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第三章 甘い声

挿絵(By みてみん)

 夜は、音を吸い込む。


 宿場町リェンの灯は、霧の向こうで滲み、星はほとんど見えなかった。

 人々は戸を閉め、疑いと不安を家の中に押し込める。

 神殿だけが、白い石肌を月明かりに晒し、眠らずに立っていた。


 リナは、ひとりで歩いていた。


 足音が、石畳に小さく響く。

 誰にも気づかれないように――というより、

 誰にも止められないように。


 神殿の裏手は、昼間よりも狭く見えた。

 壁に沿って積まれた木箱。

 帳簿や供物を運ぶための、小さな出入り口。


 彼女は、そこに立ち尽くす。


 ――知っている。


 昨夜、ここを下級司祭が通った。

 震える手で帳簿を抱え、周囲を気にしながら、

 聖貨を懐に隠した姿を。


 それでも、口に出せない。


 言葉は、武器だ。

 だが彼女は、その武器を持たない。


「寒いね」


 背後から、声がした。


 振り向いても、誰もいない。

 ただ、影が濃くなっただけ。


「こんな夜に、子どもが一人で歩くなんて」


 声は低く、優しかった。

 叱るでもなく、命じるでもない。

 理解しているふりをする声。


 リナは、逃げなかった。


「……誰」


「名前は、まだいらないよ」


 影が、ゆっくりと形を持ち始める。

 人のようで、人ではない。

 角とも傷ともつかないものが、頭部に影を落とす。


「それより、困っているんだろう?」


 心臓が、強く打った。


「正しいことを知っているのに、言えない。

 言っても、信じてもらえない」


 その言葉は、彼女の胸の奥を正確に突いた。


「君は、間違っていない」


 影は、断言した。


 その一言で、リナの目が熱くなる。

 誰かに、そう言われたのは、いつぶりだろう。


「でも、この町は正しさが嫌いだ。

 秩序が揺れるのを、何より恐れている」


 影は、神殿の白い壁を見上げる。


「だから、真実は――

 勝手に喋り出す必要がある」


「……どういう、こと?」


「君が何かをする必要はない」


 影は、近づいてこない。

 触れられない距離を、保ったまま。


「ただ、少しだけ目を閉じて、

 “そうなればいい”と思えばいい」


 リナは、喉が渇くのを感じた。


 そんなことが、できるはずがない。

 できるなら、誰も苦労しない。


 けれど――


「力が、欲しいんだろう?」


 囁きは、甘かった。


 剣の力。

 言葉の力。

 どちらでもない、もっと便利な力。


「正しさが、ちゃんと届く力」


 リナは、神殿の方向を見る。

 白い柱。

 祭壇。

 聖貨のある場所。


(あれが、正しさなら……)


「大丈夫」


 影が言う。


「代価の話は、今はいい。

 君が支払えるものは、いずれ必ず、

 君自身が差し出すことになる」


 それが、どれほど危険な言葉か、

 リナには分からなかった。


 彼女は、ただ――

 うなずいた。


 風が吹き、影が揺れる。


 それだけで、何かが終わり、

 何かが始まった。


 翌朝、神殿の祭壇には、

 消えたはずの聖貨が、戻っている。


 封印も、祈祷も、破られた形跡はない。

 まるで、最初からそこにあったかのように。


 リナは、それを見上げて、

 胸の奥が、ひどく冷えるのを感じた。


 ――これは、正しいことなのか。


 答えは、もう返ってこない。


 甘い声は、沈黙したまま、

 彼女の影の中に、深く溶け込んでいた。

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