7 真実の行方
少年の部屋は暗く、静かだ。その日、夜眠りにつくとき、ベッドの中で少年は耳を澄ませた。時の終着点に迷い込んでしまったのかと疑うくらい、部屋は深い静寂の淵にあった。天井や壁までの距離感が掴めない。それらは手の届く程近くにあるようにも思えるし、声の届かぬ程遠くにあるようにも思える。いずれにせよ、カーテンの閉められた窓の外では、今もまだ天から白い粒がしずしずと降ってきているはずだ。沈黙を捧げる街の祈りに応えるみたいにして。
正雄と付き合っていたのが母であったとして、母は指輪騒動の時シバウチヨウコの怪しい左手に気付いていただろうか。右手は開いていたにも関わらず、指輪を握り、頑なに開こうしなかった妖しい左手に。その時シバウチヨウコは、自分の異様な不自然さにさすがに観念していた。正雄がそれに気付いていたのなら、シバウチヨウコを一番疑っていた母がその怪しい左手に気付かないはずは無かっただろう。おそらく、母は気付いていた。
だが、母はシバウチヨウコをそれ以上問い詰めなかった。それは、正雄の気持ちを確かめたかった母が、『指輪なら、また買えばいい』と正雄に言われた瞬間に全ての目的を果たしてしまったからだ。その時にはもはやシバウチヨウコが指輪を持っていようがいなかろうが、母にとってはどうでも良かったはずだ。つまりは母もまた、シバウチヨウコの沈黙の悪魔を看過したという事になる。
それならば、もし母が自分を妊娠していなかったのなら、母はシバウチヨウコを沈黙の悪魔の手から救い出せたのだろうか。もし自分がこの世に存在していなければ、シバウチヨウコは死なずに済んだのだろうか。
いや、と少年は思い直す。自分とシバウチヨウコの関係性はあまりにも間接的だ。そもそも、シバウチヨウコと自分は会った事も無いのだし、今日まで自分はシバウチヨウコの存在すら知らなかったのだ。自分はシバウチヨウコを追い込んではいないし、自分にはシバウチヨウコを救う機会も無かった。もうこれ以上、ここで何かを想像する事に意味は無い。
少年は目を瞑る。深く、目を瞑る。静寂の中、毛布の温もりで自分の全てを包みこもうとする。隠すように、逃げるように、やがて眠りにつくまで。
『全ての真実が、白日の下に曝される事はあるのか?』そう言ったシバウチヨウコは、全ての始まりである指輪騒動の真相を知らずに死んだ。マルジュで指輪を盗んだ事は、その場の誰にも気付かれなかったと思いながら、彼女は死んだ。しかし実際は、その場の全員が、それぞれの形で彼女の罪に気付いていた。そして彼女の罪を、本人を含め誰もが皆沈黙していた。
しかしその指輪の真相の全容を知る者は、結局誰一人としていなかった。客のために甲斐甲斐しく動き回る店長も、ゴミ箱に手を突っ込むマリちゃんも、的外れな葛藤で焦るシバウチヨウコも、自分の彼女と別れるために指輪が出てこないよう祈る正雄も、秘密を腹に抱え彼氏の気持ちを試すヤツナミユキも、その時、誰も真実など知らずに必死になっていた。たった一つの小さな指輪の真実を知らずに。そして、唯一それを知っているだろう指輪は、何かを語る事は無かった。沈黙の指輪は、ただ静かに光を湛えていただけだ。
その夜、降りしきる雪は、街の全てを等しく白で埋め尽くした。その白の下にどのような真実があったとしても、見た目には何もわからない。マルジュの跡地に埋められた銀色の指輪も例外では無い。少年が生まれ、大きな災難も無く、やがてローンを組みながらも、少年の家族がこの街の更地に建てた念願のマイホーム、その地下に埋まっている赤黒いスーツケースも例外では無い。
スーツケースを掘り出しに来たシバウチヨウコ。あの時、彼女を不思議そうに見つめていた子どもが自分だったなど、少年は気付かぬまま、スーツケースの上で静かに眠る。
明日からまた、この街を人々は忙しなく行き交う。真実の行方など知らぬ人々。彼らは路地裏のゴミ箱や梯子には、もちろん目もくれない。
―終―




