5話:秘められた、世の真実は、そば近く、そこに秘めるは、一人の最期
夜も更けた頃、チカチカと夜道を照らす街灯の下を、一人の男性がゆっくりとした足取りで過ぎ去っていく。
くたびれた白衣を着こなし、手には書類等を入れた鞄を持ち、疲れきった様子で家路につく滝井神代。そんな彼の目に、自宅の前に誰かが立っている姿が見えた。
こんな遅い時間帯にいったい誰がうちに訪ねて来たのだろうと目を凝らすと、門扉に近い街灯がその青年の顔を捉えた。
そのきっちりとしたダークスーツの青年に、神代は見覚えがあった。
「……薄墨先生?」
その青年の名を呟くと、青年は神代の存在に気付いたのか、こちらに向かって軽く一礼してきた。
そんな彼の姿を見ながらも、神代は彼の方に歩み寄った。
「どうされたんですか? こんな夜遅い時間に」
薄墨直哉という目の前に立つ青年が、一人娘である三春の担任であることは、神代自身も把握しているが、それはあくまで教師と生徒という関係に過ぎず、こんな夜遅い時間帯に来ていいという理由にはならない。
いったいどんな理由があって家に訪ねてきたのか気になるのは仕方ないと言える。
「夜分遅くに申し訳ございません。自分は容態の悪い三春さんが一人で過ごしていると聞き及び、心配になって来ただけで別にやましい気持ちは何も……」
街灯に照らされた薄墨の表情は申し訳なさそうになっており、神代の表情を伺っているように、神代には見えた。
だが、彼の告げた内容が、神代の表情に動揺を齎す。
「今……なんと?」
薄墨の口から飛び出した信じられない言葉をすぐに飲み込むことの出来なかった神代は、震える口で聞き返す。
だが、当の告げた本人は何に驚いているのかわからず、とりあえず先程告げた内容を詳しくして繰り返すことにした。
「いえ、あの……自分はただ、学校を風邪で休まれた三春さんが、家で一人とクラスメイトに聞いたもので……電話にも出ないし、もしかしたら倒れているんじゃないかと思って訪れた次第で…………滝井さん?」
薄墨の目には衝撃に耐えきれず、動揺を露わにしている神代の姿が映る。
「三春が……体調不良で休んだ?」
三春が風邪で学校を休んだことは、これまで一度たりとも無い。母親の死でふさぎ込んでいた時期はあったものの、今では前を向いて生きている。
そんな彼女が風邪で電話に出ることすらできない程、寝込んでいる。その事実が、神代から冷静な判断力を奪う。
「どいてくれ!!」
神代の表情は変貌し、門扉の前に立っていた薄墨を突き飛ばすように押しのけ、門扉を開けた。
後ろからかけられる声を無視し、神代は切羽詰まった様子で玄関までたどり着くと、鍵穴に自分の鍵を突っ込んだ。
だが、玄関の扉の鍵は、何故か開いていた。
戸締まりを怠ったことの無い三春が、この日に限って怠るのかと、神代の中で不安が一気に増していく。
そして、次の瞬間、神代の視界に鍵のことなど意識から飛ぶ程の光景が映った。
「なっ!!?」
玄関には適当に放り投げられた学生鞄があり、いつもであればしっかりと揃えられていた靴も、今は無造作に脱ぎ捨てられている。
「これはいったい……」
後ろから覗きこむように見た薄墨の呟きに反応することなく、動揺した様子を隠そうともしない神代は玄関を上がり、廊下へと足を踏み入れた。
「大丈夫なのか三春!!」
廊下の先にある階段の下で、上に向かって声を張り上げるも、反応は無い。
外から見た時の様子だと、三春の私室も含め、全ての部屋には灯りが点いていなかった。その為、三春は私室にいると断定した神代は、後ろからついてくる影に気付かぬまま、一歩、また一歩と階段の手すりを握りながらゆっくりと上がっていく。
「三春? いるんだろう? 返事をしなさい」
神代は優しく声をかけながら上るも、期待した返事は返ってこない。
そして、階段を上りきった神代は、『みはるの部屋』と可愛らしく書かれた札がかけられている扉の前に立ち、ゆっくりとノックした。
だが、ノックに対する返事は無い。
「三春……入ってもいいか?」
それにも返事は無い。
外から見た状態だと、この部屋には電気が点いていなかった。薄墨と遭うまでは寝てるのだとばかり思っていたが、今はそう単純に納得できる状態ではなかった。
愛する妻を病気で亡くした彼にとって、原因不明の体調不良程怖いものはなく、また病気のせいで家族を失ってしまうのではないかと、不安で不安で仕方ない神代は、意を決して部屋の扉を開いた。
扉を開けた瞬間、中は真っ暗だった為、すぐに近くにある灯りのスイッチを入れた。そして、神代の視界にその情景は映った。
床全体を埋め尽くすのではないかと思う程に散乱した羽毛、バッキバキに割れた桃色のカバーに入った携帯電話、そして、そのどれよりも目を引いたのが、ベッドの上で蹲っていた三春の姿だった。
「三春!!?」
慌てるように部屋の中に踏み込み、愛する娘の両肩を強く握る神代。だが、制服を身に着けたまま蹲る三春の目は、空虚な状態となっており、まるで神代の姿など入っていない。
明らかな異常事態を前にして、神代は懐から携帯電話を取り出し、緊急通報をしようとした。だが、その手に握られた携帯電話の上に、別の手が被さるように置かれた。
「な……なんのつもりですか!!」
神代は一刻も早く救急車を呼ばなければと邪魔をする薄墨に怒りのこもった眼差しを向けた。
だが、薄墨は特に慌てることなく言い放った。
「落ち着いてください。見た感じ、彼女は強い精神的な衝撃を受けてこのような状態になったんだと思われます。少し見せてもらってもいいですか?」
神代は真剣な眼差しを薄墨に向けられ、仕方なくといった様子で、三春の前を明け渡した。すると、薄墨は三春の前に片膝をついた状態で立つ。
そして、三春の精神状態を静かに調べ始めた。
「私もかじった程度なので詳しくは言えませんが、おそらくかなり不安定な状態と言えるでしょう。完全に心を閉ざし、声にも反応を示す様子が見られない。最悪自殺する可能性もありますし、医療機関に行っても普通の治療で治ることは万が一にも無いでしょうね」
そこまで言うと、薄墨は立ち上がり、三春を心配そうに見つめる神代の方を向いた。
「後は滝井さんの判断にお任せします。学校の方も私がなんとかしておきますので……また元気な彼女と学校で会えるのを楽しみにしておきます。それでは私はこれで」
力になれなかったのを悔いているのか申し訳なさそうな顔で頭を下げると、薄墨はそのまま部屋から出ていってしまった。
◆ ◆ ◆
三春の担任である薄墨先生の背中が去っていくのを、私は見送ることしか出来なかった。
一生徒でしかない三春のことを心配し、わざわざ様子を見に来てくれたうえに、適切と思えるようなアドバイスまでしてくれたというのに、私は彼に感謝の言葉を伝えることすら出来なかった。
「私の……せいなのか?」
世界で二人しかいない心から愛する存在と、また共に生活したいと願った。その為だけにあの男の協力を得てまでここまでやってきたというのに……その結末がこれだというのか?
研究に没頭し、娘がこんなになるまで向き合うことすらしなかった私に、果たしてこの子の父親を名乗る資格はあるのか?
「私は最低の父親だな。君もそう思うだろう、静香」
精神的に壊れた娘を前にして、私は亡き妻にそう問うことしか出来ない。
壁に寄りかかり、ゆっくりと床に座り、ただ虚空を見つめることしか、自分には出来ない。
無力だ。そう表現する以外に言葉が浮かんで来ない。
「原因もわからない。普通の治療機関に頼っても回復する見込みは無い。……そんなもの、私にどうすればいいと――」
頭を抱えて下を向いた瞬間、私の視界に研究に必要な書類が詰まったバッグが映った。
「……あの薬なら……」
精神的なものに効くのかはわからない。研究は終わりかけているとはいえ、まだ実験に用いた訳では無い。
だが、目を離した隙に自殺する可能性があると言われた以上、悠長なことを言っている場合じゃない。
もう……あんな気持ちになるのはごめんだ。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。




