表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第五章 剣が断つもの

挿絵(By みてみん)

 神殿の中に、風は吹いていなかった。


 それでも空気は揺れ、白い石の柱が、わずかに軋む。

 秤の紋章は傾いたまま、元に戻ろうとしない。


 混乱の中心で、悪魔は立っていた。


 翼とも影ともつかぬものを背に広げ、

 人の顔に似たそれで、司祭たちを眺めている。


「ほら、語られた」


 楽しげな声だった。


「真実は、ちゃんとここに置かれた。

 君たちが望んだ通りにね」


 司祭たちは答えない。

 告白した者は床に崩れ落ち、

 他の者たちは視線を逸らし、口を閉ざしている。


 真実は、あまりにも重かった。


 それを受け止めるための言葉も、

 裁きも、

 覚悟も――

 誰も、用意していなかった。


 リナは、その光景を見つめながら、震えていた。


 自分が呼び寄せたもの。

 自分が縋った力。


 正しさが、こんな形で暴れ出すとは、

 想像していなかった。


「もう、やめて……」


 声は、掠れていた。


 悪魔は、彼女を見た。


「終わらせたい?」


 問いは、優しかった。

 最初に囁いたときと、同じ調子で。


「でもね、これは君だけの話じゃない」


 悪魔の指先が、祭壇を示す。


「正しさを、あれに預けた。

 意味を、象徴に押し付けた。

 それを選び続けたのは――人だ」


 聖貨は、祭壇の上で静かに光っている。

 割れることなど、考えられない姿で。


 そのとき。


 金属が鳴る、低い音がした。


 グラディスが、一歩前に出る。


 剣は、すでに抜かれていた。


 光を反射しない刃。

 装飾のない、実用だけを追求した剣。


 それは、神殿の中ではあまりにも異質だった。


「剣を収めろ!」

「ここは神の――」


 司祭の叫びは、最後まで続かなかった。


 グラディスは、誰も見ていなかった。


 悪魔も。

 司祭も。

 リナさえも。


 彼の視線は、ただ一点。

 聖貨だけを捉えている。


「……お前は」


 低い声が、神殿に落ちる。


「正しさじゃない」


 誰かが息を呑んだ。


「秩序でもない。

 裁きでもない」


 一歩、近づく。


「ただの、物だ」


 悪魔が、初めて目を細めた。


「それを壊せば、

 君たちの拠り所は消える」


「構わない」


 即答だった。


 迷いはない。


「正しさは、預けるものじゃない」


 剣が、振り上げられる。


 祈りも、宣言も、ない。


 ただ――

 真っ直ぐな、一振り。


 澄んだ音が、神殿を満たした。


 甲高く、乾いた音。


 聖貨は、二つに割れた。


 一瞬、光が弾け、

 次の瞬間、それはただの銀の欠片になる。


 秤の紋章が、音を立てて落ちた。

 床にぶつかり、砕ける。


 空気が、変わった。


 重くのしかかっていた何かが、

 ふっと消える。


 悪魔の輪郭が、揺らいだ。


「……なるほど」


 声は、どこか感心している。


「象徴を断つか。

 誰もやらなかった。

 いや――できなかったことだ」


 その身体が、霧のように薄くなる。


「媒介が壊れた。

 契約は、もう立っていない」


 リナの胸の奥で、

 冷たい何かが、ほどけていく。


 息が、できた。


 涙が、遅れて溢れ出す。


「ごめんなさい……」


 謝罪は、床に落ちた。


 グラディスは、振り返らない。


「生きなさい」


 それだけを言う。


 慰めでも、赦しでもない。

 事実を告げるような声。


 悪魔は、完全に消える前に、

 最後の言葉を残した。


「力を欲しがることは、罪じゃない。

 だが――

 意味を壊せる者は、稀だ」


 影は、消えた。


 神殿には、沈黙が残る。


 裁きは、下されなかった。

 誰も、救われなかった。


 だが、

 正しさを他人に委ねる場所は、

 ここから消えた。


 翌朝。


 町の外れで、グラディスは旅支度を整えていた。


 リナは、少し距離を取って立つ。

 もう、以前のようには並べない。

 それを、彼女自身が分かっていた。


「……一緒に、行ってもいいですか」


 問いは、小さかった。


 グラディスは、しばらく黙ってから答える。


「選びなさい」


 それだけだ。


 リナは、うなずく。


 二人は、境界の道を歩き出す。


 肩を並べるほど近くはない。

 だが、背を向けるほど遠くもない。


 正しさは、証明されなかった。

 誇りは、理解されなかった。


 それでも、剣は確かに断った。


 ――意味に縛られた世界の、一片を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ