「月光の最終話」第三話 そして『ぬ』は新天地を得る。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
朝、雨戸を開けたぼくは地面に視線が釘付けになった。
「足跡だ」
『ぬ』のものにまちがいない。
森からやって来て、ぼくの部屋の前でしばらくうろちょろして、
そして庭園の方へと向かっているのがわかった。
「起こそう」
ぼくはまず深冬ちゃんの部屋に行った。
深冬ちゃんは眠そうだったけど、『ぬ』のことを言うと元気に起きてきた。
そして千秋ちゃんの部屋に行く。
そしてノックしようとしたんだけど、ドアを見て手が止まる。
「こ、これ、なに?」
ドアには白い短冊状の紙が何枚も貼られていた。
みると毛筆で書かれた難しい漢字がいっぱい書かれている。
しかもどうやって貼ったのかわからないけど、ドアと壁を封印している。
「お札だよ。
千秋お姉ちゃんは悪霊退散って言ってたよ」
「む、むう。
……で、効果あるの?」
「あるよ。
これを貼ってから、
千秋お姉ちゃんの部屋の周りから、嫌な気配がなくなったもん」
「嫌な気配?
なにそれ?」
「うん。悪霊だと思うよ。
深冬、霊感あるからわかるんだ」
……なるほど、ぼくと同じか。
ここでぼくは深冬ちゃんと霊感が強い者同士ということで、
話がしたいと思ったんだけど、事態は急ぎを要するので止めにした。
「で、この札は毎晩誰が貼るの?
千秋ちゃん本人にはできないよね」
「深冬だよ。
……毎晩、大変なんだよ。
丁寧に貼らないと千秋お姉ちゃんに怒られるから」
大変な姉を持ったもんだ。
ぼくはひそかに深冬ちゃんに同情した。
「ねえ、
これから起こす訳なんだけど、
封印ははがしてもいいのかな?」
「ダ、ダメだよお。
お姉ちゃんに怒られちゃうよ」
「じゃあノック?」
「それもダメだよお。
絶対に起きないよお」
聞けば電話がいちばんいいらしい。
ぼくたちは居間まで戻り、内線電話をかける。
『む、むあ』
「むあ?」
妙な声が聞こえてきた。
どうやら寝ぼけているらしい。
「亘だよ。
ねえ、起きて」
それからが大変だった。
いくら呼びかけてもぜんぜん目を覚ましてくれない。
挙げ句の果てには通話を切られる始末だ。仕方なく何度もかけ直す。
「ぬ、が出たんだよ。足跡がいっぱいあるんだ」
しびれを切らしたぼくが叫び気味に言う。
『それを先に言うべき』
元気のいい返事がある。
今のひとことですっかり目が覚めたようだ。
そして三分後、上下がつながった厚手のつなぎ姿、
両手には分厚い革手袋をはめた千秋ちゃんが姿を見せた。
「なんか動物園の飼育員さんみたいだね」
「これくらいしないと危険」
それからぼくたち三人は庭に出る。
そして足跡を追った。
ぼくは内心どきどきしていた。
もしかしたら『ぬ』を見ることができるかもしれない。
そしてもしかしたら罠に『ぬ』がかかっているかもしれないんだ。
「千秋お姉ちゃん。『ぬ』いるかなあ?」
「わからない」
そりゃ、わからないだろう。
だけどぶっきらぼうに答えた千秋ちゃんだけど、
言葉にどこか期待がこめられている気がした。
そして大きな庭石が見えてきた。
あの向こうに罠があるのだ。
「あ、ああっ!」
いたっ!
四角い檻の中で、
茶色い毛むくじゃらが、うずくまっているのが見えたのだ。
「い、行こうっ」
気がつくとぼくたちは、
ぜんいん駆け足になっていた。
「タヌキみたいだよお」
深冬ちゃんが毛むくじゃらを指さしていう。
「タヌキと違う。
尻尾にシマシマ」
「ホントだ。
でもタヌキにしか見えないけど……」
そうこう言っていると『ぬ』が顔を上げた。
かわいい顔だった。
だけど思いっきりぼくたちを警戒して、ウウッと唸り声をあげている。
「アライグマ。予想通り」
「へ? アライグマ?
……ラスカルだっけ?」
「そう。ラスカル。
……アニメの影響でペットとしてたくさん飼われて、手に負えず捨てられた。
そして増えて問題になっている」
なんか人間って身勝手。
そう思った。
「ちょっと尻尾がかわいいっ」
太くてシマシマな尻尾とつぶらな瞳が深冬ちゃんの琴線に触れたようだ。
かがみこんで檻の中に指を入れようとしたのだ。
ガウッ。
「きゃああっ」
アライグマが噛みつこうとした瞬間、
深冬ちゃんが身を引いた。
いや、千秋ちゃんに力ずくで引っ張られて尻餅をついたのだ。
「いたあーい」
「痛いで済んで幸い」
千秋ちゃんがきびしい目を深冬ちゃんを見る。
「アライグマは凶暴。
子供の手首くらいかんたんに噛みちぎる」
「そ、そうなの?」
知らなかった。
こんな室内犬くらいのかわいい動物がそんな恐ろしいなんて思いもしなかった。
「ふ、ふわあああああああん」
今その怖さに気づいた深冬ちゃんが泣き出した。
「もう大丈夫。怖くない」
そんな深冬ちゃんの頭を千秋ちゃんがやさしくなでる。
そんな姿にお姉さんを見た。
朝ご飯の時間。
場所はいつもの居間だった。
食卓には大皿があって、ボイルしたてのウインナーが盛られている。
もちろんたくさん買った、あのウィンナーだ。まだたくさん残っているのだった。
「アキ、アライグマを捕まえたんだって?」
夏希ちゃんだった。
情報が早い。おそらく深冬ちゃんに聞いたのだろう。
「そう」
自分の皿にウインナーを取りながら、千秋ちゃんが答えた。
「まだ檻に入れているんでしょ?
なんだか悪いこともしていないのにかわいそうだわ」
全員分のお茶碗にご飯をよそいながら、春菜ちゃんも言う。
どうやら深冬ちゃんは春菜ちゃんにも伝えていたようだ。
「仕方ない。『ぬ』は害獣指定」
「害獣? なんで?」
すると千秋ちゃんは真剣な顔になる。
「生態系の破壊と農作物及び家畜、ペットへの被害」
「は……?」
なんだか難しい単語が並んだ。
「生態系への被害って、どういうことかしら?」
「タヌキが減った」
説明によると、
タヌキなどの日本古来の動物が生存競争に負けてしまうらしい。
「ミシシッピアカミミガメと同じ」
「ミシシッピ? なにそれ?」
夏希ちゃんが首を傾げる。
「縁日で売ってるミドリガメ。
これが野生に放たれてクサガメやイシガメが減った」
「つまり、
タヌキさんが生きられないってこと?」
「そう」
深冬ちゃんの疑問に千秋ちゃんは即答する。
「あのさ、農作物うんぬんってのは?」
「モモとかの甘い果実が狙われる。
木登りが得意だからぜんぶ持ってかれる」
「へ、へえ……」
ぼくは引き気味に答える。
聞けば、
木だけじゃなくて雨樋とかでもどんどん登るから、人家にも被害が出るらしい。
天井裏に巣を作られてしまうのだ。
「家畜やペットっていうのは、
やっぱり食べられちゃうってことかしら?」
「そう。
鶏とか金魚とか。……貪欲だから」
アライグマって大変な動物なんだな、って思った。
見た目とは大違いだ。
「あの、
……千秋お姉ちゃん?」
「なに?」
「あの、
……ア、アライグマさん、これからどうなっちゃうの?」
一同、息をのむ。
質問したのは深冬ちゃんだけど、ここにいる全員が思っていることだ。
「常識だと駆除」
「く、駆除?」
思わず大声を出してしまった。
そのくらい驚いたのだ。
「ちょ、ちょっとアキ、それはかわいそうだよ」
「そうね。
少しかわいそうね。ウチで悪さをした訳じゃないわ」
「うーん。
……確かにかわいそうだけど、こういうのは決まりなんでしょ?
逃がしたりエサをやったり、勝手に飼ったりしちゃいけないんじゃないかな?」
ぼくは想像してみた答えを言ってみた。
「当たり」
千秋ちゃんは短く即答する。
「ええっ。『ぬ』は悪くない。
なんにも悪いことしてないよお……」
深冬ちゃんの語尾はかすれた。
泣いているのだ。
「大丈夫。対策は考えてある」
千秋ちゃんが自信を持ってそう答えた。
それがなんなのか誰も問わない。
きっとこういうときの千秋ちゃんは絶対で、尋ねても教えてくれないし、
任せても平気ってことが姉妹の中で決まっているのだとわかった。
その夜。
ぼくはなぜか黒装束に着替えさせられていた。
ひとことで言えば忍者の服だ。
そして千秋ちゃんは昨日のような迷彩服姿だった。
ただし、もっと色が濃くて夜間作戦用らしい。
「じゃあ行く」
「ちょっと、待ったあっ」
先に行こうとする千秋ちゃんの袖をぼくは引っ張った。
「痛い」
「痛いじゃないよ。
説明してよ。これじゃ、なにがなんだかわかんないよ」
すると千秋ちゃんはぼくに向き直る。
「『ぬ』を助けるために、
今夜作戦を起こす」
「は?
……まあ、主旨はわかったけど、具体的にどうするの?」
「ある施設に連れて行く。
そこには仲間がたくさんいる」
「えっ?
アライグマがたくさんいるの?」
「そう」
それだけ言うと、千秋ちゃんは外に出た。
明るい月光の下、黒いカバーがかけられているカゴを指さす。
「『ぬ』だね?」
「そう。
これを運ぶ」
「えっ?
けっこう重いけど」
「大丈夫。
クルマで運ぶ」
助かったと思った。
これを手に持って移動するなんてキツすぎる。
まして中は凶暴な動物がいるのだ。うっかり噛みつかれたら大変だ。
しかしクルマを眼前にしたとき、
ぼくは言葉を失った。
「な、
……なに、これ?」
「亘は知らない?」
「知らない。
見たこともない」
それは、大きな台車みたいな形だ。
天井のない大きな木箱の両側に大きな車輪がついている。
「リアカー」
「リアカー?
なにそれ?」
「むかしのトラック」
なるほどと思った。
自動車が普及する前に、人々はこれで荷物を運んだんだろう。
「これに自転車をドッキング」
すると事前に準備してあった年代物の自転車が現れた。
荷台にリアカーと接続する金具がついている。
「なるほど。
これなら大丈夫」
「ホントに大丈夫?
運転するのは亘」
「げっ」
思わず唸る。
なぜならば荷台には『ぬ』と千秋ちゃんが乗ったからだ。
まあ、なんとかなるだろう。
それからぼくたちは月で明るい夜道を進んだ。
幸い平地が多くて自転車をこぐのに苦労は少ない。
「で、どこに行くの?
遠くの山の中にでも放すの?」
ぼくは自転車を止めて振り返る。
そうしないと千秋ちゃんが見えないからだ。
「違う。
……動物園」
「ええっ、動物園。
……マ、マジっ?」
「マジ」
聞けば、動物園は実はここからあまり離れていないらしい。
昨日は街中まで出たので電車に乗る必要があっただけなのだ。
「……だけど、
動物園がよく許可してくれたね」
「無許可」
「うはっ。
犯罪者だ」
「非常事態。
だけど『ぬ』は需要がある。
動物園にいた『ぬ』の仲間は年寄りばかり。『ぬ』は若い」
「それにしても。
……って、それにしてもだけど、だいいち入れるの?
夜は閉園しちゃうんでしょ?」
「ぬかりない。
夜間警備システムの位置は確認済み」
千秋ちゃんが動物園で単独行動を取ったのは、
なにもアライグマを見るだけじゃなかったらしい。
すでに志木家に出没しているのがアライグマだと検討をつけていて、
そして捕獲後のことも考えて、動物園を下見したのだ。
そしてその際に夜間の侵入経路も確認済みらしい。
「……それでいいのか、動物園」
作戦がうまくいくと、
翌朝には飼育アライグマが一匹増えていることになる。
動物園に思わず同情してしまう。
見上げると雲ひとつない月夜。
それから小一時間でぼくと千秋ちゃんは無事に動物園に着いた。
そして乗ってきた乗り物をフェンス脇の茂みに隠す。
手には『ぬ』。
「あった」
そこには小さな小屋があった。
窓がない小屋で見た目からして電気関係の小屋らしい。
「鍵は、
……あれ、かかってない」
「それは昼間確認済み」
「これでいいのか、動物園」
そして手にした懐中電灯で千秋ちゃんは室内を照らす。
すると大きな配電機械の脇にスイッチボックスがあった。
「注意。夜間施錠及び夜間警報スイッチ。
……って、本当にあった」
「これも確認済み」
ボックスを開け、千秋ちゃんが施錠と警報のスイッチを切った。
すると外でガチャリと音がした。
おそらくたぶんフェンスにあったドアの電気錠が開いたのだ。
そしてぼくたちは、
非常用のドアをゆうゆうと開けて、夜間の動物園に進入したのだ。
……重ねて言う。これでいいのか動物園。
それから、ぼくたちはまずは一般用の入り口へと向かった。
そこには園内図があるからだ。
夜間システムは切ってあると言っても、
もしかしたら宿直の職員とか警備員に見つかるかもしれない。
だから余計な経路は通りたくないのだ。
「アライグマの園舎は、
……あ、ここだ」
「割と近い。
それも確認済み」
それからぼくたちは、
アライグマ舎に向かうことにした。
ところが困ったところがある。
僕達がいる南園からアライグマ舎がある北園に行くには、
ふれあい橋という陸橋を渡らなくてはならないのだ。
これは目立つ。
陸橋は真下に走る県道をまたぐためのもので高さがある。
そしてそこは明るい街灯があるのだ。
「行くしか、
……ないか」
ぼくと千秋ちゃんはなるべく街灯の影を選んで歩く。
だけどときどきは明かりの下に身体が出てしまい。
足元に濃い影が浮かぶ。
そしてようやく渡り終えた。
どうやら無事に見つからずに済んだようだ。
ところである。
ぼくたちが渡り終えて、再び園内の地面を歩き始めたときだ。
背後のふれあい橋に四つほどの懐中電灯の明かりが見えたのだ。
警備員に間違いない。
「まずいよ、千秋ちゃん。
見つかったかもっ」
ぼくが叫ぶと千秋ちゃんも背後を見た。
「やり過ごす」
そう言うと千秋ちゃんはぼくの手を引いて、
手近な茂みへと踏み入った。
そして息を殺した。
「うあっ、なんだあれっ」
ぼくは小声で叫んだ。
街灯に照らされて警備員たちがあらわになったのだけど、その姿が異様なのだ。
「……ライオン、トラ、オオカミ、ヒョウ?」
そうなのだ。
四人の警備員の頭がみんな猛獣だったのだ。
それはさすがにもちろんかぶり物なんだろうけど、
造りがリアルで悪い冗談としか思えない。
四人は無言のまま手に手に大型の懐中電灯を持っていて、
辺りを照射しながら歩いて来る。
そしてそのままぼくたちの隠れている茂みを通過する。
「……助かった」
そう思った。
だけどその内のオオカミがふと足を止めた。
そしてまずいことに、こちらに近づいて来たのである。
「……見つかりませんように」
「大丈夫」
短い千秋ちゃんの言葉に不思議な力を感じた。
千秋ちゃんがそう言うなら本当に大丈夫って気がしてきたのだ。
そしてそれは本当だった。
オオカミはしばらくの間、ぼくたちが潜む茂みを照射していたけど、
やがて首を振って去って行ったからだ。
「……ふう、助かった」
「それは同じ」
その後、ぼくたちは誰にも見つかることなく、
無事にアライグマ舎へと到着したのであった。
「着いた」
腰の高さまでのコンクリート壁があって、
脇に看板があってアライグマの表示が見えた。
ぼくは壁から下を覗く。
すると何匹もの毛むくじゃらが動き回っているのが見えた。
飼育舎狭しとうろうろと歩き回っているのだ。
「活発だね」
「もともと夜行性。
昼間は寝てばかり」
「でもどうやって『ぬ』を檻から出すの?
下までカゴごと落としても出られないだろうし、直接触ると危険なんでしょ?」
そうなのだ。
アライグマ舎の地面まで、目視でざっと二メートルもある。
仮に『ぬ』が暴れなくてもだっこしたままじゃ降ろせそうにはない。
「裏に回る」
「なるほど」
ぼくたちはアライグマ舎の背後に回る。
すると飼育員用の出入り口があった。
でも鍵がかかっていた。
ここは夜間警備システムの鍵じゃないので開いてない。
番号式のワイヤー錠だったのだ。
「ぬかりない」
背負っていたリュックを千秋ちゃんは開けた。
するとじゃらじゃらと工具が出てくる出てくる。
そしてその中からワイヤーカッターを取り出した。
「切れない」
見るとワイヤーはそうとう太い。
それに対して用意してきたカッターは小さかったのだ。
「……ねえ、ダメ元でぼくがダイヤル回してみるよ」
ぼくはダイヤルを回そうとする。
そこには四桁の数字を合わせる仕組みになっていた。
もちろん正しい数字なんて知ってる訳がない。
「うーん。……えい、今日の日付にしよう」
ぼくはダイヤルを回した。
「う、嘘だろっ……」
ぼくがいちばん驚いた。
なぜならば鍵がかちゃりと開いたからだ。こんな偶然ってあるんだろうか……。
「亘は不思議な力を持ってる」
千秋ちゃんがそう言ってうれしそうな顔になった。
まあ、単にここの数字錠の四桁番号が、
いつも日付すると決まっていたのかもしれない。
そしてドアが開いた。
ぼくと千秋ちゃんは、
こうやってうまく『ぬ』を仲間たちと合流させることに成功したのであった。
そして表に周り、コンクリート壁の下のアライグマ舎を見る。
すると月光の下、最初は警戒していた『ぬ』だけど、
だんだん打ち解け合って、二十分もすると仲良くなっていた。
互いの顔をなめ合っているのだ。
「よかったよ」
「うん」
「なんだかうれしいね」
「うれしい」
ぼくたちは気がついたら、自然に肩を寄せ合っていた。
どうしてだろう、ぼくはなぜかいつものようにどきどきせずに、なんだか安心を感じている。
そんなときだった。
「うひゃ……」
ほっぺたになにかが触れた。
あったかくて柔らかいなにかだ。
「な、なにごとっ?」
「なめた」
「ええっ?
えーと、千秋ちゃんがぼくのほっぺたをなめたってこと」
みると迷彩服の千秋ちゃんがこくんと頷いた。
「『ぬ』の真似。
仲良くなった印」
「そ、そうなんだ」
なんだかうれしくもあり、はずかしくもある。
「だから亘もなめる」
「ほえっ、
……ぼ、ぼくも?」
「そう。仲良しの印」
そう言って、千秋ちゃんはそっと目と唇を閉じたのだった。
……え、ええっ。
急にどきどきしてきた。
千秋ちゃんはほっぺをなめろ、と言った。
でも目と唇を閉じたってことは……。
「う、うう……」
ぼくは千秋ちゃんの顔にそっと自分の口を近づける。
首と口が緊張でかちかちに固まっている。
そして、なめた。
同じほっぺたなのに、
千秋ちゃんのは甘い香りがして、とっても柔らかかった。
「ふむ。……いくじなし」
じっとぼくを見つめる目。
月の明かりできらりと光っている。
「へ?」
「いい。
帰る」
そう言って千秋ちゃんはもう一度『ぬ』を見て、来た道を戻り始めた。
ぼくも名残惜しく『ぬ』の姿を見てから、千秋ちゃんにつづく。
そうしてふれあい橋に到着したときだった。
「……まずい」
また警備員である。
待ち伏せしていたのか、それとも偶然なのかわからないけど、
橋の向こうで四つの懐中電灯の明かりを見つけたのだ。
その明かりは留まっていなくて、
こちらの方に間違いなく近づいてくる。
……そして橋の上で止まった。
「困ったな」
「同意」
ぼくたちが侵入して、
リアカーを残した南園は橋を渡らなくては絶対に行かれない。
だけど警備員たちはどうも橋の上で居座りを続けるようで、
ライトがぴくりとも動かないのだ。
「待ち伏せされてるのかな……?」
「可能性は高い」
ぼくは思案する。
だとするときっとこのまま警備員は動かないだろう。
するとやがて朝になる。
すると否が応でも見つかってしまうだろう。
「亘。
……犯罪者はふたりもいらない」
そう言って千秋ちゃんが動き出した。
どうやら自首して囮になろうという考えだろう。
そしてぼくだけ逃がすつもりなのだ。
「待って」
ぼくは千秋ちゃんの袖を掴む。
だけど千秋ちゃんは力ずくで行こうとする。
それをぼくは引き留めようとする。
すると千秋ちゃんはさらに力を入れる。
このままでは騒ぎで見つかってしまう……。
「……っ」
ぼくは非常手段に出た。
暴れる千秋ちゃんをぎゅっと抱きしめたのだ。
そして頬にキスをする。……なんて柔らかいんだ、と瞬間に思った。
「……」
「……」
「……今のはキス」
「……頬だけど」
「ダメ。
キス」
「……そ、そうなんだ」
もう千秋ちゃんは、
ぼくを振りほどこうとはしなかった。
それを見てぼくは細かいことはさておいて、
いちおうひと安心だ。
「さて、
どうしたもんかな?」
警備員たちは相も変わらず橋の上のうろちょろとしている。
そのときだった。
南園の方角の高台から一条の光が照らされたのだ。
それは橋の上の警備員、
つまりライオン、トラ、オオカミ、ヒョウを順に照らす。
すると警備員たちに動揺が走る。
そしてなにやら気色ばんで相談する声が聞こえたかと思うと、
一斉に南園へと向かったのである。
「好機到来」
「だねっ」
千秋ちゃんがぼくの手を引く。
ぼくもそれに従い、ふたりして一気にふれあい橋を渡った。
そして前方に見える警備員たちの光を避けるようにして、侵入口に向かったのであった。
「助かったね」
はあはあと肩で息をしている。
寒いのに額からの汗も止まらない。
「でもあの光は、
いったいなんだったんだろう?」
「助っ人」
「うん。
そうなんだろうけど、誰がぼくたちを助けてくれたのかなあ、って思ってるんだ」
すると突然に声がした。
「深冬はちょっと怒ってます」
「へ……?
深冬ちゃん? ……ど、どうして?」
「右に同じ」
リアカーの荷台にちょこんと正座して、
ダッフルコート姿の深冬ちゃんがいたのだ。
「置いてけぼりは嫌。
深冬のこと味噌っかす扱いは嫌」
「ごめん。
そんなつもりじゃなくて、体調悪くしたらと思って」
「同じ」
すると深冬ちゃんは、
リアカーからぴょんと飛び降りた。
「いつもいつも、
深冬は寝ている訳じゃないもん」
「ごめんあやまる」
千秋ちゃんが深々と頭を下げたので、ぼくも倣う。
すると深冬ちゃんの機嫌は直ったようだった。
「それはそれとして、
……助けてくれたのも深冬ちゃん?」
「そうだよ」
「意味が不明」
すると深冬ちゃんんが大きめの懐中電灯を取り出した。
もちろん点けはしない。
「千秋お姉ちゃんたちを自転車でこっそり追っかけて来たの。
そして動物園の中で警備員さんたちが集まっているから、
もしかしたら困ってるのかな? って思って」
「ナイスタイミングだったよ。
もう少しで見つかるかもしれないって思ってたからさ」
ぼくがそう答えると、
深冬ちゃんは満面の笑みになった。
「じゃ、じゃあ、深冬は役に立ったんだね。
……えへへ」
それから千秋ちゃんが『ぬ』が無事に仲間と仲良くなれた話をすると、
深冬ちゃんはもう最高にごきげん状態だった。
「で、これ」
千秋ちゃんが近づいて、
深冬ちゃんの頬をぺろりとなめた。
「ふえっ。
な、なに、千秋お姉ちゃん?」
「『ぬ』が仲間としていた仲良しの印」
「じゃ、じゃあ、千秋お姉ちゃんにも」
「負けない」
気がつくと姉妹二人で互いの頬をなめあっていた。
それがそっくりの美少女同士なので、ちょっと変な気分だ。
つまり、エロい。
それからぼくたち三人は月明かりの中を凱旋することになった。
途中、長くて広い一本道で千秋ちゃんと深冬ちゃんが歌を歌ってくれた。
それは『月の沙漠』で、とっても上手だった。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品
「生忌物倶楽部」連載中
「固茹卵は南洋でもマヨネーズによく似合う」完結済み
「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」完結済み
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