Extra Battle 一滴
朝の通勤時間帯。
上崎正はオフィス街を走っていた。
額には汗が浮かび、息は激しく荒れている、朝セットした髪も乱れている。
上崎は別に会社に遅刻しそうだから、そのように疾走している訳ではない。
それにしても、こういう場所で、40過ぎの上崎ほどの男性が全力疾走していると、普通は周囲の人々が何事かと気にするものだが、誰も上崎を眼で追う者はいない。
他の人間は全て停止しているのだ。
微動だにしない。
そして瞬き一つしない状況なのだ。
停止した空間での戦闘が、また唐突に上崎の通勤途中に始まったのだ。
上崎は全力で走っていた、今までの人生で最も全身全霊をかけてである。
背後から迫ってくる敵、それから逃げる為だ。
アレは本当に人なのか。
上崎は自分に問う。
戦いが始まった時、目の前に現れたあの男。
問答無用で攻撃を仕掛けてこず、挨拶をしてきた、しかも若い癖に丁寧な口調だった。
まるでこれから取引先と商談を開始しようかという風にも思えるほどだった。
だが、その顔の裏に潜む物、それを上崎は直感的に感じた。
こいつは危険だ。
まるで人の形をした死そのものに思えた。
ざわざわと鳥肌が立った。
会った瞬間、眼を合わせた瞬間に本能が警告を告げた。
――逃げろ!
その声に忠実に従って、今こうして逃げている。
しかし、こちらの速度は決して遅くないのだが、相手との距離が縮まっているとは思えない。
振りほどこうとしても、蜘蛛の糸が絡み付くように、その追跡を撒く事が出来ない。
わざと、か。
わざとこちらを好きに動かせて、一定の距離を保ち楽しんでいるのか。
狩りを。
恐らく、攻撃しようと思えば相手は攻撃をしてくる事が可能のはずだ。
最初に会った時、手に持っていた『武器』、あれは遠距離にこそ威力を発揮するはずだ。
それなのにあえて攻撃してこない理由。
考えられるのは二つ。
一つは、無駄撃ちが出来ない武器だからという理由。
決定的な好機が巡ってくるまでは、決して撃たないと決めているからか。
あるいは先ほど頭に浮かんだ、狩りだ。
こっちが逃げるのを楽しんで追いかけているのだ。
だが。
上崎は決して逃げるだけしか選択肢が無い臆病な獲物ではない。
今は戦略上逃げているが、相手を殺しうる牙を持っているのだ。
これまでこの戦いを三回も潜り抜けてきた。
その三回の中で何度も死に掛けた。
三回も死地を潜り抜けてきたというのは、自分の中の精神的な物も計り知れないが、それよりも実戦経験で身に付けた戦いの方法論は、例え追い詰められても上崎を窮地から脱する手立てとなる。
三回という回数は、すなわち上崎が殺してきた人数と同数という事になる。
少なくとも三人分の命を背負っているのだ、無様に死ぬ訳には行かない。
それにまだ帰る場所が自分には有る、あの場所に戻る為には相手がどれほど危険な相手だろうと倒さなければならないのだ。
こっちの武器は爆弾だ。
相手がいかに恐ろしい相手だろうと、どれほど高性能の武器を持っていようと、こっちが逃げて相手が追うという状況下においては、自分が圧倒的有利だ。
何しろ自分の武器は『形を変えられる爆弾』だ。
しかも透明にまで出来る、どこかの角を曲がった時にでも、それをこっそり仕掛けて背後から迫ってくる追跡者がそこを通った時に爆発させれば良い。
それでカタが付く。
爆弾の数は今や、五個にまで増えている。
二回目の戦闘以降は武器の数が増える事と、そして身体能力の向上が行われるだけで、他には変更が見られなかった。
相手も同等の条件だと考えれば、自分の考えている策は充分に通用するはずだ。
だが、油断は出来ない。
何しろ、一度敵を爆発させて勝利を確信したら、もう一人の敵が現れた事も有ったのだから、しかもそいつは爆発させた本人と同一人物という今考えても理解に苦しむ状況だった、理不尽だとは思ったが、あれから考え方が少し変わった二人出てくるのなら二人、三人出てくるのならば三人殺す、それだけの事なのだ。
上崎が走っているのは、いつも通勤で使う道路だ。
土地勘はある。
どこをどう向かえば、次に何が有るのか、それはすぐに分かる。
相手もそうだとしても、先行している自分の後を付いて来ている相手よりも有利。
次の角だ。
次の大通りを曲がった所で、爆弾を仕掛ける。
視認不可能な透明な爆弾だ。
まだ相手はこっちを舐めているのか、楽しんでいるのか、攻撃もせず、距離を詰めずに追いかけてきている。
今なら倒せる。
上崎は角を曲がった。
そしてすぐに手元から滑らせるように爆弾を透明にして地面に落とした。
形状はただ透明で、そして薄く広がるようにイメージした、良く目を凝らせば僅かに違和感が有るが、角を曲がった直後にそれに気が付く人間などいない。
上崎はその爆弾から距離を取って、相手が曲がってくるのを待った。
上崎のその爆弾の起爆条件は、あくまで上崎の意思によるものだ。
それに相手が曲がってくる時に、絶妙のタイミングで起爆させるには眼で見ていなければならない。
待った。
しかし、来ない。
おかしい。
何故来ない。
さっきまでの追跡速度ならばもう来てもおかしくない。
しかし、誰も近寄ってこない。
気付かれたというのか。
どうして?
勘だけでは説明が付かない。
その時だった。
刺すような視線を上崎は頭上から感じていた。
まるで大振りの鉈を脳天から恥骨まで叩き込まれたような感触を、上崎は味わっていた。
それほどの恐怖が上崎を襲っていたのだ。
上崎が上を見上げると、そこにはあの男がビルの上から上崎を見下ろしていた。
その顔には冷たい笑みが浮かんでいた。
・
駄目だ……
既にもう致命傷を負わされた。
散々甚振られた挙句、この有様だ。
両足は痙攣が止まらない、右腕は折れて動かず、左腕はもう原形を留めていない。
上崎は完全に追い詰められていた。
相手は強い。
いや、強いとかそういう話ではない。
異質。
これまで上崎が相手をしてきた人間達とは違う種族。
これまでの相手で、人を殺す事に罪悪感を抱かない人間もいた、二回目に戦った青年――浅野薫(上崎は最後まで名前を知らなかったが)は、容赦ない過酷な攻撃をしてきたが、こっちを殺せるのにわざと殺さなかったりはしなかった。
あくまで自分が助かりたいから相手を殺す、それがこれまでの相手に多かれ少なかれ共通する事だった。
だがこの相手は違う。
どこかが壊れているとしか思えない。
それも人間として重要な部分が。
本当ならば、開始から三分、いや一分も有れば自分に致命傷を与える事が出来たはずだ、自分を過小評価するわけでも、また相手を恐怖から過大評価する訳ではない。
ただの事実だ。
武器の性質でも、この相手の身体能力でも無い。
この男の精神に、上崎は屈服していた。
相手は、完全に楽しんでいた。
弱者を甚振るのを楽しむサディスティックな性格というよりも、戦闘を楽しんでいるという風だった。
こっちを追い詰めて、そしてわざと作戦を練る時間を与える、それを繰り返した。
こっちの反撃を待ち望んでいるとしか思えない戦法だった。
上崎の戦い方は違う。
相手が攻撃する前に、相手の持ち味を出される前に攻撃して、戦いを終わらせたいと思っている。
しかし、この相手は相手の引き出しの底までじっくりと嘗め回すように観たいと思っているようだった。
この時、上崎は思い知らされた。
自分は、帰りたい場所があるから、この場所で戦っていた。
嫌々と言えば確かに嫌々やっている。
しかし。
この相手は、この場所こそが帰る場所なのではないか。
この場所の住人なのだ。
心底この場所での戦いを楽しんでいる、楽しむ事を優先して、死をもその枠外に考えている節がある。
そんな相手にどうやって勝てるというのだ。
こっちの意表を突いた攻撃を、まるで新しい玩具を与えられた子供のような表情で迎えられたら、逆にこちらの気概が殺がれる。
もう疲れた……
ありとあらゆる策を考えた。
最後の最後は、自爆覚悟の戦法で望んだのだが、それすらも相手に見破られ、今こうして無様にも地に横たわっているのだ。
爆弾はもう尽きている。
勝ち目などはもう無い。
いや、そもそもこの相手に勝ち目など自分は無かったのだ。
光が薄くなっていく。
自分には帰るべき場所が有る。
有るのに……
実は、こういう時の為に、きちんと生命保険に加入してある。
受取人の名義は当然、妻だ。
この戦いが続く限り、死の危険はずっと付き纏う、自分が死んだ後あの妻ならば一人でもやっていけるだろう。
だから、その妻の人生の足しになれば良いと思って加入したのだ。
その金で第二の人生を歩んで欲しいと思う。
すぐにはさすがに嫌だが、何年かしたら、新しいパートナーを見つけて、幸せに暮らして欲しいとも思う。
もう会えないのか。
葬式で、君は泣いてくれるだろうか。
私の事を、これからの人生でたまには思い出してくれるのだろうか。
ああ――
これまで三人も殺しておきながら、死ぬのがこんなに怖いなんて。
怖いよ。
この歳になるまで、怖い事はたくさん有った。
子供の頃は幽霊が怖かった、怖くて怖くて、トイレに入っている時は扉を開けっ放しにしていたっけ、それで親に怒られたもんだ。
学生時代はどうだったか、クラスの不良が怖かったか、それとも失恋が怖かったか、テストで悪い点を取るのが怖かったか。
大人になったら、怖いものの質が変わる。
物理的なもので言えば、肉体的な病気などが怖い。
人の噂話も怖いし、自分の仕事の事も色々な不安や恐怖が付き纏う。
でも今と比べたら、そんな怖さは屁みたいなもんだ。
ああ――
こんなに怖いなんて知らなかった。
君にもう会えなくなるのがこんなに怖いなんて――
怖いなんて……
喪失こそ最大の恐怖なんだ――
失いたくない……
上崎の胸に、熱い昂りがこみ上げていた。
それは、潤いが無いと自称していた男の胸に湧き起こった一滴の感情の湧き水。
それが、今、上崎の目から流れ落ちようとしていた。
上崎の頬を一滴の雫が流れると同時に、上崎の胸に容赦無く最後の一撃が撃ち込まれていた。
その一撃により、上崎正は42年間のその潤いが無く、華も無く、しかし最後の最後で何かに指先だけは触れる事ができた生涯の幕を下ろしたのだった。
上崎に一撃を放った男は、軽いため息を吐き。
次の瞬間には、元の世界に戻ったので、そのまま何事も無かったかのように通常の通勤を続けた。
彼にとっての日常が終わり、そして非日常がこれから始まるのだ。
それを考えると、彼は苦痛で苦痛で仕方なかった。
しかし、その表情からは何も窺えない。
さっきまで戦いの最中に時折浮かべていた喜悦の表情は、今や微塵も感じさせない。
どのような感情も浮かばない、ただ能面のような表情がそこに有った。
たった今、一人の男の命を奪った直後だというのに、その顔には何の変化も無い。
ただ淡々と仕事を続けている。
男の名前は白鳥雅彦と言った。