8話 アムネジアでも困惑はする
その悲鳴は太い――男と思われる声だった。
少女の悲鳴では無いことに若干安堵しつつ、ただし、少女が寝ている方から聞こえてきたので慌てて振り返る。
見えた人影は2つ。
片足で立ち、もう片方の足を振り上げた体勢で固まっていた少女が自然体に戻る。
対するもう一方は随分汚いが鎧……? を着た男が頬を手で押さえて尻餅をついている。
状況から考えるに、少女が男に対して回し蹴りを放ち、それによって男が倒されたとみるべきだが……何が起こっている? と、とにかく駆けつけないと、今の彼女は安静にしているべきだ。
素早く掃除用具を回収すると、オレは2人の下へ走った。しかし、その間にも状況は変化する。
尻餅をついていた男が勢いよく立ち上がり、憤怒で顔を赤く染めながら両腕を威嚇するように振り上げる。対する少女(背中を向けていて表情が読めない)は対抗するように両手を振り上げ正面から迎合し、いわゆる手四つと呼ばれる力比べの体勢になった。
な、何をやっているだッ、正気か!?
男は少女より頭2つ分も背が高くて体格の違いは明らかだ。体重の差はそのまま力の差となって現れる。どう考えたって少女が男に力で勝てるハズもないのだが……なんと、その力比べは拮抗していた。
男が必死の形相で力を入れているのに負けていない。いや、それどころか押している!?
力負けして段々と下がっていく男の頭の高さに、オレは近寄るのも忘れてその場に立ち尽くした。
なんだこれは……あまりにも非現実的すぎて理解が追いつかない。
いきなり始まったプロレス的な展開もそうだが、完全に物理法則を無視した目の前の光景についてもオレの精神が悲鳴を上げている。
もしかして、今オレが居るのはVR――仮想現実の世界なのだろうか?
想像しなかったといったら嘘になる。よくある映画や漫画の展開だからだ。
例えばアレは何年前だったか……国営放送でやっていた連続ドラマで題名は忘れてしまったが、主人公は現実と区別が付かない仮想現実のゲームのテスターをやっていて、やがて現実と仮想現実の区別がつかなくなっていくという、なんとも薄気味悪い展開に怖気がしたものだ。
オレが今居るこの現実もそうで無いとは言えない。
記憶喪失という状況、ホログラフ機能を搭載した時計、ワームホールに物質変換……疑いだしたらキリが無い。
ただ、オレの知っている最先端技術では仮想現実の創造には至っていない。
それにオレはこの山頂で目覚めてから1ヶ月、“ラグ”と呼ばれる処理落ち現象を経験していない。
それは現在まで人類が蓄積したコンピューター技術では逃れられない宿業。
コマンドをメモリに貯めて、その貯められたコマンドをCPUが一気に処理するときに発生する時間差異。
一つ一つの動作では生じないが、溜まったそれを解消するためにどこかのタイミングで必ず発生するそれは、コンピューター自体の仕組みと発想を変えなければ解決出来なかった筈。
まあ、それを回避する技術が何処かで発見されたかもしれないので断言はできないが……ぶっちゃけ、現実と仮想現実を判断する一番簡単な方法は「死んでみる」ことなのだが、それを確かめるために軽々と自分の命をベットすることは出来ない。オレは“お約束”で保護されたドラマの主人公ではないのだから。
そんなことをツラツラと考えていると、目の前では完全に男が膝を屈してしまっていた。
……やっぱり此処はVR世界なのかしらん?
理論武装したというのに、もう一度疑ってしまうほどに目の前の光景は非現実的だ。
漫画だってこんな奇想天外な展開はない。それこそ、ミュータントとか能力者同士の対決を描いたジャンルではない限り……!?
思考が一つの回答に辿り着きそうになった瞬間、跪いた男に向かった放たれた少女のヤクザキックが顔面に突き刺さり、男を2回転ほど転がした後に仰向けに寝転がす、そんな衝撃的な光景にオレの思考は吹っ飛んだ。
――そうだッ、プロレスだ! プロレスだったら色々と説明が付く!!
少女が改造セーラー巫女服を着ているのも、ネコ耳や尻尾を生やしているのも……男が仰々しいバンデットアーマー(?)を着ているのも、顔が妙にネズミっぽいのも、体格が全然違うのに力負けしてしまったのも、全ては演出! オレを驚かせるための演出なのだ!! ……………………って、そんなワケないか。
ネズミ男にトドメを刺すべく足を踏み出した少女に現実逃避を止め、オレは肩を掴んで振り向かせた。その表情は暴力を振るう興奮に美しく歪んでおり、思わず悲鳴を上げそうになったが丹田に力を込めて踏み留まる。
「ダメじゃ無いか! 君は大きな衝撃を受けている。安静にしていないと倒れるぞ」
「%&#!! $LJ#+9KDE%$……S<TF!?」
相変わらず何を言っているか分らないが、邪魔をするなとか言っているのだろう。肩に置かれたオレの手を払い、なにやら激高した様子で睨みつけてくる。
凄く美人な分、怒りで歪むと滅茶苦茶怖い。
先ほど発揮した力を向けられたらオレなんて一溜まりも無い。先ほどのオレに向けられたパンチは随分と手加減されていたんだろうさ。しかし、これは譲れない。オレが彼女を撥ねたのはほんの一時間前で、今後どんな後遺症が出るか分らない。そんな少女の荒事を見守るなんて、オレの誇りが許さない。
状況は全く分らないが、この伸びている男を拘束するなり、山の麓まで運搬すればよいのだろう。出来れば前科が付くのは勘弁して欲しい。話し合いで決着すればいいんだけど……駄目な時は弁護士を通して交渉することにしよう。
そんなオレの意図が伝わったのか、少女は不満そうな表情をしつつも頷いてくれた。そしてオレをネズミ男の方へ向かって力強く押し出す。
オレは少女の筋肉密度に想像を巡らしつつ、ポケットからガチャ産の太い麻縄を取り出してネズミ男に近付いた。コレが出てきたときは、こんなSM用品、何に使うんだと思ったけど、ダンボールを一纏めにするときとか良く使っている。麻紐≒SMとか発想が出てくるなんて、オレは二十代じゃないかもしれないな……
そんな感じでやりたくない作業を前にまごまごしていたらネズミ男が復活した。
凄い声で叫び、バネのように飛び起きる。次いで屈辱に身を震わせてなにやら叫び続けているが、立派な鎧を着ているのに、コスプレ少女に手も足も出なかった男に脅威なんて感じるわけがない。ついでに言えば、体調の悪い少女に暴力を振るおうとしていたことからして印象は最悪だ。いつも出てくるグ○ムリンに似たモンスターほどの威圧感も感じないし、とっとと拘束してしまおう。
何をするか分らないので、一応身構えてネズミ男の出方を見ていると、背中から出ている柄のようなモノを握り、ズラリと刃物を取り出した。その長さは1mほどだろうか? 明らかに武器と呼べるサイズだ。
………………流石にコレは予想外だ、どーしよ。
オレは額に大量の冷や汗が浮き出るのを感じながら、憤怒で血管が浮き出たネズミ男と対峙した。