きつねのおめん
僕と浅葱さんと木賊さんは、区画用エレベーターとやらに乗り込んだ。近未来的な建物に合うようにだろうか、白く色塗られた内装は少し落ち着かなかった。階数表示が上へ上へ上がっていく。ぽーん、と軽快な音がして、七階に着いた。
外から見た通り廊下は円形になっていて、エレベーターが中央にある。降りてまず目に入ったのは談話室とプレートに書かれた部屋だった。エレベーターを降り、二人の後を付いて右へ曲がる。応接室の右隣りからは、アパートのように表札が扉の横に備え付けてあり、それは順に浅葱、暁、木賊、とあった。部屋は五部屋あったが、二つは空室らしく表札の中身は空だった。
「お前の部屋は、談話室と会議室を挟んで、俺の隣だ」
それは隣と言うのだろうか。まあ、新人である僕はそれなりに偉い地位にある――これは彼が受付嬢に「副長」と呼ばれていたからだ――浅葱さんを頼りたいから、助かるところもある。
彼は「解ったか?」と僕を見た。
「解りました」
「じゃあ明日荷物持って来い。引っ越せ」
「はい」
引っ越す、ということ。それはもう日常と決別することを意味する。いつかは僕も人外課に入って、戦闘班の中でも最前線に立てる部隊に配属されて、父さんの仇を討つんだと思っていたけれど。
こんなに早くその日が来るなんて思わなかった。せめて高校を出るまではと思っていた。音納ちゃんのせいなんかじゃないけど、僕があの日彼女を拾わなければ、僕の将来は僕が決められたのかな、とは思う。
何より気になるのが透のことだ。透と会えなくなるのは嫌だった。僕が、散々いじめられた学校生活の中で唯一の親友。彼と会えなくなるなんて絶対に嫌だった。彼の代わりはいないし、そもそもいらない。
「話は終わりかい? それじゃあ行こうか」
木賊さんがそう微笑んで、浅葱さんは小さく舌打ちをした。
僕は一旦スイッチを切り替えて、冷静に返事をする。透のことについてはまた後で考えればいい。
「行く、ってどこへです?」
「もちろん、任務さ。俺たちは人外課だからね」
木賊さんはいつもの微笑み方と違う、にっと笑うように笑い方をした。そして準備があるから、と自室へ入っていった。
今に始まった事ではないが、木賊さんは美形だ。艶のある絹のような黒髪と、翡翠色の双眸、すらりとした長躯とそれを魅せる服。一般的な黒の開襟シャツと黒のスラックスだが、彼の線の細さを際立たせていてよく似合う。赤いネクタイは少し、ヤのつく職業の人みたいだけれど。それから口元のほくろが特徴的で。
「私も着替えてくる。スーツは動きにくくて仕方ないんでな」
「あ、はい」
「君は談話室にいろ」
「わかりました」
僕に指をさしてそう言い残せば、浅葱さんは自分の部屋の扉をバタンと閉めてしまった。
彼も綺麗なのだけれど、木賊さんとは違う美しさがある。宗教画から抜け出してきたような、神がかり的な美しさだ。青みがかった黒と、青みがかった白色の、ゆるく縛られた髪。よく見なければわからない程度の青と蒼の瞳。僕は出会ったときからずっと、彼の目に惹かれていたからわかった。頰には何故かバーコードがあって、首や手首は包帯だらけで。青みがかった黒革の手袋も外さない。潔癖症なんだろうか。
(あ、談話室ってここか)
僕は二人のことを考えるのはやめて、談話室の扉を引いた。横に動くタイプのそれは軌道に沿ってするりと滑る。中は応接室と違い、温かみのある木で出来ていた。茶革の二人がけソファーが二つと、スツールが何個か、それから僕の住んでいたマンションのような立派な、それでいて必要最低限のキッチンが備え付けられていた。部屋の隅に観葉植物、ソファーの横にテレビまである。
僕はスツールを持ってきて恐る恐る腰を下ろす。すると控えめに扉がノックされた。
「はい」
浅葱さんではない。扉を潜った人物はとても小柄で、つり目で、眼鏡で、綺麗な赤髪を三つ編みにしていた。シャツにネクタイを締め、背丈にはおよそ似合わない白衣の余った裾を後ろで縛っている。
見たところ10歳ほどだろうが、ここの職員なのだろうか。
「何じゃ、新入りとはお主のことか」
「あ、いえ、はい」
「小さいのう」
彼は右腕に黒く小さな腕輪を嵌めていて、いやそれよりも、見た目にそぐわぬ口調に戸惑う僕をじろじろと眺め回すのは何故だろう。神経質そうに杖で床をコツコツと叩く。
浅葱さんの碧眼は空と深海を片方ずつに閉じ込めているが、彼の碧眼は、もっと深く暗い海の底をすくい上げて染み渡らせたような色をしていた。限りなく黒に近い、蒼。
「ともかく自己紹介といこう。儂は暁燕。中華国から配属された、研究班の班長じゃ」
「研究班……?」
研究班。この建物は地上階と地下階があるのだし、浅葱さんや木賊さんの所属する部隊だけではないのだろう。
「何じゃ、知らんのか。ここには研究班、情報班、それから戦闘班があるんじゃぞ」
シャオさんは矮躯を忙しなく動かし、スツールを持ってきて僕の向かいに座った。
名前からして研究班はなにがしかの研究をし、情報班は任務のための情報を集めたりするのだろう。戦闘班は名の通り、法を犯した人外の逮捕だ。昔から戦闘班のことだけを考えて憧れてきたので、実はリュケイオンのことは詳しく知らない。
「儂は研究班の班長のほか、戦闘班……久我隊の副隊長も務めておる。浅葱の爺と同じ地位じゃな。さて儂は、珈琲を飲みに来たのじゃよ」
彼はスツールを持ってキッチンへ向かった。
それにしても、浅葱さんが爺だなんて。そりゃ10歳……10歳? ほどのシャオさんからすれば大人だろうけど、爺ってほどではないだろう。僕は少し笑ってしまった。彼の言葉を聞いたら、浅葱さんはきっと怒るに違いない。
「そうなんですか……あ、浅葱さんと言えば」
「零がどうかしたかい?」
「なんっ!?」
木賊さんだった。これが浅葱さんだったら、僕はどうなっていたことか。
彼はスーツを脱ぎ、黒の開襟シャツに赤ネクタイ、スラックスを着ていた。革靴はそのままだ。さほど時間はかからなかったのだろう。相変わらず出来る男感がすごい。何故か白い狐の面を片手に持っていたが、僕は浅葱さんでなかったことに安堵しつつ、疑問をそのまま彼にぶつける。
「いや……その。なんで俺とか僕とか言ったり、言葉遣いが変わったりするのかな、って」
「あ、それかあ。誰もが一度は疑問に思うよね」
にこりと笑い、ううん、と説明しづらそうに唸る。シャオさんはスツールに乗り、小さな体をてきぱきと動かして珈琲を淹れていた。
「実はね、俺にもわからないんだ。初めて会ったのが零が9歳の時なんだけど、その時からああいう話し方だったよ」
「そうなんですか」
「うん」そして彼は腕時計を見て、「っと、時間だ。行こうか。曉、ちゃんと片付けはしておいてね」
「当たり前じゃろ。浅葱と同じにするでない」
廊下に出ると、向こうから手袋をしながら浅葱さんが歩いてきた。白シャツにニットベスト、スキニーを着、ループタイを締め、ヒールブーツを履いた彼は、僕たちを見て「お」と一言呟いた。ヒールで戦えるのだろうか?
「なんだ、早いな」
「君が遅いんだよ。もう少し後輩に気を配ったらどうだい」
「うるせえなあ。お前より遅く部屋に戻ったんだ、当たり前だろ」
浅葱さんは黒い狐面と白い狐面を持っていて、白い方を僕に渡した。表面は滑らかで、祭りのお面屋で売っているものよりずっといいものだろう。漆のような、触っていて手触りのいいものだ。面と言っても顔全体を覆うものではなく、鼻と鼻から上を覆う、ハーフマスクのようだ。目の周りに朱が入っている。浅葱さんの黒い狐面には、金だ。
木賊さんと僕は白、浅葱さんは黒。こんな狐の面、何に使うんだろう?