第一章 境界の町と聖貨
この物語は、
「正しさ」や「秩序」が、必ずしも人を救わない世界の話です。
剣で戦う物語ではありませんが、
何を断ち、何を守るのかを描いています。
少し重たい内容ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
境界の町リェンは、朝霧の中で白く浮かび上がっていた。
交易路が交差するこの町の中心には、神殿がある。
灰白色の石で組まれた柱が円環を描き、天井からは巨大な秤の紋章が吊るされている。
人々はその下を通るとき、無意識に歩みを遅らせ、声を落とした。
神殿の奥、祭壇の上にはひときわ強い光を放つものがあった。
円形に磨かれた銀色の貨幣――聖貨。
それは通貨ではない。
町の秩序そのものだった。
「聖貨が在る限り、この町は正しく裁かれる」
司祭の声が、石壁に反響する。
朝の祈祷に集まった人々は、揃って頷いた。
「盗みも、偽りも、暴力も。
すべては神の秤にかけられる。
聖貨は、その証なのです」
リナは、背伸びをして祭壇を見上げていた。
銀色の光が、目に刺さるほど眩しい。
(これが……正しさ)
孤児だった彼女にとって、正しさはいつも遠いものだった。
殴られないこと。追い出されないこと。
それだけで、十分すぎるほどの願いだった。
「行くぞ」
低い声が、すぐ後ろから聞こえた。
振り返ると、石の民の男――グラディスが立っている。
灰色の肌。硬質な輪郭。
武器は腰に下げていないが、その立ち姿だけで、場の空気がわずかに張りつめる。
周囲の視線が、彼らに集まった。
ひそひそとした声。
好奇と警戒が入り混じった、重たい視線。
リナは慣れていた。
彼の隣に立つということは、こういうことだ。
二人は祈祷を終え、神殿を出ようとした。
そのとき、鋭い声が響いた。
「待て」
司祭のひとりが、祭壇の前で立ち尽くしている。
顔色が変わっていた。
「……聖貨が、一枚ない」
空気が、凍りついた。
人々の視線が、祭壇から、周囲へ、そして――
最後に、グラディスへと集まる。
「今朝、神殿に入ったのは誰だ」
司祭の問いに、名が挙がる。
商人、巡礼、町の者。
そして――異邦人。
「石の民の男と、その連れの子どもだ」
リナの喉が、ひくりと鳴った。
「違います!」
声が先に出た。
だが、その言葉は床に落ちたように扱われる。
司祭は、グラディスを見据えた。
「あなたは、何か言うことは?」
グラディスは、答えない。
背筋を伸ばし、視線を逸らさず、沈黙を守る。
それは彼の民にとって、誓いの姿勢だった。
軽々しく言葉を重ねることは、魂を安売りする行為に等しい。
だが、この町では違う。
「否定しないということは……」
「認めたのと同じだ」
囁きが、波のように広がる。
リナは、彼の横顔を見上げた。
石像のように動かないその表情に、いつもは感じる安心が、今はなかった。
祭壇の上では、秤の紋章がわずかに揺れている。
聖貨の光が、そこにない部分だけ、ひどく暗く見えた。
(正しさって……こんなに、簡単に傾くんだ)
そのとき、リナはまだ知らなかった。
この聖貨が砕かれる日が来ることを。
そして、その刃を振るうのが、沈黙を守り続けたこの男であることを。




