Battle 3 佐和須磨子
佐和須磨子は、ごく平凡などこにでもいる主婦――とは少し違った。
どこが違うのか。
化粧のキツさも、話し好きな所も、一般的な主婦と変わりない。
違うのは一つ。
彼女は、自分が世界の基準値であると思っているところだった。
須磨子の夫は、一部上場企業の重役である。
社員寮に住む須磨子は、その寮のまるで女王様のような扱いを受けていた。
社員寮と言っても、その社員寮は高級マンションを丸ごと会社が買い取ったもので、新入社員でも入れることは入れるが将来有望である場合が多い、それ以外では会社の重役達が連絡を密に取り合う為にそこに住むのだ。
もっとも一軒家を買いそこで住むものも決して少なくないが、結婚当初からそこに住んでいた須磨子はもうよその場所に引っ越す気は毛頭無い。
今の暮らしに充分満足しているし、周囲がちやほやしてくれるからだ。
本人も最初は意識していなかったが、自分がその場所の中心になっている事に気が付き、そしていつの間にかその自分の地位の力を楽しむようになっていた。
新入社員の妻は、彼女にとっては下女扱いだ。
同じ主婦という立場で対等のはずなのだが、それは彼女もその周囲も許さない。
少しでも常識外れで無礼な扱いをして須磨子の機嫌を損ねたら、その夫はしばらくしたら転勤する事になる、彼女の夫は人事部に圧力を掛けることも平気で出来る役職なのだ、だが、あくまで直接的なことはせずに、夫に「あそこの奥さんはちょっとねぇ……」とさりげなく言うだけだ。
彼女に罪の意識もなければ、敵を排除したという意識も無い。
ただ、常識外れの人間が遠く行った、ただそれだけの認識だけだ。
彼女の家庭環境は、夫とそして娘の三人暮らしだ。
夫は47歳、須磨子は39歳、そして娘は18歳だった。
夫とは見合いで知り合ったが、温厚な性格と、そして将来性を見越して交際が始まり、そして現在に至る。
彼女は幸福だった。
夫は須磨子に対して文句を一言も言わないし、娘も真面目に従ってくれる。
自分の家は、温和でそして正しい空気が流れている、それを須磨子は常に感じている。
汚い物が嫌いな彼女は、家中を暇が有れば掃除をする、だから床にはゴミ一つ落ちていない、そのまま舐めても大丈夫なほど磨かれている。
時には勝手に娘の部屋も掃除をするのだが、さすがにそれに対して年頃の娘は文句を言って来る、彼女の為を思ってしているのに、なぜそんな事を言うのか須磨子には理解できない、感謝こそされても、文句を言われる筋合いなど無いはずなのに。
彼女はテレビを見るたびに思う。
世の中の人間の常識は一体どうなっているのかと。
テレビでは先日駅で事故死した若者のニュースを取り扱っていた。
薬物中毒で意識を混濁した状態でふらついていた彼は、階段を踏み外して転落し、そして頭蓋骨を骨折して死亡したのだという。
薬物中毒。
その言葉に須磨子は身を震わせた。
薬に手を出す人間はどこかがおかしいのだ、きっと親の教育が悪いのだろう、それにろくに学校にも行っていなかったのだろう、薬物なんて……。
須磨子は他に、身内を殺害した事件などのニュースを見ながら、一人でぶつぶつと社会についての不満を口にしていた。
「ああ、嫌だ、嫌だ、最近は物騒な事件が多くて。何か皆狂っちゃっているのよね、現代の教育のせいだわ、どんどん事件が凶悪化していくわ、どうなっちゃうのかしらね、日本は」
これは間違いだ。
ただのメディアの影響に過ぎない。
残酷な事件は昔から少なからず有る。
何しろ有名な切り裂きジャックが暗躍したのは100年以上も昔の話なのだから。
メディアが発達して、それが伝わる率が上がっただけで、実際には昔からそういう『物騒』な事件は多々あるのだ。
しかし、そんな事は須磨子の考えには無い。
ただ、どうして自分たち家族のように平和に過ごせないのか、それを常に憂いている。
夫と須磨子の関係は良好に見えた。
喧嘩は一度もしないし、夫は無口だが、須磨子が喋る性格なので合っていると言えば合っている。
夫は須磨子に一切の口を出さないし、娘の教育方針についても須磨子任せだった。
須磨子の教育の成果の賜物か、娘は真面目に高校に通っている、バイトは禁止しているが、きちんとお小遣いをあげている。
そもそもバイトなんて非行の温床だという認識が、須磨子の中に強く根付いているので、絶対にやらせないと心に誓っている。
子供の成長を願うのならば、多少はそのようなアルバイト体験をさせるのも一つの教育方法の一つだとは思うのだが、彼女は絶対にそれを認めない、自分が認めたもの以外は決して彼女は認めないのだ、何しろ彼女は世界の基準なのだから。
彼女の今日の予定は買い物だ。
買い物と言っても、近所のスーパーに買い物に行くだけだ。
買い物が必要無い時は、主婦仲間とランチや、習い事を楽しむのだが、今日はたまたまどの予定も無い。
たまにはこのように一人で行動するのも悪くない。
取り巻きの主婦を連れて歩くのも好きだが、一人での買い物も嫌いじゃない。
何を作るか考えながら買い物するのは気分が良い、予算は普通の主婦よりずっとある、出来合いのものなんて買わない、レンジでチンすれば良いだけなんて考えられない、いつも手の込んだ物を作って家族に振舞う。
夫は帰りが遅くなって食べないで寝る時も多いが、それでも彼女はちゃんと作る、主婦という仕事に一生懸命取り組んでいるのだ。
須磨子が良く通うそのスーパーは、恐らく一般的な主婦は滅多に立ち寄らないスーパーだ。
須磨子は黄色いカゴを手に取り、その中を歩く。
その店は、須磨子にとっては珍しくないが、近所の八百屋では扱っていないような果物が多々置いてある。
スターフルーツ。
ドラゴンフルーツ。
ミラクルフルーツ。
完熟マンゴー。
マンゴスチン。
ドリアン。
ランプータン。
季節によって顔ぶれは変わるが、フルーツ専門店でもないのに、それらが置いてあるスーパーはそうは無いだろう。
魚も肉も最高級品を取り揃えている。
鮮魚コーナーでは、鮑や伊勢海老が当たり前のように置いてある。
生肉コーナーでは、〜牛とブランドの付いた肉が主のように鎮座している。
このスーパーに来れば大抵の物は揃う、多少金額が張るが、鼓膜が破れるほど大声で叫ぶような店員のいる、いわゆる庶民が行く店には須磨子は行きたくなかった。
知り合いとするお喋りは好きだが、初対面のしかも客としてというよりはやや馴れ馴れしく話しかれられるのが須磨子は嫌いだった、図々しくて、常識外れだ、彼女はそう考えている。
丁度彼女の欲しい物が眼に止まった。
それは外国産の缶詰で、値段も手頃で(須磨子の感覚でだが)、味が良い、彼女は良く探した訳ではないが他の店で売っているのを見た事が無い。
それに手を伸ばしたら、横にいた若い女性もたまたまそれに手を伸ばしていて手が触れた。
須磨子は思わず、反射的に手を引っ込めていた。
その女性は、一瞬須磨子のほうを訝しげに見たが、そのままその缶詰を手に取り、カゴに入れてそのまま去った。
その缶詰はまだ他にも有るが、須磨子はもう缶詰を取ろうとはせずに、気分を害されたように顔を歪めた。
そしてその手が触れた部分を、服にこすり付けるようにした。
気に入らなかった。
自分が欲しい物を相手が先に取った事もそうだが。
気に入らないのは、あの女自身だ。
見るからにけばけばしい水商売をしているような服装だった。
どこかのホステスか、もしくはそういう商売をしていて、どこかの金持ちを騙くらかして妻の座を勝ち取った女か。
あるいは、たまたまここを通りかかった女なのか。
それはどれでも良い。
ああいう女が自分のテリトリーを侵していると思うと腹立たしかった。
あのタイプの女は、須磨子にとっては一つの認識でしかない。
不潔。
それだけだ。
彼女にとって、性というのは一種の禁断の扉である。
それは、子供の頃から女の園で育ち、見合いをして結婚するまで純潔を保ってきたからそうなのかもしれないし、親の情操教育の影響かもしれない。
だから子供を作る時以外はほとんど夫との性交渉も行わなかった。
今ではすっかりセックスレスだが、彼女にとってはそれは何とも無い、性欲による欲求不満など微塵も感じないのだ、昔は若かった夫が求めてきたが、それを嫌悪の表情で拒否し続けていたら、今ではすっかり向こうも諦めたようだった、それで良かった。
そんな須磨子だから、自分の性を売り物にしたり、武器にしたりする職業に対しては憎悪に近い感情を抱いているのだ。
そんな女に触れた右腕は切断してやりたかった。
彼女は潔癖症の気が有った。
電車に乗る事は滅多に無いが、乗っても手摺には絶対に触れない、誰が触ったか分からないようなものには一切手を触れない。
どこかのトイレに入る時でも、必ず滅菌シートを持参して、それで拭くか、あるいはトイレットペーパーを三重くらいにしてそれを便座の上に敷いてからでないと決して座らない。
それが彼女の性分だった。
気分を害された彼女は、憂さ晴らしというか、何か今日は豪快な料理を作ってやろうと思った。
最高級の肉を買ってステーキにしようか、とか。
でも娘はそういう肉の類は、太るからという理由で嫌がるし、夫も最近は食がめっきり細くなって、家でもほとんど食事をとらない、体を心配しているのだが、本人は大丈夫だとの一点張りだ。
そんな時、迂闊にも須磨子のカゴが、積んである商品に触れてそれが地面にばら撒かれてしまった。
「あっ!」
思わず須磨子は大きな声を出してしまった。
散らばったのは、幸いにも卵とか壊れてしまう物ではなく、缶ジュースだったのが幸いだったが、恥には違いなかった。
こんな恥を掻くなんて彼女には耐え難い物があった。
赤面しながら、思わず周囲を見渡して、彼女はその時ようやくその異変に気が付いた。
誰も須磨子を見ていない。
客はそこそこいる。
平日だが、主婦にはあまり関係が無い。
ちらほらそこらにいる。
客だけでなく、スーパーの中で最新式の切れ味鋭い包丁を販売しているおじさんもいるし、商品を陳列している若い店員もいる。
だが、その誰もが須磨子に視線を向けない。
気を使ってとか、そういう次元ではないし、そして視線だけではなく、一切の動きを止めているのだ。
これは一体――
須磨子は驚愕し、その事態を理解できずにいた。
世界の基準の中心、そして常識人であるはずの彼女は、その非常識を受け入れるのは時間が掛かる。
その時だった。
館内放送が流れた。
木琴でピンポンパンポンという音と共に、言葉が流れてくる。
本来ならば迷子の案内などに使われるものだが、その内容は須磨子が今まで聞いたどの放送とも違っていた。
『えー、この放送を聴いている人、携帯電話を持ち歩いていないから、仕方なくこういう方法で伝える事になります』
若い男のような、女が男の声を真似して声を出しているような、そんな声だった。
携帯電話を持っていない……
あ。そういえば、今日は持ってきていない、と須磨子は思い出していた。
玄関に置きっ放しにして忘れてきたのだ。
須磨子はその声に対して何か言葉を発しようとしたのだが、何かに遮られるように声が出なかった。
本当だったら「アナタ何を言っているの!?」と大声で叫びたかった。
その声は尚も続く。
『それでですね、武器を探して下さい、多分カゴかバックかそう言う物の中に有るんで』
須磨子は、その異常事態にどう対処すれば良いのか混乱しながらも、その言葉に従って、何かを探した。
有った。
さっきまでは間違いなく無かったのに、カゴの中に包丁が一本転がっている。
『武器』というのはこれの事か。
というよりも、この状況の説明は?
須磨子の混乱は頂点に近かった。
『敵をですね、その武器で攻撃して下さい、相手を殺さない限り、あなたは元の場所に戻る事は出来ませんので。それでですね、今回は、女性同士の戦いと言う事で、闘争本能による戦闘の開始が著しく遅れると予想されるので、特定の条件を付けさせてもらいます』
意味が分からない。
須磨子には分からない単語ばかりだ。
単語自体は分かるのだが、それが繋がって何を言いたいのか分からない。
最初の、敵を攻撃しろと言う事しか分からなかった。
最後の特定の条件というのも聞こえたが、一体どういう意味なのか。
それに『殺す』という言葉は分かるが、そんな事出来る訳が無い。
『時間制限を設けました、1時間。まぁこれだけ有れば充分でしょうという訳で、それでですね、その時間を過ぎたら二人とも負け、というか死んでしまう訳です、頑張ってください』
そう言って、その声はもう続きを言う事は無かった。
須磨子には何がなにやら分からない。
ただ、この異常な状況を乗り越えるには、敵を倒さなければならないらしいが、そんな事自分に出来るだろうか。
出来るとはとても思えない。
今までの人生で誰かを傷つけたことなど自分は無い、そう思っている。
それにしても『敵』とは……
この異常事態には何が出てきてもおかしくない、須磨子はそう考えた。
バケモノの類が出てくるのだろうか、それをこの包丁を持って戦えと? まるで子供の漫画の話だ(須磨子は漫画もゲームも触れた事さえないが)。
普通なら戯言と聞き流せるのだが、この状況がそうはさせない。
その時、須磨子の背後から音が響いた。
何か、偶然何かが落ちた音ではなく、何かが近寄ってきた音のようだった。
須磨子はびくんと体を震わせて、驚きと、恐怖から咄嗟に須磨子はカゴの中の包丁に手を伸ばして、音の方向に向き直っていた。