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      鬼出刃包丁

 

 鏡美琴かがみみことは、迷いながらもその携帯に出た。 


 すぐに声が耳に転がってきた。

「あー、用件だけ言うけども」

 気だるい印象を与える、三十代の男性のような声のように聞こえた。

 美琴の聞いた事の無い声であるのは間違いない。

 そして、電話に出る相手が美琴以外にはありえないと確信して会話を始めているのが分かる。

 美琴はその電話の主に対して、何かを言おうとした、聞きたい事は山ほどあった。

 この状況の説明から、あんたの正体から、何で電話番号を知っているのかとかそういう事を矢継ぎ早に聞こうとした。

 だが。

 喉に何かが詰まったように声が出なかった、息は吸い込めるし吐けるのだが、声だけが出ないのだ。

「面倒だから音声拒否キャンセルになっているけど、気にすんな。んで、まぁあんたはこれから戦う訳なんだけれども」


 音声拒否キャンセル

 意味が美琴には分からない、それに戦うとか何とかも意味が分からない、この状況も何もかも分からない事だらけだ。

「あんた、今何か普段持ってねーもんを持ってない? それが武器なんだけれどもよ」

 声も出ないので聞きたい事が聞けない美琴は、他にどういうことも出来ないのでとりあえずその言葉に従って、『普段持ってない物』を探した。

 それはすぐに見つかった。

(……?)

 それは”手鏡”だった。

 いつの間にか美琴の上着の中に強引に捻じ込むようにして入っている、普通ならばすぐにその存在に気付くはずだが、電話があるまではまるで気が付かなかった。

 美琴も普段は鏡を持ち歩いているが、そんな形の物は買った事が無かった。

 その”手鏡”は、異様といえば異様な形だった。

 全体は髑髏ドクロの形をして、その髑髏ドクロが大口を開けた中に鏡がはめ込まれていて、普通の手鏡ならば持つ所は一つで握るように持つのだろうが、それは両脇にまるで耳のように取っ手が付いている形をしていた。

 その”手鏡”の大きさは、20cmをちょっと超えるくらいだった。

 これが『武器』とやらなんだろうか。


(何なの? この鏡は……) 

 美琴は自分の苗字がそうであるので、鏡関係には因縁めいた物を感じる。

 子供の頃はその苗字が原因で、からかわれたりもしたが、中学生くらいになると色々な鏡に興味を持ち出し、集めたりもした。

 でも、鏡を沢山持っているというのは友達にあまり言わなかった、鏡が好き=自分が好き=ナルシストという構図が出来そうで、そう思われるのが嫌だったのだ。

 それにしても、その鏡は妙な迫力に似た物を感じさせた。

 今まで見た骨董品の鏡にもこれほどの、手に持っただけで、思わず体がぶるりと震えてしまうような代物には出会った事が無かった。

「ちょっとこの鏡が……って声が、……出せる?」 

 さっきまでは、一言もうめき声すらも発せられなかったのに、今は普通に声が出る。

「ああ、もう時間だからさ、鏡が武器か、まぁ直接攻撃型じゃないのは間違いねーんじゃないかな、じゃこれから頑張ってよ、あー制限時間は1時間だから、それ以内に相手を殺さないと共倒れだから、そーゆーことで」

 投げやりな声と同時に、電話が切れた。

 

「ちょ、ちょっとぉっ!」

 美琴は必死になって叫んだが、電話からは既に何の音もしない。

 凍りつきそうなほどの沈黙が流れた。 

 周りの全てが静止しているこの空間の中、美琴の左手首の時計だけが動いていた、しかもその時計は、本来はアナログ式の時計のはずなのに、まるでデジタル式の液晶画面のようにそこに数字が浮かび上がらせている。

 そこに描かれている数字は59:35……となっている

 つまりの残り時間を表しているという事だ。

 どうしたら良いのか。

 どうすべきなのか。

 分かっているのが自分たちが遭遇しているこの状況が普通ではない事、そして一時間経てば多分脅しではなく死んでしまうのではないかと言う事だけだった。

 美琴はその時、さっき自分が居た辺りから、人の気配を感じた。

 敵……なのか?

 美琴は用心しながらそっちに近付いていった。


 美琴が相手を視認した時、正直絶句した。

 それは、そこに居たのがさっき缶詰を取ろうとした時、軽く手を触れて嫌な顔をされたおばさんだったからだけではなく、そのおばさんが包丁を持ってしかも刃を自分のほうに向けていたからだった。

 人に包丁を向けられる経験はそう無いが、実際にやられて見ると分かるが、恐怖が背筋を走り抜ける。

「あ……」

 美琴は声が出せなかった。

 恐怖の為だ。

 そのおばさんの目は若干血走ってるように見えたし、いきなり飛び掛ってきてもおかしくない雰囲気がそこにあった。

 だが、意外にもそのおばさんは、美琴を見ると、包丁の刃先を床に下ろした、若干だが安堵したような気配すら感じる。

 実際に安堵したのは美琴なのだが、そのおばさん自身も突然現れた美琴に驚き恐怖を感じていたのかもしれない。

 そしてそのおばさん――佐和須磨子さわすまこは、呟くように言った。

吃驚びっくりした……、どんな怪物が出てくるのかと思ったわ……」

 

 須磨子にしてみれば、唐突に聞こえた何かの近付く音に怯えていたのだ。

 包丁を向けたのも自衛の為で、相手を攻撃する為ではなかった、それにいきなり包丁で誰かを傷つけるような攻撃性は須磨子の人生とは縁が無い話だ。

 実際、目の前に現れたのはさっきの缶詰を取ろうとした時に現れた水商売風の女だった、さっきは多少の嫌悪感を抱いたが、それでも人は人だ、しかも自分と同じ女である、安心しない方がおかしい。

 安心した拍子に、須磨子は口を開いていた。

「ちょっと、これはどう言う事なのかしらね? あなたは何が起こっているのか分かるの?」 

 美琴は、若干まだ警戒というか戸惑いを抱きながら、それでも向けていた包丁を下げた事により、攻撃する気が無いと判断して話をする気になっていた。

「さあ……」

 美琴にしては自分も聞きたい事だ、問われても答えようが無い。

「まさか、テレビとか、そういうのじゃないでしょうね? あなたも女優さんとかじゃなくて?」 

 須磨子の考えでは、これはテレビのドッキリではないかと思っているようだった。

 周囲の人、全てが自分を騙そうとしている、そして目の前に現れた美琴は、名前は知らないがどこかの劇団の役者、そう考えたのだ。

 こういう日常におかしなことを仕掛けて、それにあたふたする一般人を写す悪趣味な番組があるのだ、だが、例えそれだとしても、このような平日の昼間のスーパーで、歩いている人全てがエキストラで、いきなり微動だにしなくなるという演出を誰がするだろうか。


 美琴にしてみれば、これがテレビ関係の事ではない事だけは間違いなく分かる。

 携帯電話とかの細工もやろうと思えば出来ない事は無いかもしれない、周りの人間が全て動いていないというのも、パントマイムの達人ばかりとかを集めてやれない事も無い、だけど、一切の音を消す事なんて不可能だ。

 すぐ近くの冷蔵庫が動いている駆動音だけではなく、他の日常の音がまるで聞こえないという状況は作ろうとしたら、大掛かり過ぎる、それこそどこかの廃墟を借り切ってでもない限りは不可能なはずだ、そういう映像を撮ろうとするならば撮った後で音を消せば良いが、現実にそういう事はまず無理だと確信できる。

「私は女優とかじゃないですし、これもテレビとかじゃ無いと思いますよ……」

 じゃあ、何なのかと、自分で何度も考えているか、答えは出ない。

 須磨子も一応納得したのか話題を変えた。


「ところで、さっきの館内放送は何だったのかしらね?」

 須磨子は、会話のきっかけを掴もうとそう言った。

「館内放送?」

 美琴は聞き返した、その館内放送は須磨子のみが聞いているものだから、美琴は当然知らない。

「ええ、さっき、時間制限が1時間とか何とか、言っていたの、聞いてなかったの?」

 須磨子には、あの音が自分にだけ聞こえたとか、そういう発想は思いつかない。

(若いのに、耳が遠いのかしら? ヘッドフォンで大音量で音楽を聴いたりしているからよ――)

 とか思っていた、道を歩いている若者が、周囲に音を撒き散らすようにして、音楽を聴いているのを須磨子は何度か目撃している、実際にそれを注意した事もあった、それをまじえた上での偏見だった。

(……それにしても、戦うというのはどういうことなのかしら、この包丁で斬りつけろと? 馬鹿な、出来る訳無いじゃない……。でも、そうしなければこのおかしな状況がずっと続くのだとしたら――) 

 須磨子の中で暗い感情が芽生えていた。

 いつのまにか、まだ刃先を床に向けてはいるが、その包丁を握る手に力が篭っていた。

(もし……、もし……、この女が、私に攻撃をしてきたら――、いや仮にしてこなくても、そうしなければ家族の元に帰れないなら……) 

 包丁を握る手の指の部分が、力を入れすぎてろうの様に白い色に変わっていたが、須磨子はそれでも包丁を握る力を緩めなかった。


 隙が必要だった。

 さっきまでは、この異常な事態をテレビのドッキリかもしれないと考えていた主婦が、突然そのような考えの展開に移るのは異常なのだが、須磨子はそれを冷静に考えていた。

 呼吸が僅かに荒くなっている。

 悟られてはいけない。

 須磨子はそう考えている。

 客観的に見て、武器を持っているのは須磨子、目の前の女は武器を隠し持っているのかもしれないが、まだそれを出していない。

 有利なのは須磨子である。

 この包丁でいきなり斬り付けたら、致命傷は負わせられなくても、後に有利になる、しかしそれでも隙が必要だった。

 だが、万が一の為に、今はまだ攻撃を仕掛けるべきではない。

 親しみを持って接して、相手の隙を誘う、そして出来れば相手の武器も確認したい。

(……あれ、いつの間にか私、戦うとか思うようになっているの……? 何故かしら、でもまぁ良いわ、こんな女の一人くらい……、こんな淫売なんて、いなくなったほうが世の為なんだわ、そうよ、私は間違ってなんかいないわ……)

 心の中に狂暴な物が育ちつつあった。

 それがその包丁の効力による物だとは、須磨子本人も気が付いていなかった。

 人の凶暴性、嫉妬・妬みの類を沸き起こらせ、その力を所有者の身体能力を増強させるのに利用させるその『鬼出刃包丁おにでばぼうちょう』の力だとは、須磨子は夢にも思わない。


「ねえ、あなた、ちょっと聞いても良いかしら?」 

 須磨子はとりわけ優しい口調でそう声を掛けた。

(何で急に猫撫で声で話しかけてくるんだろう?)

 美琴はそう思いながらも、

「何ですか?」

 と答えた。

「私、この包丁をいつの間にか持っていたんだけど、あなたも何かいきなり持っていた物って無いかしら?」

 須磨子の目的は相手の武器を確認する事、そして出来れば相手がその武器を取り出す一瞬、その隙を突いて攻撃を仕掛けるつもりだった。

 まるで、餌に食いつく瞬間の鮫のような目を巧みに隠しながら、須磨子は微笑みすら浮かべて美琴に接している。

「え、ああ、私の上着にこんなのが入ってたんだけど……」

 美琴の視線が須磨子から逸れた。

 それは確かな隙だった。

 もう、相手がどんな武器を持っていても構わない、しかも美琴は上着から先ほど見つけた『手鏡』を取り出そうとして、視線だけでなく手も片方ではあるが動きが取れない状況に陥っている。

 絶好の機会だった。

 須磨子は、恐ろしく機敏な動きで、その包丁を持って美琴に飛び掛っていた。



 次の瞬間。

 須磨子は唐突に暗闇に居た。

(……?)

 一体どうして?

 辺りには何も見えない。

 周囲にはまるで黒い霧が充満しているように、何も見えないのだ。

 視界が奪われている訳ではない。

 何故なら、周囲には何も見えないが前方に何かが見えるのだ。 

 その何かは、白いような銀色の一本の細長い棒、そのように見えた。

 一体何なのか、須磨子はそれに近付こうとした。

 動こうとして、その時、須磨子はようやく気が付いた。

 自分が立っているのではなく、寝転がって仰向けになっている状態だということに。


 しかも、体がまるで動かない、指ならば何とか動くが、首と胴体と腰と足首に何かが巻きついているように微動だにしない。

「何なのよッ!」

 声は出せる。

 だが、声を出せるからと言って、この状況ではどうにもならない。

 一体どう言う事なのか。

 先ほどまで間違いなくスーパーにいたのに。

 そして目の前の女に包丁を持って襲い掛かった、そこまでは覚えている。

 だが、何故、いきなりこのような状況になったのか、それがまるで分からない。


 その時、目の前の棒のような物が動き出した。

 ”それ”がゆっくりと須磨子に近づいて来る。

 まるで亀が歩く速度のように迫ってくる、物を落として落下する速度ではなく、人がわざとその速度を調節している速度に見えたが、誰も周囲には人の姿は見えない。

 近づいてきた時、須磨子にはようやく”それ”の正体が分かった。

 棒なんかじゃなかった。

 その正体が分かった瞬間、須磨子は絶叫した。


 ”それ”は、断頭台ギロチンの刃だった。

 それも何でも切り落とせそうなほどに研ぎ澄まされ、もし仮に刃がまるで切れなくともその重みだけで切断してしまいそうな重厚な質感が伴っている刃だった。

 それが今、須磨子の首に食い込もうとしていた。

 それも恐ろしくゆったりとした速度で。

 

  

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