昔話
その断頭台の刃は、まるで重さを感じさせず、スッと佐和須磨子の喉に滑り込んでいた。
恐ろしく切れ味の良い刃だった。
しかし、不思議な事に痛みよりも、まず感じるのは異物感、そして刃の冷たさである。
実際に、処刑される人間がその断頭台で首を切り落とされる時も、あまりにも一瞬過ぎて痛みも感じないかもしれないが、須磨子は痛みこそ感じないが、その異様な感触を味わっている。
それも、じくじくと数ミリづつ刃が喉に食い込んでいくのだ。
肉に食い込み。
皮膚を破り。
細胞を裂き
神経も血管も器官も断ち。
頚椎を割り……
それらの工程をゆっくりと味わっているのだ。
しかも痛みこそ無いが、意識を失う事も無いのだ、麻酔をかけられて痛みだけは感じないが、中途半端にその感触だけが伝わっているようなそんな気分だった。
気がおかしくなりそうだった。
叫べるだけもう叫びつくしている、今では声がまるで水で溺れている時のような、ごぼごぼという音だけが喉でするだけになってしまっている、それが自分の血が喉に溢れているからなのだと言う事も頭の片隅で理解しているのだが、それを頭が拒否している、それを受け入れてしまったら、多分自分は死んでしまうだろう、そういう恐怖の伴った時間が須磨子には湧いている。
これは、幻覚だ。
須磨子はそう強く思った。
実際にはどうか分からない、だがこれを本当だと思い込んだら、それは精神の死を迎える事になってしまう。
その可能性が高い。
だから、これは夢か幻覚だ、どっちでも良い、何でも良い、ただ現実ではないのだ。
この刃の冷たさも、皮膚を破って吹き出た鮮血の生温かさも、骨に食い込む鉄の重さも、全てが現実ではないのだ。
そうなのだ。
(夢よ夢よ夢よ夢よ……、これは夢なんだわ、きっと……、現実なんかじゃない!)
須磨子がそう強く思った時、その耳にゾッとするような音が響いた。
どん。
その音と共に、断頭台の刃は、須磨子の首を両断していた。
須磨子の首はゴロゴロと転がり、須磨子のその眼は首の無くなった胴体を見ていた。
生きている限り、絶対に目にする事は出来ない光景であった。
それは、身の毛もよだつという言葉では足りないおぞましさがあった。
あらん限りの声で、須磨子は叫んでいた。
もっとも、胴体から離れた生首が声を発する事など出来ない、須磨子の生首はその顔を激しく歪めながら、口を陸に打ち上げられた鯉のようにぱくぱくと動かしているだけだった。
・
鏡美琴は、目の前の主婦の異様な変貌振りに驚きを隠せなかった。
最初は普通の会話をしていたはずだ。
急に優しい声なんか出したりして、少し怪しいとは思ったのだが、言われた通りに自分の上着に入っていた”手鏡”を取り出して見せようとした瞬間、その顔を豹変させて主婦が飛び掛ってきたのだ。
包丁を持って、眼を吊り上げ、そして充血させ、唇からは牙のようなものまで覗かせていた。
咄嗟に、”手鏡”を盾代わりとして身を護るように突き出したが、実際はそれで防げるとは思っていなかった。
だが。
劇的な変化が目の前の主婦――佐和須磨子に起きていた。
最初は、停止である。
ただ動きが止まった。
そして次の瞬間、突然首を押さえて絶叫したのだ。
身を切るような叫び声だった。
目の前で我が子が車に撥ね飛ばされる光景を見た母親の声を連想させた。
それほどの絶叫だった。
思わず、美琴はその耳を塞いでいた。
叫びながら、須磨子は床を痙攣が起こっているようにゴロゴロと転がっていた。
苦しみにのた打ち回っているようだった。
それでも、手に持った包丁は手放さないので、危なくてとてもじゃないが近づけない。
(良く分からないけど……、これがこの”手鏡”の力なの?)
美琴は確信を持てないが、この異様な苦しみ方はこの”手鏡”の呪いのようなものだと判断した。
電話の相手も、よく分からないが直接攻撃型ではないとか言っていた、多分この主婦の持っている”包丁”のように直接的に人を傷つける武器じゃなく、間接的に精神的なダメージを与える武器なのだろう。
この”手鏡”に姿を映したらこうなるのか、それとも相手が攻撃しようとした時だけこのようになるのか、それは分からない、しかし、この苦しみ方からして、同じ攻撃を後数回行えば多分――
正気を失うか、ショック死するんじゃないか、そう思った。
美琴の手首の時計は、54:45、44、43と数字を減らしつつあった。
時間制限は僅かずつだが、確かにその時を刻んでいた。
須磨子が意識を取り戻した時。
最初に吸った息は、これまで吸ったどの一呼吸よりも濃い物に感じた。
濃厚な味すら感じた。
それは生命の味だった。
産まれた瞬間、初めての呼吸、その歓喜のあまりに号泣する赤子のように、須磨子は喜びを感じていた。
そしてそれを上回る憎悪も。
自分をあれほどの恐怖に陥れた存在に対する、形容し難い憎悪を感じていた、そしてそれを手に握り締めている『鬼出刃包丁』がさらに増幅させていた。
須磨子は気が付いていないが、その形相は既に元の須磨子の知人でも、いや肉親でも須磨子だと分からないほどに変貌している。
それは、例えるならばというか、そのままの表現になってしまうが、鬼女である。
丑の刻参り別名 厭魅と呼ばれる呪術があるが、それを行う際の姿そのままである。
眼には殺意が溢れかえっていた、活火山から吹き出る溶岩のように、それは燃え滾り、対象を焼き尽くすまで決して冷める事の無い熱量を感じさせた。
須磨子の右手が閃いた。
包丁を持った右手である。
美琴はその動きに反応できなかった、それほどの速度であった。
「ひっ!」
美琴の胸の部分が裂けた。
須磨子の攻撃は浅かったのだ、それはまだ人としての理性が残っていてブレーキがかかったのか、それとも初めての攻撃だからしくじったのか、あるいは先ほどの『死の幻影』の影響がまだ残っているのか、どれが理由かは分からない、とりあえず致命傷には至らないが、美琴の服の胸の部分は赤く染まった。
その切れ味の鋭さは、美琴の胸を掠めてそのまま横の鉄柱をも切り裂いているのを見ればすぐに分かる。
肉体のどの部分で防いでもその部分ごと断ってしまう威力を秘めているのは間違いない。
(逃げなきゃ……っ!)
美琴がその胸の痛みよりも、須磨子の狂気の表情に恐怖を覚え逃げる事を選択した時、須磨子は跳躍していた。
そして、まるで四肢の長い蜘蛛のように、天井に張り付き、両手足でその天井を蹴っ飛ばして美琴に向かって襲い掛かっていた。
それを避けられたのは奇跡に近い。
体が勝手に反応したというのが正直な所だった。
今までの生涯でこれほどまでに体が動いてくれた事があったかどうか分からないほど、美琴の体は素早く動いていた。
須磨子の包丁は床に根元まで見事に突き刺さっていた。
ほんの一瞬の隙だが、逃げるしかなかった。
美琴の心は恐怖に囚われていた。
あらゆる選択肢が恐怖により掻き消されるほどに、恐怖に心を蝕まれていた、それでも美琴は必死に一つの選択肢を選び取っていた。
逃走である。
美琴は全力で走った。
ヒールの高い靴を履いていたのだが、それを躊躇わず脱ぎ捨てていた。
その背後から荒々しい息とそしておぞましい声が響く。
「待てええええええぇぇぇぇぇぇええぇぇっっ!」
須磨子が包丁を床から抜き取り、そして追いかけてきたのだ、目で確認しなくても分かる。
どうする?
どうする?
どうする?
美琴の心は困惑に満たされていた。
その時になって、ようやく美琴は手に握り締めている”手鏡”の存在に気が付いた。
(そっ、そうだ、これを使えば!)
でも、どう使えば良いのか美琴には分からない。
だが、どちらにせよ、これを使わなければこの状況を抜けられるとは思えない。
使うしかなかった、だがどうやって?
迷っている間に、包丁を手に持った鬼女が迫っていた。
須磨子の心を満たしている物、それは憤怒と嫉妬と憎悪である。
憤怒は、自分をこのような状況に陥らせたこの世界の不条理に対してである。
嫉妬は、美琴のような若い女が自由を謳歌している事に対してである。
憎悪は、先ほどの今思い出しても吐き気がするほどの死の幻影を見せた事に対してである。
その全てが、普通の状態の須磨子が感じる物の、何十倍も濃度を高めた物を今の須磨子は抱えている。
それに比例して、須磨子の肉体は徐々に変化しつつあった、牙は唇を突き破り、眼の細く鋭く吊り上がり、爪はまるで肉食獣のそれのように鋭く伸び、額からはどう見ても角にしか見えない物が二本生えつつあった、それは須磨子の心に潜む深い情念がそのような形として肉体に現れたものであった。
髪をざんばらに振り乱た鬼女が、包丁を手に若い女を追い回す、まるで昔話に出て来そうな状況ではあるが、これが高級住宅街のスーパーの中で行われている状況であるのは、異質を通り越して、曰く形容し難い状況となっている。
滑稽とすら思えるかもしれない。
だが、この状況では人が死ぬ。
そういう状況なのだ。
(あと少しで追い付くわよォォォォ!)
須磨子の心に、歓喜が沸き起こっていた。
もう人を殺すことに対する拒否感も消え失せていた、そういう倫理観はそれを倍加して上回る憎悪や、歓喜によって容易く掻き消されてしまう物なのだ。
だが、気を付けなければいけなかった。
あの鏡にだけは気を付けなければならない。
出来る事ならば、あの鏡を破壊するか、あの女の手から離さなければならない。
須磨子がそう考えた時、既に美琴はその”手鏡”を持って、それを須磨子に向けていた。
「くわっ!」
須磨子は奇声を発しながら、手で顔を覆うようにして、その場から一瞬で飛び退いていた、まるで十字架を見せられたドラキュラのように見えた。
飛び退き、そしてそのまま気配を消していた。
まるでどこかに溶け込んだかのように、須磨子の先ほどまでの激しい存在感がまったく感じられない。
今ので美琴に分かった事が有った。
この”手鏡”を相手に見せなければならないのだ。
今のは、相手が目を隠していたから効果が無かったのだ、間違いない。
それにしても、この”手鏡”の危険性を知っている相手に対して、それを覗かせる方法はどうすれば良いのだろうか。
相手が真正面から向かってくるなら良いが、不意打ちならばどうしようもない。
相手もそれを分かっているから、気配を絶って隠れたのだ。
一瞬の隙を突いて、美琴の首を掻っ切る為に。
対策を何か考えなければならないのと同時に、美琴の心にはこのような状況でも不思議なほどに空虚な風が流れている。
自分の命すらも容易く手放してしまいそうな、そんな危うげな風が。
須磨子は隠れて美琴の様子を窺っていた。
今の須磨子の嗅覚は犬並みで、美琴の汗の臭いすらも分かる、その汗から美琴が怯えていると言う事も伝わってくる。
(怯えるが良いわ、私のさっき味わった恐怖にはまだ足りない……、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと……怯えなさい……)
顔には笑みが浮かんでいるが、それを笑みを判断できる人間がどれほどいるのだろうか。
それほどの歪んだ笑みである。
今の状況で、あの鏡さえ見なければ勝敗は決して揺るがないだろう。
この”包丁”の力で、身体能力は見違えるように向上しているし、”包丁”の切れ味は鉄すらも容易く切り裂く。
あの鏡以外はまるで怖くない、それにあの鏡も多分ではあるが見なければどうと言う事は無い代物、ならば今のように隠れて、隙を伺っていればいずれは須磨子に勝利が訪れるだろう。
慌てる事は無い。
その時になれば、一瞬で事は済む。
時間にして五秒も有ればお釣りが来る。
それを躊躇ったり、しくじったりなどは今の須磨子には考えられない事だ。
当たり前のようにそれが出来るだろう。
そう、俎板の上に置かれた魚を捌くのを何ら躊躇わないように。
須磨子の腕時計も、時間制限が表示されている。
その表示は51:11、10、09……と数を減らしつつあった。




