ご都合主義とメアリー・スーについて個人的な意見を元にした考察
御都合主義とは
1言動や主張に一貫性がなく、その時々の当人の"御都合"(=その場の状況や雰囲気)に流されて行動する様のこと。それを蔑みつつ指している語。オポチュニズム(英語:opportunism)ともい2う。類義語に日和見主義がある。
2上記から転じて、ストーリーの進行に都合のよいように作られた強引もしくは安直な設定・展開のこと(Wikipediaより引用)
Mary Sueとは
理想化されたオリジナルキャラクターを揶揄する語。(Wikipediaより引用)
近年の小説界隈では、やれご都合主義だ、メアリー・スーだと言われている。
まずご都合主義についてだが
例えば、勇者ジョンは野営地でリンゴを食べ魔王に挑む。
こんな文章があったとしよう。
これをご都合主義なしで書く場合
勇者ジョンは、野営地でリンゴの木を見つけてそこから一つ果実をもぎ取りそれを食べた後、魔王に挑むのだった
ご都合主義がある場合
勇者ジョンは(買った描写はない)袋からリンゴを取り出して
食べた後、魔王に挑むのだった。
この場合問題なのは買った描写がないのに袋から出てくるリンゴだが、この対処として正しいのはちゃんとリンゴを事前に買う描写を入れることだとは思うのだが、魔王に挑むが主目的であるのにもかかわらずそこまで詳しく描写していたら非常に白鯨(著ハーマン・メルヴィルの)のように長い作品になるだろう。そして読みにくくなり読者もついてこられなくなる。もちろんちゃんとした描写をしている作者を悪く言うつもりはない。しかし、読み手が違う場合、ライトノベルやなろう小説などは私はある程度のご都合主義というのは仕方ないとかんがえる。
メアリー・スーについてだが
これは多少なりとも作者の思いが強ければ強いほど理想的なキャラクターになるのではないだろうか?これを読んでいる方も一人キャラクターを脳内で考えて欲しい
これについても最強キャラになるというだけではなく例えば男前なキャラクターになったり、可愛らしいキャラクターになったりと様々な選択肢はあるが多かれ少なかれ作者の理想のキャラクターができあがると思う
たとえば判子を押したかのような無個性なキャラクターばかり物語に出てもつまらないのだがかといって個性の強いキャラクターばかりになっても味の濃い油物ばかり食べていると胸焼けするように読み手に負担を強いることになる。こればかりは作者が考えてキャラクターを作っていくしかないようだ
お目汚し大変申し訳ありませんが私なりに色々考察して、書いてみました。