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      鏡美琴

 鏡美琴かがみみことの職業は、大昔から存在していたといわれる。

 警察官よりも前。

 医者よりも前。

 恐らく、飲食店よりも前。

 男と女が存在している限り、その職業は裏だろうと表だろうと決して途絶える事は無いだろう。

 そういう職業だ。


 その仕事に就いたきっかけは単純だった。

 お金が欲しかったのだ。

 田舎から家出同然で出てきた高卒の、身元保証人もいない女が、手っ取り早く金を手に入れる方法は限られている。

 美琴に抵抗は無かった。

 元いた場所に戻るくらいならば何をしても良い、そういう強い気持ちがあったからだ。

 実際に大金は手に入った。

 美琴は顔立ちはモデルのような美形ではないが、愛嬌のある顔立ちで客に好まれた。

 女の子の入れ替わりの激しい業界で、美琴はその店にい続け、いつの間にか古株と呼ばれるようになった。

 しかし、それでも彼女はまだ22歳だった。


 この仕事はある意味では究極の接客業だ。

 そう思う。

 相手は飲食店で使うよりもずっと高い金を払う客だ(もっとも一流とかならレストランなら話は別だけど)、必ず相手を満足させなければならないという思いが美琴にはある。

 入店当初は嫌々やっていたのだが、いつしか仕事にプライドを持つようになっていた。

 プライドと言っても、客に対して高飛車な態度を取るのとは違う、相手に何をされても揺るがない職業意識だった。

 それが無いとどの仕事だろうと続かないと美琴は思っている。

 相手がどんな客でも金を払っている以上、それに見合うサービスは行わなければならないのだ。

 確かに嫌な客は多い。

 こういう店に入っておきながら、女の子に説教する客もいれば、酔っ払ってわがままな客も多い、さすがの美琴も何度かキレそうになったことがある、そこをぐっと我慢したから続いているし、人気も有るのだ。

 実際に、客と喧嘩してクビになる子もいるし、またいつの間にか来なくなる子も珍しくない。

 

 美琴は、普段は金遣いが荒くない。

 あくまで生きる為に金を溜めるのが目的で、元々家が有って親もいて、ただ遊ぶ金欲しさでちょっとした気分でやっている子とはその部分が決定的に違う所だった。

 だけども、やはり美琴も使う時はぱーっと使うようにしている。

 一般的な大卒のサラリーマンの多いときは4〜5倍の給料を貰っている身分なので、使う時の開放感は堪らない。

 この快感を味わったら、多分馬鹿らしくて普通のOLなんて出来ないだろう、そう美琴は思っている。

 真面目に働いてスズメの涙の給料じゃ、本当に泣けてくると思う。

 でも、その分デメリットも多い。

 病気の関係で虫歯には気をつけている、そこからばい菌が入ると酷い事になるからだ、他にも定期的に健康診断は必ず受けているし、そういう心配はもちろん、将来のことも心配している。

 この仕事を一生続けていけるわけがない、そういう漠然とした不安がある。


 女の子の中にはお金を溜めて、ネイルサロンを開くのが夢とかいう子もいるが、こういう仕事をしているだけでは金が手に入っても、他の技術が得られない、もちろん半々で器用に勉強もやって成功している人もいる。

 そういう人を羨ましく思いながらも、美琴は特に努力らしい努力はしていない。

 多分、この仕事をあがる時、きっと今のまま貯金をし続けて、馬鹿な男に貢いだりしなければ、ある程度の蓄えにはなるだろうけど、そこから先はどうすれば良いのだろう。

 分からない。

 普通の仕事に就けるのだろうか、美琴がやりたいと言っても向こうが断ってくるかもしれない、結局はまた夜の水商売に流れるのかもしれない、もうその道から抜けられないのではないか。

 考えるとどうしようもなく不安になるから、考えないようにしている。

 そんな時は、好きな歌手の歌を聴く。

 その人の歌声は、とても重く沈むような気分に引きずり込むのだが、それが心地よかった。

 自分自身の命が例えここで失っても、世界には何の影響も無いのだという歌詞が、美琴には実感として理解できるのだ。

 一応バンドではあるのだが、女性ボーカルがメインで、その都度にバックが変わるというスタイルで演奏をしている。

 大正時代を思わせる風景が何となく浮かんでくるような、その独特な声と唄が美琴は好きだった。

 ついつい一人になると口ずさんでいるのだ。


 どんな業界だろうと、何年かやっていると尊敬出来る人と出会う事がある。

 出会えれば幸運だし、人生観も変わる、そういう出会いだ。

 一人の尊敬できる人物と出会う事は、一生の宝物だと思える、そういう出会いだ。

 それが、美琴にも例外ではなく訪れた。

 基本的に人に対して敬意を持つと、その裏をかかれる事の多い業界ではあるのだが、一目見るだけ、少し会話をするだけで、妙に惹かれる人間というのはいるものだ。

 その人は、美琴の商売の先輩で、歳も五歳上なのだがもっと上のような貫禄を感じさせる(というと怒られるけど)、包容力と言うのか求心力と言うのか、家の無い美琴のような人間は、その人を慕った。

 店には美鶴みつるという名前で出ていたが、本名は聞いた事が無い、でもそれで良いのだと思っている。

 思えばその名が縁で仲良くなったような気がする。

「あんた美琴っての? へぇ、私の源氏名と似てるわね、仲良くしましょ」

 最初はそんな会話からだった。

 それから仲良くなるとはその時はまるで思っていなかった。


 美鶴さんと、外で会う時もその源氏名で呼んでいる。

 普通は商売用の名前を外で呼ぶと嫌がるものだ、実際に美琴も商売用の名前を街中で呼ばれると不快に思う、しかし美鶴さんはそういうのをまったく気にしない開けっぴろげな性格の人だった。

 美鶴さんは、美琴の勤めている店をあがり、今は銀座の店で修行中だ、かなり有望視されているらしい。

 将来的には自分の店を持つのが夢だという、その為の勉強も美琴は間近で見ている、ただ、その店で雇われるのと、自分で店を持つというのでは意味合いがまるで違う、経営の勉強もしなければならないのだ。

 一体いつ寝ているのか分からないほど努力をしている、どうしてこういう能力を持つ人がこの業界にいるのか美琴は不思議で仕方が無いのだが、それを尋ねた事は無い、人の人生に詮索しない、それがここでの数少ないルールの一つなのだから。


 休日、美琴は土日固定休日ではないので、不定期だ。

 基本的に引きこもりがちな美琴だったが、美鶴さんからたまに誘いがあると喜んで遠出もした。

 人の好き嫌いが激しい美琴だが、美鶴さんからの連絡は素直に嬉しい、美鶴さんも美鶴さんで打算抜きで楽しんで一緒にいてくれる美琴と出かけるのは悪い気分はしないようだった。

 活発で行動的な美鶴さんのエネルギーが、傍に居るだけで、美琴にも流れ込んでくるような印象を受けるのだ。

 その日、美琴は休日で、11時過ぎまで布団の中でぐうたらと眠っていたのだが、携帯電話が鳴った。

 寝起きなので、携帯の着信が誰からかも確認せずに、美琴が電話に出るとすぐに声が飛び込んできた。

「ミコ〜、駄目だぁ、死ぬぅぅぅ」

 美鶴さんの声だとすぐ分かった。

 ミコとは、美琴のあだ名だ。

 子供の頃、親にそう言われていた時は、煩わしいとしか思えなかったのだが、美鶴さんに言われると何故か親しみを覚える。


「また風邪ですか? 意外と体弱いですよね」 

 美琴は寝起きながらも頭を回転させて、よく考えると失礼なことを言っていた。

 でも、それを咎めるような事は言われた事が無い。

 美鶴さんは、活動的でアウトドア派の割りに、二ヶ月に一回は風邪を引いて寝込む、体が休養を求めてわざとそうしたブレーキをかけているのではないかと美琴は思っている、多分、風邪でもひかないと一日中家でジッとしている事は無いだろうからだ。

「見舞い来てー、お見舞い持ってきてー」 

 いつも気丈きじょうなくせに、弱っている時は本当にだらしない口調になる、またそこが愛らしいと、五歳も年上の人に対してそんな風に思うのが、美琴は妙におかしかった。

「はいはい、お見舞いっていつもの缶詰ですよね、あの高い奴」

 美鶴さんは、弱っていると決まってその缶詰を食べて元気を出すそうだ、私も一度食べたが、値段の割にはちょっと……という感想しかない、その時は貧乏舌だからだとか言われて口論になったけど。

「そーよー、早くしてぇ、死んじゃうわぁ」

「普通は風邪ひいたら桃缶とかじゃないんですか? まぁ、良いですけど、それじゃ1〜2時間はみてくださいと、私今寝起きなんですから」 

「え〜」

「駄々こねない」

 まるで幼稚園児を相手している気分だった。

 まだ駄々をこね続ける美鶴さんに挨拶をして、美琴は電話を切った。


 普段の美鶴さんを知っていると、本当にこの電話の相手は同一人物なのかたまに不審に思う。

 人というのはいくつもの仮面を被っているという話は、間違いなく本当だと思う。

 多重人格というのがあるが、あれは極端な例だとは思う、だけど、どんな人間でもそのくらいは普通はいくつかの人格を持っているんじゃないだろうかと美琴は思う。

 恋人と接する時と、親と接する時、嫌いな人間に接する時、初対面の人と接する時、立場が上の人間と接する時、等々……

 どれもいつも同じ態度ではないはずだ、そういうものだろう。

 その使い分けを自分で操作出来ないのだが多重人格なのか、それともその役割がハッキリしすぎていると多重人格なのだろうか……?

 美琴はハッとした。今はそんな事を考えている場合じゃない。

 とりあえず、今は布団から這い出て、シャワーを浴びるのが最優先だった。

 

                             ・


 美鶴さんの住むマンションの近くに来ると、まるで空気の味さえも違うような感覚を美琴は受ける。

 高級住宅街だ。

 美鶴さんは、稼いだお金を株とか投機とか、美琴にはよく分からない物につぎ込んで、ある程度の金額を稼いだらしい。

 その分をそのまま住居に当てたのだという。

 住む所と着る物には見栄を張れ、それが美鶴さんの信条だった。

 客商売をしているとそういうのが重要なのだという。

 外見はもちろん気にするとして、でも中身も伴っていないとしょうがないのでは? と、一度美琴は美鶴に言ったのだが、「外見が立派なら、内面もそれに負けないように立派になるモンなのよ」と言われた。

 そういうものらしい。


 それにしても、この街は、人よりも家の方が遥かにでんとしていて、態度が大きいように思える。

 一般的な会社員が真面目に一生かけて働いても、ここで住むのは夢のまた夢、どうにかして何十年ローンかを組んで住む事は出来るかもしれない、でも本当にそれは幸せなんだろうか。

 歩いている人の服装も金がかかっている。

 ペットの犬の着ている服も、多分ブランド品なんだろうと思えるほどだ。

 美鶴さんの家が無かったら、美琴はこの辺りに足を踏み込んだりは絶対しない、正直に言うと胸糞が悪くなるからだ。

 それは根源的に、ただ家が金持ちの子供に生まれたからという理由だけで、金持ちのまま生きている者に対する美琴の嫉妬心から来るのかもしれないし、それ以外の感情かもしれないが、美琴はそれを深く考えた事は無い。

 ただ、何となく気に入らないという印象が付き纏っている。


 美鶴さんの希望リクエストの品は、この街のスーパーにある、どれも美琴がいつも行くスーパーよりも3割は高い値段で置いてある店だ、自分の格好がややこの辺り向きではないとは意識しながらも、そんな事に構っていられるかという反骨心も重なり、美琴は堂々と歩いていた。

 美琴は、カゴさえも持たずに店内を闊歩かっぽしている、目的の品を手にとってそのまま会計をするつもりなのだ。

 何度も足を踏み入れているので、自分が目的の物がどこにあるか誰に聞かなくても分かる。

 出来るだけ、ここに住んでいる人と話をしたくなかった、それは店員でも同じだ。

 敵、とまでは思っていないが、敵対心に近い物は持っている。

 さっさと用事を済ませて出たかった。

 その缶詰以外は何も買うつもりは無かった、店員が訝しげに見ても気にする必要なんか無い。


 あった。


 その缶詰に手を伸ばした時、横にいた高価な服装をしたおばさんもタイミングよく手を伸ばしていて、美琴と手がぶつかった。

 あ、と思いながら、美琴は一瞬手を引っ込めた。 

 すまなそうに美琴は、そのおばさんの顔を見たが、まるで苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 こういう表情をするおばさんは、神経質で間違いなく自分とは相性がよくないな、と美琴は何となく思った。

 とりあえず軽く会釈をして、その缶詰を取ったのだが、美琴の会釈をそのおばさんは見ていないようだった。

 感じが悪い。

 この街の人間は皆あんな感じだ。

 美琴は僅かながら腹を立てたまま、缶詰を鷲掴みにして、そのままレジにと足早に向かった。

 あまりこの店内では見られない光景だとは自分でも思うが、構うもんかと美琴は思っている。

 鼻息を荒くしながら、美琴は店内を歩いていた。


 その時だった。


 突然、携帯電話が鳴り響いた。

 その音の発信源が、自分の上着のポケットからだとは一瞬美琴は気が付かなかった。

 何故なら、美琴が設定しているはずの無い音だからだ。

 また、バイブ設定にしてある以上、鳴り響くはずの無い音である。

 それはまるで一種の騒音のようにスーパーに響いた。

 しかし、その音に反応する人はそのスーパーの中に誰一人もいなかった。


 その携帯電話の所有者である、鏡美琴を除いては。

 

 

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