よくある悪役令嬢への異世界憑依だと思ったのに
『私ではなかった私の数年間』というR18指定作品のスピンオフです。
この作品単体でもお読みいただけるようになっています。
ハッ、と目が覚めた。
本当に、ただ、ぐっすりと眠っていたのに急に覚醒した、そんな感じだった。
実際、ベッドに寝ていて…でも目を開けて視界に入ってきたのは、見知らぬ場所だった。
ここがどこなのか…さっぱりわからない。
近くに窓が見えるけれど、外は暗くて夜らしいと分かる程度だ。
「……、…………か?」
誰かに何か話しかけられて、意識がそちらに向いてみると、ベッドの三方がカーテンで仕切られていて、カーテンの向こうに人がいたようだ。
私がわずかに身じろぎした、その気配に気付いて話しかけてきたようで、カーテンをあけて数人が私の様子をうかがってきた。
ぼんやりとその人たちを見て…話しかけられていることも聞こえてはいるけれど、耳を通り抜けていって、意味をなさない。
頭にかすみがかかったようで、ぼんやりとしてしまう。
知らないおじさんにコップに入った水を手渡されたので、何も考えずに飲んだ。
こくん、と水が喉を通って、急に頭のかすみが晴れていくのを感じた。
目の前にいる数人のうちの一人は…ジェレミー王子じゃない?!
目の焦点も定まって、ようやく認識できた数人のうちの一人は…なんと私の愛してやまない乙女ゲームのメイン攻略対象、ジェレミー王子にしか見えない。
普段ゲームの画面で二次元でしか見ていなかった相手だけど、少し癖のある髪を後ろで束ねていて、右の頬にほくろがあるのは、描かれていた通りだし、とにかくこの人はジェレミー王子だ、としか思えない。
そう気が付いてみると、周囲の話し声も、言葉として聞き取れるようになってきた。
「エイデン侯爵令嬢、御気分はいかがですか?痛いところなどはありますか?お手を失礼いたします」
知らないおじさんが私の手をとって、脈を診ている。
別のおじさんが、私の目を覗き込んできて、ぎょっとする。
エイデン侯爵令嬢って……?私のこと?
私は、エミ、渡部恵美だけど…?
ツキン、と頭に痛みがはしって、目を閉じた。
すごい勢いで私の知らないことが頭に流れ込んでくる。
周囲の人たちが大慌てで私をベッドに寝かしつけ、濡らしたタオルで私の冷や汗を拭ってくれている。
私にとってはかなり長く感じたけれど、実際には数分の間に…私は、私のことを理解した。
私、大好きだった乙女ゲームの悪役令嬢、アドレイド・エイデン侯爵令嬢の中に入っちゃってる!
アドレイドは、ゲームでのメインの攻略対象であるジェレミー王子の婚約者。
乙女ゲームで攻略対象者の婚約者というのは、悪役と決まっている。
そう、私はラノベやマンガでよく目にする、悪役令嬢への転生もしくは憑依をしてしまったのだ!
ゲームは、主人公、すなわちヒロインであるダリア・ドネリー子爵令嬢が類まれな光属性の魔力を持っていることが分かって、学院に特待生として入学するところから始まる。
あまりに稀な属性をもつダリアは、ただでさえ魔力持ちが少ないこの世界では浮いた存在で、同じく魔力持ちであるジェレミー王子と意気投合し、やがてそれが恋愛へと発展していく。
それを面白く思わないアドレイドが二人の仲を裂こうとして、色々な悪事に手を染めてしまい、最悪の場合は斬首となってしまう。
ざっくりいえば、そんな内容だ。
ダリアがジェレミー王子を選ばず、他の攻略対象のルートに進んでくれれば、アドレイドはダリアと絡むことは無い。
というか…私はこのゲームのジェレミー王子が好きすぎて、最推し過ぎて、他の攻略対象も全員一周はしたけれど、ジェレミー王子とダリアの恋愛を何度も周回した。
だから、ノーマルエンドもバッドエンドもハッピーエンドも全部やった。
あれ…?
でも私、ダリアじゃないから…ゲームの知識を活かして王子とラブラブいちゃいちゃすることはできないってことじゃない?
え?!嘘!
ゲームでのアドレイドは、家柄などのバランスで幼いころに王子の婚約者として決まっただけなので、王子の方はアドレイドと距離を置いているけれど、アドレイドの方は王子に片思いをしている。
光属性を持つというだけでも王族に嫁す資格があるヒロインのダリアは、王子と恋仲になって、誰にも文句をつけられることもなく王子妃になるのだけど、その過程でアドレイドが激しい嫉妬を見せる。
その嫉妬する姿に王子もドン引きするし、嫉妬の余りにあれこれ酷いことを画策してくるので、斬首や国外追放や修道院送りになるのもやむを得ない、となるのだ。
ん????ええと、じゃあ、私はどうしたらいいの?
「エイデン侯爵令嬢、この薬をお飲みください」
「エイデン侯爵令嬢、ここは痛みますか?」
「エイデン侯爵令嬢、今日の日付が分かりますか?」
「エイデン侯爵令嬢、いくつかの質問にお答えください」
ああ、もう、うるさいなぁ…………質問攻めで、考えごともできない!
いつの間にかジェレミー王子はいなくなっていた。
おじさんたちと若い女の人数人だけが部屋に残っていて、私が答えたことをひたすら書き留めていたり、どうしてか痛む手首に湿布をはって包帯を巻いてくれていたり。
まあ、王子の婚約者になるくらいだから身分は高いよね、今の私は。
さっきこの体に残っていた記憶が一気に流れ込んできたので、今は、自分が渡部恵美でもありアドレイドでもある、という認識になっている。
渡部恵美である私もジェレミー王子が最推しで大好きだったけれど、ゲームでの設定どおりにアドレイドも相当王子のことが好きだったようだ。
同担ですな…。
そんなことが考えられるほどの時間をもらえた頃には、私は記憶喪失になったという判定が下っていた。
アドレイドの記憶にも無かったけど、私はどうやら何かあって、少々の怪我もしたし、それがきっかけで記憶喪失になったということらしい。
渡部恵美の自我がほとんどになって、アドレイドの記憶がうっすらという状態だから、記憶喪失と言われたとしても、違いますとは言えないよね…。
ゲーム開始はダリアが学院に入学してくるところからで、このゲームでは、新年度は秋に始まる。
そして、自分の着ている制服に三学年であることを表すバッチが付いていて、アドレイドはダリアの二学年上の先輩という設定だったから、まさに今がゲームの舞台となっている時間軸らしい。
今は冬らしいので、既にゲームは始まっていて、しかも開始から数か月経ってしまっているようだ。
今、ゲームはどの程度まで進んでいるのか確かめたかったけれど…私はいいとこのお嬢さんが怪我もしたし記憶喪失にもなったということで、全寮制の学院の生徒なのに、家に帰されることになってしまった。
どうやらあと数日で、年末年始の長期休暇になるところでもあったから、らしい。
この世界で恵美の記憶はゲームのこと以外ほとんど役に立たない。
うっすら受け継いだアドレイドの記憶のお陰で、言葉を話したり文字を読んだりすることはできるし、親しい人たちのことも、誰なのか見ればわかる。
家に帰されて、記憶喪失の娘をどう扱っていいか分かりかねている両親や使用人たちのお陰で、私は考え事をする時間をたっぷりとることができた。
この世界で、私がヒロイン…ダリアではないのなら、ダリアが他の攻略対象にいってくれれば、私は普通に王子と結婚することができるはず。
なんなら、私の頑張り具合によっては、ダリアの代わりに王子と恋愛だってできるかもしれない。
そうだ、私がするべきことは、ダリアがジェレミー王子ルートに入るのを断固阻止すること!
私はアドレイドが魔力持ちであることをゲームの設定集で知っていたので、魔力でロックがかかる日記帳をおねだりした。
以前の私は両親に何かおねだりをしたことなどなかったようで、家族での食事のときにその話を切り出してみたら、え??という反応のあとで、でもすぐに快諾してくれ、さすがお金持ち、数時間後には私の手元に届いた。
そして、この世界の文字を読めるというのに、書くことには不慣れで苦労しながら…私はゲームで覚えていることを片っ端から書き留めていった。
今日までのところは恵美の記憶が鮮明でも、明日にでもぼんやりしてしまうかもしれない。
この世界にいることを初めて意識した時のあのぼんやりとした感じ、ああなってしまう可能性はあると思うのだ。
それに、今は恵美の自我だけど、アドレイドの自我は一体どこにいってしまったのか…。
アドレイドが実は事故で死んでいたとか?
私がこの世界で気が付いたとき、絶対何かがあったはずなのに、皆が濁して教えてくれない。
ある日突然この体に私が入り込んだ時のように、この体の自我がアドレイドに戻って、悪役令嬢ムーブをかまして斬首になってしまうかもしれない。
いやいや…同担として、アドレイドには死んでほしくない。
だから、ダリアには、是非とも他の攻略対象にいってもらいたい。
私的には、ダリアには同じ学院に通っている宰相子息か騎士団長子息を勧めたい。
それ以外の攻略対象として、別の学校に入学した幼なじみとか、王都の町なかで知り合った大商人の息子もいる。
大商人の息子とは会う機会が少ないので、そもそも好感度を上げるのが難しい。難易度の高い攻略対象だ。
幼なじみは最初から好感度が高いけど、こちらは会う機会が少なすぎてストーリーがつまらなかったというのが私の感想だ。
ゲームでの大事なイベントやフラグのための大事な会話で覚えていることはほぼ書き留められたな、と思った頃には、この世界の文字を書くことに大分慣れてきた。
最初の数ページはこの世界の文字と日本語が混じってしまっていた。
全部日本語で書いても良かったけど、アドレイドの自我が戻った時、アドレイドが破滅しないようこの覚え書きを参考にして欲しいと思ったから、頑張った。
アドレイド以外にこの覚え書きを読まれたら大変なことになるけど…。
なにしろこの先一年程度の未来のことまで書かれているのだ。
日本語で書けばこの世界で日本語を読める人なんていないから秘密の漏洩を心配する必要はないけど、でもアドレイドが読む前提、とした時点でアドレイドが日本語を読めるはずがない。
あと、この世界の文字を書く練習をしなくてはという切実さもあった。
何しろアドレイドは学生なので、この長期休暇中にこの世界の文字に慣れておかないと大変なことになると思ったのだ。
まあなんにせよ、私の意識がこの世界に来てから、学院、つまりはゲームの舞台からちょっと距離をおけたことは幸いだった。
覚え書きも作れたし、この先どう行動するかの計画も立てられたから。
まあ、計画を立てたと言っても、大雑把にいうと二点だけだ。
まず、私がさんざん周回したから知っている、ダリアと王子の仲が深まるエピソードをことごとく邪魔をすること。
そして、アドレイドの片思いでしかない王子との関係を改善させて、王子にも私を好きになってもらうこと。
ゲームでさんざんダリアとして殿下と恋愛を繰り広げたのだ。王子の恋愛のツボは履修済み。
少々ダリアとアドレイドは性格や容姿が違うから、ダリアでやったのと同じことをしたとして、王子の気持ちをゲットできるかは微妙だけど、そこは頑張るしかないだろう。
この二点以外について計画を立てるには、時間的にも精神的にも無理だった。
実は、私がこっちの世界での生活に馴染んできたなーと自分でも思った頃。
記憶喪失になって忘れてしまったことになっている、この世界での貴族としてのマナーの教育が始まったのだ。
アドレイドはダリアがジェレミー王子ルートに入らなければジェレミー王子と結婚する。
ジェレミー王子は王太子というやつで、つまりは次の王様になることが内定している王子ということ。
だから、そのジェレミー王子と結婚する私は、ゆくゆくは王妃になるのだ。
アドレイドは12歳過ぎから本格的に王子妃教育を受けていたらしい。
でも、そもそもの貴族としての常識は侯爵家の娘として生まれたときから刷り込まれていた訳で…。
急にアドレイドになった私に王子妃どころか高位貴族令嬢らしい振る舞いを求められても辛いものがあった。
ただの王子妃ではなく、王太子妃となる私に、基礎知識もない状態からもう一度教育を施さなくてはならないのだ。
私以上に周囲が困っていることがひしひしと伝わってきていた。
とはいえ…うまくやれば、この私がジェレミー王子との恋愛をリアルで経験できるのだ!!!
ここは頑張らずにどうする私!
元の世界での自分の容姿のままだったら、あんなキラキラ王子と恋愛なんて考えられなかっただろう。
並んで立っていてもつり合いが全く取れないことくらい自分でも分かる。
でも、アドレイドも悪役令嬢というポジションを得られているだけあって、かなりの美人だ。
綺麗すぎると冷たい印象になることもあるけど、栗色の大きく巻いた髪はつやつやだし、ぱっちりとした目は愛らしく、冷たい印象にならないのはこの目元のお陰だと思う。
ダリアは誰が見ても好ましく思うような、可愛らしい容姿だ。何しろヒロインだから。
そんなヒロインには負けるけど、こんなに可愛い自分なら、物おじせずに推しにアタックできる!そう思えるのだ。
だから私は見た目の維持にも気を使い、この世界の貴族としての常識を学び、学院で習ったことの復習等々で大忙しだった。
ちなみに、このゲームはダリアが一年生として学院に入学するところから始まり、そこから一年間が攻略対象を選ぶ期間。その後は確定した攻略対象との仲を深めて、どういうエンドになるかが決まる…という展開だった。
ゲームで攻略対象を選ぶ期間が一年間なのは、ダリアが一年生のとき、騎士団長子息は二年生、宰相子息は三年生、そして私アドレイドも三年生で、ジェレミー王子は最終学年の四年生だから、だと思う。一年以上たつと、ジェレミー王子が卒業してしまい、なかなか会えなくなってしまう。
それに、数か月という短い期間で終わらないのは、多分、この学院に通っていない攻略対象が二人もいるからだ。
幼なじみとは長期休みの時にしかイベントはないし、商人の息子とも学院が休みの日に町に出たときしか会うことはできない。
ちなみに、幼なじみと商人の息子は学院に向かう前に強制イベントがある。
そうでもないと、全寮制の学校なのだから、プレイヤーはどうしたって学院にいる相手を選んでしまいがちになる。
幼なじみや商人の息子を攻略対象に定めてプレイした時は、他の攻略対象とのフラグが立たないように行動するのが大変だった。
そもそもメイン攻略対象であるジェレミー王子とは、あっという間にフラグが立ってしまうのだ。
王子の方から寄ってくるし、そのせいでなにかと王子と一緒にいる機会が多いので、王子以外のルートに行こうと決めた時は確固たる意志をもってプレイしないと、お前じゃない!と叫ぶ羽目になる。
まあ、王子がちょろいのはいかがなものかと思うけれど、7歳から遊べるゲームだったのだ、遊ぶのが7歳児だとしたら、そういうちょろい相手(ジェレミー王子)がいないとクリアできない。
十分大人だった、なんならエロ展開があっても問題なし!な私は、漫然とプレイすると王子とのノーマルエンドになるところを、やりこまないと迎えられないハッピーエンドにすることに執念を燃やしていた。
ヒロインのダリアが王子と結ばれることに変わりはないのだけど、周囲の人たちとの関係性やダリアの地位が違う。また、攻略対象が定まった後で、戦争が起こるのだけど、そのときの光属性をもつダリアの扱いも全く違うものになる。
でも…とにかく、私はダリアの中に入ったわけじゃないから、ゲームの知識はあまり役に立たない。この世界のダリアがどう行動するのかわからないのだから。
誰のルートに入るのか、そのルートでのどのエンドに向かうのか…。
そうして、私はほぼひと月ぶりに長期休暇が明けた学院に戻った。
好きすぎて読み込んでいた公式設定集。
自分の経験してないエンドを迎えるためのエピソードをアップしてくれていた同好の士の情報。
覚え書きに書き記したそれらと、長期休暇中に詰め込まれた貴族令嬢としての常識を抱えて、私はアドレイドとジェレミー王子の恋愛を成就させる覚悟に拳を握りしめていた。
学院に戻ってみて、まず困ったのは友人たちのことだった。
この人達はただの学友よりは親しかったらしい、ということだけは分かるのだけど、そこまでしか記憶がない。
友人達は移動教室のときなどは一緒に行こうというのか、寄って来てくれるのだけど、私はそれどころじゃないのだ。
この休み時間にダリアが宰相子息と廊下でぶつかってしまうイベントが起きているかもしれないのだ。
ダリアの動向を確認しておかなければならない。
ダリアが王子ルートに入ってしまったら、私にゲームの強制力が働くかもしれない。
強制力が無くても、私の方がジェレミー王子のことを好きなのに!と素で嫉妬に狂ってしまうかもしれないのだ。
私は毎日、授業時間以外の時間は、ダリアがどこで何をしているかを確認し、今日はイベントは起こらないと思えるときは、ひたすら殿下に会いに行った。
殿下はいつも穏やかな笑みで、食堂で隣に並んで一緒にご飯を食べたいと言えば応じてくれたし、雪が降った日、誰の足跡も無い雪の上に足跡をつけて歩くのに付き合ってくれたりもした。
私がテスト勉強で苦しんでいたときは、難しい問題をかみ砕いて説明してくれたこともあった。
ゲームでのイベントは何月何日に起こった、というようなことが分かることは無かったけど、季節感と学校行事、あとはお天気などから推測できるものもあって、今日は絶対ヒロインと誰かのイベントの日!と確信できた時は、そのイベントの場所を物陰から眺めていて、イベントが起こるかどうか確認したりもした。
そんな日々をすごしているうちに、アドレイドの友人たちは、アドレイドに寄ってこなくなった。
もともとのアドレイド的には寂しいかもしれないけど…ジェレミー王子と一緒に過ごすことができるのは王子が卒業するまでの半年程度しか残っていないのだ。
申し訳ないけど、友人達は卒業したら会うことも稀になるだろうと思ったし、私が無事に王子妃になれば、ますます身分差で会うことが少なくなるだろう。
そして、もし私がジェレミー王子とダリアのフラグ折りに失敗して、断罪される運命になるとしたら、友人達にはそんな私を救う力はない。
そもそもそれ以前に、私が以前のアドレイドではないのだ。
記憶喪失を装っていても、仲が良かった人達には四六時中一緒にいると、別人であることを見透かされそうで怖かった。
まあそんなこんなが複合的に合わさって…私と友人たちは疎遠になっていったのだ。
そんな大忙しの毎日を過ごし、春が来て、初夏が訪れた。
いよいよ学年末が近づいている。
この数か月の頑張りにより、無事に王子とヒロインのフラグを折り続けていた私は、いよいよダリアの攻略対象が誰に定まったのかが分かる時期が近づいてきて、緊張していた。
「どうしたんだ、今日はそんなにくっついてきて」
「初夏らしくなってきて、殿下の卒業が近いので寂しいのですわ」
「そうか。確かに私も卒業試験も終わってしまって、もうあと数日で退寮してしまうし」
この学院は、この世界屈指の優秀な学生が集まる最高学府として知られていて、世界中から学生が集まってきている。
入学試験もものすごく難しくて、なかなか入れない上に、入ったら入ったで今度は進級試験や卒業試験が難しい。進級試験に落ちて同じ学年をやり直す学生は毎年必ず数人いるし、卒業試験が通らず最終学年をやり直す学生が二桁になることも珍しくない。
そんな学院でも、さすがはジェレミー王子、卒業試験はすんなり通ってしまった。
追試も無いので、数日後には寮を出て、王宮住まいに戻ってしまう。そして、卒業式の日にだけまた学院に来て、完全に卒業、ということになる。
アドレイドは王子の内面に惚れていたみたいだけど、私は何といっても、顔!この顔が好きでたまらない。好みのど真ん中、ドストライク。
極端に言えば、この顔が付いてさえいれば、少々性格に難ありでも許せる。
だというのに、ドストライクの顔を持つ上に性格にも問題は無くて、成績優秀、なのだ。
容姿端麗、文武両道。さすがゲームのキャラクター、完璧すぎる。
ここまでで、ダリアとジェレミー王子のフラグは折り倒したと信じているけれど…もし、卒業式の後に行われるパーティーで、王子がダリアにドレスを贈っていて、ダリアがそれを着て二人で一緒にダンスをしたら、ジェレミー王子ルート確定ということになる。
でも、私には、ダリアは騎士団長子息とのフラグを立てているように見える。
というのも、騎士団長子息ルート確定の場合は、騎士団長子息とダリアが卒業生を送るパーティーの実行委員になるのだ。
先日、在校生の各学年から数人ずつ選出される実行委員に、ダリアと騎士団長子息がともに選ばれていることを確認している。
実は、今年の卒業生を送るパーティーは、卒業生に王太子がいるということで例年より予算が多く、実行委員も力が入る。
どういう企画で卒業生を喜ばせるかと白熱した議論が交わされ、それによって今期一緒に実行委員になった学生たちの仲が例年より深まることになる。そんなメンバーにダリアと騎士団長子息が一緒にいるのだ。
ゲームでは、放課後の実行委員の集まりで毎日のように顔を合わせるうちに、一気に二人の仲が進展していく。
だから…ダリアが騎士団長子息とともに実行委員になったということは、無事に騎士団長子息ルートに入ったとみて間違いないのだ。
ただ、万が一、ということもある。
だから、そのパーティーで殿下とダリアが踊らないことを確認するまでは完全に安心しきることができない。
2人が踊らなければ、私は死ぬことはなく、ジェレミー王子と結ばれることも確定となる。
ほぼ間違いないと思っているけれど、次の瞬間には不安が押し寄せる。
やっぱりパーティーが終わるまでは安心できない。
私も、王子とダリアのフラグは折りまくったし、王子も私とこうして二人でベンチに座って語らってくれるし、年度末の試験に向けて勉強を見てくれたりもするし、昼食だって一緒にとってくれる。
王子の気持ちもかなり私に引き寄せられたのではないかと思うのだ。
ダリアとして、じゃないので、ゲームでのようなイベントは起きないけど、それなりに王子とのイチャイチャする時間はとってきたと思う。
「私が卒業したあとも、困ったことがあったらいつでも相談して欲しい」
ジェレミー王子は奥手なのか、こういうときに私の手のひとつも握ってこない。
それに、ゲームで思っていたより、かなり口数が少ない人だった。
でも、こういう節度ある対応というのは、私が卒業するまでもう一年あるし、清い交際でいようとしてくれているからよね、多分。
そして、ジェレミー王子が王宮に帰ってしまい、アドレイドが寮の部屋に飾っていたジェレミー王子の肖像画でしか王子の存在を感じられない日々が続いた後。
とうとう、学院の卒業式の日が来た。
卒業式の日は、在校生は基本的に休みとなる。
でも卒業していく学生の中に親しい者がいる場合は、先輩を見送ろうと卒業式が行われる大講堂の入り口付近で式が終わるのを待っているのが慣例だった。
卒業式を終えて大講堂から出てくる先輩たちに、在校生はこぞって紙吹雪をまき散らす。
その紙吹雪の元になっている紙は、退寮するにあたって先輩たちが不要としたノートだったり、我々の小テストの解答用紙だったり、学院側が廃棄するとした資料などだ。
ジェレミー王子が出てきたときには、かなりの学生が寄ってたかって紙吹雪を撒いていた。
それだけ多くの学生に慕われていた証だ。
思い切り不正解の印が付いた部分がちょうど切り取られた紙片を目立つ場所にくっつけて、殿下が私に気が付いて、こちらに歩み寄ってきてくれた。
私も盛大に紙吹雪を撒いて、卒業を祝う気持ちを表した。
でも…ゲームでは、こんなシーン描かれてなかった、と思う。
ジェレミー王子がダリアにドレスを贈ってくれていたら、ダリアは今頃必死に髪を結ったりお化粧をしているだろうし、実行委員になっている今は、パーティーの最後の準備に駆け回っているはず。
他の攻略対象を選んでいたら、卒業式はあまり関係のない行事となり、何なら休日として町に出ていたりする。
なるほど、確かに紙吹雪を撒く経験をしないのだからゲームにも出てこないわけだ。
そして、ん?と気が付いた。
ジェレミー王子はそのパーティーでダリアと踊りたいから、と、ダリアにドレスを贈っている。
婚約者の私はどうなの…?このあとのパーティーで私と踊らないの…?
パーティーでは、卒業生は卒業後には社交界に身を置くので、その練習のためにとでもいうのか、制服ではなく正装をして参加する。家庭の事情で正装を用意できない場合には、学院が貸衣装を保有しているので、それで参加する。
だから、全卒業生が基本的には参加するものだ。
婚約者が同じ学院内にいるときなどは、卒業生でなくてもパートナーとして参加することも多い。
あれ…ダリアと殿下がどうなのかにばかり気をとられて、ジェレミー王子の婚約者の私が王子にパーティーに誘われていなかった、と当日になって気が付いてしまった。
重大なことに気が付いて青くなっていると、私の目の前にまで来たジェレミー王子が、私の手をとって「このあとのパーティーに一緒に参加してくれるね?」と言ってくれた。
よ、よかったぁ…ゲームだとどのタイミングで誘われていたのかとかはっきりしてなかったから…。
「あとで部屋に侍女を向かわせるから」
そっか…そっか!
ダリアは殿下にドレスを贈ってもらったけど、侍女を派遣してもらえなかったから、早くから自分で髪を結ったりしなくちゃいけなかったのね。
でも、ちゃんと婚約者の肩書がある私だから、卒業生の身支度に侍女や侍従が付くのは当たり前なので、それと同じ扱いをしてもらえるんだ。
ジェレミー王子が私をパートナーにしてくれた!ってことは、ダリアと踊ったりなんかしない!ダリアはやっぱり騎士団長子息ルートで。
私は死ぬことは無い!!!!
ほっとしたあまり、へなへなとその場で膝から崩れ落ちた。
ジェレミー王子がびっくりして、私を抱きかかえると医務室へ運んでくれた。
逞しい腕に抱えられて運ばれて夢見心地になったのはそこまでだった。
私は念のために安静を言い渡されてしまい、ドレスに着替えることも、ジェレミー王子と共にパーティーに出ることもできなくなってしまった。
残念過ぎて涙を浮かべた私に、ジェレミー王子は「これからお互い正装をして共に公の場に出ることなど何度もあるから」そう言ってくれた。
これって、つまりは、私は間違いなく王子妃になって、ジェレミー王子と並び立つってことを言っている…?
私はそれを想像して真っ赤になって、ジェレミー王子はそんな私に微笑みかけると、自身の準備のために医務室併設の病室から出ていった。
今日のパーティーでダリアが実行委員として制服で会場にいるか、それともドレスを着ているかどうかを確かめるために、パーティーをのぞきに行くつもりだったけど…ジェレミー王子がドレスを贈っていると思えないから、確かめに行かなくても大丈夫だと思うと、改めてホッとした。
そして、ここ数日不安に苛まれてあまり眠れていなかったので、あっというまに眠気に襲われて意識を手放した。
ジェレミー王子にお姫様抱っこで医務室に運ばれたのを最後に、王子はもう学院にはいないので、王子との仲を進展させるために頑張る必要も、そしてダリアの動向を見張る必要もなくなった。
今までそういったことに割いていた時間を勉強に費やし、ぎりぎりだったけれど、なんとか進級試験に合格することができた。
でも、確実に最終学年は一組になることができないだろう。
この学院では一年間の成績をもとに次年度のクラス分けを行い、一組から順に成績優秀者が振り分けられるのだ。
最初の数か月は元のアドレイドのままだったとはいえ、後半、今の私になってからの成績の落ち込みぶりは酷かったから。
真夏のうだるような暑さの中、新学期が始まるまでの長期休暇を実家で過ごし、そして、必死に色々な勉強をした。
相変わらずアドレイドの記憶は無いわけじゃないけど曖昧なところが多く、高位貴族令嬢としての当たり前を学び直さなくてはならない。
学院にいる間はどうしたって学院での勉強を優先せざるを得ないので、こういった長期休暇が大事になってくる。
ただ残念だったのは、私が記憶喪失になって、貴族令嬢としての所作の基本を忘れてしまっているので、それが身に着くまではジェレミー王子との結婚は延期、となったことだ。
本来は、私があと一年残っている学院の最終学年を終えて卒業したら、すぐに結婚、となる予定だったそうだ。
父親が見せてくれた、私と殿下の結婚までのスケジュール管理表によると、私の結婚式に向けてのレースは既に去年のうちに発注がなされていたけれど、大聖堂の予約はキャンセルになっていた。
記憶を失ったアドレイド、つまり、今のエミの私はジェレミー王子には相応しくないと言われたようで落ち込む。
最初はテーブルマナーもおぼつかないほどだったことを思えば…仕方ないのかもしれない。
ジェレミー王子からは、ときどき手紙が来て、貴族名鑑の暗記にダンスレッスンに学院で学んだことの復習(既に修めたことになっているけど私にとっては学んでいないことなので)などに忙殺される私を応援してくれた。
私がこういったことを周囲に文句も言われないほどに修めれば、殿下と結婚できる。
殿下の手紙にはそういった文言は無かったけれど、励ましの手紙をもらうことは、早く結婚できるように頑張って、と応援してもらっているようで、ものすごく頑張れた。
最終学年は、忙しかった去年に比べると、淡々と過ぎていった。
友人達と昨年距離を置いたことで、彼女たちが私のところに戻ってきてくれることは無かったから、一人で過ごすことが多かった。
それは、私はやっぱり一組にはなれず、友人達は一組をキープしたので、教室が違うせいもあった。
でもこのことは、私が以前のアドレイドと別人であることがバレにくいということでもあり、あえて友人達との関係改善は試みなかった。
ひたすらに卒業試験を通過できるように勉強に励み、早く王子と結婚できるように貴族令嬢の当たり前を学んでいたら、あっという間に一年が過ぎ去っていたという感覚でもあった。
努力の甲斐もあって、卒業試験はいくつか追試もあったけれど、なんとか私も卒業となった。
卒業パーティーでは、主席で卒業した宰相子息が殿下に頼まれたのかパートナーを申し出てくれていて、一曲だけ踊ったけど、ダンスは難しすぎる…と泣きそうになった。
いつまでたっても、ダンスは上達しなかったのだ。
宰相子息はその一曲で私がダンスは苦手だと理解してくれて、その後は踊ることもなく、私達に話しかけてくる人たちを華麗にさばいてくれた。
おかげで私はほとんど喋らず、頷いたり微笑んだりするだけで良かった。
ゲームの宰相子息ルートでは、普段クールな彼が二人きりの時に見せる甘い顔とのギャップが萌えポイントだったけれど、こういった優秀さを垣間見せてくれるイベントがもっとあっても良かったのにな、なんて思っているうちにパーティーは終わってしまった。
ゲームで見ていた王子の卒業年度のパーティーに比べると質素だったのは、仕方がないのだろう。
そうしてなんとか学院を卒業した私は、寮を出ても実家には帰らず、王宮に住むことになった。
本来は卒業後ひと月ほどで王子と結婚するはずだったので、もともとの予定通りでもある。
私達の結婚がいつまで延期されるのかはっきりしたことはわからないまま…私は王妃が住んでいる宮に部屋を与えられ、本腰を入れての王子妃教育が始まった。
どちらかと言うと体育会系だった私にとって、お辞儀の仕方、椅子に座ったときの姿勢、歩き方といった体を使うものは実家で結構すぐに及第点をもらっていたので自信があったのだけど、王太子妃として求められるレベルは桁違いだった。
歩いてきて、椅子を引いてもらったところに優雅に座り、綺麗な姿勢を保ったままお茶を飲み、小さなナイフやフォークを使って菓子を一口大に切って口に入れ、優雅に咀嚼する…。
たったこれだけのことができるようになるまでに、数か月かかった。
ゲーム世界なので、テーブルマナーは元の世界でのもとのあまり変わらないみたいだったけど、元の世界でもカジュアルレストランにしか入ったことが無かったのだ。
ナイフやフォークは並べられた外側から使う、このことだけが知っている唯一のことで、これ以外を一から覚える必要があった。
お茶会での飲食が人前でできそう、となっても、今度は晩餐会に参加できるレベルを求められると、またそこからしばらく特訓が続くことになった。
ダンスも運動神経は悪くない方だったのに、相手があるものだからか、どうにもうまくやれない。
日本人として、密着してステップを踏む、ということにどうしても苦手意識が湧いてしまい、ステップに集中できないのだ。
座学も、相変わらずの貴族名鑑の暗記の続きと、本来学院を卒業したなら知っていて当然の、この国の歴史、周辺国の歴史、国内の主要な港、それらを所有する貴族、国内の各領地ごとの名産や名物、…と、覚えなくてはならないことにキリがなかった。
外国語の習得まで求められなかったのは、これ以上は無理だから、だそうだ。はっきり言われてしまった。
受験のときにもここまで必死に勉強しなかったなあ…と思ったけれど、目の前に王子との結婚というニンジンをぶら下げられていた私は頑張った。
ほぼ二年…王妃宮に軟禁されているかのような生活だった。
私につけられた教師と、たまに試験監督のように私の現状を確認しに来る王妃様と、私のお世話もしてくれる王妃様のメイドや侍女たちと、王妃宮配属の護衛騎士たちという限られた人たちに囲まれて、日々は過ぎていった。
ここで努力して求められるレベルに到達すれば、自分達の結婚の日取りが決まるから頑張って欲しい、というようなことを王子が最初の頃に伝えてくれたけど、王子は月に数度、わずかな時間会いに来てくれるだけだった。
会いに来てくれても、会える時間はいつも一時間あるかどうか…。
その時間、私はソファーで王子と隣り合って座って、お菓子を食べさせあったり、私が殿下に抱きついて、殿下が指で髪を梳いてくれたりして過ごした。
ゲームでは知らなかったけれど、王族というのは、分刻みでスケジュールが決まっているほどに忙しいらしいのだ。
城下でお忍びデートとか、マンガやラノベでは鉄板なのに、どうしてこんなところはリアルなんだろうか…。
私は王子とお出かけもしたことがない。
まあ、私の立ち居振る舞いがまだ王太子の婚約者としての合格ラインに達していないから、なんだろうけど。
それに、隣国と戦争になるかもしれないから、王子はその対応にいつも以上に忙しいのだ、と教えられていたので、王子とずっと一緒にいることは諦めるしかなかった。
だってゲームではダリアはどのルートのときでも戦争に行かねばならないのだから、戦争が起こることは間違いないのだ。
まさか、卒業後すぐ結婚、のタイミングを逃すと、こんなに王子と会えなくなるものだとは気が付かなかった。
いつかアドレイドの自我が目覚めたときの為に、と日記だけはつけ続けていたけれど、正直な自分の愚痴を吐き出す用の本当の日記と、アドレイドに見られてもいいことだけを書く日記と使い分けるようになっていた。
王妃付きの侍女やメイド達からは、アドレイドが王妃様のお気に入りで、嫁として義理の娘になってくれる日をそれは心待ちにしていたのだ、と何度も聞かされたけれど…『記憶を失ったアドレイド』である今の私のことを、気に入ってくれているとは思えなかった。
私に対する言葉も態度ももちろん柔らかく、勉強もレッスンも頑張れ、と応援してくれているのだけど…目の奥が冷たい、というか…。
息子を嫁にとられる母親の気持ち、ってやつなのかな…とスルーしたけど、嫁姑問題がまさかゲームの中にまで?とげんなりした。
そんな王妃宮に引きこもって二年目のある日、王子が私に会いに来てくれて、一緒にお茶をすることになった。
私が特訓の成果を披露しながらお茶をいただいていたら、なんと、私達の結婚の日取りが決まった、と教えてもらえて、私は嬉しくて泣いてしまった。
「国民への周知はしてある。結婚式は一月後だ。ただ…隣国との開戦は避けられなくなった。そちらの準備を優先してしまうが、国がなくなっては元も子もないからどうか理解してほしい」
戦争の準備をしなくてはならないから、私達の結婚式にかけるお金も時間もあまりない、ということのようだ。
それでも、一月後には王子と結婚できると分かった私は嬉しくて舞い上がった。
普段は引きこもっている私だけれど、さすがに結婚式のときには大勢の貴族達や国民の前に出なくてはならない。
次の日から私の特訓メニューは、結婚式とその後のパレードとその後の披露宴での立ち居振る舞いについて一色になったのだった。
そうして迎えた結婚式。
王子はゲームでみたハッピーエンドのスチルほどキラキラした笑顔ではなかったけれど…学院で一緒に過ごした時のように私に寄り添って微笑んでいてくれて、幸せだった。
元の世界でもまだ独身だった私にとって、結婚式というものがどういうものか、どういうのが当たり前なのかがわからないので、さすが王族の結婚式…と感心することばかりだった。
いつの間にかできていたウエディングドレスはすごくきれいだったし、戦争が避けられないことは国民たちにも薄々伝わっているようで、その重苦しい雰囲気の中でのいいニュースとして、国民たちにも歓迎されていた。
四頭立ての馬車の中から、国民に向かって手を振ると、大歓声が沸いて、喜ばれていることが嬉しかった。
披露宴も、何か話すと覚えきっていないことが色々バレてしまうので、皆から言われた通りひたすらニコニコしてやり過ごした。
いよいよ初夜…というときになって、ドキドキしながら寝室で待つ私の前に軍服を着た王子が現れて驚き、そして聞かされた言葉に愕然とした。
「敵国の軍に動きがあったそうだ。これから私は国境に向かい、我が軍の陣頭指揮をとらなくてはならない。もし私が戦死した場合、白い結婚であるとして結婚歴は無効となるので安心すると良い」
「そ、そんな…」
私は泣き崩れた。
王子と結婚できるからというただそれだけで、この世界に来てからの数年を頑張ってきたのだ。
もし王子が戦死したら、私は王子と結婚したという履歴すらなくなるだなんて…。
「絶対に、絶対に生きて帰ってきてください!」
「………ああ。初夜は…生きて帰ってきたら…そのときに…」
王子はそういうと、泣く私の額に口づけ、名残惜しそうに私の髪に触れると…寝室を出ていった。
―――私はこれからひたすらに王子が生きて帰ってくることを祈るしかない。
戦争が終われば、王子と夫婦になれるのだから。
私は結婚を機に王妃宮から王太子夫妻に与えられる宮に移り、王妃様付きのメイド達ではなく、私専属の侍女やメイド、護衛騎士達がつくようになった。
一応、王太子妃として人前に出せるほどになれば、結婚、という話の通りだったらしい。
私は自分付きの侍女や護衛を連れてなら、あちこち出歩けるようになった。といっても、王宮の敷地内だけだけど。
一人での、新しい宮での生活が始まってひと月経ったかどうかの頃、開戦の知らせがあった。
ゲームではヒロインのダリアは誰のルートに入っているかで戦時中の過ごし方が全く違ってくる。
貴重な光属性として、戦争に駆り出されてしまうのは共通だけど、前線で共に戦うのか、後方支援だけなのか、開戦から終戦までずっとなのか、一時期だけなのか。
戦争の前線に王子はずっといるので、ダリアが戦争に携わっている間の王子の動向はどのルートにもでてくる。
どのルートでも戦争には勝つのであまり心配はしていないけれど、ダリア目線で進むゲームなので、ダリアが王子を選んでいないときには、王子が無事に帰ってくるのか、語られないのでわからない。
ただ、今回の騎士団長子息ルートの場合は、開戦して戦争が激化すると、最初は後方支援だったはずのダリアは最前線に出ることになる。ダリア自身が騎士団長子息のことを心配して近くにいようとするから。
そして、騎士団長子息は王子のそばに常にいるので、王子も無事だったと記憶している。
気になるのは…卒業後すぐに結婚しているはずの私達が二年も結婚しなかったのだ。戦争に関してもゲームと全く同じ、とはならないかもしれない。
死ななくても、元気な姿で帰ってくるのかどうかは分からない。
そして、戦争が終わる時期は、騎士団長子息ルートの場合、どのエンディングになるかでかなり違う。
短ければ一年ほどで終わるし、長ければ三年も続く。
どのエンディングになるのか…つまり戦争が何年続くのか、今の私には知る由もないのだ。
こうなったら…この世界に来てからずっとがむしゃらに頑張ってきたのだから…やっとやりたいことに時間を割いても良いのでは、と思えてきた。
ということで、私はいよいよ本腰を入れて、どうしてこの世界に来てしまったのかについて調べることにした。
どう考えても魔法が絡んでいるだろう。
もちろん、戦争が終わったら王子との幸せな結婚生活を送るつもりなのだ。
意図しないタイミングで、急に私の自我からアドレイドの自我に戻ってしまうかもしれない、その不安から逃れるためだった。
今までもわずかながらの寝る前の自由時間には魔法に関する本を読んで調べてきていたけれど、王宮の外にある国立図書館にある本を読むことはできずにいた。
自由になる時間のほぼ全てを使って、とにかく本を読んで読んで調べに調べた。
こういう時にスマホでAIが答えてくれたらいいのにと何度思ったか。
世の中が戦時中で自粛ムードであるので、私が自室に引きこもりがちで本を読んでいることについて誰にも文句を言われずに済んでいた。
「ねえ、ドーラ、この本もういいわ。片付けて」
「承知いたしました」
はあ、と大きなため息をついて、ソファーの背もたれに頭を乗せて天井を振り仰ぐ。
天井には青空、そこから花びらが舞い散っているように描かれている。
さすが王太子妃の部屋の天井。こんなところまで芸術品のようだ。今まで気が付かなかった。
もう一度ため息をついて、体を起こすと…ドーラが本と一緒に私の日記が入った小箱を手に取ったのが見えた。
「ちょっと!何を勝手にそれに触っているの?!」
「申し訳ありません。いつもの棚にお戻ししようかと」
「私が頼んだのは本だけよ。頼んでもいないことをしないでちょうだい」
ドーラは慌てて小箱を私の座っているソファーの前にあるローテーブルに戻した。
日記帳には私の魔力を登録してあり、私なら触るだけで開くけれど、他人には開くことができないというロックがかかっている。でもそれだけでは不安で、ちょっとだけ複雑なロックがかかる小箱を用意してもらった。
そのロックの設定は自分でしたので、私以外にはそう簡単に開けられるはずがないようになっている。
あの、アドレイドが読むかもしれない…と書いた断罪回避のための覚え書きはもう過去のことになっているし、実際には起こらなかったことがほとんどだ。未来だったことは過去になっているのでそこまで神経質になる必要はないのかもしれないけど…でも、それでも、読めば私が異世界から来たことは分かってしまうだろう。
それに、同じ小箱のなかに、私の日頃の愚痴や不満をかき散らした日記の方も入れてあるのだ。
私は日記を必ずメイド達を全員下がらせてからしか書かないから、その中に日記が入っていることを知っているのは私だけだ。
今さっき読んでいた本の中に、魔力に感応する石がある、という話があって、私の部屋で魔力が関係するものといえばこの小箱と日記帳しかなかったので、それらにそういう石が使われているのかどうか調べるために棚から持ってきたまま、放置してしまっていたものだった。
ドーラがいつものところに戻してくれるというのなら、頼んでも良かったけど…なんとなく不安が勝ってしまった。
「ちょっと疲れたわ…コーヒー頼める?急いでね」
元の世界では、コンビニでもドリップコーヒーは買えたし、家の最寄り駅の駅ビルには大手のコーヒーチェーン店が入っていて、いつでも望めばすぐにコーヒーが手に入った。
でも、この世界にもコーヒーはあるけれど貴重品らしくて、それに頼んでからコーヒーが出てくるまでに30分はかかる。
元の世界の便利さを思い出すと…ますますどうしてこの世界に来ることになったのかが不思議でたまらない。
恵美としての最後の記憶というのも、曖昧のままだ。
この世界にきて3年以上経つというのに、この世界にきてしまう直前のことは思い出せないでいる。
「コーヒーが来るまで、ちょっと一人にしてくれる?」
私がそういうと、皆お辞儀をして、部屋から出ていってくれた。私がすぐに人払いするのはいつものことだから。
はあ、慣れない。
王子と結婚するまでは、と、がむしゃらに頑張っていた間はそこまで気にならなかったけれど、常に誰かがそばに控えていて、私が何をしているか、常に見られているのだ。
人の視線に疲れる。
それに…最近になって、学院でアドレイドと仲の良かった友人の一人がアドレイド付きの侍女になった。
ちなみに、侍女っていうのは、メイドより上の立場で、仕えている人の話し相手になったり、着替えを手伝ったりお茶を淹れてくれたりする、オカンのような立場の人達だ。
ただのメイドさんは、私のベッドを整えたり部屋の掃除をしたり着るものを用意したり、さっきみたいにコーヒー!って私が言ったら厨房までコーヒーを頼みに行ってくれたりする、いわゆる小間使い、使用人、って感じの人達。
王族の侍女になるのはかなり名誉なことらしく、ものすごく狭き門らしい。
侍女に任命された直後、ドーラに紹介されたエミリーというその人は、自己紹介のときに、私付きになることが夢だったので、夢が叶った、と涙を浮かべるほどだった。
でも、私は内心では困っていた。
アドレイドの友達だった人が、身近にいられると…中身が恵美の私だってことがバレてしまいそうな気がするのだ。今のところは使う身と使われる身という立場の変化もあって、馴れ馴れしくもされないし、昔の話もされないので安心しているけれど。
目の前にぶら下げていた王子との結婚というニンジンを食べてしまって、いざ結婚したら王子は初夜をキャンセルして出征してしまった。
そしてその戦争はいつ終わるのか、ダリアの動向が分からないから全然わからない。
もやもやする。
実家の家族たちも私にはよそよそしい感じがするし…まあそれは私も家族っていう感覚がないんだからお互い様なんだろうけど。一応、娘でもあるけれど王太子妃として、自分達より上の立場になったからだ、と言われているけど…なんとなく居心地が悪いのだ。
王妃宮にいたときもそうだった。
表面上は優しいけれど、目の奥が笑っていない義理の母。私を王太子妃として恥ずかしくないように教育するのに必死な周囲の人々。
今思えば、くじけそうになると王子の時間が少しとれることになった、と連絡がきていたような。
あれって王子っていうアメを用意されて頑張らせられていた気がする。
王様は滅多に会えなかったので何とも思わなかったけど、王様の一家って家族っていう感じは無いんだなって思ったのは覚えている。
ん?
そういえば…ジェレミー王子を攻略していて、難易度の高いハッピーエンドを目指すとでてくる会話に、アドレイドとの婚約を解消して、ダリアと婚約したい、でも不安もある、と珍しく王子が心情を吐露する場面がある。
自分にとっての家族というものは国を統べる立場にいるから、一般的な家族と違うだろうし、恋人や夫婦という立場のあり方も人とは違う…的なことを言われるのだ。
今の王様の様子を見ていたら、確かにな…と頷くしかない。
気楽な学生時代はラブラブいちゃいちゃできたにしても、卒業して肩書が王太子だけになってしまったら…自分は王太子としての立場を優先して、今までのようにダリアを優先することはできないだろう…と事前予告されてしまうそのシーンは、実はすごく重要な分岐点だった。
こっちはハッピーエンドを目指してるんだから、そんなドライな関係は嫌だとか、もっと愛情を見せてもらわないと的な受け答えをすると、ノーマルエンドになってしまうのだ。
国を、民を統べるためには、自分のことは二の次でかまわない…的なことを返すと、王子の中でのダリアへの好感度が爆上がりして、ハッピーエンドへとつながっていく。
自分のことは二の次、後回しで良いという健気さを見せると、結果的にずっと溺愛されてあらゆることで優先される未来が待っているのはなんと逆説的な、と思ったので覚えている。
そこで、さっきの、『ん?』に戻る。
学院で、殿下との仲を進展させていたときにこんな会話はしなかった。
卒業後、王宮内で暮らすようになっても。
結婚してからは結婚した当日の夜までしか一緒に居られなかったのだから、もちろん結婚後も。
私はダリアではない。婚約者だったので、そのまま結婚に至ったアドレイドだ。
そして、相手がダリアだろうがアドレイドだろうが…王子の場合にはこういう心情の吐露がなければハッピーエンドは迎えられない気がするんだけど…。
それは気のせい?
部屋にコーヒーが届けられ、再度人払いをする。
私はコーヒーを飲みながら自分が王子と過ごした学院での日々をじっくり振り返った。
なんなら、日記を開いて確認しながら。
アドレイドである私は正ヒロインではないから、ダリアがやったことを真似しても意味がないことは当時から分かっていた。
すべきことはダリアと王子のフラグを折り、アドレイドが婚約関係を解消もしくは破棄されないようにつとめることだった。
そして、隙あらば婚約者の立場なのだから恋人だよね、と、王子といちゃいちゃした。ダリアと王子の間のフラグ折りには苦労させられたけど。
だけど…王子と交わした会話などを思い出すかぎり、やっぱりハッピーエンドにつながるエピソードに該当するものがない。
ただ淡々とダリアと王子にフラグが立たなかったので、予定調和的に王子とアドレイドが結婚しただけの今、これってすなわち、ダリアの場合のノーマルエンド相当なのではなかろうか…?
考えれば考えるほど、そうとしか思えない。
王妃様の宮殿に住んでいたときの王子との会話はどうだった?
いちゃいちゃしたけど、時間は短いし頻度といったら月に数度。
あれ?どう考えても溺愛のハッピーエンドからほど遠いよね?
戦死したら白い結婚を理由に婚姻無効にするためって言ってたけど…アドレイドが王太子妃になったことは国中で周知の事実。書類上で結婚歴をなかったことにしたとて、私が王太子妃だったということは知れ渡っている。だから、再婚のときに私はまだ純潔ですよ、とアピールできて、いいとこに嫁に行きやすくなるだけだ。
これってもしかして、私の為に婚姻歴に傷がつかないように、ではなく、王子が死んだら嫁だけ残っても困るんだよね、どっか別の家に嫁いでね…という王家の都合じゃん…。
ようやく気が付いた事実に、衝撃をうけた。
そして、王子が生きて戦争から戻ってきてもハッピーエンドは待っていないことに、ようやく、今頃気が付いたことにも。
二次元だった推しと会話ができて触れられることに、二次元だから絶対に無理な相手のはずだったのに結婚できることに、この世界に来てからすっかり舞い上がっていて深く考えたことが無かった。
考えてみたら…アドレイドって家格とかが理由で決められただけの婚約者で、王子からしてみれば、いわば国の為の結婚相手。
アドレイドは王子のことが好きだけど、ジェレミー王子はアドレイドのことを何とも思っていなかったのだ。
なんとも思っていなかった婚約者から、ある程度好感度を上げた婚約者にまではできたと思うけれど、そこまででしかない。
あれ?
私…これ以上頑張ってここにいる必要ある?
スマホもコンビニもない。
ジェレミー王子は推しだったけれど、アイドルにも推しはいた。
断然元の世界の方がここより居心地よくない?
…いや、でもここに居れば、王太子妃。ゆくゆくは王妃で、この国においては女性として最上位に君臨することになる。
この上なく優遇対応されること間違いなしだ。
だけど…。
うん、まずは本腰いれて、本気で帰る方法を探そう。
今までは急にアドレイドの自我にとってかわられる不安から、どうしてこの世界に来てしまったのかを調べていたけど、誰かに召喚されたわけでもないことだけが分かった時点で、調べる方向性が漠然とし過ぎていた。
元の世界に帰る方法を探す方が、よほど現実味がある。
それに、城下にある国立図書館より、王宮内にある王立図書館の方が、ヤバそうな蔵書がわんさかあることに、最近ようやく気が付いた。
魔法関連の勉強が進んだことで、タイトルの意味すら分かっていなかったものの意味が分かるようになってきたからだ。
週に一度ほど図書館に行ってめぼしい本にあたりをつけ、それらを借りては読み、独学で知識を深めていった。
最初はちんぷんかんぷんだった魔法理論も、学院でなんとか基礎と簡単な応用までは習得して卒業できていたのは大きい。
元の世界でも理系の学生だったから、化学式に似ていると気が付いてからは、理解は早かった。
元の世界には無かった魔法。
とにかく、この世界にしかないもの、それがキモになってくるだろうと勘が告げていた。
誰にも止められることは無く、ひたすらに引きこもって調べること半年以上。
その間に、戦争は激しくなり、城ではなく宮殿に住んでいた私と王妃様は、防衛に優れた、王宮の敷地内の離宮に居を移していた。
王様だけは国政を担う立場だから、そのまま残っているらしい。
そんなに広くもない離宮だったけど、私はほとんど自室に引きこもり、食事も自室だったし、さらに基本的に人払いして過ごしていたので…護衛する立場からは楽だったのではないだろうか。
ずっと誰からも文句を言われることもなく、やりたいことをして過ごしていた。
占星術に人体の仕組みに、錬金術、と思ったよりも幅広く調べて学ばなくてはならなかったけど…私はようやく元の世界に戻る方法を見つけ出せていた。
アドレイドが優秀で良かった…。
元の世界の私より、ずっと頭がいいアドレイドは、読んだ本で気になったことをメモに取りながら読むと、その一度でその内容を覚えてしまうので、調べ直す必要がないのだ。
この頭があったら受験は楽だったろうなあ…。
異世界というものがあるのでは、という意識を持つ人間というのはいつの時代にも少数ながらいるものらしく、特に学者は色々研究するうちに気になってしまうらしい。
お陰で異世界への移動方法は私が研究せずとも、先人が考えてくれていた。
ただ、試したという事例の報告がない。
試した結果、異世界に行ってしまうから、こうでした、とこの世界に記録を残せないのかもしれないし、失敗して死んでしまっているのかもしれないし、試すのが怖くて誰も試していないのかもしれない。
私はどうするか決めかねながらも、せっかく方法を見つけたのだし、と、準備に取り掛かった。
まずは魔法薬。
これはもともとアドレイドが魔力持ちで、そこに私が入り込んだことで、私の魔力は多くなって魔法を行使できるほどなっていたのだけど…さすがに異世界に跳ぶ魔法を発動させるには魔力が足りないので、それを補うためのものだ。
簡単な材料で調合できるので、自分で作って、試しに服用してみて、問題なく魔力が増大することを確かめた。
次に、魔法陣。
これは時間がかかった。
異世界に跳ぶためのものだから紙だと心もとないし、丈夫な革だと陣を彫り込むのが難しかった。
まあ、最終的に絹織物が丈夫なことが分かって、布地に描くことにしたんだけど、今度は布だとインクが滲んで全然書くことができなかったのだ
布でも滲まないインクを創るように頼んでおいたら、ちゃんと市井の商人が作り上げて納品してくれた。
何枚か書き損じたけど、何回も描いてようやく完成した。
そして…最後に、星見。
これが意外と難しかった。
王宮は夜でもかがり火が絶えず、天体観測に不向きだったのだ。それに、夜間に晴天じゃないと星は見えない。
こんな大掛かりな魔法を使うには、星の持つエネルギーの助けが必要不可欠。
元の世界での満月の夜…年に一度の特別な大潮の満月の夜にだけ産卵する生き物が多かったように、星の並びによって星が抱えもつ魔力が干渉し合い、異界への扉が開くほどの力が生まれるタイミングがあり、それを利用しなくては術が成り立たない。
その星の並びというのは、本当に稀にしか起こらないから、私が生きている間に起こるかどうか。
だからこそ、魔法薬にしても、魔法陣にしても、王子が戦争から帰ってくるまでの暇つぶしのように準備していたにすぎない。
切実に元の世界に帰りたいというより、王子が帰ってきた後でちゃんと大事にしてくれなかったりしたとき、実家に帰らせていただきます、あなたとはもう離婚です!という自分のためだった。
実際に帰るつもりなんか無いけど、帰れるけど帰らない、というのと、帰りたくても帰ることができない、というのでは、心持ちが全く違ってくるだろうから。
……そんななかで、ようやく天体を観測できた時に息をのんだ。
たった5日後には星が並ぶことが分かったのだ。
驚きが過ぎ去った後、安堵した。
天体観測をしたいとごねるのがもう少し遅かったら間に合わなかった…魔法薬も先につくってあるし、魔法陣も出来上がっている。
そこまで考えて、ハッとした。
私はこの世界で、王子と結婚して幸せに暮らすつもりだったんじゃない?
元の世界に戻りたかったの?
もやもやしながら、よく眠れないまま迎えた朝、今度は大ニュースが飛び込んできた。
戦争に勝った、というものだった。
戦争が始まってほぼ一年。
戦争がたった一年で終わるということは、ダリアは騎士団長子息とのハッピーエンドを迎えるらしい。
そして王子達は、戦後処理をする部隊と入れ違うように、すぐに帰国をするそうだ。
それを聞いて、迷った。
王子が帰国するといっても、五日後までに戻っては来られない。飛行機も新幹線もないのだから。
もし、私が元の世界に戻ると決めたら、五日後…いやもう四日後の真夜中のそのときしかない。
その次に星が同じように巡り合う時期には、もう私は生きていないだろう。
なんとなく、星のめぐりが実は去年起こってしまっていて次は50年後です、とか、前回が数十年前で次は20年後です、なんていう結果になると勝手に思っていた。
帰る方法を見つけておいたけど、帰るに帰れなかったのよ…となる予定だった。
嘘でしょう…決断をしなくてはならないなんて…。
……決断をしなくてはならない…?
ズキン、と頭が痛んだ。
なんだったんだろうか、今の痛み…。それに何か思い出しそうだった。
しばらく考えたけど、何も思い出せなかったし頭痛もそれっきりだったので、すぐに忘れた。
どうしたらいいのかと、何も手につかなかった。
今まで侍女やメイド達からは、朝の身支度、食事の世話、お風呂のときとお風呂上がりの世話をしてもらっていたけど、それ以外のときはほとんど人払いをして、部屋に閉じこもって調べ物をしたり、調合をしたり、魔法陣を書いていたりしていた。
だから…私は私のことしかしていなかったので、急にそれらが手につかなくなっても、私以外の人達には何も、一切何も変わらないことに三日目の朝に気が付いた。
学院時代の友人たちと縁を切りにいったのはこちらからだから、手紙も来ない。
実家からはたまに近況を知らせてくれる手紙が来たけれど、事務的な誰にでも書けるような内容で返事をしていたから、手紙の間隔も開いてきていた。
…この世界に、私と…恵美でもアドレイドでもどっちでもいいけど、私と親しくしてくれている人はいるのだろうかということにも気が付いてしまった。
推しだった王子と結婚しさえすればいい、そう思ってきたけれど、いざ結婚してこの状況だ。
王子は私にはその心情を吐露してくれなかったけど、その告白内容のままに、国のことを嫁より優先している。
初夜が延期されたことはその最たるものだろう。
微笑みを浮かべつつ目の奥が冷たい王妃。
学院時代に仲が良かったはずなのに、こちらから話しかけない限り大人しくしている侍女のエミリー。
この国の侍女は、主人を諫める発言も許される立場だというのに。
…振り返れば、私が彼女達と親しくなるつもりがなかったようだ。
この世界はゲームの世界。悪役令嬢だとしても、悪役令嬢ムーブをかまさなければ、むしろ周囲から愛されるのが鉄板。断罪を避けさえすればあとは上手くいく。
そう思っていたから。
でも、戦争が終わったということは、ゲームのエンドを迎えたということ。
ダリアは戦地で、騎士団長子息から熱烈な愛の言葉をもらったはずで…。
今は、その後二人は幸せに暮らしましたとさ、の部分に突入してしまったということだ。
ゲームのその後が続いている今。
この世界が私の現実世界で…この世界でこのまま生きていく……???
急にパニックにおちいった。
ゲームの世界なのに、現実?
理解が追い付かない。
いや、うすうす感じていたけど蓋をして見ないようにしていただけ。
私がアドレイドの中に入ってから、アドレイドの周りの歯車が軋んで歪んでいっていることにも…。
アドレイドが別人になったとバレないように頑張ったつもりだ。
学院の勉強も王太子妃教育も頑張った。
でもそれをねぎらってくれたのは王子だけで、できていたことができなくなった私に皆が困惑していた。
口に出さないだけで、アドレイドが劣化したという目で見ていた。
私だって頑張ったのに。この世界に来たいと望んで来たわけじゃないのに!
王子だけは優しくしてくれた。彼さえいればいいと思っていた。
でも…もし、もしも…。
戦争から帰ってきた王子の態度が、今の王の王妃へのようなものだったら…?
さあっと冷水を浴びた気分になった。
王子が帰還するのを待っていたら、私は元の世界に戻ることはできない。
この機会を逃して、王子との生活が私の想像するものと違っていたら耐えられる気がしない。
恵美の私をこの世界に引き留めるような存在は王子しかいないのに…その王子にとどめを刺されたら生きていけない。
私にとって王子以外に、この世界に残りたいと思わせてくれるような物も事も人もないなんて…。
私に親身になってくれる人が、私の為に泣いてくれるような人がいたら王子が冷たくてもこの世界に残ってもいいと思えたかもしれないのに…。
そして、今晩こそ、星のめぐりが整う日。
私は私の日記を焼いた。そして、遺書のように、アドレイドに向けて書いていた日記に元の世界に帰る、と記して小箱に戻した。
アドレイドの自我を感じたことは無いけれど、私の体に残っている魔力がアドレイドの魂がこの体の中に確かにいることを示している。
私が抜け出れば、アドレイドの自我が目を覚ますだろう。
魂に負った傷が深くて仮死状態になっていたところに、私の魂が入ってしまったらしいことはちょっと前から分かっていた。
アドレイドの魂がどうしてそんな傷を負うことになったのかは分からないままだけど。
真夜中。私は、魔法薬を飲み、ベッドに潜り込んだ。
顔に魔法陣の書かれた布を乗せて、魔法陣に向かって、調べておいた魔法発動のトリガーとなる呪文を唱えた。
ちょっとした浮遊感のあと目の前が真っ白になって………。
「…!おい、エミ、無視するなよ」
「あ…」
「こいつとどういう関係?」
「ええと…」
「この人、知り合い?」
「その…」
今のは、夢?追い詰められすぎて白昼夢を見ていたの?
目の前には今日デートしていたリョウヤ。そして、無視するなと怒っているのはケンジ、どちらも私の彼氏だ。
リョウヤとのデートで、晩御飯にと駅前のチェーン店の居酒屋にふらりと入った。
半個室のそこで、いちゃいちゃしながらお酒を飲んでいたけど、リョウヤがトイレに行ったので、待っている間に大好きな乙女ゲームを起動して、推しの王子に会いに行っていた。
そこに、料理を持ってきたのが…ケンジだった。この居酒屋でバイトしていたなんて知らなかった。
「お前、今日用事があるからって俺の誘い断ったんじゃないの?」
ケンジとリョウヤは全く違うタイプ。ケンジは少し強気なタイプで、でもすごくイケメン、リョウヤはイケメンってほどでもないけどすごく優しい。
どっちかを選ぶ決断ができなくて…どっちとも付き合っていた。
ケンジに詰め寄られていたら、トイレからリョウヤが戻ってきてしまって、二股がバレて青くなった。
今までずっとうまくやっていたから、バレるなんて思いもしなかった。ずっとこのままうまくやれると思っていた。
この場をどう言いつくろったらいいのか咄嗟に思い浮かばず…誰か助けて!こんなときに王子様がこの場から私を攫って行って助けてくれたりしないかしら…って思ってスマホを握りしめて目を閉じて、少し気が遠くなったのだった。
その気が遠くなった一瞬に、何だかとんでもなく長い夢を見ていた気がする。
でも、もう思い出せない…。
「エミ、俺もう上がり時間だから。お前…誰だか知らねえけど、エミは俺の彼女だ、手をだすんじゃねえ」
「は?エミと俺はもう付き合って一年以上だぞ?…まさか…」
「エミ、まさか…」
「ええと…」
誰か!
誰か私を助けて!
ここじゃないどこかに、逃げ出したい!!!!
スマホには私が握りしめたせいで初期画面に戻ってしまったゲームのタイトル…『ドキドキ♡素敵な魔法であなたの望みが叶っちゃう?~恋する学院生活~』という文字が青白く光っていた。
おわり
読後感が良くなくて申し訳ありません。
本編で語られない数年間の話です。視野が狭く、自分のことだけのタイプの主人公なので、ハッピーエンドにしてあげることができませんでした。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆評価をしていただけると幸いです。
励みになりますので、よろしくお願いいたします。




