかしてしまったという事に他ならないのだ。
仮にあの恐怖に慣れる事があるのならば、それは世界中のあらゆる苦しみを苦しみと感じなくなるという事だろう、だがそれは果たして本当に正常と言えるのだろうかと思える。
だが、それでもこれから自分に何が起こるのかまるで分からないのは、恐怖を倍化させる。
須磨子は動けないと分かっていながらも、何とか体を動かそうとした。
手が後ろ手に縛られている。
動こうとした時初めて気が付いた。
首に何かが巻き付いているのだ。
縄のような――
ぞっとした。
これでは、まるで……
須磨子の脳裏に何年か前に見た映画のラストシーンが浮かんだ。
人に勧められて見たが、まるで救いのない映画だった。
見た後に後味の悪さだけが須磨子には残った。
あれと同じだと言うのか? まさか――
いや、だが、それ以外は考えられない。
須磨子は何が自分の身に降りかかるのかが、容易く想像できた、そしてその想像は次の瞬間に現実の物となった。
須磨子の足の裏から、直接素足に触れるその冷たい感触が、見事に消失していたのだった。
消えうせる自分の体重の感覚。
だがその感覚は非常に緩慢で、スローモーションのようだった。
交通事故の際に、感覚が研ぎ澄まされ、あらゆるものがゆっくりと見えると言われる状況のように、須磨子の体はゆっくりとゆっくりと沈んでいた、そしてそれはただの感覚の問題ではなく事実上恐ろしいほどに鈍い動きだった。
当然のように、首に巻きついている物が、頚部を圧迫し始めていた。
落下開始から、感覚で言うと1分近く経っているが、まだ空気を吸えるほどだ。
だがそれでも、真綿で喉を絞められるように、徐々に徐々に圧迫し始めている。
最初は縄がただ皮膚を少し押している程度の感触だったのが、今では子供の力で絞められているような物へと変わりつつあった。
それが段々と僅かずつその力を増していく。
それが堪らなく恐ろしい。
須磨子の歯ががちがちと鳴っている。
吸える空気の量が半分以下になった時、首の頚動脈から脳への血液の流れが鈍るのが確かに分かった。
それらの感触を明確に感じながらも、意識だけはまるで何時間も熟睡した後のようなクリアな感覚を味わっている。
本当ならば。
このような絞首刑のような状況になったら、一瞬で事は済む。
中には吊るされてから何分も心臓が動いているというケースもあるらしいが、一般的に考えると、絞首刑が行われた場合、命を失う理由は窒息死でもなく、また血液が脳に行かなくなったから死ぬとか、そんな回りくどい事ではなく、自身の体重が首に一点にかかる為、首の骨がへし折れて死に至るのだ。
須磨子は身長164cm、体重42kgという細身だが、首だけにその重さがかかれば日ごろから首を鍛え上げているような人間でなければ容易く折れるし、神経も切断される。
だから、苦しみも一瞬で済むはずだ(もっとも絞首刑に合い、本当に死んだ人間の意見は聞ける訳が無いから、苦しいかどうかは本当は不明だが)。
それを何倍も、いや何百倍もの時間をかけて、須磨子は味わっているのだ。
尋常ではない恐怖である。
恐怖により髪が白髪になるという状況も理解できそうだった、本来あれは急激なストレスにより黒髪が抜け落ちるのでそう見えると言われているが、そういう理屈ではなく髪が蒼白になるような恐怖を須磨子は味わっている。
いっその事、一思いに一瞬で殺してと叫びたかった。
だが声は出ない、もう気管は押し潰されて声などは出ない。
苦しみはあるが、それ自体は多分本当のものよりも大分薄められているはずだ、ギロチンで首を刎ねられた時も、刃が肉に食い込む感触をスローに味わいながらも痛みは軽微であった、それと同様に苦痛は少ないが恐怖はその何倍も強い。
加重がとうとう頚椎にまで到達した。
本当ならば、もう意識は失っていてもおかしくないはずだ、空気はまるで肺に送られず、血液も脳に送られていない状況なのだから、意識を保てる訳が無い、それなのに須磨子はその頚椎の軋む音が耳に届くのを確かに聞いていた。
最初に聞こえたのは、みりっという音である。
よく疲れた時に首を回して、首の骨の音が鳴るが、それとは異質のもっと鈍い音だった。
そして、それは一瞬ではなく、長々と続きそして、その音の大きさは段々と増していく。
自分の骨のそのような軋む音が、どれほど吐き気を催すほどの恐怖を内面から湧き起こすのか、須磨子は身をもって体感していた。
(……幻覚だから死なない! 苦しくも無い! 本当の私は、まだなんとも無い!)
須磨子はそう強く念じるように思っているのだが、本能はその恐怖は容易く現実のものと受け止めている。
いくら眼を背けてもその苦痛からは眼を背けられない、幻覚だと分かっていてもその状況は幻覚とはとても思えない状況なのだから、それを「これは幻覚だ!」と断じる事は、これまでの須磨子の歩んできた全ての生活自体が幻覚であると思ってしまうのと同義なので、それを心が自衛的に拒否しているのだ。
それでもこの苦痛は耐え難い物があった。
もう肉体的には死を迎えている。
手足は痙攣し、糞尿が股の間から垂れ流しになり、そして眼球が零れ落ちそうになっている感触も須磨子は実感している。
だが、それでも意識は飛ばないのだ。
まさに地獄の苦しみであった。
一日に二度死ぬ経験をした者はこの世には存在しない。
一日に二度死に掛けたものならばいるだろうが、一度目に死んでいないからこそ二度目が有るのであって、人の命が一度きりである限り二度目の死が無いのが常識である、だが須磨子は二度目の死を一日で味わっている。
それは人の精神を破壊するに至る恐怖であった。
ぶちん。
頚骨だけでなく、須磨子の中の何かが壊れる音が確かに聞こえた。
・
鏡美琴は、トイレの個室に閉じ篭り、外の様子を窺っていた。
これからどうなるのか、それは分からない。
美琴の胸の辺りに血が滲んでいた、さっき包丁で斬り付けられた時に出来た傷だ、傷口は深く無い、皮膚を裂き少し肉を掠めた程度の軽傷である。
それでも痛みはある、だが痛みも恐怖も、今の美琴はそれほど強くは感じなかった。
痛みも恐怖も感じないのは、美琴の精神が強いのか、あるいは鈍感なのか、それは誰にも分からない、あるいはそれら全てがどうでも良いと思っているからなのか。
美琴は、いたって平然とした表情を浮かべている。
自分の作戦というか、ただ”手鏡”だけを外に置くという事で相手が引っかかるのかどうか疑問は確かにあった。
もうちょっと躊躇っても良い作戦ではあるのだが、美琴はあっさりとその作戦を選択した、そして待った。
もしかしたら、その”手鏡”の罠を相手が見抜いて、まるでホラー映画のように美琴が隠れている個室の上から覗き込む何て事が起こっても不思議ではないのに、まるで待ち合わせで時間を潰しているようにただ何もせずに美琴は便座に座っている。
その眼には諦めに似た物は無いが、この状況でもどこか遠い場所から自分を見ているようなそんな眼には見える。
その美琴の耳に、空気を裂くようなこの世の物とは思えないほどの絶叫が届いた。
本能的に体が震えてしまうほどの叫びだった。
だが、震えている暇は今の美琴には無い。
声が耳に入ると同時に、美琴は立ち上がり、すぐに個室から外には出ずに、便座に乗りそこから外の様子を窺った。
あの主婦――佐和須磨子が、首を押さえて苦しんでいるのが見えた。
とても演技で苦しんでいるようには見えない。
罠が成功したのだ。
美琴はドアを開け、”手鏡”を拾い、そのまま倒れている須磨子を乗り越えて外に出た。
あるいは、手に持っている包丁を奪う事も出来たかもしれないが、逆にそれは相手に捕まれる危険性も高いので避けた。
これからどうするのか、それはまだ考えていなかった。
だが、おぼろげながら、どうすれば良いのか、どうすれば生き残れるのか、その方法だけは頭にぼんやりと浮かんでいた、その為には後何回か死の危険を乗り越えなければならないが、それでも美琴は先ほどまでとは別人のような表情を浮かべている。
美琴は走った。
日常生活でこんなに走った事は無いので息を切らせ、脇腹に痛みを覚えながらも、それでも出来る限りの力で走った。
須磨子が起き上がるまでに準備を済ませないといけない。
・
死の幻影から現実に引き戻された時。
須磨子は、現実にこそ戻ってきていたが、今の須磨子の精神状態を”正気”と判断する材料はどこにも無かった。
恐らく、精神科医でなくともその様子を見れば、それがどういう状況なのか判断できるはずだった。
狂気。
それが須磨子に乗り移り、そしてその肉体を突き動かしているように見えた。
淡い燐光がその周囲に飛び散っているような、そんな幻が見えるほどに危うげな雰囲気を漂わせている。
須磨子の心を満たしている感情、それはもう二度とあの幻影を味わう訳にはいかないという強烈な意思であった。
もう一度あれを味わえば、自分はもう自分が誰なのかすらも解らなくなってしまうという確信がある。
だから、あれを防ぐ策をしなければならないのだ。
その為の策を須磨子は既に考え付いていた。
それから須磨子が行った策。
もう二度と、確実にあの死の幻影を味わわないようにする為の、究極的に確実な策であった、それを須磨子は実践していた。
それは先ほど須磨子が、美琴の”手鏡”を自分から離れた場所に置いておくという行為を”賭け”と思ったことよりも、なお危険な賭けには違いなく、そして通常の精神状態ならば間違いなく選択しない方法だった。
その方法を選んだ事自体が既に須磨子が――
だが、それを当たり前のように行っていた。
これで、もう二度とあの死の恐怖を味わう事が無い、その安堵が狂気に取り付かれていいるように見えながらも窺えた。
だが、その状態は既に――
須磨子は唇に堪らない勝利の確信の笑みを浮かべ、美琴の臭いを追跡し始めた。
(あの売女、淫乱、不潔、下品、な女……、逃がすものか……、絶対に……)
血の滴る包丁を握り締めて。
須磨子は駆けた。
二足歩行ではなく、四つん這いに近いまるで獣のような格好で疾駆していた。
嗅覚は今までで一番鋭くなっていると自覚できている、あの女がどこに行ったのか、それが手に取るように分かる。
そして脚力は比較にならないほど須磨子の方が優れている。
意味の無い奇声とも、奇怪な笑い声とも判断が付かない声を発しながら、須磨子はそのスーパーを疾走した、途中、動きが停止している店員やら、買い物客達がいたが、それらの視線など今の須磨子にとっては何のブレーキにもならない。
今の須磨子を止める方法、それは美琴の死、あるいは自身の死だけであった。
鏡美琴と、佐和須磨子。
この二人の女性が次に合間見える時こそ、この戦いに終止符が打たれる時であり。
そしてどちらかの命が失われる時であるのは明白であった。




