根っこの傷
軽かった。
体が、今までに感じた事の無いくらいに軽い。
どれぐらい分からないが意識を失い、そして意識が戻った時、浅野薫が感じた感触はそれだった。
実際には、意識を失ったのは、刹那ほどである。
浅野の体はまだ空中を舞っており、地面に向かい、ようやく体が落下を始めている状況だった。
突然、浅野は思い出していた。
自分がどうして努力を嫌悪するようになったのかを。
昔の事だ。
どうして今思い出すのか分からない、今まで抑え込んでいた心の蓋が、今の爆発と一緒に吹っ飛んでしまったようだった。
小学生だった浅野は、当時学校でも優等生で通っていた。
優等生と言っても学年トップの成績だった訳ではなく、真面目に物事に取り組む姿勢が強いからそういう印象を周囲に与えていたので、優等生と思われていた。
学校が楽しかった。
今の浅野を知っている人間が見れば、信じられないという感想を言うほど、その頃の浅野は素直で、そして努力を惜しまなかった。
担任の先生が、浅野を良く褒めてくれて、それに対して浅野も自分の出来る限りを見てもらってもっと褒めてもらおうと努力していたのだ。
その担任の男性教諭は、まだ若く、一人っ子の浅野にとっては歳の離れた兄のように慕っていた。
そんな中、事件が起こった。
それは、夏休みの課題のことだった。
夏休みの宿題で出された自由研究で、浅野は一つの作品をコツコツと作り上げた。
それは小学生が作った物とは思えないほど精巧な戦艦だった。
何故、戦艦を選んだのかまでは思い出せないが、何か大きな物を作りたいと考えて、真っ先に浮かんだのがそれだったのだろう。
手先が器用だった浅野は、小学4年生でそれを大人の手を一切借りずに見事に身近な物を使って作ったのだ。
もちろん他の宿題も全部ちゃんとやった、その合間、友達と一日中遊んでも、家に帰っては必ずその戦艦の製作に時間を割いていた、時には見たいテレビを我慢して、その作業に没頭している時も有った。
細かな部分にまで気を配り、材料費こそ大した事が無いが、彩やらに気を配り、図書館に通って本に載っている戦艦を見て参考にしたりした。
達成感を味わうというよりも、気に入っていた先生に褒めて欲しかったのだ、ただそれだけだったのだ。
事件は夏休み明けの2日目に起こった。
1日目は始業式で、大した事はせずに、校長の話とかそういう物を聞くだけで、ちゃんとした授業などは行われない。
2日目に夏休みの課題などを提出する為に、それらを持って登校するのだ。
かなり大掛かりに作ったので、細心の注意を払って浅野はその戦艦を持って学校に向かった、その時はそんな苦労よりも何よりも、ただ純粋に人に見せたかった、人というよりも担任の先生に見せて驚く顔を見たかったのだ。
学校に持って行けば、もちろんクラスメイトの視線もそれに集まる。
浅野は正直に言えば、他の生徒が自分が作った物に触れられるのは嫌だったのだが、注目が集まるのは嫌じゃなかった。
まだ先生がクラスに現れる前の時間帯は、他の生徒はほとんどが浅野の戦艦の出来の凄さに近寄って見に来ていたのだ。
まぁ、悪い気分じゃなかった。
だから、色々な生徒がその戦艦を手で持っていても、浅野少年は特に何も言わずに、満足そうにそれを見ていた。
その時だった。
クラスでもふざけることが多い奴が、浅野の戦艦を持ち上げた時に落としてしまった。
それはわざとかもしれないし、たまたまかもしれない、本人にしか分からない事だ。
だが、その戦艦が壊れたという事実は揺るがなかった。
肉親が交通事故に有った瞬間を見たような表情を浅野は浮かべていた。
その破壊音は、今まで聞いたどんな音よりも残酷な音色だった。
小学生である浅野が作ったその戦艦は材料が決して高価な物ではない、つまり脆い、呆気ないほど、そして見事なほどに、戦艦が真っ二つに割れていた。
浅野は呆然として、そいつの顔を見た。
当然、困惑か謝罪の表情を浮かべていると思って見たそいつの顔には、予想外の表情がこびり付いていた。
落としたそいつは、浅野に謝るどころか何と薄笑いを浮かべていたのだった。
人の神経を逆撫でする笑みだった。
それは、わざと落としたから浮かべた笑みなのか、それともこんな失敗に多少は責任を感じてはいるのだが、それを誤魔化そうとした笑みだったのか、未だに分からない。
浅野にとってはどっちでも良かった。
ただ、そいつのその表情を見た瞬間に、浅野の視界は一瞬、怒りのあまり真っ白になったのは確かだった。
気が付いた時には、そいつの上に馬乗りになって顔面を殴りつけていたのだ。
何度も。
そこまでは良かった、いや冷静に考えたら良くは無いのだが、浅野の心にはまだ怒りしかなかった。
慌てて教室に駆けつけた先生は浅野をその生徒から引き離した。
浅野は涙ながらに先生に訴えた。
この先生ならば、自分の怒りを理解してくれる、浅野少年はそう思っていた。
だが。
先生の口から出た言葉は、浅野の予想を裏切った。
「浅野君! どういう理由が有ろうと、それが人を殴って良いと言う事にはならないんだ!」
そう言って、浅野を強く叱咤した。
それは正論だった。
だが、正論は時に人を傷つける、また救いが無いほど追い詰める時もある。
その先生は指導法を完全に間違えていた、少なくとも浅野に対してもう少し理解の意を伝えるべきだった、だが暴力はいけないという一般常識をぶつけるだけでは、浅野は救われない。
時と場合に寄るかもしれないが、結果的に見れば、浅野をもっとフォローしてあげるべきだったのだ。
もっとも途中から参加した先生には、その生徒がふざけてやったのかどうなのか判断する事は難しく、そして何より浅野の拳でその生徒は鼻血をダラダラと流し泣きわめいているのだから、浅野を責めるような口調になったのも仕方ないと言えば仕方ない。
だが、当の浅野本人は混乱した。
自分が一生懸命作った物を、他人があっさり壊して、それで殴ったら自分が怒られた。
意味が分からない。
自分がそれに費やした時間はまるで報われない。
どうすれば良いんだ。
ただ、認められたかった。
いや違う、先生に褒められたかっただけなんだ。
それなのに――
浅野の心に、熱い怒り以外の、冷たい感情が湧き起こり、そしてそれは浅野の心を満たしていた。
思えば、その時からだった。
浅野薫が、ほとんど努力らしい努力をしなくなったのは。
何をしても、他人があっさりと壊す、そしてそれに報いる物なんてこの世のどこにも無い。
それが浅野の心の奥深くに刻まれた深い傷だった。
もちろんそれだけが原因ではないが、浅野の今の精神状態を作り出した根っこはその事件がきっかけであるのは間違いが無い。
浅野はその事を今の今までまるで思い出そうとしなかった。
本当は、永遠に忘れたかったのかもしれない。
・
待て。
そんな昔話を思い出している場合じゃないぞ。
俺は今どういう状況なんだ。
思い出せ。
ナイフで確かにあのおっさんの胸を突いたはずだ。
それなのに、どうなった?
思い出せない。
体が妙に軽いのは何故だ。
地に足が着いていない。
比喩表現じゃない、実際に今までと景色がまるで違うぞ。
そして自分に向かって何かが突っ込んで来る。
なんだアレは。
いや、アレは突っ込んできているんじゃない。
自分がアレに突っ込もうとしているんじゃないか。
アレとはつまり――地面じゃないのか。
ヤバイ!
そう思った瞬間に、浅野の右腕は動いていた。
吹っ飛ばされて、地面に到着するほんの一瞬前の反応、奇跡的な反応だった。
そのまま頭から突っ込んでいたら、いくら超人的な身体能力を得ている状態の浅野だろうと絶命は免れないだろう。
だが、右腕で正確に着地した訳ではなく、まるで急に何かが自分に向かって飛んで来て、それを闇雲に払い除けるように、ただ右腕を前に突き出しただけなのだ、落下の衝撃が全てその右腕にかかり、そしてそれは当然支えきれずに、嫌な音を立てた。
ぐぎり。
脳天まで届く音だった。
それと同時に思いっきり体を地面に打ち付けていた。
浅野の体が軽く一回バウンドした。
いくら超人的な耐久性を身に付けていても、さすがに呼吸が止まった。
呼吸を一回吸い込むのに、熱い湯に体を付ける時のように慎重に行った。
景色がぼやける。
吐き気がする。
呼吸が苦しい。
痛い。
とんでもなく痛い。
浅野は、冷静にあの瞬間何が起こったのか考えたが、今の頭ではとても想像が付かない。
分かるのは地面が爆発したと言う事だけだ。
あのおっさん――上崎正に突っかかった瞬間に、真下から爆発を受けたのは確かだろう。
しかし。
そうならば相打ちだ。
向こうの方が自分で仕掛けている分、精神的な面では優位かもしれないが、肉体的には向こうの方が重傷なのは間違いない。
自分の超人的な身体能力だからこそ、この傷で済んでいるのだ。
この傷?
俺は一体どれほど傷を負っているのだろうか。
右腕がもう動かないのは分かる。
足は?
足――
感覚がまるで無い。
足の先にチリチリとした痛みが凡庸と有るのが分かるが、まるで反応が無い。
それほどのダメージを負っているのだ、まだ体を起こせないが、眼で見てみないとどれほど傷が深いのか分からない。
今の自分ですらそれなのだから、あのおっさんの体では致命傷は間違いないはずだ。
分が悪い、いや悪すぎる賭けだ。
それをあのおっさんがするだろうか?
最初のナイフの罠から始まり。
こっちが優勢に立っていたにもかかわらず、それを逆転させるように仕向けたあの会話などを考えると、どうにもこの賭けが腑に落ちない。
会って、まだ数時間も経っていないのに、あのおっさんがするにしては、どこか杜撰な策のように思える。
どこかでくたばっていてもおかしくないはずだ。
だが、まだ元の状況に戻っていないと言う事は、あのおっさんはまだ生きているという事なのか?
その時だった。
浅野の耳に、誰かが近づいて来る音が届いたのは。
この空間で自分に近づいて来る人間、それはたった一人しかいないはずだ。
浅野はどうにか顔と視線だけその方向に向けた。
予想通りの男がそこに立っていた。
だが、どうして立っていられるというのか。
信じれなかった。
その男――上崎正は、両の足で地面を踏みしめ立っている。
胸には浅野が突き刺したナイフが、まだそこに刺さったままだが、そこから血が流れ出ておらず、それに刃も半分くらいしか刺さっていないように見える。
ズボンが破れて、ボロボロになっていて、もう元の形状すらも分からない、ただのボロ切れが下半身に張り付いているだけの状況だ。
その下に下着が本来覗くはずなのだが別の物が今、浅野の目には映っている、奇妙な物体だ。
その半透明な奇妙な物を透かして、傷が見える。しかし多少は傷を負っているようだが軽症だろう。実際に歩いて来たのだから、重傷ではないはずだ。
浅野はその目を凝らして、じっくり観察して自分なりの答えを出した。
――そうか。
あの時、ナイフで刺した時の奇妙な手応え。
そして内心では不思議に思っていた、あれほどの蹴りを喰らってまだ生きていられるその耐久性。
缶の連続攻撃にもダメージは有るが、致命的な物を与えられなかった理由。
それがあれか。
あれで、爆弾の威力も防いだというのか。
浅野は驚嘆していた。
あのおっさんは自分の好きなように爆弾の形を変える武器を持っていた、今、それだけは明確に分かる。
そしておっさんは作ったのだ、アレを。
そして着ていた。
推測では有るが、確信を込めて言える。
アレとは、つまり防護服だ。
上半身の胸の辺りから下半身の足の裏まで、その透明なビニールで作ったような防護服に見える物で体を覆っているのだ。
形を変えた『爆弾』で、自分の身を護る防護服を作ったのだ。
浅野には信じれない考えだった。
言葉が出なかった。