過去には戻れない
それでは、と木賊さんが資料を手で叩きながら言った。いつの間にか資料が配られていたようで、前の席のクラスメイトから両面刷りの資料が一枚だけ僕の手元に届いた。裏表でひっくり返して眺めてみたが、そう目新しい情報はなく、どれも僕が伯父さんに聞いたことのある話ばかりが記載されていた。
「それでは資料の一番上、“イカロス”の項目見てください。これは――」
イカロス――通称、イーカロス・ハイ。三賢人が起こした実験であり大罪の名前。構成式を書き換え世界を平和に導こうとした三人が起こしたこれは、この世界に人外を生む結果になった最悪の大罪である。
資料にはこの数文しか書かれておらず、その下には既に違う単語が見出しとして使われていた。
「では随分と余裕そうな神無木朔真くんにお願いしようかな。その“リュケイオン”の項目、私がいいと言うまで読んでください」
僕は慌てて立ち上がり、リュケイオンの文字を目で探した。それはもう必死になって探した。すぐ下にあった。
余裕そうな、という煽り文句に反応した数人の級友が僕を見てこそこそ笑っている。
「はい。《リュケイオン。人外によって犯される犯罪を取り締まるべく設立された、言わば人外専門の警察機関。壁内に潜む人外を見つけ出すことも仕事の一つ。》……」
「いいよ、座って」
彼はそう言うと手のひらを下に向け、そっと振り下ろして座るようにとジェスチャーをした。大人しくそれに従うと、よく出来ましたと言わんばかりの作り笑顔が僕に向けられた。
木賊さんが言うには、目には目を歯には歯をということで、リュケイオンの実働部隊全てが人外で構成されているらしい。つまり同族殺しみたいなものだ、と浅葱さんが補足を加えたが、正直その補足はどうなんだろう。
その時電話が鳴った。うちの高校は授業中の携帯電話の使用が認められていないため、必然的に浅葱さんか木賊さんどちらかの携帯だろう。
「有原隊、浅葱零です。はい。……了解しました」
素早く答えて素早く切って、木賊さんに目と顎で「行くぞ」と合図を送り、そのまま教室を出ていった。
何なんだろうか? どこかのスパイ映画のように、出動要請が来たとか?
僕の疑問は解決されないまま、授業はあっけなく終わった。
授業後の休み時間は講師の話や人外の噂、いつもと変わらない話も聞こえてきた。皆さっきの話を他人事だと思っているらしかった。
僕は人外で、式者だ。人外の中でも人間の形を保ったまま式を書き換えられる者――多くは魔術師と呼ばれるようだが、正式名称はこうだ――をそう呼ぶ。これは指揮者、識者などの意味を持っている。
五限目が終わり、六限目が終わり、放課後。窓から射し込む橙色の光に目を細めながら、僕は鞄を背負った。
「帰ろう、朔真」
透が僕に話しかける。数秒迷い、視線を宙に放った後、僕は口を開いた。
「ごめん、先に帰ってて。僕ちょっと寄りたいところがあって」
「うーん……俺も行っていい?」
いいよ、と僕は答えた。
僕は少し気になることがあって図書館に寄った。閉館間際にも拘らず人が多く、意外にも混んでいた。どこでも閉まる直前というのは繁盛するものなのだろうか。
蛍の光が流れている。確か元々どこかの民謡なんだよな、と頭をよぎった。
透も中に入ってきて適当に整列された本を見ている。五十音順に置かれた書物の背表紙を歩きながらなぞっていた。何が楽しいんだろう。僕は彼の姿に口元を緩め、検索機に備え付けられたキーボードを鳴らした。マウスを動かしてかちりと新しい扉を開く。
著者情報は一つだけ。著書情報によれば、これはもう作られていないらしかった。絶版というやつだ。
「……あった」
僕が見つけたのは一冊の本。木賊驟雨とは何とも珍しい名前であると、そう思って覚えておいたのだった。著者名に同じ名前がある。共同で書いているのか、もう一人の名前も著者名欄にあった。
“木賊驟雨”と“浅葱零”。
やはり僕の見立ては間違っていなかった。彼らは作家だった。しかも、人外絡みの本を書いていた。二度ほど発禁処分が下されている過激な本らしかった。
何故作家が授業に来る?
「朔真ー、用事終わった? 『猫と赤い月』始まっちゃうじゃん」
透が呼んだので、僕は画面を閉じた。人外絡みのページなんて見ているのがバレれば、厨二病扱いを受けてしまう。
「ごめん、今終わったとこ。帰ろう」
壁掛け時計を確認すれば、彼の好きなアニメはもう始まってしまっていた。それに閉館時間も過ぎている。申し訳ない気持ちになったが彼のことだ、きっと録画してあるだろう。閉館時間はもう出るから、特に問題はない。はず。
自転車通学の生徒が僕たちの横をすり抜けていった。
「で、調べ物って何してたんだ?」
「んー……まあ、色々ね」
「色々って」
肩を竦めて笑い出す透に釣られて僕も笑い出す。ひとしきり笑って落ち着いた後、涙を拭きながら、彼は言った。
「朔真、さ」人見知りをせず、誰とでも明朗快活に話す透が珍しく吃った。「俺に、なんか隠してないよな?」
え。声を搾り出した。使って平たくなった絵の具のチューブから更に絵の具を捻出するように、上手く声が出てきてくれなかった。なんでそんなこと聞くの?
「なんで……んなこと、聞くの?」思ったより絵の具の出が悪かった。
「なんでって、なんとなく」
そう言って彼はいつも通り太陽のように顔に笑い皺を刻み、「隠してないならいいんだ」だなんて、くしゃり、笑う。
僕は知っていたはずだった。隠し事がバレた時にどうなるかなんて。
「じゃ、俺こっちだから」
「うん、またね」
僕は知っていたはずなんだ。