幸福な日常
動かない人間の傍らで、ただその死を待つ。
それは、身内が重病人であったり、大怪我を負えば充分に有り得る風景かもしれない。
その場合は、待つほうは奇跡的に回復する可能性を望んでいる。
だが、この場合は違う。
上崎正は、明らかに倒れている浅野薫の死を願って待っているのである。
上崎正は、倒れ両足を失っている浅野薫から、約20mほどの間合いを保ち、その様子を窺っていた。
時折、何か手近に転がっている石等を投げつけたりして浅野の状態を確かめている。
上崎がそこに座り込んでから、もう30分は経つ。
何かをしている動きは感じるのだが、浅野はそちらに視線を向けずにただひたすらに動かない。
「昔……」
上崎は、浅野に聞かせようとしているのか、それとも独り言なのか、言葉を発していた。
「鶏を飼っていてね、飼うと言ってもペットとしてではない、私らの子供時代はそういう時代じゃなかった、鶏はあくまで卵を産む物、産めなくなったら食べる物、そう決まっていた」
浅野は死んだように動かず、一切返事をしない。
だが上崎は言葉を続ける。
「子供だった私は、その事をまだよく理解していなくてね、親には禁止されていたのだが鶏の一匹を気に入って名前をつけていたんだ、そりゃあ可愛がったものだよ、でもその鶏はついに卵を産めなくなってね、絞める時が来たんだ、子供だった私に親はやらせたんだ、私は泣きじゃくってそれを拒否したが、ぶん殴られたよ、したくないなら出て行けと、今なら児童虐待で親が捕まってもおかしくないほどだったな……」
やはり浅野は何の反応もしない。
「泣きながら私はその鶏を絞めた、それで喰ったよ、その時は味なんて分からなかった、ただそう言う物なんだと子供心に納得したものだ。何故かな、今不意にそれを思い出したよ、でもあの時よりも遥かに罪悪感は感じない物だな、さっきまで私を殺そうとしていた人間が相手だからかな、でも優越感よりも、むしろ虚無感を感じるな……」
浅野は沈黙を続ける。
上崎は、また石を倒れている浅野に投げた。
傷口である骨すらも見えている足を狙って投げているのだが、それが当っても反応が無い。
反応出来ないほど弱っているのか。
あるいは――
この世界は、相手を殺さなければならない、だから上崎が自分の手で相手に一撃を叩き込むまでは終わらない、そう言う物なのかもしれない。
さて、どうするか。
上崎は考えていた。
・
浅野はもう意識を失い、ただ死を待つだけの存在に成り下がったのか。
最後の最後の牙ももう抜け落ちてしまったのか。
否である。
浅野は、僅か、ほんの僅かだが余力を残していた。
まだ1時間だろうと2時間だろうと待つ。
そういう覚悟を決めていた。
激痛は意識すれば和らげられる、それも薬の効果なのか分からないが、今は痛みすらもほとんど感じない。
ただ、近寄ってくるのを待っている。
そうすれば……
一瞬で上崎の体を掴み、一気に引き倒して、そして首の骨をへし折ってやる、それが出来るはずだ。
時折投げてくる石はウザかったが、もうほとんど気にならない。
あのおっさんが話をしているのは、退屈だからだ。
そうに違いない。
忍耐力には自信があるとかホザいていた割にはだらしが無い、寂しくて独り言のようにこっちに声を掛けているのだ。
ああなれば近寄ってくるのは時間の問題だろう。
もうすぐだ……
もうすぐ、あのおっさんは動く、そして近寄ってくる。
思わず呼吸音が激しくなりそうだが、それを必死で抑えた、心臓の音すらも今は抑えられるだけ抑えている。
自分の肉体の発する音、それら全てを消してしまいたかった。
立ち上がる音が聞こえた。
どきりと、浅野の心音が跳ね上がった。
だが、それは誰にも聞き取れないはずだ。
よし。
近寄って来い。
一歩……、二歩……
動く音が聞こえる。
そして声。
「君が死んだフリをしているかどうかは知らないし、確かめる術も無い、だけどね……」
?
浅野は、その言葉に内心動揺した。
いや、待て、この言葉もあのおっさんの策だ。
こちらが動くのを待っているのだ。
「さっきから君に投げていたのは、ただの石だけじゃない、爆弾を変化させた防護服の切れ端も投げていたんだ。忘れたのか? 私の爆弾は尽きた訳じゃないんだからね……」
その言葉に浅野はハッとした。
間抜けか。
俺はとんでもない間抜けだった。
痛みに気を囚われすぎて、重要な事を見逃していた。
相手が近寄ってくるのを待つ、その考え自体が大外れだったのだ。
相手がまだ爆弾を持っているという事を何故忘れていたのか。
どうしようもない阿呆にしか思えなかった。
「色々、試す時間が取れて良かった、それじゃあ、さようならだ」
浅野は飛び起きて、「待て!」と叫びたかったが、体が動かなかった。
どうやら、最後の力を残していたつもりだったのだが、それは浅野の思い過ごしだったようだ。
薬の効果も薄れてきたのか、それとも完全に消えたのか、体は微動だにしなかった。
今まで痛みを感じなかったのも、薬のせいなんかじゃなく、痛みを感じられないほど弱っていたと言う事だったのか――
(ああ――、これで終わりかよ……、ちくしょう)
爆発が浅野の全てを、跡形も無く消し去っていた。
「まさか、三人目が現れたりしないだろうな……」
上崎がそう呟いた瞬間、浅野の肉体は砕け散ってそれが上崎に吸い込まれるように動くと、気が付いたら、浅野は一瞬で元の場所に戻っていた。
駅の改札を出てすぐの、時計台の下。
雑多な音が戻っている。
痛みは無い。
日常が動き出していた。
・
「はっ!?」
現実に引き戻された時。
上崎は安堵のタメ息を吐いた。
それと同時に、歯の根が震えるほどの恐怖を感じていた。
怖かったのだ。
あくまで虚勢を張り、怖い物無しのような、冷徹な人間を演じてみたが、やはり無理がある。
途中何度も逃げ出したかった。
あの若者の、人の死を何とも思わない性格に正直言うと怯えていたのだ。
だが、今回は色々と収穫が有った、死の危険性は高かったがそれに見合う分得る物が大きかった。
戦闘の経験値だけでなく、自分の武器の特性の変化を色々と試せたのは良かった。
最後の最後で、時間をかけて待っていたのは、ただ相手を甚振る為ではなく、色々と試していたのだ。
まず、防護服を他の形に変えようとしたが駄目だった、一度固定するとそこから変えるのは不可能のようだ。
だが、それを千切る事により、先ほどのように細かい爆弾に変えることが可能だ、つまり最初は大きい物を連想して形を作り、それを切り分けて数多くの爆弾にする事が可能と言う事だ、この収穫は大きい。
他にも、肉体がどれほど強化されたのか。
あるいは変化させた物体はどれほどの強度を保つのか、それを試していたのだ。
今後の為にだ。
生き残る為に。
その時、上着のポケットが振動した。
思わず飛び上がりそうになった。
さっきまで命がけの死闘を演じていた男とは思えないほどだった。
「あなた? 今どこにいるの? 私はもう改札に着いたけど」
妻の声だった。
妻のその声を聞いただけで、思わず鼻の奥がじぃんとなった、そして目頭が熱くなった。涙を堪える作業をしなければ、溢れるほどの涙を流していただろう。
これほどホッとするのだ。
この場所に戻れた、ただそれだけで。
これほどまでに嬉しいとは。
この声を聞く為に戻ってきたのだ、そういう実感が上崎を震わせていた。
帰る場所がある、それだけであの戦いを乗り越えられた、もしも自分が独り身であったならば、あの若者に殺されていただろう。
現に、何度も殺されそうになった。
最初の一撃を顎に喰らった時、意識を保っていられたのも。
突然現れた『二人目』に、宙に放られてその後に蹴り飛ばされた時、諦めてしまわなかったのも。
最後の賭けに出る勇気が出たのも。
全てがここに戻る為、妻に会う為だった。
そうでなければ途中何度か生きることを諦めていたかもしれない。
「ちょっと、聞いているの?」
「あ……、ああ、時計台の下にいるよ、改札に着いているなら見えるはずだよ」
上崎はそう言いながら、その言葉の途中でその眼は妻を見つけていた。
声を聞いただけであれほど嬉しかったのだが、妻の姿を見ると、自分はこれほど愛妻家だったのかと思えるほどに震えるほど嬉しかった。
立ち上がろうとした足が、ちゃんと動かないほどの喜びだった。
妻は手を振っている。
上崎は近付いていった。
「待たせてゴメンね」
「ああ、もう何時間も待った気分だよ」
上崎は笑いながら言った、昔の自分だったら全然待っていないと言っていたかもしれない、だが今は違う。
それに実際に10分程度の遅刻ではあるが、あっちの世界では1時間近く闘っていたのだ。
「もう! 何時間もだなんて!」
その上崎に妻は笑いながら答えた。
こういう他愛ない冗談も、今までは夫婦の間で発生しなかったのだ。
それが嬉しかった。
その時、妻の背の向こう側、つまり改札の向こう側でなにやら人だかりが出来ているのを見ていた。
「何か有ったのかしらね」
妻もその方向を見ながら心配そうに言った。
「さあ、何だろうね」
その理由を、上崎は分かっていた。
だが、それを一切表情に見せなかった。
まさか、自分が殺したあの若者が急に倒れたりしたから、騒ぎになっているのだろう、とは言っても信じてもらえないし言うつもりも無かった。
わざわざそれを見に行こうとも思わない。
上崎は話を逸らした。
「それよりも早く行こう、店を予約しているんだ」
「あら、用意が良いのね、付き合い始めの頃を思い出すわ」
妻も、そちらの騒ぎの事は頭から消えたらしく、会話に乗ってきた。
「酷いなぁ、まるで付き合い始め以外は、予約もしない行き当たりばったりばかりだったみたいじゃないか」
「そうよぉ」
当たり前の会話。
日常の風景。
これがこれほどまでに輝いて見える。
まるで宝石のようだった。
これを得る為に人を殺してきた。
これからもこういう闘いが有るかもしれない、いやきっと有るだろう、一度有り、そして二度目も有れば次が無いと思う方がどうかしている。
「それで何料理屋さん?」
「美味しい中華料理屋さんだよ……」
この日常を護る為ならば、何度でも闘い。
そして何度でも、生き残ってやる。
内に秘めた闘志を燃やしながら、上崎正はそのありふれた日常を謳歌していた。
幸福な日常だった。
バトル2終了です。
途中何度も話を変更しながらでしたので、どこか違和感が有ったらお教え下さい。
次はまた1週間かそこら間が空くと思いますが、お付き合いのほどよろしくお願い致します。