罪悪感
鏡美琴、同年代の22歳とは多少は特殊な職業には就いているが、それ以外はごく平凡に見える彼女の内面に渦巻いているのは、外見からは想像できない歪なモノである。
それのせいで、というかそのお陰でというか、今のような異常な状況に陥り、恐怖に心が蝕まれていながらも、決定的にその心の機能が停止してしまうほどの恐怖を感じずにいられないのは、その内面に存在する彼女が幼少時代から常に持ち続けていた感情のせいである。
今の状況。
突然に得体の知れない、周囲の全てが停止した状況で、しかも目の前の主婦はまるで鬼のように変貌し、包丁を持って攻撃を仕掛けてくるという日常ではちょっと考えられない特異な状況でも、その感情が生み出す虚無感とも異質な感情が、彼女を死の恐怖から遠ざけているのだ。
(死ぬ事って本当にそんなに怖い事だったっけ……?)
美琴の心にはそんな想いすら浮かんでいた。
さっきまで感じていた全身を包み込むような恐怖が嘘のように消えうせ、美琴は妙に覚めた眼をしていた。
だが、それは恐怖に打ち勝った者の目というよりも、恐怖よりもより深いものに囚われてしまっているような――
敵は、どこかの物陰から自分を殺す為に息を潜めているというのに、その事実自体が何かモヤがかかったように、彼女の心には微妙に届かない。
(私が死んだ所で、空の色は何も変わらない……、この世界は動きを止めない……、誰の涙も流れない……、そんな私に死を恐れる資格が本当に有るというの?)
彼女が抱いているモノ。
それは、自分の生命・自分の存在に対する根深い憎悪であった。
彼女には妹がいた。
一人っ子だった彼女に初めて出来た2歳年下の姉妹である、妹を美琴は可愛がった。
最初こそ、両親を取られてたような悔しい思いを感じたのだが、その愛くるしい表情に魅了されて、美琴もその妹をいつしか好きになっていた。
どこに行くのも一緒だった。
妹は妹で姉である美琴を追いかけるようにずっと付いて歩いた。
当初少しウザったいとすら思っていたのだが、幼い妹を連れていると周りに人が集まってくる、公園に遊びに行くと、妹を連れているだけでまだ同級生というだけで話した事も無い子と会話を自然と出来る、それが美琴には新鮮だった。
もちろん姉として、自分を慕ってくれる妹の存在は嬉しかった。
両親も健在で時に優しく、時に厳しく姉妹を温かい愛情で包んでいた。
一切の不幸が、その家族を見たら逃げていきそうなほど幸福で、そして穏やかな家庭だった。
あの時までは。
一家で海に遊びに行ったときの事だった。
美琴は10歳、妹は8歳だった。
その歳になっても、妹は相変わらず美琴に付いて歩いていた、それが当たり前のようになっていた。
だから、美琴がちょっと親の目を盗んで、沖のほうに泳いで行った時も、その妹もその後を追っていたのだ。
美琴は水泳を習っていて泳ぎにはちょっと自信が有った、プールと海では違うが、それでも怖いとは思わず、行ける所まで行っちゃおうかな? とか考えるほどの余裕は有った。
妹は、こっそり後をつけて、姉を驚かそうと考えていたのだが、姉が自分が思っているよりもかなりの場所まで泳いでしまい、帰ろうと思ったら、砂浜までの距離が思った以上にあって、姉に付き添ってもらわないと怖くて帰れない場所まで泳いできてしまっていた、もう、一人では帰れなかった。
その様子に驚いたのは父親だった。
8歳といえば、小学校3年生である、そのくらいの歳の子供がそれも自分の子供が沖に向かって泳いでいるのを見たら、肝を潰されたように驚いただろう、しかもそれが泳ぎが不得手であると知っていれば尚更だ。
父親はすぐにその後を追って泳いだ。
その時になって美琴は妹が後ろを泳いでいることに気が付いていた。
すぐに、美琴は妹と合流し、そのまま砂浜に向かう事にした。
妹は、心細かったのか顔には怯えが浮かんでいたが、美琴に気付いてもらえた安心感からか顔がほころんでいた。
父親もすぐに追いついて、三人で砂浜に向かって泳いだ。
そこからの記憶は断片的だ。
誰かの足が攣ったのだと思う。
だが、誰の足が攣ったのか、その記憶は曖昧だった。
美琴かもしれないし、妹かもしれないし、あるいは父親の足が攣ったのかもしれなかった。
足が攣ってそしてパニックになって、溺れた、そして溺れた者を助けようとしたのか、溺れた者が助かりたくて他の者にしがみ付いたのか、そこも記憶は確かではないが、かなり緊急事態が三人を襲っていた。
それだけならば何とかなったかもしれないが、悪い事は重なるもので、その時丁度高い波が三人を飲み込んでいた。
どうやって美琴が浜まで辿り着いたのか、波に流されてか、あるいは無意識のうちに泳いだのか、それとも父親が何とかそこまで運んだのか、どれも推測の域を出ない、少なくとも美琴は一人浜に打ちあがられていた。
父親と、そして妹は帰らなかった。
一緒にいた母親も、いきなり訪れたその事態を受け止められずに呆然としていた。
だが、他の誰よりも、美琴自身がその事を受け止められずにいた。
何故自分だけが?
そういう思いが彼女を満たしていた。
父親は優しく人望が厚く、誰からも好かれていた。
妹もそうだ、きっとこれから美人になって、幸せな家庭を作るはずだった。
だが、自分は?
美琴は壊れた水道管のように泣いていた。
捜索の結果、二人の水死体が見つかった時も、葬式の時も、出棺の時も、その後も泣き続け、人の体はそのほとんどが水分であるというのが良く分かるほど泣き、涙が枯れて眼を腫らした状態でも声だけあげて泣いていた。
母親は気丈だった。
当初こそ呆然としていた物の、自分の役目をしっかりと果たした。
そして美琴を一言も攻めたりはしなかった。
原因と言えば、美琴が一人で勝手に沖に向かったのが原因だが、妹を無理やり連れて行ったわけでもないからだ、その部分をよく理解し、自分自身も愛する夫を失いそして娘を失っても、もう一人の娘に愛情を注ごうと、強い気持ちを持って葬儀やら何やらの手続きを済ませていた。
誰からも美琴は責められなかった。
お前が代わりに――とか、そういう言葉は一切美琴は言われなかった。
だが、誰でもない自分自身が強くそう思うようになってしまっていた。
生存者の罪悪感
生き残った美琴が強く胸に思ったのは、この世の理不尽さだった。
何で自分ではなくあの二人の命を奪ったのか。
それから彼女は、自分の命に対して執着を失っていた。
自傷行為や自殺の類こそしないが、自分自身については軽く考えるのが根本に宿ってしまっていた。
自分自身を心底嫌いな美琴は、他人も自分の事なんて好きではないのだと思い込み、そのせいでまともな友情関係を築けないでいた、これを心理学的に言うと投影と呼ぶ。
この世の誰よりも彼女は自分自身を嫌悪するようになってしまっていた。
高校を卒業と同時に家を出たのは、こんな自分がこの家にいる資格なんて無いと思い込んでいた為だし、実際はまるで違うのに母親が亡くなった父と妹の恨みを自分に持っていると被害妄想を抱いていたからでもあった。
だから、家にはもう二度と帰れないし、帰りたくなかった。
その為にはどんな仕事でも、例えそれが自分の命を賭ける様な仕事でも厭わない、そう思っていた。
だから今の職業は別に抵抗は無いのだった。
命の尊さ、それは美琴にもよく分かる。
決して命を軽んじている訳ではないのだ、だからテレビのドキュメントで難病に苦しむ子供を見ると涙を浮かべるし、ドナー登録もしている。
誰の命も尊い、そう自分以外の命は。
そう思っているだけだ。
だからこの状況でも、死ぬのは怖くなくなってきた。
元々、死んでも構わないとすら思っているのだから、今更怖がるのもおかしな話だ。
それでも、あのおばさんに殺されたくは無いという奇妙な意地が美琴には有った。
それに自分にはまだやる事が残されていると思っている、他の人にとっては全然大した事じゃなくても、それは美琴にとっては自分の軽い命よりも遥かに重い使命のように思える。
だから、まだ死ぬ訳にはいかないのだった。
美琴は行動を開始した。
その妙に冷静に表情が変わっていく美琴を見て、物陰からその様子を窺っている佐和須磨子は訝しげな表情を浮かべていた。
怖いはずだ。
自分が逆の立場ならば怖い。
それなのに、異常に発達した嗅覚から届くあの汗の情報には、恐怖が薄れているように感じる、恐怖の臭いではなくむしろ怒りに似たアドレナリンの分泌を鼻が捉えていた、一体どう言う事なのだろうか。
だが、どうでも良い。
相手が怯えていようと、そうでなかろうとあまり意味は無い。
ウサギがライオンの前にいて、まるで怯えていなくとも捕食される事には代わり無いように、今の状況では捕食者は自分、あの女は獲物でしかないのだ。
時間制限があるようなので、何時間も甚振る事は出来ないが、このまま後10分程度は時間をかけて、脅してやろうと須磨子が思っていた時。
鏡美琴が急に走り出していた。
須磨子は靴を脱ぎ捨て、足音を殺してその後をつけた。
先ほどのように大声を発しながら襲い掛かるのは意味が無い、気付かれない事が大前提なのだ、気付かれなければあの”手鏡”による幻覚攻撃を仕掛ける事も出来ない、だから静かに追うのだ。
どこに逃げようと、今の須磨子の嗅覚ならば視覚で捉えなくともその正確な位置が分かる、猟犬並み、いや猟犬以上の嗅覚を今の須磨子は手に入れているのだ。
あの女は、どうやらトイレに逃げ込んだようだ。
このスーパーの構造は把握している、階段に向かうのも、出口に向かうのも別の方向だ、この先に有るのはトイレしかない。
馬鹿な女だ。
わざわざあんな逃げ場の無い場所に逃げ込むなんて――
須磨子はそう思ってほくそ笑んだ。
しかも、ドアのすぐ向こうに立ってこっちがドアを開けた瞬間にあの”手鏡”を見るように待ち伏せしている訳でもないのが臭いで分かる。
トイレの臭いが鼻に届くのは生理的に我慢ならなかったが、それでもドアを開けなくとも向こう側の臭いであの女がどこにいるのかすぐに分かる。
トイレは個室が4つある形のトイレだ。
その一番奥の個室に隠れている。
狭い場所ならば眼を閉じていても、包丁を振り回せばそれで終わりだ。
嗅覚が発達している今ならば、特にこのような狭い場所での闘いにはまるで困らない、難なく勝負は決するだろう。
だが、妙に嫌な予感もしている。
警戒心が須磨子には沸いている。
だが、これは取り越し苦労なのかもしれない、所詮はあのような何も考えていないような若い水商売の女程度は、何も考えて生きてなどいないのだ。
そう思い、須磨子はトイレのドアを開け中に進入した。
そしてその瞬間に、後悔した。
あの女の姿は確かに臭いで調べた通りに見えなかった、個室に入りドアを閉めている。
だが、あの”手鏡”だけ、あの恐ろしい”手鏡”だけがポツンと須磨子の視線の先に置いてった。
丁度、そのトイレの中に進入して来た者の眼に入るような角度に立てかけてあった。
迂闊も良い所だった。
他の場所ならば、今の須磨子の嗅覚ならば手放した”手鏡”の臭いすらも察知できただろう。
だが、場所がトイレだった為、それが大雑把になってしまっていたのだ。
よく考えれば分かる事だ、別にあの女が常に鏡を持っているとは限らないのだ、だが、それにしても自分の切り札ともいえる武器をそのようにぽいっと手放せるか?
出来ない。
須磨子は正直にそう思った。
これは賭けだ、策なんじゃない、ただの危険な分の悪い賭けでしかない。
その賭けに自分の命を容易く投げ出す事など自分には出来る訳が無い。
須磨子が美琴に対して、驚嘆の思いを抱いた瞬間。
また、意識が遠くへ吹っ飛ばされていた。
須磨子の周囲を暗闇が覆っていた。




