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美枝森の魔物たち 作者:夜麻産
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第一章 プリンセス・ロスト


 フィコは手早く朝餉の支度を終えると、エプロンを椅子に放って寝室に向かった。既に朝餉と言うには遅すぎ、太陽はもうすぐ中天に至る時間で、小屋のなかはどこもかしこも明るかった。同居人が夜型なのだ。一緒に食べたいからこの時間まで待っていたものの、さすがに腹ぺこだった。叩いてでも起こそうと考えていた。
 扉に鍵があるほどしっかりした家ではない。放置されていたあばら屋をどうにか修繕して使っているだけで、『美枝森』の奥深くにあるこの場所には、外界から客など滅多にこない。同居人に仕事を持ち込んでくるダークエルフの知人が頻繁に訪れるくらいで、いつも静かだった。フィコがここにやってきたのが二ヶ月まえ。それよりもまえに住んでいた街はあまりにもうるさすぎ、フィコはまだこの静けさに慣れないままでいる。
 扉を押し開いて寝室に入る。同居人はやはりまだ眠っていて、ベッドがやる気なさげに膨らんでいた。フィコは布団を一気に剥ぎ取り、その膨らみに飛び乗って同居人を見下ろした。

 「ディー」

 苦しげな呻きに構わず、ばしばしと頭をはたいて、彼女を起こそうとする。

 「ディー。起きろ。起きろこら。飯。飯だ」

 返事はなかった。寝ぼけた腕が布団を探してさまよい、フィコの手を鬱陶しそうに払いのける。腹が減って苛々しているフィコは、むっとして、彼女の頬を両手でつまんで引っ張った。ディーは苦しげに唸って、ようやくうっすらと眼を開いた。

 「飯だぞ」フィコはもう一度言った。「いいかげん起きないと、あたしひとりで全部くっちゃうぞ。それでもいいのか。晩ごはんまで、なんにも食えないぞ」
 ディーはフィコの手を払って睨みつけた。「うるさい」
 「うるさいってなんだ。あたしは親切で言ってやってるんだぞ。夜更かししてたおまえが悪いんだろ。お月さまが真っ白になるまで本ばっかり読みやがって。それに、今日は四日の市が立つ日だぞ。はやく準備しないと東の海のお魚が全部売り切れちゃうぞ」
 「あーもううるさい!」

 ディーの脚がばたばたとシーツを叩き、フィコはさっと飛び退いて床に降りた。むくりと起き上がるディーの、火のように真っ赤な髪は寝癖でぼさぼさで、黙っていれば絶世の美貌の目許に濃い隈ができている。歯軋りをして、忌々しげにフィコを睨みつける。フィコは鼻で笑って腰に手を当てた。

 「朝っぱらから、このガキ。居候のクセして、我が物顔でうろつきまわりやがって。何様のつもりよ」
 「だから飯つくってやってんだろ。べつに感謝しろなんて思ってないぞ。いいから、はやくこいよ。食うの? 食わないの?」
 「あー腹立つ……!」
 「おまえ最近そればっかだな」

 ディーはますます憤慨して、背中に折り畳んでいる蝙蝠の翼をわずかにひくつかせた。その部位は彼女の表情以上に彼女の感情を表に示す器官で、なんでもないときでもいろいろな動きをするものだから見ていて実に面白い。不機嫌なときは強張って上下に震え、上機嫌なときは緩んで垂れ下がるといった風に。しかし、本来の用途であろう飛行に使われた機会を、フィコは見たことがなかった。そもそもその翼はディーのからだに対して妙に小さく、ほんとうに飛べるのかどうか疑わしいものであったが。
 ディーは人間ではなかった。フィコと違って。しかしこの森は化外の者だらけで、人間などフィコくらいしかいなかったから、それは決して珍しいことではなかった。




 ディアマンテ・ディアディパーティッドはあまり本来の名で呼ばれない。目一杯縮めて、ディーと呼ばれる。ディー自身でさえ、他人に名乗るときはディーとだけ言う。本名も、ファミリー・ネームも誰からも忘れかけられているが、そのことを気にする様子はない。さらに言えば、彼女が淫魔であることもだいたい忘れられている。『美枝森』に彼女の母とともにやってきた三年まえから、誰ともセックスしようとしないからだ。そしてその母は放浪癖でいつも家を留守にしている。
 『東の峰の見える丘』で四日の市が立つと、ディーは諸々の物資を買いにいく。一方で、七日の市には出向かない。ディーは市で生活必需品を買う他に、いつも何冊かの本を買い込んでいく。七日の市には本を売る商人がこないから、四日の市にしか用がないのだ。厳密にはその本売りは商人ではなく、この地にだいぶまえから住んでいるダークエルフの女で、名をヨナという。

 「よう」と、ヨナはディーがくると軽く手を上げて言う。「おまえも毎度物好きだな。この辺じゃもう、私の本を欲しがるやつなんかおまえしかいないぞ」
 「このまえ言ってた魔導書はある?」
 「ああ」ヨナはものをディーに放る。「例の神殿跡を掘り返して見つけたやつだ。ただで持ってっていいぞ。代わりに明日ちょっと手伝え。早瀬川の第三橋がこのまえの豪雨で落ちて手が足りない。駄賃は払ってやるから」
 「なんで私がそんなこと――」
 「暇だろ?」

 ディーは歯軋りしてヨナを睨みつけた。
 食材を買い込み終えたフィコが頭陀袋を背負って戻ってくると、ヨナは褐色の頬を綻ばせて少女を見つめた。頭陀袋は十一の娘のからだには不釣り合いなほどぱんぱんに膨らんでいて、フィコは足取りをふらふらさせていた。元気そうだな、とヨナはディーに言った。ディーはぷいと顔を背けた。

 「もう怪我はなんともないか?」とヨナ。
 「うん」
 「それはよかった。二か月まえ、裸足の君が森の入口にぶっ倒れてたときは肝を冷やしたものだが。緋薔薇の刺で足首まで傷だらけになって……ここには、人間なんて滅多にこないからな。ディーにはちゃんと世話になってるか?」
 「うん。だいたい放っておいてもらえてる」
 「襲われそうになったらすぐ私に言えよ。こいつはこんなんでも一応淫魔の端くれだからな」
 ディーはいらいらしてヨナをますます睨んだ。「こんなちっちゃなガキに手を出すなんて悪魔でもしないわよ」
 「冗談だって」ヨナは軽く笑って、「ところで、そろそろどうして君がこんなところにきたのか、教えてくれてもいい頃合だと思うんだが」
 「……」

 フィコが黙ると、ヨナは小さく肩を落とした。

 フィコはディーのイブニング・ドレスの裾を引いて、「なあ、まだここにいる? ダウラギリのとこ行っていいか?」
 「勝手にしなさいよ。ったく、変な娘ね。なにを好き好んであんなやつに会いたがるのよ」
 「なんか悪いことあるか?」
 「あんたねえ――」
 ヨナがくすりとして言う。「いくらでも『愛しの君』に会ってくればいいさ。頭からがぶりとやられても構わないっていうなら。ちょうどディーに店番頼もうと思ってたところだ。私も食材とか服とか欲しいしな」
 「はあ!?」
 「ありがと」

 フィコはさっと頭陀袋をディーの足元に落とし、軽やかな足取りで市から離れていってしまう。
 ディーは忌々しげにヨナを見下ろした。

 「ちょっと、私は店番なんて――」
 「なあ。あの子、どう思う?」
 「――。どうってなによ」
 「あの子がここにきてもう二ヶ月だ。でも、私らはあの子のことをなんにも知らない。どこからきたのかも、どうしてきたのかも。私も結構長いことここに住んでるが、人間がやってきたのなんか二度三度くらいしかない。……私らを討伐しようとしてくるやつら以外はな。おまえに、なにか話したりとかしてないか?」
 「知らないわよそんなの。どうせ近くの人里の家出娘かなんかでしょ。いい? 私はねえ、迷惑してんの。ひとりで静かに研究に没頭したいってのに、ガキなんか保護しなくちゃならなくなって、うるさいったらもう」
 「それくらい我慢しろ。ちっちゃな女の子を家なしで放り出すわけにもいかんだろう。そもそもあの小屋はおまえら母娘のために用意したものなんだから、ひとり暮らしにゃ勿体無い。だいたい、おまえひとりじゃろくに飯だってつくらないし、メイド雇う余裕だってないだろうし」
 「あー、もうっ! 小言はイヤ!」

 ディーは地団駄を踏んでヨナのことばを遮った。




 フィコは同年代の子らと比べても体格が小さく、発育の悪い娘だった。櫛の入れてないぼさぼさの髪に、よく日に焼けた小麦色の肌。あまりものを食べておらず、あばらが浮き出るほど痩せ細っていて、大きな瞳はいつもなにかに反抗しているようなぎらぎらした光を湛えていた。生意気で、愛想のない表情が常だった。しかし、半分前髪に隠れた顔をよくよく見れば、誰もが思わずはっとするほど美しい顔立ちをしていた。勝気さを表に出す頬の線は相手を遠ざけるものではなく、嗜虐心めいたものをそそる線だった。
 フィコはその顔を呪いのように感じていた。ことさら前髪を長く伸ばし、愛想を振り撒かなくなったのもそのためだった。実際、それは呪いに近かった。少なくとも故郷において、その美しさが彼女自身のために作用したことなど一度たりともなかった。

 市の開かれている丘を駆け下り、白い岩の並ぶ崖淵を通り抜け、フィコは藪のなかに穿たれた細い道を走った。こちらのほうには、『美枝森』に住む化外の者たちもほとんど近寄らない。それはそのあたり一帯が彼の住処となっているからであり、彼は住民から嫌われているわけではないにしろ、進んでかかわり合いになろうと思う者でもなかったからだった。
 崖に隣接するその場所は、樹々の波がそこだけ途切れており、広場のようになっていて、中天を渡ったあとの太陽が木漏れ日の優しい光を注いでいた。というよりは、彼の眠るその周りの植物だけが、茶色に枯れ果てていた。フィコの思ったとおり、ダウラギリはそこに横たわっていた。鎧のような分厚い鱗に覆われた大蛇の尾がとぐろを巻いて、飛膜がぼろぼろに破れた翼が彼の上半身を覆っている。

 フィコが彼に近寄ると、蜥蜴の顔にぽつりと置かれている兎の眼が、小さな少女を見下ろした。ダウラギリは隻眼だった。左目は空いておらず、捻れた角のある即頭部からどでかい顎の下にかけて巨大な傷跡が走っており、車輪の轍のように削れていた。傷は、彼のからだを覆うドス黒い甲殻のそこらじゅうにあった。後ろ脚はそもそもなく、前脚も眼と同じく隻腕で、細い右脚の先端についている五つの爪は、歪に肥大化して彼の上半身全体とおなじくらい大きかった。
 『ダウラギリ』は竜だった。ワイバーンの種ではなく、翼のある蛇に近い。左眼と左脚がないせいで余計に歪に見える。フィコが彼の尾に触れられるところまでゆくと、ダウラギリはその口の合間からちろちろと舌を覗かせた。舌は先端で二つ別れしており、穴ぼこだらけだった。

 フィコはディーのところに置いてきた頭陀袋の代わりにバケツと大量の布切れを持ってきていた。近くに早瀬川の河原があり、そこから水を汲んできてもいた。そうして布切れを水に浸すと、ダウラギリの尾を先端から拭き始めた。

 「相変わらずだなー。垢がぼろぼろこぼれて雑巾があっという間に真っ黒だ」バケツの水はあっという間に黒ずんだ。でかすぎる図体のせいで川に一度や二度往復した程度では洗えそうになかった。「早瀬川じゃ狭すぎて、おまえのからだも入りきらないもんな。垢とぬめりで、すごい臭いがする。鼻がひん曲がりそうだ」鼻水が出て、フィコはすんすんと鼻を鳴らした。地面の上でダウラギリの爪がひくつく。「毎日きて洗ってやりたいけど、ディーのうちからここまで遠くて無理だ。ディーと一緒じゃなきゃ、このへん危ないっていうし。あいつ四日の市が立つ日じゃなきゃ外に出ようともしないんだ。部屋にこもって本ばっかり読んでる。仕方ないって、あたしもわかるけどさ」

 ダウラギリの喉がごろごろと鳴った。顎の下にある、逆鱗らしい、牙のようにも見える棘が小さく震えた。機嫌がいいのか悪いのか、フィコには判別がつかない。頭からかじられる気配もないので平気だとは思うのだが。

 「雑巾もすぐぼろぼろになっちゃう。おまえ鱗が刺々しすぎるんだよ。もううちに古着もないぞ。これからどうやって雑巾調達しよう」

 ダウラギリは大きすぎて、からだ全部を洗うにはとても布切れが足りなかった。フィコは手の甲で顔を拭った。鼻の頭から頬にかけて、もう汚れで真っ黒だったが、フィコはそれを気にも留めていなかった。

 「もっとなにかしてやりたいけど、あたしにできるのってこれくらいだ。腹減ってる? 今日は肉持ってきてないんだ、ごめんな。あたしだって、さすがに自分を食わせてやりたいとは思わないし。ドラゴンってなにすれば喜ぶのかわかんない。よく巣にお宝溜め込んでるっていうけど、ここにはなんにもないな。なにかあってもあたしお金持ってないや」

 最後の雑巾でどこを拭くか迷い、少し考えてフィコは巨大な爪のあいだに身を滑り込ませた。その爪は獣の爪と違って、何度も打ちつけた鋼のような金属質の輝きがあり、触れれば容易く斬れそうなほど鋭利に研ぎ澄まされていた。爪というより、特大の剣のようだった。それがダウラギリの竜としてのアイデンティティだそうだった。ヨナは、ダウラギリを『爪の竜』と呼んでいた。
 爪に比べて異様に細い指の、股の部分に濡らした雑巾を当てた。ダウラギリの喉がきゅるきゅると鳴り、大蛇の尾がわずかに波打った。くすぐったがっているのだとわかったが、フィコにしてみればとんでもなかった。

 「おい、じっとしてろよ。爪を動かすなよ、あたし真っ二つにされたくないぞ。ここすごいな、尻尾よりずっと汚れてる。ぼろっぼろにカスが崩れてくぞ」

 指の股も洗い終わると、ちょうど布切れも尽きた。フィコは額の汗をぬぐい、ダウラギリを見上げた。竜の表情などどう感じているのか判別もつかないので、フィコは溜息をついた。喜んでいるんだか鬱陶しがっているんだかもわからない。感情だけはばかにわかりやすいディーに比べて、ダウラギリはむずかしかった。

 「なあ」けれど、フィコは構わずに言った。「助けてくれてありがとな。もうなんべんも言ったと思うんだけど。あたしは感謝してるんだ。どうせおまえにとっては気まぐれかなんかだったんだろうけど」




 フィコが『美枝森』にやってきたのが二ヶ月まえ。そのとき、フィコは裸足で、首輪付きだった。緋薔薇の棘に足首まで傷だらけになり、倒れ伏したとき、世界は夜だった。冬の寒さが尋常でなく、煌々と照り渡る月の蒼白い光は氷のようだった。
 単純な絶望を越えてなにも感じないところにいたとき、ダウラギリの巨体が夜の森を渡りやってきたのだった。宵闇に紛れ、その黒い鱗に覆われた姿は夜そのものの怪物のようだった。彼が尾を震わせるたび、緋薔薇の花びらが千切れて宙を舞った。濃厚な、強い香りの漂うなかで、喰われる、と思った。ダウラギリの爪が地面に容易く食い込んで、バターのように土の内側が見えた。

 彼がなにを思ったのかいまでもわからない。いとも容易な獲物に対して、食っても腹が膨らまないとでも思ったのかもしれない。なんであれ、フィコは彼を見上げたまま気を失った。次に目覚めたとき、彼女はディーの小屋のベッドで横たわっていたのだった。

 「あのクソ蛇に感謝することね」とディーは言った――「あいつがこなけりゃ、私もヨナもあんなところまで出向こうなんて思わなかったんだから。ったく、放っておけばいいのに、わざわざ面倒くさいことを……どっからきたのか知らないけど。怪我が治ったら帰んなさいよ。帰る場所なんかないかもしれないけど」

 茫然とするフィコの眼のまえで、ディーの指先がぱちぱちと火花を散らした。蒼い火の線を描き、その指がフィコの首に触れると、フィコがどうしても外せなかった忌々しい首輪はなんの障害もなく焼き切れた。床に落ちたときには、もう消し炭になってしまっていた。

 「つくづく思うんだけど、首輪つけて喜ぶ性癖ってほんっとわっかんねえわ」

 ディーはただそう吐き捨てた。なんにしろ、フィコはそれでようやく自由を手に入れたのだった。










 「ちょっと、あんた臭いわよ。顔も真っ黒じゃない。ったく、早瀬川で洗ってこなかったの? さっさと水浴びてきなさい」
 ダウラギリの許からフィコが帰ってくると、ディーは顔をしかめて言った。からだを洗っていなかったことには帰路についてから気づいたのだ。だから、そう言われることは予想していたので、フィコは頷いた。「うん」

 ディーは不貞腐れて、ヨナのいなくなった店先に座り込み、拙い足取りで駆けていくフィコの背中を見つめた。あまりにも小さな背中だった。特になにかを考えていたわけではなかったが、ふと思い立ち、フィコの後を離れた距離から追い始めた。
 早瀬川は美枝森の彼方に連なる雪嶺山塊から流れくるもので、いくつもの支流に別れ美枝森のなかを蜘蛛の巣のように巡っている。市のそばにも流れきており、雪解けの冷たい水が、子供の膝までしかない浅い川筋をつくっていた。フィコはそこまでゆくと、シラビソの根に衣服を置いて、流れのなかに足を踏み入れた。

 別にヨナに言われて、なにかを知ろうとしてフィコの後を追ったわけではない。
 けれど、フィコの裸身を遠目に見て、ディーは首を傾げた。

 「……なにあれ?」




 翌日、ディーはヨナに押しつけられた仕事を果たしに早瀬川の崩落した第三橋に向かった。もともと、この地の住民に連帯意識などなく、どこかでなにかが起きても放っておく者ばかりなのだが、それも近頃は変わりつつあった。この数年、ヨナが辛抱強く呼びかけ、説得を続けてきた成果があったということだ。それなりの人数が集まっていた。偏屈で有名なドワーフの老ワッツの姿を見つけて、今回は楽できそうだとディーはほっとした。こういう仕事は昔からドワーフの領分だと相場が決まっている。
 適当に仕事している振りをしながら、適当にサボり、陽が沈んでようやく一段落ついた。焚火を囲んで、泊まりがけの者が夕餉の支度を始めている。ディーは帰るつもりだったのだが、その輪のなかにヨナを見つけて、手を上下させて彼女を呼んだ。

 「ねえ、このへんで刺青掘る習慣ってあったっけ?」
 「刺青?」
 「人里で。昨日さ、フィコのやつの背中に、見つけたのよ。ちっちゃなもんだったけど、なんかこう……太陽を抽象化したような感じの」

 ディーは指を掲げ、空中に円を描いた。そして、その円のまわりに火の揺らぐような曲線をなぞってみせた。

 「あんまり見ない模様だったわ。帰ったあと持ってる本を探してみたけど、よくわからなくって。この国とか、隣の国の国旗でもないし」
 ヨナは口を噤んだ。眼を眇めるようにして、ディーをなんとも言えぬ眼で見つめた。「それは確かか?」
 「汚れとかじゃなかったわよ。なに? あんた知ってるわけ」
 「知ってるもなにも、そりゃ『サンブックの寵姫』の証だ」

 ヨナの言った単語の意味がよくわからず、ディーは首を傾げた。

 「はあ? サンブックってあの、王都の東の街の?」
 「ああ……おまえはこの国の民じゃないから、知らなかったのか。この国じゃ、知らないやつはいないんだが。説明すると長くなる。まあ、飯でも食いながら話そう」
 「私さっさと帰りたいんだけど」
 「老ワッツがシチューをつくってくれてる。豚肉と人参入りだ。老ワッツが他人に料理を振る舞うなんて滅多にないことなんだぞ。刀鍛冶より、料理のほうが上手いって、評判なんだがな」

 ディーはよほど帰ろうと思った。しかし、振り向いたところをヨナに肩を掴まれ、その手の力が思いがけず強いものだったので、足を止めてしまった。
 焚き火を囲む輪からやや離れたところに、ふたりは座った。たっぷり煮込んだシチューは肉と野菜の旨みが充分に染み出し、濃厚な香りが満ちて、肉体労働で疲労したからだに大きく食欲をもたらすものだった。不本意ながら、ディーは涎を垂らしかけた。最近はもう性欲より食欲のほうが強い気がする。

 「で、サンブックの寵姫ってなによ」
 ヨナはシチューを一口啜り、小さく息をついた。「昔な、私シチュー嫌いだったんだ」
 「……はあ?」
 「食わず嫌いでな……子供の頃、あだ名が『シチュー』だったから。血のごった煮って意味で」

 ディーは怪訝な眼でヨナを見つめた。ダークエルフの女はどこか捉えどころのない瞳で皿を見下ろしている。からかっている様子はなかった。ディーは少しいらいらした。

 「それっていまの話になんか関係あるの?」
 「まあ、聞けよ。私らダークエルフってのはなあ、別にエルフの闇の側とか、そういうんじゃない。他種族との混血が、たまたまこういう皮膚の色して生まれてくるってだけのことだ。まあ、大抵はエルフと人間のハーフなんだが。で、私の母がエルフで、『サンブックの寵姫』だったんだ」
 ふーん、とディーは思った。「ふーん」
 「ちゃんと聞け」ヨナは苦笑して、「サンブックって街はなあ、この国の心臓部だ。王都が頭なら、それ以上に大事な器官ってことで。あの街がなきゃ、この国は成り立っていない。隣国との国境にあって、居住空間は三国を跨いでる。流通もそうだが、経済の中心部で、この国の九割の通貨があそこで回ってるって言われてる。金持ちはみんなあそこに住みたがるし、王都の貴族たちもみんなあそこに別荘を持ちたがる。あらゆる物流があそこに集中して、手に入らないものはなく、この世の楽園とまで呼ばれてる。まあもちろん、一部の者にとっての楽園って意味なんだが」

 ディーはスプーンを咥えた。「ふんふん、それで?」
 「サンブックの権力者は、この国じゃ王以上の影響力を持ってる。別に政治に口を出したりとか、戦争の黒幕だったりするとかじゃない。でも、なんていうかな、信仰されてるんだ。みんなが敬意を払い、みんなが愛し、みんなが羨ましがる。独自の派閥をつくっていて、王でさえ口出しできない。
 その理由が、サンブックの代々の代表者というか、最高権力者というか、いちばん中心にいる人物が、特別な能力を持っているからだ。この国のあらゆる人材、上から下まで、そのお零れにあずかろうとサンブックに集まって、自然に大きくなってきた」
 「特別な能力って?」
 「まぐわう相手に特別な力を与える能力」

 ディーはぽかんと口を開いた。咥えていたスプーンが、シチューのなかに落ちた。

 「はあ……?」
 「与えられる力にはいろいろある。身体能力だったり、魔力だったり、知識だったり、もっと別の能力だったり。詳しくは私も知らんが。まぐわうという言い方もあまり正確じゃないようだ。体液を飲んだり、肌に直接触れたり、極端なことに話をするだけでも多少の力を与えられることもあるらしい。その最少条件が、その者に想いを寄せること――だ、そうだ。
 で、サンブックは、そのための街になってる。この国のあらゆる集落の、あらゆる権力者が、その力を得ようとこぞって関係者を送り込んでいく。側近だったり、兵士だったり、娘だったり、ひどいものだと、妻でさえな。その中心部にいるのがたったひとりの男だ。そいつには、いろんな呼び名がある。私が聞いた限りだと、『夫』『旦那様』『御主人様』『主様』『あなた様』『お兄様』『お父様』『マスター』他諸々。要はハーレムだ」
 「……あ、そう……」
 「おまえらとはちょうど真逆だな。行為を通じてサキュバスはあらゆるものを奪っていくが、その男は力を与える」

 ヨナはスプーンを軽く掲げて、ディーを見つめた。その眼は厳しかった。

 「『サンブックの寵姫』ってのは、そのまんまの意味だ。その男の恩恵を受けた者。あるいは、恩恵を受けるために送られてきた者。おまえの見た刺青は、その候補者に掘られる目印だ。しかし……あの子は――どっちだと思う?」
 ディーは鼻を鳴らした。「あのガキに精液臭い感じはしないわよ。サキュバスのお墨付き」

 ヨナはふっと表情を綻ばせた。




 「『火よ』」ディーは呪文を口のなかで転がし、指を弾いた。「『震えるもの、揺らぐもの』」

 蝋燭に火が灯り、夜の闇に沈んだ室内を淡く照らし出した。灯明皿に蝋燭を置き、机に向かって椅子に座る。本を開いて栞を抜いた。びっしりと敷き詰められた文字の群れが現れ、ディーは頭が痛くなった。種族柄、生まれつき頭が悪い――サキュバスなんかそもそも努力とか勉強とかに向いていない――けれどそうしたストレスを捩じ伏せ、本と向き合った。ほとんど意地のようなものだった。頭を抱えるようにして、読み始める。
 書いてあることの七割方、理解できっこない。意味不明な呪文の羅列、キャパシティからかけ離れた数式の連続、寄り道に次ぐ寄り道でようやく結論に至る理論の苦行。ディーはたまらずに唸った。いますぐ机に両手を叩きつけて焼き尽くしたくなる衝動をこらえ、どうにかして筆者の意図を読み取ろうと四苦八苦した。頭がひたすらずきずきする。まったく、勉強なんかはクソくらえだ。

 がちゃりと扉が開き、足音が敷居を跨ぐ。フィコ以外であるわけがないので、ディーは振り向かずに言った。「なに」
 「ホットチョコレート持ってきてやったぞ。飲むか?」
 「甘いもの嫌い」
 「でも、飲まないと頭働かなくないか。酒にする?」
 まったく正論すぎて腹が立ってきた。ディーは腕をひらひらさせて言う。「チョコレートでいいからさっさと寄越せ」

 どろどろに熔けた黒くて甘いものを、ディーは一息に飲み込んだ。飲み物というよりはただの餌だった。廻れ、と自分の出来損ないの脳みそに向かって命じる。廻れ。廻れ。しかし、本の内容はなかなか頭に入ってこなかった。糧になっている感覚がまったくしない。
 フィコはベッドのへりに座って、毛布を肩に羽織った。猫科の獣のように唸り続けるディーの背中を見つめている。蝙蝠の翼は不機嫌極まりなく上下し、ディーの肉体はいまにも爆発しそうに見えた。

 毎夜のことだ。ディーはいつもこうしている。日に日にストレスを溜め込んでいるのが、フィコにも感じられていた。けれど、どうしてディーがいつもこんなことをしているのかは知らない。フィコは何気なく言った。「なあ。楽しい?」
 ディーは棘を隠さずに言い返す。「死ぬほどつまんない」
 「だったらなんでやってるの」
 「楽しくてやってるわけじゃない。やるべきだからやってる。あー、もう! 話しかけてくるんじゃないわよ、どこまで読んだかわかんなくなったじゃない! 夜更かししてないでさっさと寝なさい!」
 「眠くないし……」

 仕方なく、フィコはそのままベッドに横たわった。毛布から顔だけを出して、ディーの様子を窺う。しかし、まったく眠くなってくる気配はなかった。
 退屈で、フィコはもっと話をしたかった。ディーはフィコの住んでいたところでは見られないタイプの女だった。人間ではないのだから、当然といえば当然なのだが。『美枝森』にやってくるまで、化外の者はなかなか眼にする機会がなかった。

 「それって、魔法の本だろ」と、フィコは横たわったまま言った。「ヨナが言ってた。ディーはそればっかり読みたがるって。ディーは魔法を使えるの?」

 ディーは背もたれに寄りかかり、天井を仰ぐと、目許に腕を押し当てて溜息をついた。子供は、好奇心の塊のようなものだ。ディーはこの年で十七歳、実際のところフィコと六つしか歳が離れていなかった。だから、理解できなくもないのがいらだたしいのだ。ディー自身、フィコくらいの時分には母親を質問責めにしていた。
 フィコを無視してもよかったのだが、それでは好奇心が満たされないだろうと思った。だから言ってやる。

 「使えなくもない」
 「へえー。どんなの?」
 「つまらないもんよ……血筋で使う、生まれつきのものがいくつか。サキュバスの術なんて、くだらない。ありきたりの催淫。魅了。洗脳。身体操作に吸精。そんなのばっかり。でも、そんなのをいくら使っても、肝心のものだけは手に入らない」
 「肝心って?」
 「サキュバスにもいろいろある。夢のなかで女を妊娠さたり、男に乗っかって精液飲み下すだけで腹を膨らますやつとか。私の一族はそれはそれはもう古臭いタイプの淫魔だった。人間の――魂を喰らうタイプの」

 溜息ばかりが出てきて、ディーは本の表紙を弾くようにして閉じた。閉じてから栞を挟んでいなかったことに気がついてますます辟易した。「魂を堕として喰らう。ことばにすれば簡単だけど実際には面倒くさいことこの上ない。簡単に堕とせる魂ほど、薄くて不味くて腹の足しにならない。濃くて美味くて腹の足しになる魂は、サキュバスごときの思い通りになるほど容易いものじゃない。強くて、気高くて、一筋縄ではいかず、困難で、用心深い。そんな人間を探すだけでも一苦労なのに、いざ堕とすとなると失敗ばかり。
 我らが一族の祖は――私のばーさまは、人間のなかに混じって、連中と一緒に生きて、おなじ道を歩んで、そういう魂をものにしてきた。それはつまり、人間を愛して、自分の魂の半分をやつらに捧げることで、そうしてきたってことだ。でもそれって悪魔って言う? 実際、私の眼から見りゃばーさまはほとんど人間と変わりない女だった。私はそれがイヤだった。せっかく純血種の悪魔として生まれついたってのに、そんな生き方をしたくはなかった。悪魔らしく生きて、極悪非道を尽くして、傍若無人に振る舞いたかった。だから、ばーさまの許から離れてこんなところに――」

 だん!とディーは手のひらで机を叩いた。自分がどうしてこんなことをしているのかようやく思い出し、再び本を開いた。

 「だからこれは、私がそうするためにしてること。独り立ちするために力が要るのよ。催淫だの洗脳だのそんな回りくどい魔法じゃない、直接的で単純で強大な力が。火を見るよりも明白な……いいえ、火そのもののような力が。そのための魔法。そのための魔術」

 蝋燭が燃え尽き、あたりが暗くなった。ディーは引き出しを開け、新しい蝋燭を取り出すと、灯明皿に置いて再び呪文を唱えた。

 「『火よ。震えるもの、揺らぐもの。秘密の道をゆき/無情な嘲りに慣れ果てた/なにも変えられぬ望みなきイメージ/我らが不幸』」

 力みすぎ、先程よりも大きな火が蝋燭を覆った。一瞬で燃え上がり、天井を舐めるほど高く伸び上がり、一瞬で蝋を焼き尽くした。そして、消える。ディーは舌打ちし、フィコは眼を瞠った。

 「おー。すげえ」
 「……やっちまった。蝋燭だってタダじゃないのに」

 フィコは興奮して、上半身を起こした。ディーが魔法を使うのを見るのはそれが初めてだった。いや、そもそも魔法を見ることが初めてだった。

 「ねえねえ! あたしも勉強すればそういうのできるようになる!?」
 「はあ?」ディーは鼻で笑った。「やめときなさい。あんたにゃ魔力の欠片も感じ取れないわ。だいたい人間なんか、こんなもん使わなくたって、直接ぶん殴ればそれで済む話よ。剣を振るうだけでもいい。そっちのほうがよっぽど手っ取り早いし、強いし痛い」
 「ええー? あたし女だよ? 斬ったり殴ったりとか、女が――」
 「女だからなによ」ディーはどうにか魔力を抑えて火を灯し、再び本に向き直った。「『女らしく』なんか、人間のつくったクソみたいなたわごとよ」

 それ以上相手にしようとは思わなかった。ディーは口を噤み、本の内容に意識を集中した。
 フィコはそんなディーの様子を見て取ると、またベッドに身を横たえた。天井を向いて、ぼんやりとディーのことばの意味を考え始めた。










 朝早く、ディーの家にヨナが訪ねてくる。ディーはまた自分の部屋に篭もっていて、応対したのはフィコだった。ヨナは背中に細長いものを背負っていた。

 「ディーに用があるんだが、これはついでだ」
 「なに?」
 「昔、貿易船で働いてたことがあってな。使わなくなったデッキブラシがうちにあった。君にやるよ」ヨナはくすりとして、「『愛しの君』の背中を流すのにでも使ってくれ。雑巾が足りないってぼやいてたろ」
 「いいの?」
 「代わりにディーを借りてくが、いいかな?」
 「好きなだけ持ってって」

 ディーという女は黙っていればサキュバスらしい美女なのだが、いつも寝不足で眼の下に隈をこしらえ、眉間に皺を寄せてばかりいるから、そう見られることは滅多にない。その日はいつも以上にひどく、肌はかさかさに荒れていて、鼻に大きなニキビまでつくっていた。眼つきは悪く、空腹の野良犬のように唸っていて、全身から全力で不機嫌オーラを発散していた。そんなディーと向き合うと、ヨナは思わず笑ってしまっていた。

 「これはひどい。なんて不細工な女だ。素朴な疑問なんだが、そんな様子で、きちんと人間をたぶらかすことができるのか?」
 「死ね」
 「笑うところかな?」
 「なんの用よ。くだらないことだったらぶっ殺す」
 「北の山の麓で、新しい遺跡が見つかったんだ。たぶんセリア王朝時代の、四代目東王の墳墓だ。貴重な呪具が手に入るかも知れないから、同行しないかと誘いにきたんだが。邪魔だったらこのまま帰るよ」
 ディーは机に突っ伏して言う。「行く……」

 ヨナは頷いた。「フィコはどうする? 一緒にくるのは厳しいが、留守番させておくのも心配だろ」
 「ダウラギリのとこに連れてけばいいわ。夜には帰ってこれるでしょ」
 「平気か? やつは近頃めっきり大人しいとはいえ、『古竜十四座の七』だろ。少しのあいだだけならともかく、あまり長い時間一緒にいても――」
 ディーは顔を上げた。「あいつ意思疎通できない振りしてるけど、ただ日和ってるだけよ。私のばーさまと話してるとこ、昔見たことあるもの」
 「ええ?」ヨナはぽかんとした。「そうなのか? 私はてっきり、こっちのことばなんかわかっちゃいないと思ってたんだが。演技だったってことか?」
 「私らのことばを話せるかどうかまでは知らないけど。ばーさまとは異国のことばで会話してた。警戒してるってよりは、面倒くさがってる。私も面倒くさいから演技に乗ってやってる。だから、大丈夫よ。もっとも、フィコのほうが話せないと思ってることに調子乗って、あいつを怒らせるようなことほざいて、丸呑みされたって私の知ったこっちゃない」
 「……なんだか余計に心配になってきたぞ」

 そういうことになって、フィコはディーとともにダウラギリの住処にやってきた。ダウラギリはとぐろを巻いて上半身を横たえており、ふたりの気配に気づくと、隻眼を薄く開いた。穴の空いた翼がわずかに動き、静かな風が枯葉を舞い上げる。もたげた首が小さなふたりを見下ろし、巨大な喉がかすかに唸りを上げた。風穴が空いているような遠い鳴き声だった。
 もう何度も見ているとはいえ、フィコはまだ彼を見上げるたびにある種の感慨を浮かべる。視野のなかに全貌が収まりきらないほどの巨体。夜の闇を熔かし込んだかのようなどす黒い甲殻。けれど、その隻眼にしろ、隻腕にしろ、破れた翼膜にしろ傷だらけの肢体にしろ、どうしてそんな歪なかたちをしているのか、フィコは知らなかった。傷つき尽くしたような竜だった。そのからだが生まれついてのものでないだろうことはわかるが、どうしてそうなったのか。フィコはディーのドレスの裾を引いて訊いた。

 「ダウラギリはいつからここにいるの?」
 ディーは面倒くさそうにしながらも、「私がここにきてから一年くらいあと。だから、二年まえ」
 「そのときからこんなんだった?」
 「こんなん?……傷のこと? そうよ。こいつは縄張り争いに敗北してこんなとこにいるの。こいつが現れたとき、ぶった切られた腕と眼からはまだ血が溢れてた。森の入口からここまで這ってくるまで、真っ黒な血の道をつくってきてた。口からはブレスの澱が零れ落ちて、それに触れた地面にはまだ草木が生えてこない」手をひらひらさせて言う。「こいつは氷と硫酸のブレスを吐く。牙がぼろぼろなのはそのためよ。まえに言ったと思うけど、口の周りには触れないように気をつけなさい」
 「縄張り争い? 人間と?」
 「こいつぶっ倒せる人間なんか想像もつかないわ。同族とよ。悪名高き『古竜十四座の三』カンチェンジュンガ」

 ディーは続けてダウラギリに言う。「夜には帰るわ。それまでこのガキをよろしく」




 フィコはダウラギリの鱗のぎざぎざを撫でて言う。「おまえ負けちゃったのか。なんか親近感湧くなあ」

 そして、ヨナからもらったデッキブラシでダウラギリの尾を擦り始める。尾は長く、その部分だけでも胴体の数倍はある。幾重にも折り重なった甲殻は鋼のように硬く、至るところに棘が突き出し、でこぼこに波打っている。これほどの図体を持つ竜が、どのようにして敗北したのか。フィコにはまったく想像がつかなかった。

 「これだけとてつもなかったら、なんでもできそうな気がするけどな。あたしチビだから、羨ましいよ。サンブックから逃げて、ここまでくるのだって、大変だったんだ。何日も何日も歩きどおしで……」

 雑巾で拭くよりもだいぶ楽だったが、すぐに腕が疲れてしまう。尾の一角に座って、デッキブラシの柄を膝に置いて、足をぶらぶらさせる。空を見上げると、薄い雲が細く棚引いていた。鳥の鳴き声。風に樹々の枝葉が擦れる音。都会のざわめきはなく、耳を澄ませば光の注ぐ音すら聞こえてきそうだった。
 ダウラギリは大人しかった。たまに身じろぎする程度で、フィコを追い払おうともしない。穏やか極まりない佇まいだった。これだけ巨大で、これだけ凄まじい爪を持つ竜にもかかわらず、フィコにはダウラギリが戦う姿さえ思い浮かべることができなかった。

 「縄張りって、おまえの故郷だったのか?」返事を期待せず、フィコは言った。「あたしの故郷は小さな農村だったんだ。山沿いだから狭くて、土地も痩せ細ってて、ろくな作物もできなかったけど。この国って金あるくせに、あたしの村のみんなは貧乏だった。だから、サンブックに売られたんだ。あの男の嫁になるために。それで、たっぷり金もらったみたい。みんな大喜びだったよ、あたし以外」

 寒気がして、フィコは少し震えた。率直な不快感からくる寒気だった。
 売られた、という事実からくる感覚は、凄まじいほどの悪寒を伴うものだった。フィコはあの貧しい村のなかでは群を抜いて美しい少女だった。あの男に一目で見初められるほど。あの男と、周りの取り巻きの浮かべたおぞましい笑みをまだ覚えている。村の娘たちから送られる醜い羨望と嫉妬の顔も。
 あの男は女であれば誰もが一目惚れするであろうほどたいそうなハンサムだったが、フィコはとても好きになれそうになかった。フィコの見る限り、その容姿と、その能力以外にはなんの取り柄もなさそうだった。『サンブックの旦那様』に見初められることは、この国では最上の名誉とされる。幸運と幸福の極みであり、至上の将来を約束され、あらゆる望みが叶えられると。だがそれは、フィコにとって最も大切なものを失うことと同義だった。

 「あそこじゃ、従順が金、沈黙が銀だった。逆らうことなんて考えられないことで、間違いで、過ちで、狂ったことだった。あたしはそれが厭だったんだ」

 フィコはダウラギリの尾から飛び降り、地面に食い込んで錨となっている彼の巨大な爪のところまで行った。デッキブラシを押しつけて、洗い始める。

 「おまえの爪が羨ましいなあ。あたしにもこういうのがあれば、逃げるより先にあの街のやつらの喉を引き裂いてやれたのに」




 太陽が中天を渡ると、フィコはダウラギリの尾を枕に、うたたねを始めた。子供らしい、健やかな眠りだった。すっかりくつろいでいる様子で、この竜が自分を喰らうかもしれないなどとは考えてもいないようだった。
 ダウラギリは静かに首をもたげ、フィコに鼻先を近づけた。その図体に比例してできる影も相応に大きく、フィコの周りはすっぽりと暗がりに覆われた。そうして、口を開く。氷と硫酸のガスが混じる冷たい空気があたりに染み出す。

 『子には反抗の権利がある』声なき声が言う――『身を取り巻く全世界を破壊する権利がある。それを行使しようとする者はわずかだが。おまえは世界にとって間違ったことをした。だが、世界は子に破壊される義務がある』

 ダウラギリは隻眼を閉じ、子を起こさぬよう静かに、顎を地面に置く。そうして眠り始める。










 「『サンブックの寵姫』ってのはそれだけで人生のすべてを約束される。一生を三度過ごしても困らないほどの財産を与えられ、王族に匹敵するほどの高い身分をあてがわれ、みんなに慕われ敬われる。後宮の姫君みたいなもんだ。そこから逃げ出してきたってことは、よほど厭だったんだろうな」ヨナはディーに魔導書を放り投げて言う。「もしかしたら、サンブックの連中がフィコを血眼になって探してるかもしれない。『御主人様』に反逆するのはこの国で最も重い罪なんだ」

 ディーは椅子に座り、魔道書を開いた。たちまち頭が痛くなり、目許を抑えて天を仰いだ。思考が波打ってぐるぐる廻る。しかし、その真髄に到達するには、あと百万回こうした思いをしなければ届きそうになかった。自分の才能のなさがまったく腹立たしい。

 「私にどうしろってのよ」
 「あの子の味方でいるつもりなら、気をつけろよ」
 「私にそんなつもりはないんだけど!」
 「おまえがどういう女かはよく知ってるよ。なんだかんだ三年の付き合いだからな」

 ディーはヨナを睨んだ。寝不足と不機嫌で凄まじい目つきになった。しかし、それも長い付き合いの相手に対してはなんの威圧にもなってくれなかった。

 ディーは息をついて、「あんたの母親が寵姫だったっつってたわね。あんたはそうじゃなかったの?」
 「言っただろ? 『シチュー』だって」ヨナは苦笑して言う。「あそこじゃ混血児は嫌われるんだ。見下されて、この世の失敗作みたいな眼で見られる。私の母親からしてそうだったよ。エルフはダークエルフをこれ以上なく嫌うもんだから」淡々と言い、本棚に指を滑らせて、「サンブックの連中は、有り余るほど愛国心に溢れていると自負しているくせに、同胞愛ときたら欠片もない。問題を抱えた者や、間違いを犯した者を、救おうとするんじゃなく切り捨てようとする。我が国の恥さらしだとかなんとか言って。そうやって、自分たちだけは清純でいようとする。連中にとってはそれが愛国心の証なんだ」
 「かーっ」
 「お……あったあった。ほら、ディー」

 二冊目の魔道書を放られ、ディーはお手玉してキャッチした。探していたものだった。「はー。これでどうにかかたちになりそうだわ」

 美枝森の一角にある集落の、ヨナの住んでいる小屋。壁際に本棚がずらりと並び、ぎっしりと詰まっている。埃っぽく、ディーが美枝森にやってくるまではあまり使わない部屋だった。ヨナは古いものの蒐集癖があるがそれをどう使うかまでは興味がない。
 家を出ると、夕暮れが訪れていた。ブナの樹々のつくる影が長く伸び、燃えるような光が斜めに降り注いでいる。遠くからワタリガラスの鳴き声が聞こえてくる。

 「その魔法を完成させたら、どうするつもりだ?」とヨナ。
 「どうするか? そんなこと考えてない。ただ私に必要だから構築してるだけ。私は一人前になりたいのよ。わかる? 誰の思い通りにもならない女になりたいの」
 「ふうん……祖の許から離れてきたんだったな、おまえは。祖を倒しに行くとか、そういうんじゃなく?」
 「倒す?」ディーは手をひらひらさせた。「悪魔を滅することができるのは人間だけよ。それも、滅しようとして滅せられるものでもない。悪魔を殺すのは、見返りを求めない無償の愛だけ」ふふん、と笑って言う。「この魔法を受け渡しにいくのもいいわね。ばーさまは教えたがりで、私にあれこれ教育してきたけど、逆に私が教えてあげるの。これこそ完璧な反逆だわ。ばーさまのプライドを真ん中からぽっきり折れる」
 ヨナはくすりとした。「立派なもんだ」

 そのとき、夕陽の光が遮られ、辺りを大きな陰が覆った。ふたりは西に顔を向けた。樹々の頭から、爬虫類種の巨大な影が起き上がり、翼を開いて浮かび上がるところだった。真っ黒なシルエットが、斜光の帯を引き摺る。
 隻腕の竜が夜の訪れた空に向かって飛び立つ。大した威容だった。かの竜が飛ぶところなど、ふたりはあまり見たことがなかった。

 ヨナは感嘆の声を上げた。「ダウラギリか。近頃、やつは調子が良さそうだな。ようやく傷も癒えてきたか」
 「大人しくしてりゃいいけど」
 「そうだな。……実際、やつがここにいるというだけで、たちの悪いモノどもがこの森に近寄ってこないというところもある。最近は、このあたりもめっきり平和になった」
 「平和」ふん、とディーは鼻を鳴らした。「平和、ね」




 ダウラギリが飛んだとき、フィコはかの竜の頭の上にいた。

 「う、うわっ……わー!? うわぁー!?」

 甲殻の捻れた角にデッキブラシを回して、しがみつきながら、フィコは叫びを上げた。背中を順繰りに洗って、首を越えて頭までやってきたのだが、そのときダウラギリが急に飛び始めたのだ。降りる暇もなく、あれよあれよという間に、美枝森の真上にいた。
 いきなり視界が広がり、フィコは眼を見開いた。西の地平に陽が沈もうとしており、長々と伸びる影が世界を刻んでいる。東には大陸を縦断する雪嶺山塊の威容が、黒い雲の冠を抱いて聳えている。足元には国境を巡る美枝森の広大な土地。

 「な、なんだよー! いきなりなにやってんだおまえー! あたしが乗ったままなのわかってんのか!?」

 返事はごろごろと遠雷のように鳴る喉の音だけだった。
 ダウラギリの飛び方はいたく不安定だった。からだの芯がぶれているような軌道で、翼が羽ばたくたび、破れた翼膜から風の通り抜ける音が響いた。隻腕のせいか、真っ直ぐに飛べず、まえに進むたびに横に流れている。フィコは、しがみつくだけで精一杯だった。頭が揺れるたびに落ちそうになり、単純な恐怖でお腹のあたりが引き攣った。

 「あたしがなにしたってんだよー! 気に障ることしたつもりはないぞ! いつもどおり洗ってただけなのに、いきなり――」ぐわりとダウラギリのからだが揺らぎ、フィコは危うく舌を噛みかけた。「意地悪!」

 ダウラギリはフィコの罵倒などどこ吹く風で飛び続けた。しばらく美枝森上空を旋回した後、徐々に高度を上げ始める。風が冷たくなり、フィコはぶるりと震えた。こいつはあたしをどこに連れて行こうとしているのか。
 雲が下にある。空が近い。地平の下から、太陽が上に向けて光を放っている。フィコは小刻みに息を吐き、世界を見渡した。恐怖を越えて突き上げるなにかの感覚があった。

 「すげえ……」

 水面を泳ぐ蛇のように、ダウラギリの尾が波打っている。
 このところ森ばかり見てきたフィコには、その光景が異様に広々として見えた。森を刻む早瀬川の、蜘蛛の巣のように広がる支流の筋が、その先端から先端まで見渡せる。そこから見下ろせば、なにもかもが小さい。雪嶺山塊の遥かな山並、山稜線のぎざぎざが、視界の端から端まで抜けている。
 ヨナの住む集落の家々がほとんどミニチュアだ。そこから離れたところにぽつりと立っているディーの小屋を見つけて、フィコは興奮した。人間の身では見ることの決して叶わない光景を見ている。その実感が、風の冷たさを引きちぎって湧き上がってきた。
 サンブックに囚われているさなか、幾度思ったことだろう? 鳥になってあの山の向こうへ飛んでいけたら。いま、フィコはその光景を目の当たりにしていた。鳥よりもさらに高く、竜という絶対的な存在の頭に乗って、夜の夢よりもさらに膨大な視界を与えられていた。こんなにも容易く……

 フィコは叫んだ。
 なにかに突き動かされるようにして、雄叫びを上げていた。そうしなければ湧き上がったものに胸が張り裂けそうな怖れがあった。しかし、そんな自分の声さえ、フィコの耳には届いてこなかった。ただ風の音がする。

 「すげえええええ!!」

 声の限りに叫び続ける。
 そこから見下ろせば、世界は凄まじいほど美しかった。




 ダウラギリの、地響きを伴うような低い咆哮が聞こえた。ディーとヨナは夜空を見上げ、眼を細めた。ディーはいらいらと自分の髪を弄り、ヨナに言う。

 「森の入口に四人」
 「なに?」
 「人間よ……警戒しろ、って言ってる。あのクソ蛇、自分でやりゃいいものを……なんか、物騒なことになりそうよ。どうにも、普通の人間じゃないみたい」
 「わかるのか?」
 「わかるように言ってきてる。余程のことみたい」

 ヨナは自分の顎に指を添え、考え考え言う。「人間か。近くの集落のやつらは、この森の者を怖れて近寄ってこない。ここ数年なかったことだ。フィコ絡みかもしれんな」
 「サンブックの連中ってこと?」
 「かもな。フィリオラを連れてくる。四人程度ならおまえひとりで大丈夫だろうが、手分けされると厄介だ」
 「ちょっと」ディーはヨナを睨んだ。「私はかかわりあいになりたくないんだけど!」
 「そう言うな。他に戦えるやつがいないんだから」

 ディーは地団駄を踏んだ。




 暗くなっている。星灯りがぼんやりとブナの影を落としている。月のない夜。

 「二手に別れた」ヨナは樹上から、下のディーに向けて言う。「ここからじゃ視認しにくいが……四人とも、馬に乗っている。全員女だ。騎士風の、鎧に身を包んでいる。武器は剣と弓。ひとりは、普通の人間の気配じゃない。恐らくは『サンブックの寵姫』だ」
 「めんどくさ……」
 「言ったと思うが、寵姫はマスターから特別な力を与えられている。マスターは寵姫だけではなく、自らに想いを寄せる者に対しても僅かながら力を与える。たぶん他の三人もそうだ。こちらにくるふたりはおまえに任せる。気をつけてくれ」
 ディーは手をひらひらと振ってみせた。「はい、はい」
 「フィリオラ。頼む」

 樹上からふたりの気配が消えると、ディーは腰に手を当てて深く息をついた。
 細紐で後ろ髪を縛り、ポニーテールのかたちにする。どうにか気分を変えようと、両頬を手で打った。寝不足で眼がしょぼしょぼする。

 しばらく待つと、ヨナの言ったとおりの姿がふたつ、闇のなかから現れる。ディーは道の真ん中に立ち、不機嫌そのものの表情で待ち受けた。馬の歩みが止まり、ふたりの女が油断ならない顔でこちらを見つめる。一方は白馬に、もう一方は栗毛の馬に跨っている。
 かなり若い。兜はしておらず、十代後半の、見目麗しい顔。これはこれは、とディーは思う。サンブックの寵姫とやらは、美少女でなければならないらしい。でもあんまり美味しくなさそう。

 「ハァイ。こんばんは」ディーは軽く手を掲げてみせる。「お嬢さんがた。迷子かしら、ここがどこだかわかってらっしゃる? よろしければ、私が近くの集落まで送っていってあげるけれど。夜遅くにこの辺は危ないわよ」

 ディーの容姿――蝙蝠の羽根――に、女たちはさっと警戒の色を浮かべた。すらりと、腰の剣を抜く。鋼の銀色が星灯りにわずかに反射する――血の匂いのしない、真新しい剣――年長者らしい、背の高いほうが、白馬の手綱を絞って一歩まえに出てくる。

 「魔物か」
 「どおも。いやだわ、そんな怖い顔しないでくださる? 取って食おうなんて思っていませんから。美枝森には、人間と好んで敵対しようとする者はおりませんわ。税金は払ってませんけれど」
 「美枝森の魔物のことはよく聞き及んでいる」軽やかな、高い声。やや緊張が見られる。「国に追従しない魔物たちが寄り集まって、手の出せない無法地帯と化していると。だが、サンブックは魔物になど屈しない。大人しくそこを退けば良し。退かぬなら――」
 ディーは肩を落とした。「で、そのサンブックのお方がこちらになんの用かしら。魔物退治でしたら、他を当たったほうがよろしいかと存じますが」

 栗毛の馬に乗っている女が、まえの女に耳打ちする。「アリサ様。魔物のことばになど耳を貸さぬよう。ここは突破してしまうほうが良いかと考えます」
 「そうか?……」
 「寵姫ともあろうお方が、不浄の者と口を交わしてはなりませんわ。見たところ、あれは悪魔の類。あまり長く接していては、貴女のお心が穢れてしまいます。わたくしは御主人様に貴女の警護を申し付けられているのです」
 「心配は無用だ。私はマスターに力を与えられている。いかに悪魔が惑いのことばを囁いてこようとも、私の心は常にマスターとともに在る」

 ディーはますますいらいらして、足の裏で地面を軽く叩いた。「で、どうなさるおつもりかしら?」

 今度は返答がなかった。ふたりの女は臨戦態勢に入り、手綱を引いて距離を離した。
 ぬるい風が吹き、樹々の枝葉をがさがさと震わせる。星灯りが枝葉の隙間を縫うたび、剣の銀色がディーの視界のなかで煌く。

 「ひとつだけ忠告しておこう」と白馬の女が言う。「私がマスターから与えられた力は、あらゆる魔法を無力化する能力。たとえ貴様がいかな術を使おうとも、マスターの御加護は穢れし技をすべて封じ込める」
 ディーは舌打ちをひとつする。そうしてぼそっと呟く。「どおもご親切に」

 白馬の女が、剣を高らかに振り上げ、凛として宣言する。「ゆくぞ!」

 馬が一歩目を踏み出すより先に、ディーの拳がふたりの女の顔にめりこみ、地面に叩き伏せていた。










 「くっ、殺せ!」
 ディーは心底げんなりした。

 ヨナがフィリオラとともに戻ってくる。ふたりは鎧姿の少女を背負っていて、どちらも気絶していた。ヨナはディーのまえに縛られて座らされている少女ふたりを見て、満足げに頷いてみせた。

 「おお、大漁だ。やはり、ディーとフィリオラが揃うと安心感があるな」

 フィリオラはこの国ではもう滅ぼされてしまったハーピィの末裔で、灰色の大きな翼と、鳥の両脚、鉤爪となった左手の、若い娘だった。ヨナと同じく人間の血が流れており、右腕と顔から胸にかけては完全にひとのもので、大剣を二本背負っている。短い灰色の髪、琥珀色に近い黒の眼。ディーはフィリオラが飛ぶところを一度も見たことがない。本人の言によれば、筋肉が重すぎて飛ぶことができないそうだ。

 フィリオラは少女を地面に下ろして言う。「報酬分は働きました。帰ってもよろしいですか」
 「もう少しいてくれると助かるんだが」
 「妹がお腹を空かして待ってますので……」
 「じゃあ、仕方ないな。次もなにかあったらよろしく頼む」
 「賃金を払って下されば、いつでも」

 で、フィリオラは帰ってしまう。
 ディーは髪を弄りながら言う。「私も帰っていい?」
 「おまえはもう少しいろ」
 「フィコが腹を空かして――」
 「どうせ飯をつくるのは彼女だろ。私ひとりじゃ、四人も手に負えないぞ。おまえらと違って私はひ弱なんだ」
 ディーは大きく舌打ちした。

 ヨナは、寵姫のまえにしゃがみこみ、視線の高さを合わせた。もう気絶していないのはその少女だけで、他の三人は眼を覚ます気配もない。ディーはどちらにも同じような力で打ち込んだのだが、やはり、寵姫だけは他の少女よりも力があるようではあった。

 「ヨナ・エルゾーグだ。初めまして、サンブックの寵姫どの」
 寵姫は眉を潜めた。「ダークエルフか」
 「お察しのとおり。ところで、レナ・エルゾーグという女はご存知か? たぶん、まだ寵姫をやってると思うんだが」
 「……レナ様が、なんだというんだ。待て。エルゾーグだって?」
 「私はその女の娘でね。避妊に失敗して、望まれずに生まれた子というわけだ。捨てられて、ここまでやってきた。レナは元気かね?」
 寵姫はぼそぼそと呟く。「レナ様はわれら寵姫の誇りだ」
 「ふぅん、それはよかった。その様子だと、どうやら私の妹はまだ産まれずに済んでいるようだな。そういうわけだから、話してくれんかね。なにをしに美枝森へやってきた?」
 「魔物に話すことなどなにもない」

 ヨナは呆れたように深く息をついた。

 「やはりというかなんというか、レナの娘であるということよりも、ダークエルフであるということのほうが重い枷のようだな。血筋なんぞまったくくだらん。ディー。催眠かなにかで手っ取り早く自白させられないか?」
 寵姫は胸を張って言った。「無駄なことだ。私にはマスターの御加護がある。いかに貴様らが卑劣な術を弄しようと、私の心がマスターとともに在る限り私の心が惑わされることはない」
 「つか私がイヤよ」とディー。「私がそういうの嫌いだって知ってるでしょ」
 「別におまえにこの娘とセックスしろって言ってるわけじゃないんだがなあ。他の三人は近くの集落に放るとして、この娘だけでも手元に置いておきたい。目的がなにか、聞き出さないと。ところで、寵姫どの。名は?」
 寵姫は口を噤んだ。ディーが言う。「アリサとか呼ばれてたわ」
 「オーケイ、アリサ」ディーに耳打ちする。「やはり、フィコが目的だと私は思う。連れ戻しにきたのなら、どうするかは置いといてまず説得したい。協力してくれ」
 「協力ったって、どうするのよ」
 「うん、まあ、それが問題なんだが」

 アリサは縛られている腕を動かし、ディーとヨナを見上げて睨んだ。「これを外せ、魔物ども」
 「せめてなにが目的か話してくれんかね」
 「こんなことが赦されると思っているのか? この国には、貴様らのような者を優遇する魔物特権があると聞いている。だが、それも腐りきった政府に居座っている貴様たちの仲間が息をしているまでの話だ。マスターがこの国に改革を起こせば、貴様たちはたちまち敗北し、この国から追い出されて自らの国に帰らざるを得なくなる。そうなればわれわれの大勝利だ」
 ディーは驚いてヨナを見つめた。「特権。そんなのあるの?」
 「そんなものはない」
 「われわれ誇り高きサンブックの住民は魔物になど屈しない!」

 ヨナは肩を落として溜息をついた。

 「だめだ。話が通じない」
 そのとき、別の方向から声がする。「それじゃあ一晩あたしがもらってもいーい?」
 「え?」

 ヨナとディーは振り返った。ブナの木が落とす影の暗がりに、ふたつの人影があった。年端もいかないような幼い少女姿がふたり。一方は闇に溶けるような浅黒い肌に長い金の髪で、もう一方は月灯りに溶けるような真っ白な肌に長い黒の髪。瓜二つの整った顔立ちに、同じ背丈、同じ翠色のドレスを纏い、蝙蝠の小振りな羽根をぱたぱたさせて浮いている。どちらも含みのある笑みを浮かべており、妖精のようにふわりと舞い上がると、アリサのすぐそばまでやってくる。

 ディーは思いっきり厭な顔をした。「エメロード……」
 ヨナは驚いたようにぽかんと口を開け、その後でにっこりと笑った。「なんだ。帰ってたのか」

 金髪のほうが言う。「ハァイ、ディー。久し振りー。ちゃんとごはん食べてる?」
 黒髪のほうが言う。「ハァイ、ヨナ。久し振りー。元気してた?」
 「ああ」とヨナ。「こっちはどうにかな。エメロードがいなくて、寂しかったよ。ディーが日に日に不機嫌になるものでな。いま、おまえたちの家に居候をひとり住まわせているんだが、大丈夫だったかな」
 「いいよいいよ。ディーひとりだけじゃ心配だったしねー」
 「ディー、なんだかやつれてるみたいだねー。居候さんに迷惑かけてないだろうね―? まったくもう、あんたって子は愛想ってやつがないんだからー」
 「あたしがいないあいだになんだか楽しそうなことになってるじゃない。サンブックの寵姫ですって? んふふ、どうりでなんだか精液臭い匂いがするねえ」
 「あたしあそこの女の子ちょっと興味あったんだよねえ! 御主人様とやらにべったりして、他の人間の味なんて知らないみたいな子ばっかりだって。へえー、たしかにこりゃとびきりの美少女だねえ」
 「折見てひとりくらい攫ってこようと思ってたけど、向こうからきてくれるなんて都合がいいねえ! こーゆー子にねえ、他の子の味覚えさせて、どんな反応するだろうって思っててねえ。他人のお姫様寝取るのってそそるよねえー、ノンケの子にねえ、こうねえ、女の子の味をねえ……!」
 「嫌がってる子をねえ、べったべたにしてねえ、じわじわ覚え込ませてねえ……!」
 「れっずれっいぷ! れっずれっいぷ!」
 「れっずれっいぷ! れっずれっいぷ!」
 ディーは耳を覆って叫んだ。「ふたつの口でいっぺんに喋らないでくれる!?」

 アリサは愕然としてふたりの悪魔を見上げた。「な、なんだこいつら!?」
 金髪のほうがスカートの裾をつまんで笑った。「初めまして、寵姫様。あたしはエメロード・ディアディパーティッド。今宵のお相手はお決まりだったかしら?」
 黒髪のほうがアリサの首筋に指を這わせながら囁いた。「初めまして、寵姫様。あたしもエメロード・ディアディパーティッド。今宵のお相手はあたしにチェンジ。朝まで一緒に楽しみましょう?」
 金髪のほうが自分の指をぺろりと舐めて――「あなたの御主人様はあなたに優しくしてくれてたかしら。ねっとり触られてとろとろにされてからのほうがお好み?」
 黒髪のほうがアリサの耳をぺろりと舐めて――「あなたの御主人様はあなたに激しくしてくれてたかしら。濡れるまえにちんぽ突っ込まれてがんがん揺さぶられるほうがお好み?」
 「まあどっちでもいいんだけど。どうせいままでどうされてたかなんてすぐに忘れちゃうだろうし」
 「ひとりの相手しか知らないと比較できないよねえ。それ以外のことなんて想像もつかないよねえ」
 「いままでのことを忘れさせてあげる」
 「あたらしいことを教えてあげる」
 「楽しいことと」
 「気持ちのいいこと」
 「目覚めさせてあげる」
 「もう戻れない」
 「はいお持ち帰りー!」

 悲鳴を上げるアリサをふたりの悪魔が連れ去っていく。あっという間に樹々の頭上を超え、ヨナとディーの視界から消え去っていく。ヨナは立ち上がり、両手を筒にして口に当てて叫ぶ。

 「エメロード! 終わったらちゃんと私のところにこいよ! 私の魂はおまえのために取っておいてあるんだからな!」
 ディーはもうこれ以上ないほど顔をしかめている。「同性に欲情する性指向ってほんとわっかんねえ……」




 ディーが家の扉を開けると、食卓の椅子に座っていたフィコがぱっと立ち上がった。食卓には手の付けられていない食事が並んでおり、もう冷め切っているようで、ずっと待っていたのだろう。フィコはどこか拙い足取りでディーのまえまでくると、おずおずと彼女を見上げた。ディーは腰に手を当ててフィコを見下ろした。

 「なあ、ディー」
 「なによ」
 「あたし、もう出てったほうがいいよな」

 ディーは少しのあいだ口を噤んだ。察しのいいガキだこと。実際、この娘は身の回りのことをわかるより先に勘づいているようなところがあった。物事の本質を見通しているような。そうでなければ、サンブックから逃げ出してくることもなかったろうし、あのクソ蛇ダウラギリに懐くようなこともなかったのだろう。
 が、ディーは別にフィコがどんな娘だろうとさして興味はなかった。わりと心底どうでもよかった。ディーは本質的に淫魔であり、淫魔というものは自分の好きなこと以外にはてんで興味がないのだ。淫魔が他人を判断する事項は、ベッドの上でどんな行いをするか、という点だけである。相手に優しくするのか、相手を傷つけるのか、相手の欲求を満たそうとするのか、自分の欲求だけを満たそうとするのか。ディーは淫魔の眼で、フィコがどういう娘かを判断していた。

 だから、フィコの額を軽く小突いて言った。「ガキが、くだらないことに気をかけてんじゃないの」
 「でも――」
 「余計なことに気を回すんじゃないわよ、気持ち悪い」ディーはわざとらしく震え上がってみせる。「私気持ち悪いことって大っ嫌い!」フィコの横を通り抜け、食卓につく。「いいからさっさと飯にするわよ。肉体労働してお腹減ってるの。ちょっと、やだ、トマトがあるじゃない! 私トマト嫌いだって、何度も言ってるわよね!? トマト出したいならせめてケチャップにして、生で食わせようなんてしないでよ! あーもう、いーい? 明日の朝はオムレツにしなさいよ!?」

 フィコはしばしのあいだ、自分を放って食事にありつくディーの横顔を見つめる。
 ディーがどういう女か、フィコにはわかっていた。ディーは少なくとも、嘘をついたり誤魔化したり、こちらに気を遣ったりとかは、一切しない。そういうのは淫魔のすることではないからだ。ただ本心だけをぶんぶんと投げつけ、誰に対しても遠慮なく悪態をつく。身内に対しても堂々と反逆する。

 フィコは少し泣きたいような気分になって、くしゃりと笑った。「好き嫌いすんなよ、ばか」




 「あ、あ、あ、あひぃ!!――……!?」

 アリサは自分の悲鳴で目覚めた。発条仕込みの人形のように、上半身を跳ね上がらせ、真っ青な顔になって、汗をびっしょりとかいている。我に返ってあたりを見渡すと、見知らぬ部屋に真昼の陽射しが差し込んで、一糸纏わぬ自分の他に誰もいない。明白な悪夢が時間を置かずに蘇ると、全身からさぁっと血の気が引いて、大して寒くもないのにかたかた小刻みに震え始めた。

 「う、嘘だ……嘘だ……そんな、そんな……ああっ」

 まるで長い夢から覚めてしまったような虚脱感と、いままで築き上げてきたものが一息のうちに突き崩されてしまったような喪失感に、視界がぐるぐる回って世界が遠退く。これまで自分の所属していた世界がどれだけ無価値で狭いものだったことか! 知りたくもなかったものを余すところなく知らされ、自分というものがちっぽけな蟻の一匹のように思えてくる。はっとして、アリサは虚空に手を伸ばした。背信の言い訳を精一杯考える、けれど伸ばした指はなにも掴めず夢を漂う。

 「ああっ、違います、違います、マスター、これは、そんなぁっ……! だめ、だめだ、こ、零れてしまうぅっ……私の、私のなかから、ああっ……マスターの御加護がぁっ」

 しかし、もはや消えてしまった。
 肩口に掘られた寵姫の刺青が、なんと無意味なものに成り下がってしまったことか。これを掘られたとき、誇りと名誉で得意になっていた自分が、ただの愚か者のように思えてしまう。もはや、アリサは清く正しく美しいサンブックの寵姫ではなくなってしまっていた。たったの一晩で。自分にとって唯一のものであったものが、唯一のものでなくなってしまっていた。アリサは別の女のからだの味を知ってしまったのであった。

 わっと両手で顔を覆って、罪の意識に全身を震わせた。
 だめだ、哀しい振りをしているだけだ。

 そっと顔を持ち上げて、改めて部屋を見渡す。おんぼろ家屋の見知らぬ寝室。恐る恐るベッドから下り、着替えを探すけれどそれらしいものはなく、仕方なくシーツをからだに巻きつけてとぼとぼ部屋の敷居を跨いだ。廊下を見渡す。狭くて、左手にふたつの扉と、右手に居間へ通じるらしい大きな扉がひとつ。足音を忍ばせて、左手に向かう。扉のひとつはトイレで、もうひとつは書斎――奥に蝙蝠の羽根を持つ女が座ってうんうん唸っている――びくりとして後退り、逃げるように居間の扉へ向かう。
 扉を開けるまえに向こうから開いて、小さな少女が姿を現す。

 「お、アリサ。やっと起きたのか」
 「――フィコ!?」

 アリサはなによりもまず先に、フィコを抱き締めた。無事だったのか、という安心感が湧き出してきて、必要以上に力強く抱き寄せてしまう。フィコに腕をぽんぽんと叩かれて、ようやく身を離す。少女を見下ろすと、手入れしていない埃だらけの前髪に顔が隠れ、安っぽい木綿の上着にズボン、化粧もしていないからひどくみすぼらしく見える。こんな魔物の住処に居ざるを得なかった少女の境遇を思い、アリサはいたく胸を痛めた。

 「フィコ……よかった、無事だったんだね!……心配かけさせて! あなたがいなくなって、私たちどれだけ探し回ったか……もう二ヶ月も……人伝いに、どうにかこっちのほうに来たって情報を――」
 「落ち着けよ、アリサ」
 「あいつらになにかされてない!? あいつ――あいつ――そ、そこの書斎にいるやつ、サ、サキュバスでしょ!? 私、私あいつと同じ蝙蝠の羽根付きの女に――ああっ――フィコ、あなたは、あなただけでも――」
 「ディーには世話になってるだけだよ。ほら」アリサの手を引いて、「話すから、とりあえず飯食おーぜ。もうお昼ごはんできてるからさ」




 ヨナは庭に回り、ディーの部屋の窓を叩いた。すぐに、窓が開いて主が顔を見せる。

 「よう」
 ディーは身を乗り出し、周りを見渡した。「エメロードは?」
 「私の家にいるよ。おまえにゃ悪いが、しばらく貸してくれ」にへらとだらしなく笑って、「私も溜まってるもんだから」
 「……。もうずっと持ってていいわよ。あんたも物好きねえ。ドン引きよ」
 「アリサはどうしてる?」
 「いまフィコと話してる。ねえ、ついでにあれも持ってってくんない? なんで私の家にばっかり居候が溜まってくのよ」
 「ふたりまでだったら、許容範囲だろ? ここはおまえとエメロードのために建てた小屋だぞ。三人分だ」

 ディーはもう何度目かになるかもわからない溜息をついた。いい加減ひとりでゆっくり研究に没頭したいのに、面倒事ばかりが増えていく。これでは祖の許にいたときとなんにも変わらないじゃないか。たしかにそりゃ、やかましいエメロードがいないだけでだいぶ静かにはなっているが。

 「つか、あの子ここに置いといて平気なの? またサンブックの連中がくるんじゃないの」
 「いや」ヨナは首を振って言う。「昨晩きたのが四人だけだったから、確信したよ。もう後続はこないだろう。アリサがやってきたのは独断だと思う。
 しばらくしたら、こちらからサンブックに向けて声明を送っておこう。『サンブックの寵姫を人質に取った。返して欲しければ期限内に百億クローネ用意しろ』って」
 「百億ゥ!?」
 「連中はまず用意しない。アリサを救うポーズは取るだろうが、実行はしない。それでうだうだやって期限を超えれば、それでおしまいだ。サンブックの領内では、そうしたポーズを取った御主人様にねぎらいのことばがかけられるだろう。『お疲れ様です、御主人様』ってな。で、御主人様はこう宣言する。『今回の事件はまったく遺憾である。言語道断だ。われわれは魔物には屈しない』。以上。敬具」
 「それであの子はどうなるの?」
 「『自業自得だ。当然の報いだ』。それがサンブックの世論になる。少しくらいはアリサを悼む声もあるかもしれんが、それもほんの少しのあいだだけだろうよ。同調圧力に屈して、もうなにも言えなくなる」
 ディーは窓枠に肘をついた。「ほんとうにそうなるんでしょうね?」
 「言っただろ? サンブックの連中は愛国心こそあれ、同胞愛はかけらもない。もしアリサを救うためにあらゆる手を尽くしてくるというなら、私たちはむしろそれを祝うべきだろう」

 ディーは自分の腕に顔をうずめた。「気持ち悪」
 「そうだな」

 真昼の光がさやかに降り注ぎ、雲ひとつない暖かい空だった。春の香りがそこらじゅうに漂い、草花の芽吹く音まで聞こえてきそうなほど、静かだった。美枝森は、明るい森だ。生い茂る枝葉にかかわらず、木漏れ日がどこにも柔らかく射し込み、開かれた広場も多い。この国での、魔物が安住できる唯一の場所だった。
 ふと影が一帯に落ち、ふたりは空を見上げた。ダウラギリの、隻腕の巨体が豪風を伴って通り過ぎていく。抑えた鳴き声が響き渡り、誰かを呼んでいるようにも、誰かに囁きかけているようにも聞こえた。今度は、ディーにもその声の意味するところを解することはできなかった。

 「愛国心ね」ディーは鼻で笑った。「愛ってなによ」
 ヨナはにやりとしてディーを見つめた。「そりゃ、この世の誰にも正しい答えを見出すことのできない問いかけだな。でも私は、ディアディパーティッドの一族はそれを知ってるもんだと思ってたよ」
 「私らサキュバスよ? ただヤって、ヤって、ヤって、それ以外にはなーんの意味もない、存在の芯からクソったれの種族よ。愛なんて知ったこっちゃないわ」
 「エメロードが――おまえの母君が教えてくれたんだ。いちばん気持ちのいいセックスは、愛だって。それ以外はみんなカスみたいなもんだって。でも気持ちよくなるために抱いた愛は、これ以上ないくらい空虚なものなんだとさ。サキュバスもしんどいもんだな。同情するよ」
 「……どおも。サンブックの寵姫様が羨ましいわねえ。セックスすりゃ強くなるんでしょ?」
 「サンブックの男はまぐわう者に力を与え、サキュバスはまぐわう者のすべてを奪う。でもな、私は愛があるとすれば、サキュバスのほうだと思うよ」

 ヨナは両腕を広げ、自分を示してみせた。

 「すべてを奪い去られても構わない。魂丸ごと捧げても構わない。私はセックスするんだったら、それくらい思い切ってしたいと思うよ。なにかの見返りに股を開くなんてまっぴらごめんだ。まあそれも、私のささやかな親への反抗心からの衝動なんだろうが」




 「そう考えてるから、あたしはサンブックのやつらがきらいなんだ」と、フィコは言った。「サンブックは、セックスに見返りを求めるのが普通のことになってる。力と、お金。きもちわるいんだよ。だってあたしは、それでサンブックに売られたんだから。首輪を付けられたんだから」
 アリサは俯いて言う。「マスターは、あなたのことがお気に入りだったよ」
 「ごめんね」フィコは手を伸ばし、食卓の上で握り締められたアリサの手に重ねた。「でも、アリサがあたしを連れ戻しにわざわざきてくれたのは嬉しかったよ。サンブックでいろいろ優しくしてくれてありがとう。けど、やっぱりあの男のとこに帰るのはイヤなんだ。だって、あたし自身が、これっぽっちもあの男にそそられないんだもの」

 アリサはきっと顔を上げ、フィコを軽く睨んだ。「マスターのことを、あの男なんて言わないで。この国には、マスター以上の男性なんていないよ」
 「だってあいつちっちゃいんだもん」
 「ち、ちっちゃい?」

 フィコは椅子から跳び降り、窓際に行って、空を指さした。

 「ほら」指さした先に、隻腕の黒竜の巨体が飛んでいた。アリサはひっと息を飲み、唖然としてフィコを見つめた。「すげえでっかい」フィコはひひと笑ってみせた。「あいつと会って、わかったんだ。自分の好みってやつ。あたしでかいひとが好き。でかくて、優しいひと。ダウラギリが動くのを見るだけで、あたしなんだか幸せになれるんだ。自分の悩みがどれだけちっぽけで、くだらないことかって思い知らされるみたいで。なんてーか、そそられるの」

 そうして両腕をいっぱいに開き、自分を示してみせる。少しだけ頬を染めて、興奮しているかのように。

 「あたし、竜の嫁になりたい。ダウラギリの。どうすればいいのかよくわからないけど、ディーだったら知ってる気がするんだよなー。あいつサキュバスだから、いろんなヤり方、知ってるだろうし」










 四日の市に竜の鳴き声が響く。
 いつからか慣習となったその音色に、フィコは横にいるディーの裾を引っ張った。ディーが鬱陶しそうに手をひらひらさせると、フィコはデッキブラシを担ぎ、ぱっと花のような笑顔を浮かべて、『愛しの君』の許に走り出した。
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