邂逅
終わった? とそれまで目を閉じ、壁に背を預けていた木賊さんが目を開けた。
「ええ、はい、終わりました。行きましょう」
「結局何なの、俺……見逃されたの? つまんねえ」
「ごめんね、彼、殺されたがりなんだ」
浅葱さんによくわからないフォローをして、僕の前を歩く木賊さん。そういえば、なんで止められなかったんだろう?
「でもね、読めてたんだ。君があいつを殺さないって」
ひらひらと手を振って前を行く彼は、そこまで頭が良さそうに見えなかった。だが愚者を演じる天才ほど怖いものはない。そっとしておこう。不機嫌そうな浅葱さんに続いて木賊さん、僕、の順に歩いて行くと、路地が急に開けた。街灯の数も突然少なくなる。
周りと同じ五階建てでありながら、廃れ寂れた建物。今にも幽霊や思念体の類いが現れそうな、そんな廃ビルがひっそりと、けれど存在を主張して建っていた。
「情報班によれば、ここに反抗軍の拠点があるらしい。壁外ヒーローと感動の出逢いを果たせるかもな」
「オズ?」
「“Outer Zion”の頭文字をとって、オズさ」
教科書曰く反抗軍とは、人外を取り締まる我々リュケイオンと対立する組織らしい。人外の権利が不当だと糾弾し、暴力によってのみ解決できると考える、野蛮極まりない人たちだとか。オズ、というのは確か、『オズの魔法使い』に出てくる彼だ。
僕は頭を冷やそうと深呼吸した。落ち着け、敵を見誤るな。誤断は許されない。彼だって僕だって、命は一度きりなのだ。
馬乗りになった時はひどく頭が冴えていたのに、後から興奮が襲ってくる。
「行くよ、朔真くん」
「あっ……すいません」
二人についてビルへ入った。倒れた扉と割れたガラスを乗り越え、崩れかけたコンクリート壁を眺めながら、何も考えずついていく。時折彼らはしゃがみ込んだり破片に触れたりしていたが、僕には何もわからない。
浅葱さんと木賊さんが二手に別れ、左右別の部屋に向かう。僕はその場に立ち尽くした。
「ユーリク。こっちに痕跡が残ってる。お前も来い」
浅葱さんが大声で僕らを呼んだ。ビルの壁に反響して、必要以上の声になってしまっている。僕は左の部屋に走った。木賊さんが後からやって来る。
見ろ、と指された部屋の中心には、何かの缶と菓子の空袋が転がっていた。缶はおそらく酒だろう。だって部屋中が酒臭い。
「急いで逃げたか、誰かに襲われたかだね。他には何か?」
「いや、何もだよ。公安に連絡するか、鑑識を借りて詳しく調べてもらえ。僕たちの仕事は別にある。だろ、ユーリク」
「そうだねトーニャ。じゃあ、情報班に連絡しておくよ」
「ああ、頼む」
木賊さんも浅葱さんと同様に、手袋が普段のもの──黒色のもの──から、白色のものに変わっていた。刑事ドラマでよく見る、現場に指紋を残さないための手袋だろうか。浅葱さんがこちらを見ずに、僕にも同じものを一組投げた。受け取って着ける。ひやりと冷たいものが常に手を覆っている感覚はどうにも慣れず、どこかくすぐったい。
二人の会話から拾うと、反抗軍の他に、小さな敵対組織がぽつぽつとあって、壁外ではそれらによる小競り合いがいつも起きているようだ。
「上の階も調べる。臨戦態勢」
「りょーかい」
「はい」
とはいえ僕は戦ったことがない。すると浅葱さんが僕に後ろへ来るよう手で示し、庇いながら、最初の広間に戻った。優しいひとだなあ、なんてぼんやり考えてしまう。僕が殺そうとした人なのに、僕に殺されかけた人なのに。
広間の奥にはエレベーターがあって、その左には階段がある。エレベーターはビルがこんな有様だし、電気が通っているかどうかすら怪しい。階段の更に左、折り返しの下のデッドスペースには倉庫と思しき扉があった。
「たぶん上にいる。俺が行くから、お前らはここにいろ」
「はいはい、いつものね」
浅葱さんは羽織の留め金を外した。黒革のそれはバチンと音を立てる。羽織を脱ぎ、手に巻きつける。
「起きろ、カバネ」
するとたちまち黒いそれは、刀身まで真っ黒な、鞘付きの刀に変貌を遂げた。大きさは1メートル強といったところだ。黒い太刀だ。何だろう。彼は「カバネ」と言った。カバネ。屍、だろうか。独りでに形状を変えたから、自立式の最新オートマタか何かかもしれない。僕は、あの、と木賊さんに小声で尋ねた。
「カバネ、ってなんです?」
「生物兵器の個体名だよ。トーニャは何か思うところがあって、カバネにしたんだろうね。所有者が名前を決めるから。ちなみに俺の相棒はヒイラギさ」
「男爵、ですか」
そう、と彼が言って会話は途切れた。
あちこち塗装が剥げて灰色になった階段を、彼は一人で上っていく。ブーツのヒールが階段を叩いていく。広間で待機する僕は、上から攻撃が来ないかと気が気ではない。
折り返しだ。二階まであと半分。そこへ、紡錘形の物体が転がってきた。正確に言えば投げられてきた、だろうが。
焦ったように浅葱さんが叫ぶ。
「退避しろ!! 早く!!」
木賊さんが僕を引っ張って駆け出した。そうか、あれは、手榴弾だ。グレネードだ。ゲームで見たことがある。
閃光が走った。静寂。世界の何もかもが死に絶えたような、絶望的な静寂だ。一瞬の静寂でも僕にとっては永遠だった。そして一拍遅れて、爆発音が轟く。木賊さんは僕を引っ張るのではなく、半ばか抱えるようにして走っていた。何とか建物から離れたのにも拘らず、鼓膜が破れそうなほどの音がする。ビルが崩れる。だるま落としのように上の階が下に落ち、そのまま瓦礫と化した。
浅葱さんは──
「っくそ、トーニャ! 死んだ!?」
「残念ながら。生きてるよ」
残骸を押し退けて咳と共に出てきたのは、煤と埃にまみれた彼だった。汚れよりもところどころの血が目立っていた。
僕は安堵すると同時に、中に敵がいた事実に冷や汗をかいた。
「今度こそ死ねるかと思ったんだがなあ、カバネが爆風喰った」
「よくやったカバネ!」
僕と対照的に二人は呑気だ。危機感がないのか、慣れすぎてしまっているのか。
「だが、衝撃も何もかも喰ったのは、向こうも同じみたいだぜ?」
そんな、と木賊さんが呟いた。瓦礫と砂塵の中から、誰かが這い上がってくる。攻撃的な黒髪と、ぎらついた鮮血色の双眸、ノコギリのようなぎざぎざの歯が、彼を獣のように見せていた。色のついたシャツと黒いネクタイ、丈の短い黒のジャケット。マフィアか何かのようにも、見える。
「よォ、零。久しぶりだなァ」
彼はにっと笑い、浅葱さんに向かって手を振った。無視を決め込んでいる。
「んだよ、つれねー」
舌打ちをし溜め息を吐くと瓦礫の上でしゃがみ込み、頬杖をついて僕を見て笑う。
「お。お前か、遥真の息子って」
「かえれよ」
寒気の走るような、けれど声としては気の抜けるような。呆れているのか殺意を抱いているのか、浅葱さんはがしがしと頭をかいていた。
「あ?」
「帰れって言ってる。大体何しに来たんだ、真理」
「やー、オレの部下がな、助けてっつって。人外課がどうとか」
「じゃあここの捜査は見送る。報告もしねえ。それでいいか」
「ああ、んじゃあ帰るしかねーな」
「余計なこと言って俺に殺される前に、さっさと消えろ」
「怖いねェ。あ、でも」
真理、と呼ばれた青年は笑っている。歯を見せ、目を細め、嘲笑っている。
「こっちの頭目のお目当ては新人と零、お前なんだ。お前が戻ってくれればオレらは勝てる。この戦争に」
「あっそ。興味ねえし」
浅葱さんはおもむろに手を拳銃の形にして、彼に向けた。子供がよくやるごっこ遊びのような。人差し指を銃身に、親指を撃鉄に見立てているらしかった。
空気を切り裂く音と共に、白く半透明のもの──恐らく、空気のような何か──が指先に集まる。例の色鮮やかな文字列を伴って。拳骨ほどはあろうかというその塊を銃弾に見立て、彼は撃った。まっすぐ、まっすぐに、青年の顔面めがけて飛んでいく。青年は青年で避けようともせず、笑いながらそれを受けた。
ごくりと喉がなった。
僕の喉、ではない。この音は、青年のものだ。