この婚約破棄、ちょっと待った!
「アーシェ! 突然だが、この婚約は破棄させてもらう!」
バンッとテーブルを強く叩きつける音と、低くけたたましい声が二人きりの書斎に響き渡る。
音の反響がしんと静まり返ったころ、アーシェがおもむろに口を開いた。
「……わかりました」
アーシェは淡々とそう答えると、ほのかに甘い香りのする紅茶を一口飲んだ。
さらりと垂れるエクルベージュ色の長い髪。
空を映したような蒼い瞳。
シルクのようにきめ細かい肌。
そのすべてが取り乱すこともせず、『婚約破棄』を受け入れていた。
「なっ……! なんでそんなに落ち着いていられるんだ!?」
「なぜって……ウォルター様が望むから、でしょう?」
かすかな笑みも見せず、やはりただ淡々と返す。
「いや……間違えた! この婚約破棄、ちょっと待ってくれ! これは練習だ! また次回……うん、次回にしよう!」
「あら、そうなのですね」
にこりと微笑んだ彼女は、また上品に紅茶に口をつけた。
──おっ、おかしい……!
こんなはずではない。
もっと慌てるアーシェが見れると思ったのに。
こうして俺の初めての“婚約破棄宣言”は失敗に終わり、そして、これが俺の初めての“婚約破棄ごっこ”となったのだった。
◆
「別れる別れる詐欺」という言葉を、巷で聞いたことがある。
その気がないのに恋人に「別れる」と言って、相手の反応をうかがうもの、だそうだが。
まったく。
そんなもので愛情を推し量ろうなど、度し難いとしか言いようがない。
そう思っていたのに、だ──。
婚約破棄宣言をしてから、数日経ったある日。
「アーシェ! 今日こそ、婚約は破棄させてもらう!」
俺はまた、温室の真ん中で宣言した。
太陽の日差しを受けて咲き誇る花々の中、彼女は白いドレスの裾を優雅に広げ座っている。
その可憐さときたら。
この世に咲くすべての花が、彼女を中心に咲き誇っているかのようにしか見えないではないか。
──美しい……! が、今日こそ……!
こんな華々しい舞台での婚約破棄。
普通なら、ためらうに決まっている。
少しくらいは、「そんなことおっしゃらないで」と引き留めてくるはずだ。
むしろそうしてほしくて、俺はわざわざこの温室を選んだ──のに。
「はい、かしこまりました」
なんということだ。
今回も即答で了承されてしまった。
「いや……今日はシチュエーションが悪い! こんな美しい花々に囲まれた場所で婚約破棄なんて、婚約破棄らしくない!」
「そうですか。たしかに、ウォルター様は雰囲気を大切になさる方ですもんね」
そう言って、アーシェは静かに花を愛でた。
──ああ、なんだその余裕は……!
こっちは今、全身全霊でやってるというのに。
だけど、その姿、気品な笑顔。
──すべてが可憐すぎる……!
ついさっき婚約破棄を申し出たことも忘れて、俺は彼女の隣にそっと腰を下ろした。
「アーシェは、花が好きなんだな」
「ええ。とても」
「……俺のことは?」
わずかに沈黙が落ちる。
その瞬間、俺はたまらず息を呑んだ。
婚約破棄を告げたときよりも、ずっとずっと緊張しているのがわかる。
アーシェはゆっくりと顔を上げ、蒼い瞳を俺に向けた。
「お花と同じくらい、眺めていて飽きません」
そして、にこりと笑った。
──いや、それって……どういう意味だ!?
花と同列なのか、それとも俺は観賞用の置物扱いなのか。
嬉しいような、モヤっとするような。
だが、そんな綺麗な瞳で見られている花と同じなら──別にまあ、悪くはないのかもしれない。
◆
こうして俺は、婚約破棄ごっこを続けた。
パターンその一。
庭園のガゼボでお茶をしている最中。
「アーシェ! やっぱり婚約破棄だ!」
「はい、承知しました」
「やっぱり違う! 今日の焼き菓子が美味すぎた! 天気もいい! 婚約破棄の日は雨嵐に限る!」
パターンそのニ。
食後のデザートを食べ切ったあとの食堂で宣言。
「もう本当に破棄!」
「はい」
「腹が満たされた状態での婚約破棄なんて……」
その他、多数。
細かいシチュエーションは違えど、結局はいつも同じ答えが速攻で返ってくる。
廊下、中庭、広間、どこでも──。
婚約破棄宣言は、茶番のように繰り返されたのだった。
◆
そうして一ヶ月後。
“婚約破棄ごっこ”を続けるうちに、俺はあることに気づき始めていた。
アーシェがあまりにもあっさりと婚約破棄を受け入れることに、引っかかりを感じていたのだ。
もしかしたら、本当に彼女は婚約を破棄したいのかもしれない。
だとしたら、俺との婚約が彼女の自由を奪っているのかもしれない。
──“ごっこ”は、もう終わりにしなければ……。
彼女を縛るのはやめて、解放してあげよう。
それが、本当にアーシェを愛するということなんだろう。
──この婚約破棄宣言を、最後にする。
手には一枚の紙。
この紙に署名をすれば、俺たちはもう他人になる。
そうだ、それがアーシェのため──そう思っても、苦しさで胸が締めつけられた。
「どうされました、ウォルター様。なんだか顔色が優れませんね」
静かな書斎で、アーシェの声だけが凛と響く。
その声に少しだけ救われた気がした。
目の前のソファに座っている彼女はいつも通り、冷静で落ち着いている。
俺は小さく息を吸い込んで、膝の上でぐっと拳を握った。
「アーシェ。今までありがとう。君に、婚約破棄を言い渡す」
紙を差し出す。
俺の名前は、すでに記入済みだった。
──自由になってくれ。
そう願いながらアーシェの顔を見たとき。
彼女の蒼い瞳に、一筋の光が走ったように見えた。
おかしい。
いつもと違う。
いつも二つ返事で返ってくる「はい」という言葉が、今日はない。
「アーシェ?」
不思議に思いながら名を呼ぶ。
すると。
「……本気、なのですか?」
アーシェの瞳が大きく揺らめいてる。
そして、その声はいつも以上に静かだった。
「ああ、今日は本気だ。婚約破棄、ずっと出来なくてごめんな。アーシェには自由に、幸せになってほしい。長い間ここに縛りつけてしまって、本当に申し訳なかった」
深く頭を下げた。
贖罪と、後悔と──もう他人になるという事実に心が激しく動く。
顔を上げられなかった。
そんな俺に、優しい声が落ちる。
「私の幸せは……あなたの隣にいることですよ」
アーシェは震える声で、しかし、確かにそう言った。
瞬時に言葉を返せなかった。
それは、想像以上の真実だったからだ。
「あなたの婚約破棄が本気じゃないなんて、そんなのわかっていましたから」
彼女は一瞬だけ目を伏せて、続けた。
「それに、私だって……本当に婚約破棄したかったら、もうとっくに赤の他人になってますよ」
なんて儚くて、尊い微笑みなのだろう。
天使か女神のような──いや、それ以上に美しい。
「アーシェの気持ちを試すようなことをして、申し訳なかった」
俺はソファから立ち上がり、彼女のすぐ横で跪いた。
「俺は不安だったのかもしれない。アーシェの愛情がこちらに向いていないような気がしていて。俺ばかりが好きなのかと思っていて。だが、もう試すようなことはしないと誓おう」
「私こそ。感情を言葉にするのは苦手だからと、ウォルター様からいただく愛情に、素直に気持ちを返せていませんでした」
アーシェは恥じらうように視線を落とし、それでも澄んだ声で続けた。
「いつも、愛してくれてありがとうございます」
蒼い瞳が宝石のように煌めいている。
わずかに紅潮している真白な肌は、可憐さを際立せていた。
──なんて……愛おしい。
そのまま彼女の手をすくい取って、小さな手の甲に口づけを落とした。
「アーシェ、愛している。これまでも、これからも、一生愛すと誓おう」
「はい。私も、一生あなたを愛します」
心も体も、甘く満たされていく。
婚約破棄ごっこなんてせずに、最初からこうしていたらよかったんだ。
アーシェはそっとまつ毛を伏せ、微笑みを含んだ表情で俺を見上げた。
「ひとつ、約束してください」
「ああ、なんでも約束する」
彼女は呼吸を整えるように息を吸い込んでから、小さく首をかしげて言った。
「もう……婚約破棄だなんて言わないでくださいね。言われるほうは、けっこう辛いんですよ?」
その微笑みを見てしまったからには──二度とそんな言葉は口にできるはずがなかった。
◆
それから幾日かが過ぎた、穏やかな午後。
俺たちは温室の中で花の世話をしていた。
「なんだか、ここで婚約破棄宣言されたのが遠い昔のように思ますね」
ふいに、アーシェがくすっと笑った。
「あのときは、俺も必死だった気がするな」
思い出したように、つられて笑う。
「実は……私も、ウォルター様のことを試したみたいなものなんですよ」
「俺を?」
「ええ。『はい』と頷いて婚約破棄を受け入れるフリをして……内心では、様子を見ていました」
アーシェは小さく肩をすくめる。
そして、イタズラが成功した子どもみたいな無邪気な笑顔を見せた。
その仕草が、なんだかずるいほど可愛くて、思わず笑みがこぼれてしまう。
俺たちは、きっと最初から、お互いを手放すつもりなんてなかったんだ。
「ありがとう、アーシェ」
「ウォルター様も、ありがとうございます」
重ねた手から彼女の体温が伝わってくる。
呼吸も鼓動も、ゆっくりとひとつに溶けていく。
やっと、本当の意味で──俺たちは隣に並べた気がした。
お読みいただきありがとうございました!
こんな婚約破棄もあるかもしれないよな、なんて思った作品です。
おもしろかった、サクッと読めた、などお気持ちを★に変えてくだるととても励みになります
(っ´∀`)╮ =͟͟͞͞ ★★★★★
また何かの作品でお会いできたら幸いです
ありがとうございました
葉南子




