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      松林信弘

 

 俺の名前は、松林信弘まつばやしのぶひろ

 はっきり言って迷っていた。

 これから行く場所の道のりに迷っている訳ではない、これから向かう場所はこれまで何度も通っていた場所であり、だがもう二度と足を踏み込む事は無いであろう場所である。

 俺が迷っているのは人生についてである。

 

 始発の駅から電車に乗り、丁度空いている席に腰を下ろした。

 俺の巨体から言うと、その席の幅はかなり人に迷惑をかけるかもしれないが、中途半端な隙間に尻をぐりぐりと押し込むように座るおばさんよりは遥かにマシなはずだ。

 それに立っていたって俺の体は邪魔だ、それなら座っていたほうが良いだろう。

 何しろ俺の身長は187cm、体重は124kg有る。

 脂肪のみで造った体重ではない、そりゃあ36歳という年齢から言えば、腹に多少の肉が付いても愛嬌あいきょうと言う物だ、それでも同年代のサラリーマンとは比べ物にならないほど体は動くし、力は有る。

 病気にも滅多にならない。

 職業はプロレスラー。

 いや、プロレスラーだったと言うべきか、この辺の細かい話は後で話そう。

 

 趣味は筋トレ、これは趣味というよりも筋肉が疲れないと眠れないのだ、これまで激しいトレーニングを積んできた肉体は、それを止めようとしても要求してくる、体を動かしてくれと。

 だから、趣味というよりも癖、習慣というのが正しいかもしれない。

 ジッとしていられないのだ。

 若い頃は力が溢れてくるようだった。

 夜分に突然眼が冴えて狂ったように何十kmも走ったことが有る。

 150kgを超えるバーベルを持ったままスクワットをした事も有る。

 今だって、椅子に座っているのが、徐々に苦痛になっていた。

 だが、これからは、どんどん運動量を減らしていかなければならないだろう。

 俺がこの肉体を存分に酷使する機会などもう訪れないのだから。


 まるで瞑想するように眼を閉じていて、ふと目を開けると、窓際に立ちそわそわと落ち着きの無い若者がこちらに視線を送っていた。

 俺の事を知っているのか? と僅かに思ったがそれをすぐ打ち消した。

 知り合いかと思った訳ではない、プロレスマニアが俺の正体に気付いたのかもという淡い期待を抱いただけだ、そんな事は有りもしないのに。

 たんに体の大きい男を見る好奇心の視線に違いない。

 その若者は今時の格好をしていた、俺には真似できない格好だ、そういうセンスは若い内にどこかに落としてきてしまったのだろう。

 羨ましいという気持ちすら、俺はその若者に抱いていた。

 歳は20代の前半ぐらいだろう。

 特に人の目を引く物は外見から何も感じられないが、その年齢、若さと言う物が俺にはまぶし過ぎて直視できないほどだ。

 20代の前半と言えば俺がトレーニングに熱中していた頃だ、あの頃にもう少し遊んでいれば、今のこの意固地な性格が多少は柔らかくなっていたかもしれないと思うとやりきれなくなる。

 それに20代の前半ならば、まだこれから何をするにも可能性が開けている、もちろん歳が一桁の頃から何かをやっている奴と戦っていくのは難しいが、30の半ばを過ぎた俺がやるよりも遥かに向こうの方が有利だろう。

 ただ筋肉がついただけの男だ、俺は。 

 そう思うと無性にやるせなくなる。

 俺のそんな視線に気付いたのか、気付かなかったのか、若者は視線を逸らし窓の外に眼をやっていた。


 松林はまた眼を閉じて、物思いにふけった。

 自分の人生に何が有るか。

 いや、結局の所何が自分の人生に残るのかと、今考えると、やはりプロレスしかなかった。

 体を鍛える事が、生きる事に繋がると思っていた。

 小学生の頃は貧弱そのもので、よく虐められた、力が弱いのが原因じゃない、もっと弱くても虐められない奴はいる、何が弱いのか、少なくとも俺は心が弱いから虐められていたのだろう。

 中学に入る際、心に決めたのは体を鍛えようと言う事だった。

 肉体が鍛えられれば、その肉体に自信が持てる、そうすれば強い自分になれると、今考えても短絡的な考えで体を鍛え始めたのだった。

 当初は中々筋肉がつかなかった。

 何を何回やれば良いのか、それすらも見当が付かないのだ。

 とりあえず腹筋と腕立て伏せを毎日やった、今から思うとやった内に入らない程度の回数で息を切らせ、ちょっとした満足感を味わっていた。

 それから本で調べ、筋肉というのは一度破壊してから再生をするまでに少し間を置かないと逆に弱くなってしまうと言う事を知った、そして筋肉を作るにはたんぱく質、プロテインを飲むのが効果的だと。

 親から貰っていた毎月の小遣いをそれに当てた、友達はゲームやらなにやらに金を使っている間、俺はプロテインを買って体を鍛えていたのだ。

 最初こそ、少しの回数を繰り返しやっていたが、いつの間にか筋トレ自体が習慣になっていった、筋トレだけでなくランニングもメニューに加え、中学2年生の後半になった頃には、今まで貧相だった肉体が、ようやく標準の肉体になっていた、その頃にはもう今と同じように夜は体を思いっきり使って疲れさせないと眠れない体質になっていた。

 

 学校の体育でも、今まではビリから数えた方が早かったのに、常に上位に入るようになった。

 身長もぐんぐん伸びて、高校に入った頃には180cmは超えていた。

 体が出来てきたその頃、ようやく格闘技と出会ったのだった。

 高校の柔道部に入った。

 基礎体力には自信があったが、実際の試合となると基礎体力、腕力だけではどうにもならない部分が有る、根本に技術があってこその力であるという事を思い知らされた。

 先輩からしてみれば、自分よりも体のでかい相手をぽんぽん投げるのは気持ちがよかったのだろう、散々練習台にさせられた、小学校の頃ならばそれで挫けて柔道部から逃げてしまっていたかもしれない。

 だが、体を鍛えたお陰で、精神も多少は強くなったようで、投げられ続ける事が腹立たしいと感じる反骨心も芽生え、何倍も練習を積んだ。

 一年の終わりには、同じ部活の中で主将でさえもう自分を簡単に投げ飛ばす事は出来なくなっていた、部内では唯一柔道三段の顧問の先生のみが、自分と良い勝負を出来る相手になってしまっていたのだ。

 全国大会でもそこそこの成績を残し、大学に進学、そこでも柔道をやり、全日本で2位になった事も有る。

 だが、オリンピックには縁が無かった、同世代に怪物と呼ばれる男が2人もいたのが不幸と言えば不幸だが、それを言い出したらキリが無い。

 柔道で飯を食っていこうと考え、それならば学校の教師になり、そこで柔道部の顧問でもやろうかと考えていた所に、一年前に旗揚げしたプロレス団体からの誘いがあったのだ。

 熱烈な誘いだった。

 うちの団体は弱小だ、だがいずれは大きくなる、その為には君の力が必要だ。

 その言葉に心が動いた。

 冷静に考えれば分かる事だ、きっとそういう台詞は他でも言っているに違いない、大学を卒業したての柔道以外何も知らない、世間知らずの若い俺にはそういうものが分からなかったのだ。

 親は反対したが、その反対が逆にやる気にさせた。

 捨て身の覚悟で、俺はプロレス団体、戦闘牧場バトルファームに入門したのだった。


 それから徹底的に鍛えなおされた。

 柔道で使う筋肉と、プロレスで使う筋肉は、似たような物と思われるかもしれないが、格闘技はジャンルが違うと使う筋肉が若干違う、相撲ならば押す筋肉、プロレスならば引く筋肉というように違う。

 血の小便が出た。

 マットに叩きつける最もメジャーな技のボディスラム、それを何度も練習で喰らった。

 いや、それだけじゃなく、何度も何度もマットに叩きつけられると、その部分の赤血球が破壊され、それが小便の時に出るのだ、ねっとりとしたコーラのような色をした小便である。

 そこでみっちりと修行を積んだ。

 そして2年間ものトレーニングを積んで、ようやく前座の試合に出れたのだが、その時俺はようやく知らされたのだ。

 俺の役どころがマスクマンだという事に。


 うちの、いやもう、うちのという言い方はおかしいか。

 俺の所属していたプロレス団体は、レスラー全員が動物の名前を付けられている。

 メインイベンターのつまりこの団体で一番人気の有るレスラーは、レオ高城たかぎ、ゼブラまきの二人である。

 二人ともマスクマンではなく、コスチュームにそれぞれの動物を連想させる物を身に付けていた。

 俺に与えられたのは、眠れる羊、スリーピングシープという名前のマスクマンであった。

 このマスクマンには設定が有って、最初は善役ベビーフェイスなのだが、後に悪役ヒールに転向するという設定を持ったキャラクターだった、つまり羊の皮を被った狼という設定だったのだ、だがどうにもいまいちパッとせず、しかも練習中の事故により長期離脱となってしまい、役としてはどっちつかずの中途半端な役回りになってしまっていた。

 有名レスラーならば、その長期離脱を逆に利用して、その復帰までの道のりを報道したり、復帰戦で多いに盛り上がる事も出来るが、俺のような知名度のまるで無いレスラーなどは見向きもされない。

 スポーツ新聞の片隅にも載らない。

 2年経ってようやく復帰しても、相変わらず試合内容は地味で、人気は出ず、しかもまた怪我を繰り返し、復帰しては怪我を繰り返して、この歳まで来てしまった。

 正直な所、この歳まで解雇クビにならなかったのは奇跡に近い、俺が経営者だったらもう5年も前に解雇クビにしているだろう。

 今回も、正確にいうならば解雇クビではない、団体自体が他のメジャーなプロレス団体に吸収される形になったのだ、そして人気の有るレスラー以外はほとんどお払い箱になったと言う事だ。

 知名度がまるで無く、体のあちこちに爆弾を抱えて、しかも華の無い、30後半のレスラーを拾おうとする奇特な人間はいなかった。

 当たり前だと、自分で思うが、やはりやり切れない気持ちになる。

 今こうして電車に乗っているのも、最後の挨拶をしに事務所に向かっている所なのだ。


 100kgを超えたこの体が、いつもよりやけに重く感じられた。

 これからどうする。

 それを何度も何度も何度も自分に問うている。

 何をする、いや何が出来る。

 取り得は肉体だけ、その肉体もちょっと無理をすれば故障してしまう体だ、格闘技はもう無理だ。

 柔道もプロレスも出来る、しかし柔道はもう捨てた身分だ、きっぱりと決別を告げた立場からもう一度戻りたいというのはムシが良すぎるだろう。

 プロレスにしても、どれほど技量があっても俺のような知名度の無い人間に教えられて気分の良い奴は居ない。

 そもそも俺は人に教えられるだけの技量を持っているのか?

 それすらももう分からない。

 そりゃあ街中で喧嘩をすれば負けっこない。

 相手が素手ならば何人いようと多少無理をしても勝てる自身は有る。

 しかし、相手がナイフを持っていたら? 拳銃を出したら?

 スクワットを10回も満足に出来ない奴のナイフでも刺されば死に至る。

 拳銃はもっと酷い、子供の持つ銃から放たれた弾丸で、何十年も鍛えた鋼の肉体も容易く貫かれてしまうだろう。

 内心で苦笑をした、もうすぐ40代が見える男が、街中で喧嘩をしたらどうだとかそういう発想自体がもう子供じみている。

 この歳ならば、普通の会社員ならば実力があればそれなりの役職になっていてもおかしくない。

 それが、俺はまるで貧乏学生のような貧しい生活をしている。

 それを考えると情けなくて堪らなくなる、同窓会に出席拒否し続けているのはそれが原因だ、同世代の奴が結婚したり、あるいはしっかり稼いでいる時に俺は何をやっているのだと考えると、無性にやるせなくなるのだ。

 

 妻も子は最初からいない。

 それに両親も他界して、もうこの世に居ないのが奇妙な話だが救いだった。

 これから何をするにも、人の面倒まで見る余裕など無いのだ。

 逆に頼れる親戚縁者もいない。

 これからは、土方の仕事でもやって生きていくか、力仕事ならば多少は無理が利くだろう。

 松林は自分の将来に迷いを感じていた。

 

 その時だった。

 眼を閉じていると、視覚が以外の感覚が鋭くなるのだが。

 妙に静けさを感じていた。

 ん? と思い目を開けると、何も変わらない普通の光景だ。

 だが、そう思ったのは眼を開いた時の一瞬だけであった。

 あらゆる光景が停止していた。

 音が無い。

 電車自体がいつの間にか止まり、そして乗客が全員まるでマネキン人形のように固まって動かないのだ。

 これは、一体――?


 そう俺が思った時。

 胸ポケットからけたたましい音が響いてきた。

 聞き覚えの無い音だった。

 色々な騒音を混ぜ込んだような、耳障りな音。

 俺は携帯電話の着信音は、音楽ではなくただのアラーム音にしているから、そういう音が鳴り響く事は無い、それ以前に携帯の電源すらも切っていたはずだ、会社が連絡用に俺に無理に渡した携帯だ、私生活ではほとんど無用の長物と化しているそれを、今日は事務所に置いて帰ろうと思っていたのだ、それに大分使っていないが、きっと料金も満足払われていないはずだ、通話も出来まい。

 それが何故、音を発するのか。

 分からない。

 

 とりあえず俺は、その携帯に手を伸ばした―― 







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