怪我の災い
無事、山登り遠足は終了した。家に帰ると、またいつもの日常に戻ってきたのだと、安堵する気持ちと少し寂しい気持ちになった。まず、初めに竹刀を握って稽古場へ行く。たった、1泊2日の遠足だったが、その間にも努力し続けていた同志はいる。俺は次の県大会に向けて、絶対に努力を怠ってはいけない。剣道は稽古量と質が結果に大きな影響を与える武道だ。浮かれていた気持ちに気を引き締めて、夜、稽古を始める。
「よろしくお願いします」
「蓮。疲労は大丈夫なのか?」
「バスの中で寝て取ってきました。大丈夫です」
師匠との稽古曜日ではないので、今日は父さんと共に励む。初めに試合をした後、いつもならすぐ改善点を言われて、それを直すためにすぐ稽古を始めるのだが、父さんは竹刀を下ろすと俺の目を鋭い眼差しで見てきた。俺は一体何なのだろうかと、目をオロオロさせていたが、すぐさま父さんは言う。
「蓮、脚が痛いんだろう」
「え」
「脚を引きずっている。以前、稽古で直したはずだろう。その後も練習を怠っていなかったお前が急に足を引きずるなんて、たとえ遠足に行って何もしていなくてもないはずだ」
「うん。遠足で1回捻っちゃった」
「馬鹿野郎!怪我をしている状態で真面な稽古が出来ると思うな。その脚が完治するまでは稽古に行くことと素振りすることを禁止する」
「素振りくらいは良いじゃないか!」
「下半身使わずして素振りなど出来るか。剣道は常に一心一体となっていなければ意味をなさない。余計な癖を付けようとするな」
父さんはさっさと胴着を脱ぐと、竹刀をしまって稽古場を出た。俺は勢いに圧倒されてその場に立ち尽くしていた。脚が痛いのは自分でも分かっていた。だが、それはカバー出来る程度のものだとなめていた。父さん曰く、これはとても重要なことで、健康な体ではないとちゃんとできないのだろう。
理に適っていることに俺は何も言うことが出来なかった。反論のしようが無い。
大人しく竹刀を片付けると胴着のまま稽古場を後にする。
「はぁ~」
久しぶりに溜息をした。よく、溜息をすると幸せが逃げていくと言う言葉があるが、今の俺は逃がす幸せも無かった。自分の大好きなものが出来なくなることの絶望に、大会までに治るかどうかの焦燥感にとらわれていた。
近所の広場のベンチに座って、身をかがめていた。胴着のポケットからバイブ音がする。スマホの画面を開くと、電話マークが表示されていた。誰かも見ずに適当に出た電話。どうせ、家族か陽成だろう。
「もしもし」
今にも闇夜に消え入りそうな掠れた声で応答する。電話越しの人は女性だった。ならば母親だろう。家に帰ってきなさいというのだろうか。課題について問うのだろうか。晩ご飯だと伝えてくるのだろうか。
「紅宮君?」
「み、御幸?」
驚いて掠れていても声量のでかいおかしな声が出てしまった。俺は電話番号を繋いでいないはずなのだが?疑問が残るまま電話を続ける。
「今忙しかった?ごめん。また後でかけ直すね」
「待って」
御幸の声を聞いて、聞いたことを脊髄をたどって脳に信号が行き渡る前に、反射で言ってしまった。
「どうしたの?」
「いや、御幸は?」
「お母さんが今度また旅館に来てって言ってたこと伝えたくて。直接言えば良かったね」
「ううん、ありがとな。今度また家族と来るわ」
「……大丈夫?何かあったの?」
何で分かるんだ。たしかに今は落ち込んでいる。だからといって、それを悟らせたくなくてなるべく声色は変えないようにしていた。
「何も無いさ。ありがとな」
電話を切ろうと思った。通話終了のボタンを押そうとしていたところに、御幸の少し焦った「待って!」という声が響いた。
「今どこにいるの?」
淡々とした口調に戻った。
「広場だけd」
プツ
切れた。まずい。この感じだと絶対に御幸もここへ来るだろう。こんな夜遅くに夜道を歩かせてしまうことになるのは嫌だ。
何をすればいいか戸惑っていると、かけ直せばいいと気づく。
「…………」
出なかった。
俺は御幸の家を知らない。だからどこにも行けない。どうせ来るのなら、ここで待ったほうがいいのだろうか。
10分ほど経つと、向こうの方から長い髪をファサファサとなびかせながら駆けて来る人の影が見えた。
「紅宮君」
「御幸、危ないよ、こんな時間」
「それは君も同じだよ。今日は稽古しなかったの?」
「『しなかった』んじゃなくて『出来なかった』んだ」
顔をしかめながらつい、棘を刺すような言い方になってしまった。御幸は俺の心情を察したのか、眉をハの字にして隣に座った。
「もしかして、脚?」
「……うん」
「すぐに完治はしないよね。でも胴着着てるね」
「俺は稽古をやろうと思ってたんだけど、父さんが止めたんだ。完治するまでは素振りも禁止された。確かに、その方が早く治るし、最適だと思うんだ。だけど、県大会がもうすぐあるのに周りと後れを取ることを考えると愚策だと思う自分がいる。これでもし、ちゃんと治っても努力が足りなくて負けてしまうかもしれない。そう考えたらすごく恐ろしいんだ」
「大丈夫。紅宮君の剣道は、少しワイルドな感じもするけど、洗練された無駄のない動きでとても綺麗。竹刀を持ってる時の紅宮君の顔は真剣。通り過ぎちゃいそうなくらい真っ直ぐな眼差しで剣道やってる」
御幸は淡々と俺の剣道を褒めてくれた。表情のバリエーションは多くないものの、言いたいことは俺の胸にすんと落ちてきた。
「いつまでもぐだぐだしてるべきじゃないな。御幸、ありがとう」
「うん。大丈夫、紅宮君ならいける」
今俺は凄い勇気をもらった気がする。たった、「大丈夫」と「俺ならいける」の言葉で全身に血が回った。
「送っていくよ」
「脚痛いんだから、まっすぐ家に帰って」
「大丈夫。今はアドレナリンが出てるんだ」
「それ後で痛くなるやつだから」
「頼む。俺のせいでこんな夜遅くにここまで来させちゃったんだ。責任もって送らせてくれ」
「……わかった」
とことこ夜に2人きりで歩くのは、どこか新鮮な感じがする。御幸は俺の脚を気にしているのか、気持ち少しゆっくりめに歩いてくれているのが伝わる。
「そういえば、旅館のお手伝いっていつから始めたの?」
「15歳から」
「きっかけとかは何かある?」
「元々お母さんが旅館を営んでる所をよく見てて小さい頃からやりたかったけど、まだ小さいからってできなかったの。それから15歳になって、許可をもらえた感じ」
「そしたら大人になったら旅館継ぐの?」
「そのつもり」
「格好いい」
「紅宮君は?」
「俺は剣道をやり続けるよ。剣士の道は簡単に捨てたくないんだ。敬意をもって最期までやり抜きたい」
「紅宮君の方が格好いいじゃん。頑張ってね」
「うん、ありがとう」
ちょうど会話に一区切りついたところで、御幸の家についた。家はあのお邪魔した旅館とはまた別の場所のようで、綺麗な洋風の家が目の前にあった。
「ありがとう。おやすみなさい」
「俺の方こそありがとう。良い夢を」
玄関の扉がしっかり閉まったのを確認してから、俺は帰路へとついた。
「遅いぞ蓮」
「ごめんなさい。友達に会って送ってた」
「うん。後でトレーニングの方法教えてやる」
「ありがとう」
そうだ。きっと父さんだって好んで俺に剣道をさせないわけじゃない。俺のことを考えてくれているんだ。頭の中で分かっていても、心が納得していなかったが、今ちゃんと腑に落ちた。しっかり休んで早く回復しよう。
そして、後で父さんから吐きそうになるほど厳しいトレーニングを教えてもらった。