挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
美枝森の魔物たち 作者:夜麻産
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

11/17

ダイヤウルフ・ガスト(4) ワースト・エネミー・オヴ・ザ・ワールド

 王都にぐるりと張り巡らされた高い外壁。その上から王都内部を一望できる。外壁の門から一直線に伸びる大通りの先に、大きな噴水広場、さらにその先にそびえる豪勢な王城。大通りを挟んで左右対称になるよう設計された街並み。
 行き交う人々。巡回の兵士と市民が談笑している。戦時中だというのに悲壮感もなく、市場はむしろ賑わってすらいた。戦争特需で景気が向上しているのだ。それは、多くの国民がこの戦争を支持するひとつの理由でもある。戦争以前は年々悪化する生活基準に国民は喘いでいた。だが、その代償は。

 ディーは舌打ちする。「こいつらは、自分が戦争に巻き込まれるなんて微塵も考えちゃいない。どこか遠くの出来事だって思ってる」
 『その通りよ』とエイミが言う。『見事な情報規制がされてる。国民は勝った戦の話しか聞かされていない。順調に魔物の駆逐が進み、もうすぐ勝利で終わると思い込んでる。都合の悪い話はデマにされる。ラメイソン孤児院が襲撃された話くらいは伝わってるかもしれないけれど、それも魔物の仕業にされて、戦意昂揚の手段になってるわ』
 「……。でもそれも今日で終わり」
 『そうね』

 縛られたままのエロシアが脚をばたばたさせて言う。「なっ、なにをするつもりですか!?」
 「ちょっと脅かしてやるだけよ。心底残念だけど善良な民間人どもに空襲するのは自重しておく。でも、現実と空想の狭間を埋めてやるの。なによりも明白な戦火の灯りで」ディーは右腕を真っ直ぐに伸ばす。「“蛇よ”!」

 外壁の外側に幾多の魔法陣が浮かび上がる。ほとんど間を置かず、巨大な火柱が連続して立ち昇る。
 太陽の光を遮り、炎の光が一帯を包み込む。透明からオレンジへ。群衆のあいだからざわめきが上がり、困惑したようにあたりを見回す人々の眼が、天を穿つ炎の柱を見つける。
 そこから先は雪崩だった。一瞬で崩壊した日常から混沌の光景へ突入する。走り出した人々が一斉に王城を、または外壁の門を目指して殺到する。叫び声と子供の泣き声。怒鳴りつける兵士の声。そして、戦争が訪れる。

 『行くわよ!』

 一喝し、エイミがディーとエロシアを乗せたまま外壁から跳躍する。門へと押し寄せていた人々の波の先端に降り立つ。男女問わぬ凄まじい数の悲鳴が上がり、その上を巨大な狼の咆哮が塗り潰す。
 ディーはエイミの上で仁王立ちになる。蝙蝠の羽根をいっぱいに広げ、すべてを見下す声音で叫ぶ。

 「聞け! 矮小なる人間どもよ!」エイミの真後ろから火柱が立ち昇る。それを背景にして、ディーは傲然と告げる。「我は魔王なり! いまこの瞬間を持って平穏のときは終わる!」

 人々は一瞬だけ静まり返る。そして引き攣った悲鳴を上げ、混乱そのものの体で蜘蛛を散らすように背を向けて逃げ出す。ディーはさらに火柱を立ち昇らせ、その混乱に発破をかける。もはや統制もない原初的な人間の姿が顕在化する。
 ディーは皮肉な気分になりながら人間の群れを見渡す。綺麗な身なりをした老若男女、数多の宝石で着飾った貴族の群れ、汚れた衣服を纏う浮浪者たち。その誰もが日常から転がり落ちた戦争をまえにして情けなく逃げ出している。もはや身分の上下も男女の違いも関係ない。立ち向かってくる者は? いるかもしれない、が、少なくともいまはまったく見えない。シンのように自分が囮になろうとする者は?

 エイミはにやりとして言う。『少し芝居がかりすぎじゃない?』
 「うるさい。さっさと行きなさいよ。これだけやりゃあ王様んとこにもなにが起きたか届くでしょ」
 「あわわわわわわわ」エロシアはまったく信じられないといった風にがくがくと震える。「あ、あなたたちこんな滅茶苦茶な――」
 「変てこな声出さないで。死にたくなければ黙ってろ」

 そしてエイミが跳ぶ。連なる家屋の屋根に降り立ち、王城に向けて疾走する。
 ようやく、やっと、どこからともなく矢が飛んでくる。それを皮切りに、武装した兵士が家屋の屋根に次々と梯子をかける。夥しい数の矢があっという間に空を埋め尽くす。が、狙ったところにもうエイミはいない。駆け抜ける突風を人間の誰もが捉えられない。ただ弾け飛ぶ屋根の残骸だけが宙を舞い、みるみるうちに王城が近くなっていく。
 なんの障害もないかのように王城に突入する。




 『狭い!』ガラスを割って廊下に踏み入り、エイミが叫びを上げる。『とてもじゃないけど魔王城のときみたく突っ走れないわ。人型に戻るから自分の脚で走って頂戴!』

 言うや否やエイミの肉体が小さくなっていき、ディーは投げ飛ばされた勢いで床に着地する。その真横でエロシアが顔面から壁に突っ込む。
 廊下の角から兵士の一団が姿を現す。ディーは手のひらに拳を打ちつけ、戦士の叫びを上げて突っ込む。突き出された槍を小さくかわして兵士の顔面に拳を叩き込み、返す刀で回し蹴りを浴びせる。その後方にいた兵士に頭突きをかまして黙らせ、踏み台にして跳躍、崩れた陣のど真ん中に身を躍らせる。
 肉体を資本とする悪魔であるサキュバスに、純粋な体術で食い下がる人間がいるものだろうか? 戦時徴兵されたのだろう、訓練は受けていても兵士の練度は著しく低かった。フィリオラともやりあった経験のあるディーの眼には、兵士の動きがスローモーションの間延びした速度にしか見えない。次々と拳と蹴りを浴びせて気絶させ、ほんの数秒も経たないうちにその一団は全滅していた。

 振り向いてエイミに叫ぶ。「王はどこ!?」
 「王の匂いなんてわからないわよ! でも、妙な匂いが地下のほうから昇ってきてる!」
 「妙ってなに!」
 エイミは転がったエロシアを肩に担ぎ上げる。「人間の匂いじゃないわ!」

 階段へ向けて廊下を突っ走る。貴族が逃げ惑って入口へ向かっているなかを横断し、悲鳴を後ろにしてさらにゆく。現れた兵士にはエイミとふたりで飛び蹴りをかまし、思い出して呪文を起動する。窓の外で火柱。場内の混乱がさらに加速する。
 エントランスに降り立つ。待ち構えていた兵士の陣のなか、ひときわ大きな背丈をした鎧姿の男がいる。ディーとエイミが突っ込むよりもまえに男が叫ぶ。

 「止まれい! 我こそはこの国一の使い手、『双大剣のルシルフト』なり! 魔王とやら! 王国男児、否! 熱き血潮に燃える王国漢児たる我がそなたと一騎打ちを望む!」
 ディーはそんな戯言に付き合うつもりはなかった。「“淫熱排気”」

 火柱が爆発し、エントランスが一気に地獄絵図となる。天井に添えつけられたステンドグラスが弾け、ガラスのシャワーがきらきらと陽光を反射して降り注ぐ。階段沿いのガラスが遅れて次々と破裂する。名乗りを上げた男は吹っ飛ばされて放物線を描き、扉の横の騎士像に背中から激突して気を失う。
 残った兵士たちが一目散に逃げ出すなか、眼を走らせて地下への階段を探す。見当たらない。適当な扉を蹴り開けて回廊に出る。エイミが鼻をひくつかせ、ハンドサインでディーに告げる。そちらのほうへ走る。

 轟叫――「王をお守りするのだ!」

 ぞろぞろと兵士が出てくる。次から次へときりがない。片っ端から拳を打ち込むなかでエイミがはっとして声をかける。

 「“サンブックの寵姫”がいるわよ! うわっ、精液臭い」
 「はあ!?」
 「この国はサンブックと同盟関係にある! まさか寵姫自ら援軍にきてるなんて知らなかったけれど!」

 回廊の奥からこれまでの兵士とは違う出で立ちをした女たちが出てくる。どいつもこいつもぱっちりした目玉と白い肌、ろくに筋肉もついていないような細いからだつきをした、典型的な美少女顔の者たちだ。やたらと露出度の高い騎士風の鎧を纏い、大きく開いた胸元と剥き出しの太腿、急所丸出し臍の穴。なぜわざわざ乳房を強調するような鎧を着ているのか。

 「出たっ、“股ぐら直撃なんちゃってファッション勘違いにわか女騎士”!」
 「修飾詞増えてない!?」
 「あいつら雑魚だけどどいつもこいつも面倒な能力与えられてるわよ! 物理無効魔法無効身体能力強化に変てこな特殊能力! ひとりひとり見極めて倒してくしかないわ!」
 エロシアが白目になって悲鳴を上げる。「ぎゃあーっ!! 下ろして!! 助けてーっ!!」
 しかし、ひどく数が多い。ぱっと数えただけでも二十人は下らない。「全員寵姫だっての? サンブックの男とやらはハーレムにどんだけ女を囲ってるっていうのよ! 節操なしのエメロードだっていまキープしてんのヨナと他二三人程度よ!? っていうか、ちゃんとした服を着ろ服を――!!」

 立ち会いざまに先頭の寵姫の顔面を拳で打ち抜く。しかし、手応えがない。アリサはこれでダウンしたんだけど! 舌打ちし、魔力の熱を叩きつけてガラスを突き破って外に追い出す。その後ろの寵姫が魔力を帯びた短刀を周囲の空間に浮遊させている。号令ひとつでその刃が一斉に襲いかかってくる。
 攻撃系の能力なら! ディーは皮膚を切り裂く無数の刃をすべて無視し、寵姫のみぞおちに腰の入ったボディーブローをかます。肺から一気に空気が吐き出す。鈎突き気味に顔面を打ち抜いてとどめを刺し、背中から覆いかぶさってきた寵姫は背負投げで地面に叩き落とす。

 エイミが五人仕留めたところで、真後ろから奇襲気味に突剣が突き出される。丁度担いでいるエロシアに直撃する位置。エイミが振り返る、が、遅い――突剣の先がエロシアのケツにぶっ刺さる。

 「はぁん!?」
 「えっ?」

 エロシアが悲鳴を上げる。が、切っ先がエロシアに刺さっていない。鍛えられた鋭利な鋼が、なぜかぺらぺらの紙のようになってへにゃりと下を向いている。

 「――ふ、ふはは! みくびりましたね!」エロシアがやけくそ気味に叫ぶ――「下っ端のでがらしとはいえ、腐っても神族の末端に名を連ねる者! これぞ愛の女神たる者の奇跡がひとつ! わたくしに向けられる人間の作り出した武器はすべて役立たずになる!」
 エイミがにやりとする。「おっ、それはいいことを聞いたわ。ディー! こいつを盾にして一気に突破しちゃいましょう!」
 「うにゃっ!? や、やめてください暴力反対ー! 愛の女神たるこのわたくしを盾にしようなどとはそんな罰当たりで卑劣な真似が許され、あっやめてやめて振り回さないで、いやあああらめぇええええ死んじゃう死んじゃう、そんな乱暴にしないでおねがい堪忍してひぎぃ! そんな風にしたら裂けちゃう! あぁん! も、もうだめ飛んじゃう、わたくし飛んじゃうのぉー――っ!!」




 「――っ」エイミが自分の鼻を摘む。「物凄い匂いがする。薬品と屍臭」
 「どういうことよ」
 「一度似たような匂いを嗅いだことがある。こことはまた別の国の戦争に荷担していた、古いカルト集団のアジトで。そいつらは戦場の死体や瀕死の兵士を使って人体実験してた」
 「人体実験!?」
 「思い出すのも厭なんだけど」エイミは眉をひそめて言う。「医療技術に貢献するんだって名目でね……。人間の血液にどれだけ塩分を注入すれば死に至るのか。四肢のどこを断ち、どこを残せば生きていられるのか。そりゃひどいもんよ……目的がどれだけ崇高でも、実際は興味本位の悪戯でしかなかった」

 地下への階段を進む。石の壁に燭台が埋まっており、空気の通りが悪い。こつこつと足音が虚ろに響く。
 ディーは吐き気を堪えて言う。「それをこの国もしてるってわけ?」
 「わからない。それだけなら、わざわざ王城の地下にこんな大きな施設をつくる必要はないわ。もっと人気の少ない郊外でやればいい話だもの。……人間の屍臭に混じって、魔物の屍臭までしてきた」
 ディーは地団駄を踏む。「この国の人間はそこまで堕ちぶれてるの?」
 「戦争がそうさせるのよ。誰も冷静じゃいられない。なにかを言い訳にして、平時ではとてもできないような怖しい真似に手を出す。眼に見える被害だけが、戦争の産物じゃない。もっともっとひどいものもある」

 エロシアはエイミの肩に担がれながら、眼を強く瞑り歯を食い縛って震えている。とても女神とは思えない態度の女でも、信仰の対象である一柱として思うところがあるのだろう。ディーには感じ取れないものまで感じているのかもしれなかった。
 一通り兵士を倒してきたからか、追撃の気配はない。あたりに人間の気配は感じ取れない。しかし階段の底に開け放たれて小さく軋んでいる扉があり、たったいま誰かが通り抜けていった形跡がある。ディーは振り返って言う。

 「王かしら?……」
 「どうかな。でも、可能性は充分よ。少なくとも上の階に兵士が重点的に集まっているところはなかった」
 「仮に王だとしたら――」

 言いかけたところで暗がりから白刃が迫る。ディーは反射的にしゃがみこみ、頭の上を長剣の輝きが通り過ぎるのを危うくかわす。曲がり角の陰に隠れてこちらを伺っていた。黒ずくめの装備に身を包んだ男。
 続けざまに振り下ろされた長剣を手のひらを貝のように合わせて受け止める。その隙を突いてエイミの足刀蹴りがディーの耳の横をかすめ、男の腹に直撃する。男が吹き飛ばされて壁にぶち当たる。

 ディーの拳とエイミの爪が男の顔の寸前で止まる。膝で右腕を押さえつけて動きを封じ、ディーは言い放つ。「ここはなに!? おまえたちはここでなにをしている!?」
 「――!」

 がちり、と肉を断つひどい音がして、男が白目を向く。失禁のおぞましい匂いが漂う。ディーは愕然とする。

 「……舌を噛んだ!」
 「見事に調教された手駒ね」エイミは唾を吐き捨てる。「体臭まで消してた。兵士っていうより暗殺者みたいな。よほど重要な機密なのかしら。魔物の大軍を相手にしても勝算を保持できるなにかの研究」
 「ダウラギリの爪……?」
 「ただの剣ってわけじゃなさそうね。もっと有効に活用できる兵器?」
 ディーは頷いて言う。「とにかく、斬られないように気をつけろって話ね」
 「あたしが心配してるのはそういうことじゃない」
 ディーは首を傾げる「……ええ? じゃあ、なに?」
 「とにかく行きましょう。実際に眼にしてみないことにはわからないわ」

 口を噤み、あたりを警戒しながらさらに進む。狭い廊下を幾度となく曲がり、下へ、下へ。かなり深い。
 兵士は先程のひとりだけで、次の気配はない。誘い込まれているように感じ、ディーは不快になる。この先になにが待っているのか?
 古荒神程度の相手なら、自分とエイミだけでもなんとでもなるだろう。実際に自分とフィリオラで難なく片付いたのだから。だが首筋が先程からちりちりする。厭な予感しかしない……美枝森に初めてダウラギリが訪れたときと、おなじ感覚だった。古竜十四座。あらゆる魔物の頂点に君臨する者たちとは、さすがのディーもとてもやりあう気はしない。ドラゴニュートであるマリーさんは例外として、ただのブレスで『虹光の大翼』を発生させるようなやつらだ。エイミにしたところでおなじ気持ちだろう。

 この国の領土と縄張りのかぶっている古竜と言えば、十四座のなかでも悪名高い『炎のカンチェンジュンガ』だ。十四座の三。おなじ十四座の七であるダウラギリですら、左眼と左腕を奪われて敗走した。古竜は地上の者たちの争いには介入しないというが、例外がまったくないと考えるには、ディーは現実を知りすぎていた。
 うんざりするほど扉を開く。徐々に暗がりが深くなる。
 エイミが囁く――「近いわ」

 最後の扉を開く。
 視界が開ける。そこは、ぽっかりと開いた大広間となっている。地下であることが信じられぬほど高い天井。ディーたちが点にしか見えないほどの横幅。それ以上道はない。どん詰まりとなった広間の床に、緑色に発光する見知らぬ魔法陣がびっしりと刻まれている。そして、その中央に人影がひとつ――いや、ふたつ。

 「来おったか、魔王めが!」人間の王――恐ろしく長い白髪を拵え、白衣に身を包んだ老人――がヒステリックに叫ぶ。「貴様の命運ももはやこれまでよ! 見るがいいわ! これぞ我ら人類の叡智の結晶!」

 老人が身を隠すようにしている人影。いや、人なのか? それは異形の姿をしている。
 ほとんど年端も行かぬ少女のようにしか見えない人型。ツギハギだらけの素肌は白と黒と灰色のまだら模様。床に垂れるほど長く伸びた白髪の先端が蛇の頭となり、二股の舌を覗かせてちりちりと鳴いている。右腕は球体関節の人形のような、左腕は異様に膨れ上がった筋肉の、両足はエイミとおなじ犬科の逆関節。光のない虚ろな眼。右の瞳は鷹のような小さな虹彩、左眼は甲虫のようなびっしり埋まった複眼。額に第三の眼。背中に畳まれた、全身をすっぽりと覆うほど大きな、烏のような漆黒の翼。
 そして、翼の合間から伸びて足元にとぐろを巻く、無理やり縄で縛って細めたような、黒い甲殻に覆われた――腕。その先にある鋼のような色をした巨大な爪。
 『ダウラギリの爪』。

 エイミは唖然として呟く。「キマイラ……」










 その異形。年端もゆかぬ少女に無理やり複数の魔物を取って付けたような姿に、ディーは愕然として眼を見開いた。ツギハギだらけの皮膚をした少女は、孤児院のセフェルやネクロとほとんど変わらないような年頃だった。だが、肌にも眼にも生気がない。そして、翼の合間から生えているダウラギリの腕は、本来の大きさより明らかに小さく、甲殻の下が苦しげに鼓動している。

 王が高らかに叫ぶ――「起動せよ! 対古竜生体兵器ドールNo.1945!」

 足元の魔法陣がその発光を強める。眼も眩むような光量に、ディーは腕で顔をかばってわずかに後退りする。みし、となにかが軋む音がする。地下にもかかわらず嵐のような風が吹き荒れ、からだを押される。

 ディーはどうにか言う――「キマイラ!?」
 「合成獣!」エイミは鋭く言う。「噂に聞いただけなんだけど! ったく悪趣味ったらありゃしないわ! ダウラギリの爪を活かすために捕縛した魔物を手当たり次第にくっつけてる!」
 エロシアは震える声で言う。「あ、あんな――っ、命を弄ぶような、ひ、ひどい――」

 鼓動が強まる。広間の空気を震わすほど強く、心臓から流れ出る血液が全身を叩く。がくり、と少女の頭が傾く。そうしてゆっくりと顎を上げ、瞬きしながらあたりを見渡す。

 「ハハハ――素晴らしいぞ!」王が高笑いして叫ぶ。「サンブックより提供された最高位魔術師の検体に古竜の腕を搭載し、捕縛した複数体の魔物をリミッターとして接続した! 多層操作術式に隷属の呪印! 主人の命に絶対服従し逆らうこともない! 素晴らしい! 傑作だ! もはやどんな魔物が相手だろうと取るに足らぬわ!」

 烏の翼がはためき、黒く濡れた羽根を舞い散らせる。複眼がディーとエイミを捉え、そのひとつひとつの網膜にふたりの姿を映し出す。ダウラギリの爪がわずかに床を引っ掻き、大理石をまるでバターのように容易く引き裂く。

 「やれ! ドールNo.1945! 正義の刃を以て人類に仇なす魔物どもを討ち払うのだ!」

 背筋に冷たいものが走り、エイミはディーを蹴飛ばして飛び退く。
 ダウラギリの腕が真横に振られる。かなり離れていた、が、たったいまふたりがいた場所を黒い線が真っ二つに引き裂く。爪そのものではなく、爪の軌跡そのものが空間を寸断している。黒い線がぱくりと開き、その内側はなにもない。黒い空間だけが広がっている。
 空気の流れが一気に変わり、爪の軌跡に向かって吸い込まれる。ダウラギリの爪は現実でないものを切り裂いていた。ディーは眼を瞠る――これはなに!?――わけがわからず、咄嗟の反応で呪文を紡ぐ。

 「“淫熱排気”!」

 キマイラのからだが足元から立ち昇る火柱に呑み込まれる。が、その直後、火柱の内側から黒い線が幾筋も引かれる。炎の渦が泣き別れになり、キマイラが悠然とした足取りで炎の外側に現れる。
 爪の動きに呼応して黒い軌跡があらゆる場所に刻まれる。石の壁が衝撃に隆起し、裂かれた空気が真空をつくる。斬り裂かれた場所にはなにも残らない。空気も、光も、ブラックホールと化した空間に丸ごと呑み込まれていく。

 桁が違う! ディーは歯を食い縛り、続けざまに呪文を口にする。足元の魔法陣を上書きして膨大な熱量が連続して吹き上がる。その狭間を縫い、灰色の狼へ変化したエイミが牙を剥いて襲いかかる。影すら残さぬ稲妻の速度。
 が、キマイラへ肉薄する寸前、見えない壁にぶち当たったかのようにエイミの動きが止まる。開いた大口の周りでばちばちと雷光が弾ける。それ以上キマイラへ近づくことができず、エイミは床を蹴って後退する。その鼻先を黒い爪の軌跡がかする。

 「魔力障壁! こんなに高密度の!?」
 エイミは唸る。『あらまあ、見事なこと。首筋狙って外されたの随分と久し振りだわ』
 「んな呑気なこと――」

 頭上の空間が斬り裂かれ、ディーは危うくしゃがみこんで回避する。一瞬の油断もならない。
 キマイラの顔。少女のあどけない表情はどんな感情も浮かべていない。完全な無表情でまるで石のようだ。記憶も感情も奪い去られているのだ、とディーは思い至る。エメロードがヨナに使ったような隷属の淫紋よりももっと重い。少なくともエメロードのは意識まるごと断ち切るようなものではなかった。

 「最高位の魔術師?……“サンブックの寵姫”ってこと!?」
 『でしょうね。この魔力の量から見るに、かなり新鮮な肉体だったはず。生きたままキマイラに改造されたのかも』
 ディーは吐き気を催す。「自分を慕ってる女をそう簡単に差し出せるものなの!?」
 『“サンブックの男”ならやりかねないわ。見飽きた女に興味はない、価値はない、そういう価値観だもの。使い捨てってこと』

 ディーは頬を引き攣らせ、己の拳に炎を宿す。黒い軌跡の合間を縫って肉薄し、直接拳を叩き込む機を伺う。が、エイミの牙と結果はおなじだった。真後ろから地を這うように近づき、拳を突き出した瞬間、恐ろしく硬い壁に激突したような痛みが腕を伝う。炎が滞留して逆側に弾き飛ばされる。
 次々と刻まれる黒い断隙に空気が吸われ、削られた床の石くれが浮かび上がっていく。酸素すらも薄い。爪を回避するので精一杯になり、ディーはたまらず後退する。つまづきかけたところをエイミの脚にしがみついて立て直す。

 ディーは冷や汗を掻いて言う、「冗談きついわ……! 古荒神よりも全然厄介じゃない! 対古竜兵器、ですって? ダウラギリの爪をくっつけただけでこんな風になるなんて――」
 『他の魔物の部位と、膨大な魔力が、ダウラギリ本来の爪を再現してる。ただの剣じゃここまで脅威じゃなかったでしょうよ。見事な人間の知恵だわね。ほんと、うんざりしてくるくらい素敵な思いつきだわ』
 エイミの声はどこか間延びして聞こえる。なにをこいつは、とディーは苛立つ。間違いなく魔王城での戦いよりも困難であり、ともすれば真っ二つにされそうな危機であるのだ。「なにかいい攻略法はないわけ!?」

 エイミは身を伏せる。その頭上を爪の軌跡が薙ぎ払う。『うん? あー、無理ね。まあ無理すりゃなんとかなるかもしれないけれど、さすがのあたしも古竜の武器を相手に下手な賭けに出ようとは思わないわ』
 「なん――なんですって!?」
 『やぁよ。命あっての物種だもの。ましてこっちはお荷物背負ってる状態だもの』
 エロシアがぐずぐずと泣きじゃくりながら悲鳴を上げる。「ずみまぜん! ごめんなざい! なんでもじまずがら許じでぐだしゃい!」
 ディーは絶叫する。「このままぶっ裂かれるまで大人しくしてろっての!?」

 エイミはくすりとして首を振る。『んなこと言ってないわ。ま、いまは堪えなさいよ。たぶんもう少しだと思うから』
 「もう少しって――」

 鼻先を爪がかすめる。ディーは全身に鳥肌を立てながら身を捻じって回避する。
 王はキマイラの背に身を隠しながら、爪の産み出す膨大な威力に感動したような顔をしている。ディーとエイミを見やってほくそ笑み、嘲りを口許に浮かべ、危険に苛まれている者を安全地帯から傍観する悦びに身を浸している。あの野郎、とディーは歯を噛み締める。あの野郎、戦災に遭った下々の民を見ているときも、あんな顔をしてやがったのか?
 連続する地響き、削られていく石の壁、切り刻まれる空間そのもの。秒毎に状況は悪化していく。ディーの放つ炎は片っ端から斬り裂かれ、キマイラ本体にはまるで届く気配もない。三年に及ぶ努力を真っ向から否定されたように感じ、おぞましいほどの無力感に気力を奪われる。せめてもう十年あったなら。熱量の変換効率を最適化し、もっと効果的に、もっと強烈な威力を生み出すことができていたら。だが後悔がいつも遅い。悔しさに噛み締める奥歯が削られ、口のなかに鉄の味が混じる。

 「ハハハ!」王がまた高笑いする――「思い知ったか、魔物どもめ! 貴様らなぞ人類の叡智に比べればなんの脅威もない! これぞ我ら人間が魔物に勝る確固たる証明! 魔物なぞ人類にとっては都合のいい道具でしかないのだ! 貴様らの肉体を切り刻んだ後は二体目三体目の生体兵器として改造し、我が国が他国を支配する足がかりとしよう! 魔物と条約を結び軍事行動を放棄した我が国はこれまで正常な国ではなかった! だがいまこのときより! 我が国の輝かしき歴史が始まるのだ!」
 『残念ね』とエイミは言う。『黒騎士としちゃ、専守防衛に徹して侵略行為を否定するこの国のユニークなスタンスは嫌いじゃなかったんだけど。ヴェルーリヤもそれがためにこの国へ漂着したようだったし。でも、がっかりだわ。国民は内心でそんな風に思ってたのね』
 「貴様も我らを見下して嘲る輩か! フハハ、効いておる、効いておるわ! 軍事行動のできない国と見て侮っておったのだろう! だがもはや間接侵略に屈する理由もない! 我らは奪われた我が国の領土を取り戻し、世界に向けて燦然と羽ばたくのだ!」
 『劣等感の塊か』エイミは稲妻の動きで爪をかわし、哀れみを込めた眼で王を見つめる。『その劣等感が、こんなに歪んだ可哀想なキマイラを生み出したのか。でも、ほんと心底残念だけれど、こんなのはただの幻想よ』

 王は唇を戦慄かせて言う。「な――なに?」
 『張りぼての力を得ていい気になっていたのでしょうけれど。偽りの安全神話に跨って得意気になっていたのでしょうけれど。でも、古竜の力は他者の身の丈には合わないわ。あなたたちお得意の「そんな事態は想定していない」は古竜には通じない。古竜十四座っていう大天災の縄張りのなかで、よくもまあこんな自殺めいたおバカな真似ができたこと』

 ディーははっとして石の天井を見上げる。
 この気配は――なに?

 エイミはキマイラのすぐ眼前に着地する。『古竜は大地に穿たれたプレートの断層。地割れのごとくに世界を揺るがすもの。ねえ、目先の利益に囚われて、彼女の存在を忘却していたの?
 古竜は縄張り争いをする。それはいにしえから続く大いなる慣習。ダウラギリは彼女とやりあって左眼と左腕を奪われたけれど、彼女もまた、ダウラギリとなによりも楽しくて気持ちのいい時間を過ごした。古竜同士は惹かれあう。その長い生命のなかで戦いの機をひたすら望み、望んで、望み尽くす。張り詰めた弓のように――』

 天井が真上から砕かれる。
 石くれが降り注ぎ、ディーは眼を見開く。キマイラもまた爪の動きを止めて上空を見やる。遠い青空に、炎の色がぽつんと浮かび上がる。

 『再起動したダウラギリの気配を、彼女が見過ごすと思う? それともやっぱり、そんな事態は想定していなかった?』
 王はがくがくと全身を震わせる。「あ――あ……」
 『さあ!』エイミは高らかに叫ぶ。『メルトダウンのときがやってきたわよ!』

 エイミの真後ろに巨大なものが着地する。
 真紅と漆黒の甲殻を纏い、その骨格はむしろ人間に近い。筋肉の浮き出た四肢と胴体。桁違いに巨大な悪魔めいた蝙蝠の羽根。他の爬虫類と違い前方に張り出た胸。五本の指のある両手両足――蜥蜴の顔に、三又の槍のような角を生やし、瞳のない金色の眼は爛々と燃え上がっている。竜としてみればダウラギリよりも遥かに小さい。全長でせいぜい十メートルほど。だがその身の内に滾る熱量は、『三』の位に相応しい、他の古竜とは隔絶した膨大さを許容している。

 “古竜十四座の三”。

 ディーは愕然として呟く。「『炎のカンチェンジュンガ』――」

 そして咆哮が響く。




 古竜の『位』は、産まれた順番で決まる。必ずしも一の位に近い者ほど強大なものではなく、肉体や精神の強さは基本的には位と比例しない。ドラゴニュートである『娘のガッシャブルム』が戦闘力において古竜最弱の身でありながら、『十四座の十三』に位置しているように。とはいえ当然、長く生きた者ほどその強さを増していく傾向にはあり、強さのおおまかな基準になることは間違いない。
 もっとも、『娘のガッシャブルム』のような例外も多々いる。『七』であるダウラギリはその代表格であり、実体の有無にかかわらずあらゆるものを斬り裂くその爪により、相性次第ではより上位の古竜すら下す可能性を持つと伝えられる。縄張り争いにもっとも執心しているのもダウラギリだ。他の古竜に挑んだ回数は古竜のなかでも最多であろう。

 単純な戦闘力を計算できない古竜がいる。『十四座の一』『地母竜サガルマータ』及び『十四座の二』『二ツ目のカラコルム』である。この二体は縄張りを持たず、縄張り争いにも関与しない。一節には、この世の存在ではないとも伝えられる。どのような姿をしているのか、どのような性質をしているのか、それすらも定かではない。信仰の物語のなかにのみその名を現す。
 よって、存在を確認されている古竜のなかでは、『十四座の三』『炎のカンチェンジュンガ』が最も位の高い古竜である。彼女は――雌の竜であるのだ――炎と焦熱のブレスを吐き、滾るような高熱の甲殻を纏い、気性が荒く、『父のガッシャブルム』のように他者と意思を交わした記録も持たない。それに加え、その位の高さから、単純な戦闘力において古竜のなかでも最強の格を持つことは疑いようもない。実際に『斬り裂く者ダウラギリ』の左眼と左腕を奪い、『十四座の四』、『地母の従者ローツェ』をまるで寄せ付けず倒してのけた経歴も残っている。
 『三』という位の高さを持ちながら、『三』以上の戦闘能力を持つに至った古竜。

 ディーは叫ぶ。「『カンチェンジュンガ』!?」
 エイミは素早く後退してディーの首根っこを咥えて背中に乗せる。『避難するわよ!』

 エイミのからだがカンチェンジュンガの穿った天井の穴へ跳ぶ。壁を蹴りながら上昇し、遥か彼方の青空を目指す。
 キマイラの背中の腕――ダウラギリの爪が黒い軌跡を描く。カンチェンジュンガのからだを夥しい数で交錯し、空間を引き裂いてブラックホールを産む。が、本来の持ち主から遠く離れた爪に、どれほどの力が残っていようか。ましてただでさえ遥か格上の相手に、どれだけの効力を生み出せるものなのか?

 カンチェンジュンガが咆哮する。甲殻の隙間から高温の煙を噴き出し、握り締めた拳が炎を宿す。ディーの創造した魔法とはまるで比較にならぬほどの高熱量と、高エネルギーを凝縮し、引き裂かれた空間の黒さえ歪んで千切れる。
 ダウラギリの爪は神に逢うては神を斬り、光に逢うては光を断つ。だがカンチェンジュンガの炎はすべてを焼き尽くす。斬られた神も、断たれた光も、なにもかもを巻き込んで呑み込み、太陽の渦を巻いて爆裂する。

 カンチェンジュンガの腕が振り上げられる。
 ただその小さな動きだけで広間の壁が崩落し、引き剥がされた石くれが次々と床に激突する。

 「あ、あ……あああああ――!!」

 魔力障壁がびりびりと拍動する。王は恐怖に突き動かされ、キマイラの背中から震える脚で走り去ろうとする。
 魔力障壁の外側で、落下した瓦礫に王が潰される。その内側からどろりと黒い血が流れ、一瞬で蒸発する。
 炎を纏う拳が振り下ろされる寸前、キマイラは一瞬その動きを止める。
 炎が封じられたものを呼び覚ます。施された隷属の術式を跡形もなく焼き尽くし、その内側から、なによりもまず先に原初的で単純な恐怖を湧き上がらせる。恣意的に抑え込まれていた感情が蘇る。

 「……」

 眼を見開いたまま、その目尻から涙が一筋零れ落ちる。だがそれすらも一瞬で蒸発し、熔ける。
 感情すらも――
 焦げつく。

 カンチェンジュンガの拳がキマイラの眼前に着弾する。




 その瞬間に、王都全土が爆発する。
 跡形もなくあらゆる建造物を破壊し尽くし、石までも蒸発させる。不幸中の幸いだったのは、カンチェンジュンガの来訪よりもまえにディーが襲撃してきたことで、住民のほとんどは王都外壁の外側に避難していたことだった。ディーと城内でやりあった兵士たちですら一目散に撤退していた。皮肉にもディーが火柱で王都を覆ったことは、住民の避難を促す決定打になってしまっていた。

 熱波が後方から押し寄せ、エイミの背に乗ったディーとエロシアはあまりの衝撃に意識を失いかけた。間に合わない、と意識のへりでことばもなく思う。が、その直後にふたりのからだが投げ出され、その上からエイミの狼の胴体がすっぽりと覆い被さった。
 ぶすぶすと肉の焼ける音――

 熱波が収まったとき、あたりは完全な更地に成り果てていた。もはや王都の面影もなく、熔けた廃墟と崩れた街並みのつくる亡霊と化していた。
 ディーは恐る恐る覆いかぶさるエイミの下から這い出て、その様を愕然として見やった。振り返って、エイミの顔を覗き込む。エイミはぱちりと眼を開いた。

 『無事かしら?』
 ディーは震えながら言う。「――っていうか、あ、あんたがよ!」
 『あら心配してくれるの? うふふ、ありがとう。平気平気、爆心地からだいぶ離れてるわ』首をもたげて、『これでも黒騎士よ。そんでもって灰恐狼。これくらいでどうにかなるほどヤワな女じゃないわ』
 縛られたエロシアが芋虫のように這いながら出てくる。だらだらと泣きじゃくってひどく無様だ。ディーはエロシアのようにならないべく全力で涙腺を強張らせ、引き摺るように首を捻じって爆心地へ向いた。

 カンチェンジュンガが地中から浮かび上がる。全身から白い煙を噴き出し、雲のようになりながら、翼を羽ばたかせる。
 はっとして、ディーはカンチェンジュンガの手を見やった。キマイラがぐったりとして手のひらに横たわっている。生きてるの? 死んでるの?
 だが見えたのもそこまでだ。カンチェンジュンガが再び羽ばたくと、その肉体が霞のようにぶれ、一瞬で姿を消している。空を見上げると、薄く棚引く雲を引いて、遠ざかっていくのがかすかに見えた。

 ほんとうに、とディーは思う――ほんとうに、悪名そのものの古竜だわ。一瞬で王都を爆砕していきやがった。

 『思ったんだけど』とエイミ。『いまの炎、なんだか、あんたの使う魔法とそっくりだったわね。もちろん桁が違ってはいたけど』
 ディーは鼻を鳴らす。「当たりまえよ。私はあのクソ蛇のブレスを参考にしてこの魔法を創ったんだもの」
 『あらそうなの?』
 「この国は私の故郷よ。カンチェンジュンガの縄張りで、私にとってはあれがいちばん身近な古竜だった。カンチェンジュンガのブレスを研究した魔導書を片っ端から漁ったわ。その根っこの理論を軸に私なりのアレンジを加えて、私自身の魔法を構築した。前提理論は、自分の内部に滾るものを威力に変換する炎。私は淫熱で、あのクソ蛇は――」

 ディーはそこで言い淀む。エイミは首を傾げて先を促す。

 ディーは泣きじゃくるエロシアを見下ろして吐き捨てる。「愛、だそうよ。知らない。魔導書にそう書いてあったってだけ」










 狼状態のエイミは脚を引き摺って歩いた。強がっていても、やはり、カンチェンジュンガの熱波をまともに喰らったダメージは深刻なようだった。灰色の毛先が黒く焦げて縮んでいる。
 ディーは借りをつくってしまったことに憤慨しながらエイミの胴体を小突いた。「……ありがと」
 『どういたしまして。でも、黒騎士に心配は無用よ。傷は代償として受け入れてるわ』
 「ふん。じゃあ心配しない」

 ひしゃげた門をくぐる。その外側に、王都から避難した群衆が集まっている。歩く幅も残っていないほどの数だ。ディーたちを見つけた老婆がひっと悲鳴を上げ、存在が知れ渡る。
 ディーは腕を組み、傲然そのものの眼つきで群衆を見渡した。ざわめきが徐々に静かになっていく。もはや前面に出てくる兵士の影もなく、凍りついたような空気がその場に広がった。

 「王都は壊滅した」ディーは石のように硬い声音で宣言する。「魔王はこの戦争に一時休戦を申し出る! 異論のある者は!? まだ続けたいと言うならいまここで殴り合ってあげる!」

 静寂。
 カンチェンジュンガが姿を現したことが大きかったのかもしれない。誰もが古竜の威容に恐れをなし、なにを言うこともなく強張っていた。人間にしてみれば、魔物も古竜も天敵であることにかわりはなく、見分けもつかない。王都が一瞬で跡形もなく燃え尽きた。その事実。
 だが、その直後に群衆のなかから湧き上がったことばは、ディーの予測をおぞましいほど越えかけていた。

 「――ばんざーい!」

 ディーは耳を疑う。
 諸手を上げて祝福の叫びを上げる所作が、みるみるうちに周りの者に感染していく。喜びの声。波のように広まった賛同があたりを包み、次々と湧き上がってディーたちを囲む。

 「ばんざーい!」
 「ばんざーい!」

 ディーは困惑してあたりを見渡した。人々の表情が絶望から貼り付けたような希望の色に変わっていく。ざわめきが重なる。鼓膜が突き破られそうなほど高鳴る声音。

 「悪政を敷いていた王は倒れた! もう従わなくて済むんだ!」
 「平和が訪れた! みんな! もう望まない戦争に身を投じなくていいんだ!」
 「戦争反対! 戦争反対!」
 「魔王様ばんざーい! 我が国に栄光あれ!」

 ディーは愕然とする。思考の流れが真ん中から途切れ、ほとんど吐き気を催しそうなほどの違和感が全身をよぎる。
 群衆の波を縫い、きらびやかな貴族風の衣装に身を包んだ壮年の男がディーたちのまえに出てくる。万歳の声がいっそう高くなり、どこに持っていたのか国旗を振るう者さえ現れる。男がディーのまえで跪き、最敬礼の仕草を示して言う。

 「魔王様! 我らこの国の民は貴女を歓迎いたします! 独裁を敷いていた王を打破してくださった英雄として!」立ち上がり、振り返って群衆に向けて叫ぶ――「皆の者! 我が国の夜明けだ! もはや無益な戦争に苛まれる必要はなくなったのだ! この国は偉大なる指導者の元に統一された!」

 ざわめきがほとんど地響きとなる。
 ディーはまったく理解できないものを目の当たりにした顔で唇をわななかせる。
 なんだ――これは?
 なんで――

 「傷ついた者たちに伝えるのだ! もう傷つく必要はなくなったのだと! 戦争は終わりを告げた! この素晴らしい知らせを一刻もはやく各所で戦いを続ける兵士たちに届けるのだ!」

 なんでこいつらは、被害者面をしている?




 ざわめきの続くなか、ディーは隣のエイミに向けてどうにか呟く。「……戦争中、この国の王政をどれだけの人間が支持してた……?」
 エイミは狼の声で小さく囁く。『詳しくは知らないわ。報道機関の発表によれば、九割は越えてたって聞いてる。黒騎士仲間から聞いた話もだいたいそれくらいね。恣意的に捻じ曲げた数字だとしても、少なく見積もって七割くらいじゃないかしら』
 「戦争に反対してた人間の数は……?」
 『教会の人間と、その他少数くらいね。この国の教会は勢力がびっくりするくらい小さいわ。信者はせいぜい二パーセントほど。まあその辺はあんたのほうがよく知ってることだろうけど』

 ディーは強張った首をめぐらせ、群衆のひとりひとりを見渡していく。誰もが歓喜の声を上げている。それ以外の声を上げるのが間違いであるかのように。強迫観念さえ感じる。

 エイミはさらに言う。『百年まえの終戦とおんなじ光景じゃないかしら。歴史を習ったことはある? 当時戦争を続けていた王政にクーデターを起こした勢力を、国民はこぞって歓迎した。支持率が一気に大逆転した。誰もが最初から戦争に反対していたかのように速やかに、魔物と終戦条約を交わし、復興に向けてみなの足並みが揃っていた。それまで、反戦デモのようなものも少しはあったって聞くわ。でも参加した国民はほんとうに数えられるくらいの少人数だった』
 「私の眼には、いまこの場で私に反逆しようとしているやつの姿が見えない。あんたの眼はどう? なにか匂う?」
 『いいえ』エイミは首を振る。『みんなあんたを歓迎しているわね。戦争が終わったことを心から喜んでいる』

 ディーの吐息が不整脈のように荒れる。
 これはなに?
 この場には戦争を推し進めた人間はいないの? 戦争で甘汁を吸っていたやつは? 命令されて、ラメイソン孤児院を襲撃したような兵士は? 誰もが清廉潔白で、罪の意識に苛まれる者はひとりとしていないの?

 「ばんざーい!」
 「ばんざーい!」

 みんなが終戦を喜んでいる。百年まえとおんなじように。
 もし、
 もしもう百年経ったら、この光景はどうなる? 人魔間のヘイトはこれで終わりを告げたのか? あれだけいがみあい、憎しみあった感情は、手のひらを返したように消え果てたのか? 終戦を受け入れたというだけで?

 『ディー』エイミはどこまでも静かな眼でディーを見下ろす。『あんたがどう感じているのかあたしにはわかってる。はっきり言うわ。あんたは戦争を止めるために動いたわけじゃない。だから、いまはあんたの気が済むようにしていいのよ』鼻先でわずかにディーの肘を押す。『黒騎士は終わった戦争には関与しない。そこから先は、他の者の役目よ』

 ディーはゆっくりと瞬きする。
 孤児院の子供たちの顔が網膜の裏に浮かぶ。住処を追いやられ、山奥の隠れ家に身を隠すしかなかった幼い者たち。アルマの苦しげな声が聞こえる。シンは。墓石を小突き、沈むような声音で祈るヴェルーリヤの姿が見えた。
 脚を斬られたジュノンの呻きが聞こえる。ああ、シン――。枷に繋がれたバテルのやつれた顔。すまない、ディー、ラメイソン孤児院のことは。廃墟と化した孤児院の成れ果て。塀にこびりついた乾いた血の色。
 あれは誰がやったことだ? なにもかも魔物の仕業で、人間は非の打ち所もなく無罪だったのか? 愛国の為せる行いだったのか? 誰が犠牲の羊になり、誰が罪を逃れて生き残るのか?

 私は魔物だ。魔物であることを隠していない。なのになぜいま眼のまえの群衆は、まるでいままでのことがなかったかのように振る舞うのだ? 被害者の顔をして無邪気に喜べるんだ?
 振り返り、エイミの背中に横たわっているエロシアを見上げる。エロシアはただ震え、理解できないものを目の当たりにした者の顔で群衆を見渡している。純然たる恐怖。封印から目覚めて最初に自分たちを見つけたときの顔より青褪めている。

 「エイミ」ディーは喘ぐように言う。「私、いま冷静じゃない」
 『わかってるわ』
 「心を合わせた群衆は共通の敵を求める。いま、こいつらは死んだ王を共通の敵に仕立て上げてる……」

 ディーはゆっくりと歩みを進める。
 群衆を煽る貴族の男の背中に近づく。その肩を鷲掴みにすると、男は振り返り、媚を売るような笑顔でディーを見る。
 あらゆる怒りが全身を突き動かし、ディーはその気持ちの悪い顔めがけて拳を打ち込んだ。

 「――!!」

 男のからだが地面にバウンドし、群衆の波を突き破って遥か後方に吹き飛ばされる。
 ざわめきが、万歳の声が一気に静まり返る。

 「……」

 恐ろしいほどの静謐のなか、ディーは声の限りに叫ぶ。

 「認識を違えるな!」万の眼の見つめるなかで、純然たる怒りを滾らせて絶叫する。「私はおまえたちの味方じゃない! 正義を為す者じゃない! 王と魔王を殺して成り代わった悪魔だ! 私はおまえたち全世界共通の敵!」
 一帯に紅く輝く魔法陣を浮かび上がらせ、脅しに満ちた声で叫び放つ。「私はおまえたち全員が憎むべき敵!! 従順たる者はひとり残らず焼き尽くす!! 背を向けて逃げ去れ、卑怯者ども!! 反逆の意思無き者に用はない!!」

 声よりも、その声に篭められた憎悪が群衆を突き動かす。

 「失せろ!! 牙を抜かれた臆病者ども!!」

 石化したような間の後、誰かが震える脚を引き摺って逃げ出す。それが皮切りとなる。誰もがディーに背を向け、恐怖の悲鳴を上げてその場を走り去る。もはや誰も背中に意識を向けない。ただ混乱の混沌があたりを包み込み、悪魔の火から逃れようと、顔を歪ませて泣き喚きながら逃亡する。
 そして、誰もいなくなる。

 ディーは肩で息をしていた。張り詰めた眼を虚空に向け、焼き尽くす相手を求めて腕を震わせていた。エイミは静かにディーの背中に近づき、そっと注ぎ込むように言う。

 『くそったれな気分は少しくらいは晴れた?』
 ディーはぎこちなく振り返り、ぎこちなく微笑を浮かべて答える。「……少しは、ね」

 そうして俯き、拳を握り締める。

 「シンのことなんかなんとも思っちゃいない」震えながら――「ガキの頃にどれだけ多くの時間を一緒に過ごしていたとしても、所詮あいつは人間で、私は悪魔だった。あいつはヴェルの獲物でしかなかった。人間なんか、私は捕食対象にしか思ってない。誰が狩りの獲物に憐れみを抱く? 親しみを篭めて獣や魚を食うやつがいる?」眼を瞑る。途方もない哀しみが――もはや哀しみとしか言いようのない感情が――浮かび上がり、胸を貫いていく。「あいつは私にとって、ただおなじ竈のパンを食べあった間柄の人間でしかなかった」

 三人の他にはなにもなくなった道に風が吹き渡る。

 「おなじ鍋のシチューを食べあった仲でしかなかった」

 私は冷静じゃない。そう自分に言い聞かせ、顔を両手で覆って歯を食い縛る。

 「ほんとうに、ただそれだけの人間だった……」
 エイミは慈悲深くディーから眼を背けて言う。『そう。ただの家族だったのね』

 道の隅でわずかに揺らめいていた小さな火が消える。




 戦争が終わったという知らせは一週間後にラメイソンの隠れ家に届いた。教会の修道士は首を振り、王都の壊滅を告げ、手放しで喜べるわけではないとヴェルやアルマと話し合った。家を失った者、家族を失った者、負傷した兵士たち、それら戦争の後始末をするために教会の関係者が総動員されていた。そして、ジュノンとバテルは子供たちに別れを告げてその日のうちに隠れ家を出立した。

 アルマは杖をつくジュノンに言った。「傷はまだ痛むかい」
 ジュノンは微笑んで、「少し……。でも、だいぶよくなりました。お世話になりました、シスター・アルマ。冬までにラメイソン孤児院を建て直せるよう、教会に頼んでみますわ」
 「それもあるけど」アルマは頭を掻いて、「あたしは、明日にでもあんたらの後を追って教会に向かうよ。人手がいるだろ? ヴェルもいるし、戦争さえなくなりゃ、越冬くらいなんとかなるさ。冬のあいだだけでも街で暮らせりゃな」

 ジュノンはアルマをじっと見つめて、頷いた。いちばん子供たちのそばに寄り添っていてやりたいのはアルマだということはわかっていた。それでもそういうことを口にするアルマの決意に、ジュノンは口を出すことができなかった。
 夜になり、ヴェルーリヤはシンの墓に赴く。山の花を墓前に捧げ、戦争の終わりを報告する。石はなにも答えない。静かに風が吹き渡り、立ち上がって夜空を見上げた。星のきらきらと輝くなかで半分削られた月がそれでも煌々と冴え渡っていた。

 ふと気配を感じて振り返る。「アルマ?」
 「おっす」

 アルマは片手を上げてディーの横に並び、墓石を見下ろして頭を下げた。兄貴分でもあり、弟分でもあった男は声もなく眠っている。あらゆる思いがあり、なにも口に出せない思いがある。

 少し恨みがましく呟く。「ディーのやつ」
 ヴェルーリヤは苦笑した。「……まあ、生きてりゃまた会えるさ」
 「ふん。生きてりゃな」
 「明日、出発するんだろ?」
 「うん」
 「終戦したばかりで、治安は悪いだろう。いろいろと慌ただしい。あたしとしちゃ、せめて季節が変わるまでくらいこっちにいて欲しいけどね……」
 「なにかしたいんだよ」

 アルマは裾を払って立ち上がり、ヴェルーリヤを見つめた。底光りする、硬い石のような瞳だった。こういうときのアルマになにを言っても聞いてはくれないとわかっているので、ヴェルーリヤは肩を落とす。

 「魔物と休戦したっつっても、人間の心はそのまんまだ。なんで戦争終わったか、聞いたか? 誰かが魔王を倒して、王もついでみたいに倒しちまったって話だ。そいつはそのまま行方知れずになっちまった」
 「ああ」
 「離反流離の魔王、だとさ。まるで古竜だな。
 そんな風にして簡単に終わっちまう。でも、このままじゃまたすぐにおなじ流れで戦争になっちまうよ。条約なんかなんべん結んだっておんなじだ。たぶん、もっと根っこの部分からなんとかしなくちゃだめなんだ」首を振って――「人間と魔物のあいだの憎しみをなんとかしなくちゃ。互いにほんの少しでも歩み寄らなきゃ。それができれば、って思ってる。エイミには子供っぽい正論だなんて言われたけどな」

 それがどれほど難しいことか、ヴェルーリヤにはわかっていた。人間を装う魔物。それが自分なのだから。どちらの立場にも属しているからこそ、どちらの立場の言い分もわかるのだ。できるはずだ、と希望を抱く愚かな自分の一部もあるとはいえ。

 「……子供の夢だね」とヴェルーリヤは言う。「それは、この百年誰も試してもみなかったことだ。試したやつがいたかもしれない、でも、ことごとく失敗した。これまでできなかったってことには、ちゃんとした理由がある」
 「そうかい?」
 「そうさ。他の誰にもできなかったんだ。結局、そういう発想が間違ってるのさ。報われない努力なんかやめちまいな。後で悔やむのはあんただよ」

 アルマは真っ直ぐにヴェルーリヤを見つめたまま言う。

 「正しいからやるとか……間違ってるからやらないとか……報われるから努力するとか……報われないから努力しないとか、そういうのって、違うだろ。そういう次元の話じゃないんだよ。そんなことをぐだぐだ考えてたら、やりたいことなんにもできなくなっちまうだろ。やるから、やるんだ。他はみんな死ね。そういう話なんだよ」

 できるかもしれない。この女には。そう願う。
 誰かが戦争を止めた。その先は別の者の役目だ。そう、たぶん、アルマの役目なのだろう。神がいるとしたら、そのためにアルマをこの場所に遣わしたのだろう。きっと、そのためにあたしのところに放り投げ、シンやディーと一緒に育てるよう仕向けたのだろう。
 アルマの肩を軽く叩いて言う。

 「……まあ、がんばれよ。応援してる。あたしになにかできることがあったらなんでも言っておくれ」
 アルマは鼻を鳴らした。

 吹き抜ける風がふたりの髪を撫ぜる。フードの下で前髪が目許をさすり、ヴェルーリヤは軽く手を掲げて風を遮った。
 アルマは長いあいだヴェルーリヤの横顔を見つめていた。あたかもその時間がひどく得難いものであるかのように。そうして、ヴェルーリヤの胸を肘で小突く。

 「……? なんだい」
 アルマはじっとヴェルーリヤを見つめたまま呟く。「……おまえさ」
 「うん?」

 沈むような吐息。ヴェルーリヤは小さく首を傾げた。
 また長い秒があって、月の蒼い光さえ揺れる。アルマはふいと顔を背け、断崖から望む黒々とした山並みを視界にいれた。それは、戦災孤児としてラメイソンにやってきてからずっと馴染みのある光景だった。幼いときからずっと続いているかけがえのない場所だった。
 それを崩すつもりで言う。

 「人間じゃないだろ?」
 ヴェルーリヤは一瞬なにを言われたのかわからないでいる。
 「魔物だよな?」

 その単純なことば。
 ヴェルーリヤは小さく息を飲んだ。

 「うん……?」
 「とぼけんなよ」アルマは腰に手を当てて溜息をつく。「別に咎めてるわけじゃねえよ。おまえがガキどもをどう思ってるか、ちゃんとわかってるつもりだ。あたしは訊いてるんじゃなくて、確認してんだよ」

 アルマのことばには一点の疑いもなかった。
 ヴェルーリヤは静かに後退りし、少し苦笑してしまう。

 「参っ……たね。こりゃ……」頭を掻いて――「本気で擬態してて……正体バレたのって、いままで……なかったん、だけど……」
 「そういうもんかよ?」
 「いや……。びっくりした。ええ? いつから気づいてた?」
 「っていうか、わからないもんなのかよ? あたしが何年おまえと一緒にいたと思ってんだ?」
 「普通は……わかりっこないよ。いやだって、こっちはわざわざ転生までしてるんだ。実際……こんなことはいままでなかった」心底驚いて、口許に手を当てて肩を落とす。「いや、参った。なんで見抜けなかったんだろう。こいつはどうも、職業修道女じゃなくって、本物の聖女様だったらしいね……」

 驚きを越えて、くすくすと声を立てて微笑んでしまう。そうして、いろいろなものを諦める。

 ぱっと腕を開き、アルマに向けて自分を開く。「ああ、そうさ」魔力を開放する。みしみしと背中で空気がしなり、背丈を越えるほど大きな石の翼が顕現する。「あたしは人間じゃない。魔物っていうか、厳密には悪魔だよ。サキュバス。快楽と淫蕩の悪魔。生まれついての純種だ、別にシスターが堕落してこういう風になったんじゃない」
 「狙ってたのはシンか?」
 「バレバレだね。あたしったらなんて間抜けなんだろう。そう、その通りだよ。でも、魂を喰らうまえに死なれちまって、途方に暮れてるところさ」

 抑えきれない魔力が風の渦を巻く。ヴェルーリヤの足元で枯葉が舞い、石の翼の先端が地面を引っ掻く。ただくすくすと笑う。小さく浮かび上がり、悪魔の眼でアルマを見下ろして言う。

 「で……正体を暴露したところで、どうするつもりだい? 聖なる力で滅してみる? 神に祈って封印してみる? あたしは、別にいいよ。あんたが望むなら、思う存分骨の髄まで殴り合ってやるよ。おまえとは結構長い付き合いだけど、やらなきゃならないってんなら、遠慮はしない。サキュバスの力を試してみるかい?」
 アルマは面倒くさそうに手を振る。「ああ、もう。そういうのはいいから」
 ヴェルーリヤはきょとんとする。
 「あのな……。あたしは、おまえがどういう女かわかってる。おまえやディーが悪魔だったとして、だからなんだってんだ。孤児院の女はみんな姉妹だろ。それだけでもうたくさんだ」
 「……」

 ヴェルーリヤは自嘲の笑みを浮かべ、頭を垂れる。
 全身の緊張が一気に抜け落ちていって、そこでようやく自分がどれほど緊張していたか気づく。なんだってんだ、と思う。いたずらに心を揺さぶられたようで、なんだか情けない気持ちになり、修道服の裾で手のひらの汗を拭う。

 「あたしは確認したかっただけだ。それだけだよ」
 「……そうかい。敵わんね、聖女様」
 「なにが聖女だ。冗談言うな。あたしはそんな綺麗な女じゃない」

 そうして、ヴェルーリヤはアルマに歩み寄る。
 石の翼を剥き出しにしたまま、疲れ果てたように息をつく。隠したかった相手に秘密を見抜かれるのが、これほど苦しく、これほど切ないものだったとは。この歳で初体験することになるとはね、と自分を嗤う。なんだ。随分長く生きたつもりでいたけど、まだ全然未熟者だったってことか。
 しかし、清々しいものがあるのも確かだった。肩の重荷が落ちていったような。もう泣きたいような笑いしか出ず、乾いた声で喉を鳴らす。

 アルマはヴェルーリヤから眼を離し、墓石を見下ろして言う。「シンの魂は喰えなかったんだな。さっさと喰っちまえばよかったものを」
 「さっさと、ってのができない性癖でね。もっとたくさん時間をかけなくちゃならなかったんだ。いい加減不器用で、ディーにも怒られちまった」
 「これからどうするんだ?」
 「どうもこうもないよ。ガキどもを放っておくわけにはいかないから、このまま人間装って暮らすつもりでいた。それで誰かの魂を喰らう機会をなくしても、それは仕方のないことだと思ってた……」
 「そうか」アルマはようやく微笑む。「安心した。ヴェルはちゃんとヴェルだったんだな」
 「どこまで行ってもあたしでしかなくてな。おかげで、魔力も尽きかけてる。喰うもんがなくて腹ぺこだ」

 アルマはヴェルーリヤの胸をもう一度小突いた。ヴェルーリヤはよろめいた。

 「わかってたさ」とアルマは言う。「ディーがおまえを見て滅茶苦茶不機嫌になってたから、なんとなくそうなんだろうって気づいてた。食うもんなくて死にそうになるってきついよなぁ。あたしもラメイソン孤児院にくるまではそんなんだったからよくわかるよ」
 「……そうかい」
 「なあ」アルマはただ微笑んでいる。「ほんとになにも食うもんがなくなったら、あたしを食ってけよ」

 思いがけないことを言われ、ヴァルーリヤははっとしてアルマを見る。

 「なんだ……魂? 魂を喰らうって、どういうことだ。まあなんでもいいや。おまえにはなんでもくれてやるよ。あたしの魂なんか、とても食えるもんじゃないほど不味いだろうけど」
 アルマの顔にはなんの悲壮感もない。ただ心のままに言っている。「サキュバスってなんだ。男のナニを咥えるのか? あたしにゃそういうのないけど、食えるもんなのか? 食えなかったら、ちょっと困っちまうけども」

 アルマはなんの衒いもなくそう言っていた。なんの見返りも求めていなかった。ただヴェルーリヤに差し出し、放り投げていた。

 「……」

 自分を悪魔だとわかっていてそんなことを口にする。

 「……っ」

 茫然としてアルマを、シンやディーと一緒に山を駆け回っていた女の顔を見つめる。獲物と孫娘のあいだで、いつの間にか大きく成長していた少女の姿。悪魔の擬態に気づくほどの深い才覚を湛え、それをいまこのときまで黙っていることのできる慎みを持ち合わせていた者。
 ただ途方もない気分にされ、こんこんとこみあげるものが静かに胸を満たす。

 「――え、おい!? な、なんで泣くんだ!?」
 アルマが驚いたように声を上げ、ヴェルーリヤはそこでようやく自分がどんな反応をしていたか気づく。「あ、え……?」

 目尻を涙が一筋伝う。困惑して、震える手のひらを頬に押しつけると、堰を切ったように、ぽつぽつと涙が零れ落ちていく。

 「――う、うわっ」ヴェルーリヤは慌てて声を上げる。「ば、ばか。なんてことするんだ。悪魔にそういうのはやめておくれ。無償の愛で悪魔は死ぬって、教会で教わらなかったのかい」
 「うぇ!? 死ぬ!?」
 「あわわ……ま、まずい。これはまずい。なんかいろんなもんがどんどん零れてくぞ。ただでさえ魔力がないのに、こんなことされたらたまったもんじゃない。どうしてくれるんだ」

 とめどなく流れる涙が手のひらを濡らしていく。さすがに危機感に陥って、ヴェルーリヤは無様に右往左往しながら手のひらを見下ろした。しかし、止めるすべがない。
 アルマはヴェルーリヤの手首を掴んで、どうしていいかわからずに足踏みをした。まったく予想外の反応をされて非常に困る。善意で申し出たつもりが、悪魔にとっては善意が毒である。

 「おいどうすんだ!?」
 「無償の愛だけはだめだ、愛だけは……。こりゃ、たまったもんじゃない。見返りを求めておくれ。魂をくれてもいい、でもあたしのほうになにかを求めてくれないと、取引にならないんだ」
 「と、取引……? んなこと言ったって、別におまえになにかして欲しくて言ったわけじゃ」
 「うわあやめろやめろ、それだけはやめろ! 殺す気か! いや最初から殺すことを目的に愛をくれるならいいんだよ、問題はなんにもいらないくせにただ愛だけ無責任に放ってくるってことだ! これだから昔っから聖女ってバカどもは!」

 ぽろぽろと翼から石くれが零れおちていく。存在を保つことすら困難になる。それほどの危機である。ヴェルーリヤはいよいよ本格的に怖しくなり、涙ぐんだ眼でアルマを必死に見つめた。アルマはぐっと息を呑んでヴェルーリヤを見返した。
 悪魔の取引。契約。それが悪魔の存在を確定する前提条件である。魂と淫欲の交換。ディーのような魔物と大して変わらないほど変化した世代ならともかく、ヴェルーリヤは旧い純種の悪魔なのだ。どうしようもない感覚に陥って、ヴェルーリヤは濡れた声で喘ぐように言う。

 「なんか、ないのか? あたしに、なにも求めないのか……?」
 アルマはむしゃくしゃして頭をがりがりと掻いた。「――あー、もう!」

 で、ぐいと顎を持ち上げて、ぎゅっと眼を瞑って叫ぶ。

 「キスしてくれ! 思いっきり舌入れて、深いやつ!」




 カンチェンジュンガからディーとエロシアをかばい、エイミが受けた火傷は、二週間後にどうにか動けるまで回復した。
 誰も踏み入らない山奥の泉で身を休めた。エイミは自分で速やかに薬草を掻き集め、調合して、爛れた皮膚を癒す塗り薬をつくりあげた。で、エロシアを酷使して日々自分のからだに薬を塗らせた。ディーはむすっとしてそうしたところを離れたところから眺めていた。

 「くっ、なぜわたくしが、愛の女神たるこのわたくしが魔物の治療の手伝いなどを!」
 『黙って手を動かしなさい』狼のまま地に伏せて、エイミはあくび混じりに言った。『ああー、そこそこ。あいたたた、こういうの慣れっこだけどやっぱり染みるわね。ふう、でもいい感じ……手を止めないの。逆らうと頭から飲み込んで咀嚼するわよ』
 眼のまえで大口を開けられて、エロシアは腰を抜かした。「ごめんなさい! やめて! なんでもしますから許してください!」

 傷を癒やす最中、エイミは一度たりとも人型の姿に戻ろうとはしなかった。狼の姿のほうが本性らしく、人型を装うことには随分と気力を消費するらしい。
 そうして二週間が経ち、痛みがだいぶ収まると、エイミはようやく人型になって全身に包帯を巻きつけた。狼でいるあいだは気づけなかったが、人間としての皮膚はかなりの部分を負傷していた。
 真夜中に、星灯りを頼りに山稜の道をゆく。美枝森はまだここからだいぶ遠かった。エイミはまたエロシアをぐるぐる巻きにして、どこから見つけてきたのか、首輪までエロシアに嵌めさせた。リードを握って、エロシアにまえを歩かせて上機嫌に鼻歌なんぞを口ずさむ。エロシアは屈辱に顔を真っ赤にして、エイミに背中を押されるたびにつんのめって不器用に歩いた。

 「こっこんなっ、わたくしが魔物などにこんな恥辱をっ、なにゆえ、なにゆえこんな辱めを受けねばならぬというのですか!」
 「気晴らし」
 「気晴らし!? そんな自分勝手な気晴らしなどのために、このようなまるで、まっまるで雌犬のような扱いを!? 雌犬!? そんなっ、愛の女神たるこのわたくしが、よりにもよって魔物などに雌犬扱い!? ああっそんな、あっ、お腹がぞくぞくって、そ、そんなぁ!?」
 「まあいいじゃないひと仕事終えて清々しい気分を味わいたいんだから。ほらさっさと歩きなさいよ。ケツ引っ張たかれなきゃ自分の立場も理解できない?」
 ぱぁん!とケツを引っ張たかれ、エロシアはびくんと全身を跳ねさせた。「ふわぁ! ごめんなさい! 言うこと聞きますからお許しくださいましご主人様! どうかこの駄犬めにご慈悲を、ああっ、ああっ……///」
 で、ディーはドン引きする。「ノリノリじゃねえか……」

 ディーの足取りは重かった。眼のまえでのろのろと歩くエイミとエロシアにすら時折追いつけなくなるほど。
 くそったれな戦争を終わらせた。そこまではよかった。謂われのない仕打ちを受けた孤児院のことで苛立っていた気分について、その張本人どもに思い知らせ、報復を果たした。胸につっかえていた気持ちの悪い感情にどうにか居場所を与えることができた。そこまではいい。
 だが、それでもまだしこりの残る胸の内を持て余していた。快い気分には程遠かった。

 結局のところ、復讐など果たしてもそれで燃え尽きるものはほとんどないのだろう。
 それで後悔しているのではなかった。やらざるを得なくなるほど追い詰められて、やっただけだ。あのままでは決して納得できなかった。亡くなったシンがどう望んでいたかではなく、ディー自身がそれを望んだのだ。そうしなければたまらなかった。魂の置き場所を確保できずに燻るままだった。だから、ディーは復讐の是非について悩んでいるのではなかった。

 (気持ち悪……)

 全身の血が鉛に置き換わったようだ。
 どうしても、心の内側に燻っているものを燃焼させることができなかった。まだなにかやり残している、という感覚。なにを?
 腕を持ち上げて、ぼんやりして手のひらを覗き込む。私は満足していない、と手のひらが言う。私はまだ望んでる。まだ焼き尽くされてない。納得いってない。

 フィリオラと殴り合ったときには、そんな感覚は残っていなかった。頭の底まで焼けつくような衝動に身を任せ、肉体が望むがままに動き、何度も逆に殴られながらも、最後に胸に残っていたのは世界が晴れ渡るような清々しさだった。
 あのときとなにが違う? 感情を燃焼させたことにはかわりないだろうに。考えて、ふと気づく。あのときの私は私に許されたすべてを賭けて、それでも越えられないかもしれない壁に挑んでいた。なにひとつ気負うことなく、なにひとつ負い目もなく、自分よりも格上の相手に――

 (私は)

 そんな戦いではなかったのだ、今回は。思い当たって、はっとする。
 王と魔王。人間と魔物。この国のすべてを相手取る立ち位置にいたにもかかわらず、その感覚は驚くほどはっきりとディーの意識を覆った。
 山で感情が破裂するままに熊を狩ったときとおなじだった。弱い者いじめをした。そうした感覚。
 そう、不完全燃焼なのだ。満足のいく相手と戦っていない。カンチェンジュンガは私に眼もくれなかった。古竜は縄張り争いをする――自分と同等の十四座に対して。地上の争いになど眼もくれず、ただ十四座同士で戦いあい、ただ自分ひとりだけを戦力として完結する。それが意味するところを、ディーはようやく理解したように思う。

 結局のところ、それなのだ。
 満足のいく戦いをやってない。
 だったらなんだ? いますぐ踵を返して、再びあの国とやりあえと? もはやあの国に、この衝動を満たしてくれる相手はいなかった。キマイラはカンチェンジュンガに連れ去られた。そのカンチェンジュンガは、縄張りのどこに身を潜めているかもわからない。

 術式の残り火が身の内を焼いている。
 熱い。
 死にそうなほど熱く燃えている。思考まで赤く滾り、どうにかなってまいそうだった。

 「熱っつ……」

 頭から水をかぶりたい。
 いや、違う。そうじゃない。私はこの熱を焼き尽くしたい。
 だったら、どうする? どうすればいい? 誰でもいい、相手を。この熱を焼き尽くしてくれる相手を。
 そんなもの、どこにも――

 そこでなにかが引っかかる。「うん……?」

 大切なものを見落としている。
 心が叫びを上げる。こんな近くにいるのになぜ気づかない?
 いつまで眼を逸らしているつもり?

 「……ああ」

 かたりと音を立てて、腑が落ちる。
 いるじゃないか……
 眼のまえにいるじゃないか。どうして気づかなかった? こんなにも近くに、この衝動を満たしてくれそうな相手が転がってるじゃないか。それを目の当たりにしてきたじゃないか。
 視界が晴れる。そうだ。ディーはようやく理解して、立ち止まる。

 エイミが振り返って首を傾げる。「ディー?」
 ディーは凄絶な笑みを浮かべている。
 エイミが足を止める。止まったリードに引っ張られて、エロシアがつんのめり、そのまま倒れる。「ふぎゃっ!」

 ディーは自分の心臓を胸越しに鷲掴みして、エイミを真っ直ぐに見つめて唸りを上げる。

 「ねえ、エイミ。私、からだが熱いの」
 「……」
 「すごく熱いの。どうにかなっちゃいそうなほど」

 ディーの顔。星灯りが産む真っ黒な影に刻まれ、まだらに浮かんだ白い部分が赤く染まっている。たがの外れたような笑みを浮かべて、爛々と燃える眼でエイミを見ている。

 「私」とディーは言う――「私、満足してない」
 「……? あら。あれだけ滅茶苦茶やって、まだやりたいっていうの? くそったれな気分は抜けたんじゃないの? ふうん。強欲な女だこと」
 「だって、サキュバスだもの。他のどんな悪魔よりも欲深いもの。まだ全身が求めてる。からだの疼きを止められない」

 心臓を掴んでいないほうの腕をエイミに向けて伸ばし、手のひらを上に向けて、誘うように言う。

 「誰でもいいからこの疼きを収めてほしい。ねえ、エイミ・グレイ。相手してよ。私と踊ってくれない?」
 「――」

 その声の響き。誘惑するような歪みの下でぐつぐつと煮え滾っている。サキュバスの凄艶な笑みを浮かべて。
 エイミはきょんとして言う。

 「あら……あたしでいいの?」
 「とぼけないでよ。他に誰がいるの?」喘ぐように――「私は貪りたいの。思う存分味わいたいの。まだ足りてない。全然足りてない。
 ねえ。私の相手をしてよ。私を満足させてよ」

 異常な雰囲気があたりに立ち込め、エロシアは困惑してディーとエイミを交互に見やる。虫の音すら止むほど強張った風が吹き、星灯りさえわずかに揺らいで捻じれ曲がる。静かな夜が徐々に剣呑な空気を孕む。

 間抜けなほど時間が経ったあと、エイミは苦笑して呟く。「……ふふ。あははっ。サキュバスに誘惑されるのって、何気に初めての経験だわ……」
 頬を掻いて、エロシアに繋いだ首輪のリードを手放してさらに呟く。「噂に聞いたとおり……噂以上に……素敵ね。ねえ、ディー。いまのあなた、すっごく……挑発的に……魅力的に見えるわ。ちょっとびっくりしちゃった」
 エロシアが倒れたまま困惑して言う。「あ、、あなたたち、なに、を……?」
 「下がってて。逃げてもいいわよ。たぶん、あんたのことに気をかけてる暇はもうない」

 ディーはほとんど善がり声のような響きで言う。「そんなやつどうだっていいじゃない。ねえ。やってくれるの? やってくれないの? 私、我慢できない。お願い。私と踊って。踊ってよ……」

 ディーはもはやなにも見ていない。なにも気にかけていない。首の根まで紅潮し、ただエイミだけに意識を向けて、他の何事も遠くへ追いやってしまっている。
 エイミは思う……ああ、そうなのね。この子、こういう性癖なんだ。自分で気づいていないみたいだけど。

 「いいのね?」

 視界の端で小さな火が揺らぐ。
 エイミはありもしないスカートの裾を摘む仕草をし、ばか丁寧にお辞儀して言う。

 「仰せのままに。魔王様」

 そうして、牙を剥く。




 誰もいない山稜線に火が生まれる。それは睦事のように断続的に膨れ上がり、嵐のように吹き荒び、掻き消えては燃え、掻き消えては燃える。火柱の先端が世界を呑み込む蛇のように伸びて、夜空を焦がす。
 それは月が沈み、空が朝と夜の狭間の瑠璃色に染まる頃になって、ようやく収まった。何事もなかったかのように。最初からなにもなかったかのように。
 結局、離反流離の魔王がその国に戻ってくることは二度となかった。その名が歴史に刻まれることはなかった。暗闇のエアポケットに吹き抜けた一陣だけの突風のように。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ