ぽこ、ぽこ、ぽこ
ひとの記憶は、何歳ぐらいから始まっているものだろう。
平均値は知らないが、わたしの記憶は、今住んでいる土地に越してきた三歳ぐらいのころから、ぼんやりと残っている。
それは、風景。
家々は、板塀か、垣根に囲まれていた。
そこら中に野良犬や野良猫がいて、動物好きのわたしは片っ端から遊び相手にしていた。
道路はアスファルトには覆われていなくて、雨が降ると泥の道にコーヒー牛乳色の水たまりができた。わたしは赤い長靴を履いて、バシャバシャと水をはね上げて遊んだ。
空き地には、ドラえもんのアニメのように土管や材木が転がっていて、何の遊び道具がなくても子どもたちはそこに秘密基地を作って遊んだ。
時はざっと昭和四十年あたり。木製の電柱にはプロレスの興行や怪しいストリップのポスターなどが貼られ、辻々で買い物かごを下げたおばさんたちが立ち話をしていて、その横では落ち葉を路上で燃やしている老人がいたりした。
その風景の中に、何か現実離れした、異次元のような洋館が近所にあったのだ。
我が家から百メートルほど離れていただろうか。
「その家」にはまず、塀も門もなかった。目に入るのは広い芝生の前庭と、周囲に植えられた鮮やかな花々だ。
今ならその名前がわかる。大手毬、ラベンダー、合歓の木、蔓薔薇、ブルーベル。
その庭のあちこちに、白雪姫と暮らしていた七人の小人を思わせるような、赤い帽子の小人の像が七体、立っていた。
そして奥の家がまた、外国の絵本の中から抜け出したようなのだ。
オレンジ色の大屋根にはレンガの煙突が立っていて、屋根の途中に突き出した三角の窓が二つあった。
一階の幅いっぱいに広いベランダがついていて、突き出した庇との間を六本の柱が支えていた。ベランダの上からはキラキラ光るモビールが紐で吊り下げられて虹色に光りながら揺れている。家全体は美しい空色に塗られ、芝生から玄関に上がる五段ほどの階段の先には、小窓付きのブルーのドアがあった。
窓枠はみな白に塗られ、白い鎧戸がついている。窓枠や柱、梁と壁、屋根とのコントラストの鮮やかさは、その頃の日本の町並みではまったく見られないものだった。
花盛りのその洋館はまるで、昭和の住宅地にいきなり現れた異次元の世界、今で言えばターシャ・テューダーの庭のようだった。隣近所の垣根をくぐっては冒険ごっこを繰り返していた悪たれ軍団も、その家にだけはなぜか近寄らなかった。
芝生の前に立つ一本足のポストには「T」から始まる日本の名字の表札がついている。
その家に住んでいるのは、七十代後半から八十ぐらいに見えるお婆さん一人だ。下の名前すら、誰も知らない。
特徴的なのは、いつも花模様の描いてある大きな靴を履いていることだ。
まるで木靴のように、歩くとぽこぽこ音がする靴。
たいてい花模様のスカーフで頭を覆っていて、そのスカーフの下からは、まっ白でストレートな髪が、肩口まで流れ落ちている。
長いスカートをはいて、少し体を斜めにしながら木靴でゆっくり庭を歩いては、花がらを摘んだり球根を植えたり、いつも庭仕事をしていた。
鼻は高く、目はくぼみ、いつも無表情。そしてその足元を、つかず離れず、首に赤いリボンを結んだ黒猫がいつも歩いていた。
「ねえ、あの人いったい、いくつだと思う?」
ぽこ、ぽこ、ぽこ。
特徴的な音を立てて我が家の垣根の向こうを通り過ぎていく、背を丸めた白髪のお婆さんを見ながら、母は父に尋ねていた。
そこからの会話は、不思議によく覚えている。
「まあ、七十代後半だろうな。母さんはご近所の人から聞いたことがないのか」
「Tさんって苗字だけは知ってるわよ。でもあの人、誰とも会話しないんだもの。みんな言ってるわよ、こちらから挨拶しても頭を下げるだけで、何にも言わないヒトだから、素性は誰も知らないのよって」
「それにしても立派な家に住んでるから、まあ、金持ちなんだろう」
だいたいこんな内容だった。
名前からいって日本人なのだろうけれど、どこの国の人にも見えるし、どこの国の人にも見えない。
辻々に集まっては買い物かごを下げておしゃべりに興じる奥様達の群れには全く近寄らなかったので、母を含め誰も、そのTさんの素性を知らなかった。
いつ頃どこから来たのか、一人暮らしなのか家族はいるのか何歳なのか。
たまに少し離れた場所に住むご年配のご老人が通りかかり
「あの家はずっとあそこにあるし、あの人もずっとあのままの背格好で住んでいる。妙なもんだ」と言うのだという。
「そんなことってある? それじゃ今一体、いくつなのよ。姿かたちからしても普通の人じゃないわね」
母はいつもそう言っていた。
普通の人じゃない。その言葉がわたしをいっそうわくわくさせた。
Tさんは普通の人じゃない。大人がそういうなら間違いない。
あの人は、そう、きっと魔女だ。
じゃあ、あの庭のあちこちに立っている小人は、きっとあの人の家来なんだ。黒猫だって、魔女がよく使い魔にしている。
わたしは寝床に入るたび、あの怪しい家の夜の様子を思い描いていた。
誰もが寝静まった夜、七人の小人は地下室に入って、薬草を煮て、魔女の命令で魔法のジュースを作っているんだ。
魔女はお菓子で近所の子供たちをおびきよせて、ジュースをごちそうして、子供たちを眠らせる。
そのジュースを飲んだ子供たちは、起きるといろんな動物に姿を変えられているんだ。
この近所の犬や猫も、魔女が変身させた子どもたちかもしれない。隣の木にさしてあるオレンジをつつきに来る小鳥たちも、そうかもしれない。いや、もしかしたら、昆虫だって……
「一度、お庭に入ってみようか」と小学校の同級生のもりまさ君に誘われたことがある。
「だめだよ、きっと動物に変えられちゃうよ」わたしは野茨の茂みの間から、夢のような庭を眺めながら答えた。
「動物に変えることができるの? やっぱり魔女だから?」
「そういう外国の絵本、見たことがあるもん。実際に昔そういう魔女がいたから、そういうお話が残ったんだと思うよ」わたしは思いつくままに答えた。本を読むのは大好きだったので、同年代の子より、少しは多めに余計な知識が頭に入っていたかもしれない。
「魔女なんて童話の中にしかいないよ」
「昔はいたんだよ。そうして神父さまたちに裁判にかけられて殺されたの」
「悪いことをするから?」
「ひとに、魔法をかけるから」
「でも外国の話だよね」
「ここだけ、違うと思う」わたしは真剣に答えた。
「何が違うの」
「違う国の、違う時代が、ここにお引越ししてるんだよ。あの人、どう見たって、ここら辺のおばさんと違うじゃない」
「違うけど……」
「全部違うから、ここら辺の人とお話ししたくないんだよ」
「じゃ、どうしてここへ、何しに来たの」
「それを知ろうとするとね」
「知ろうとすると?」
「こっそり作った、薬草のジュースを飲まされて……」
がさり、と音がして、茂みの向こうにしゃがんでいたらしい魔女、いやTさんが立ち上がった。
「うわあっ」
派手な声をあげてもりまさくんは一目散に逃げだした。
Tさんは水仙の花束を手に、こちらを見ながらあら、と唇だけで言ってほほ笑んだ。
そして、花模様の木靴をぽこぽこ鳴らしながら、体を傾けてこちらに近づいてきた。
あんな物騒な話をした後だけれど、わたしは怖くはなかった。明らかに、好奇心の方が勝っていた。
「ここ、セーフ?」話しかけられる前にわたしは聞いた。
「セーフ?」Tさんは不思議そうな顔で聞き返してきた。
「おうちにはいってない? 入っちゃいけないとこにはいってない?」
Tさんはにこにこ笑いながら答えた。
「別に、塀がないんだから、少しぐらい入ってもいいのよ」
やった! この人とここまでお話しできたの、一丁目でわたしが最初なんじゃないだろうか。おまけに、笑顔だ!
「ときどき、うちを見てるわね」
近くで見ると、茶色く透き通った、ガラス玉のような目をしている。鼻先はつんと尖り、くっきりとした「ほうれい線」が、口の両脇まで刻まれている。
合歓の木からあの黒猫が下りてきて、背を伸ばしながらあくびをした。そして風車の描いてある木靴にすりすりした。
わたしはどぎまぎしながら答えた。
「だってあんまりきれいだから。おうちも庭も。お花がいっぱいあって、虫もいるから。蝶々もバッタも、緑色のカナブンも……」
「虫が好きなの?」
「好き。芋虫でも毛虫でも、好き。ガラス瓶に入れて育てて、さなぎから羽が生えてくるのを見るのが好き」
「そうなの。蝶々さんは綺麗ね。でも卵を産んでしまうと、幼虫になって葉っぱを食べてしまうから、わたしは困るのよ」
「じゃあ、わたしにくれたら、育ててあげるよ」
そこまで言って、わたしはしまった、と思った。
いつものおしゃべり癖が出て、この人を困らせているのかもしれない。
芋虫をいちいちわたしに渡すなんて、面倒だろうし、わたしもおせっかいすぎる。
「ごめん、今のは、なし。おば…おばちゃんちの虫は、おばちゃんのものだから」
「いい子ね」Tさんはにっこり笑ってくれた。
「そのセーフの位置で、見つけた芋虫があったら、持って行っていいわよ。そして、できれば瓶の中じゃなくて、あなたのお庭に放してあげて」
「うちのこと、知ってるの?」
「知ってるわ。お嬢ちゃんのおうちのお庭も、広いじゃない」
うちを知ってるんだ。わたしはなんだかときめいた。
実はうちもかなり広い庭があって、家は日系二世の人が立てた平屋の洋館だった。ただ、なんというかTさんの家のようにカラフルではなく、縦長の観音開きの窓がずらーっと並んだ、古い幼稚園みたいな家だとわたしは思っていた。
「じゃあ、お礼にうちのカナブンも、くっつけてあげようか」
「それは、まあ、遠慮しておくわ。わたしは虫よりお花が好きだから」
「わかった」
わたしは手始めに、合歓の木に絡みついた蔦にくっついていた芋虫をつまんだ。
「これもらっていい?」
「どうぞ」
「ありがとね!」
そしてわたしはひと言付け加えた。
「わたし、猫も好きだよ!」
そのまま一直線に家に駆け戻った。
あのひとと口をきいた。あのひとが笑ってくれた。おはなしもたくさん、してくれた。
ああ、ならばあのひとが普通の人間ではなくほんとうに魔女だったら、どんなにすてきだろう!
「ただいま。おみやげ」
台所のテーブルの上に芋虫を置くと、ラッキョウを漬けていた母がキャッと声をあげた。
「うまやんじゃないの。わたしいやなのよ、その茶色い芋虫」
母は塀の蔦に時々つく、目玉模様のある、新幹線みたいに顔のとがったその芋虫をうまやんと呼んでいた。つつくとどういうわけか、顔の部分が伸びるのだ。
「スズメガの幼虫だよ。これはコスズメかな。戦闘機みたいなかたちをしたスズメガになるんだよ」
「わかってるならもう育てる必要もないでしょ、捨ててらっしゃい。何匹育てたら気が済むの」
わたしは手のひらにスズメガの幼虫を乗せて言った。
「あのTさんと、お話ししてきたよ」
「ええっ、本当?」母は手を洗ってから、真面目に聞いてきた。
「誰とも口を利かないので有名なのに。何か聞いてきた? 何人暮らしとか、どこの生まれとか」
子どもがそんなこと聞くわけないじゃんと思いながら、わたしは答えた。
「虫より花の方が好きだって。それで、目についた芋虫がいたらとってっていいって。あと、わたしがここに住んでること、知ってた。ニコニコして優しかったよ」
「ふーん?ニコニコ、ねえ。聞いたのはそれだけ?」
「ねえ、ラッキョウむいた後の手って洗ってもくさいね」
「お父さんがこれ好きなのよ。わたしだっていやよ。ね、次に会ったら、ご家族がいるかどうか、聞いてみてくれない?」
「いやだ。どうでもいいもん」
魔女は七人の小人と黒猫と暮らしているのだ。その脳内情報だけでわたしは満足していた。
ところが、自分にとっては意外なことに、Tさん…… いや、ここは当時の妄想に忠実に、魔女と呼ぼう。一丁目の魔女との間は、それ以上縮まらなかったのだ。
道ですれ違うと、にっこり笑ってお辞儀をしてくれる。わたしはこんにちは、と言う。でもそれきりすれ違い、会話は始まらない。
それでもごそごそとTさんの庭先で虫を探していると、「いた?」とTさんはときどき聞いてくる。
「カタツムリがいる」とわたしは答える。
「あら、カタツムリはそのままにしておいてね。うちのお庭の仲間なの」
「うちにもいるよ。カタツムリ大好きなんだ」
「わたしもよ」
「ねえ、その腕に抱いてる猫、何ていう名前なの?」
「クロよ。見た通りの名前でしょ」
クロはにゃーう、と魔女の腕の中で小さな鳴き声をあげて返事をした。
「なでていい?」
「どうぞ」
毛並みのいい黒猫の頭をなでると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
そのまま、魔女は家に入ってしまう。結局三分以上、会話が続いたことはない。
やはり、子ども相手でも、口を利くのはあまり好きではないようだ。
聞きたいことはいくつもあった。
もしかしておばちゃんはクロと、お話しできる?
そのきれいな靴はどこで買ったの? 木でできているの?
小人さんたちとは、お友達なの?
本当はいったい、何歳なの?
でも、三分の会話では突っ込んだ話はできないし、相手がしゃべりたくないことは聞かない方がいい。
わたしにだけ笑いかけてくれる。短い話をしてくれる。それだけで十分だった。
魔女と、小人と、黒猫。そしてカタツムリ。わたしはみんな自分の脳内絵本の中にしまい込んだ。わたしはそのみんなが、大好きだ。
ときどき小人の配置が変わっていることがあった。一日中庭の警備をしているのだから、夜中に移動しているのだろう。
芝生の手前に一列に並んでいたときもある。わたしは小人たちに話しかけた。
「わたしに魔法をかけたら、どんな動物になると思う?
わたしは羽のある生き物がいいな。鳥でもいいし、ううん、おうちを持って移動できるカタツムリでもいいよ。猫でもいいな。
あの黒猫、あなたたちと本当は話ができるんでしょう?」
小人たちはむっつりした顔をしたまま、何も答えなかった。
「昼間は黙っているのが、お役目だもんね」
わたしは勝手に納得して、「いつかお友達になろうね」と手を振った。




