異常の中の日常
夕食を終えて談話室に移り、宙に浮いている御空を除く全員が椅子に座ってから、浅葱はガリレイに概要を伝えた。御空が親友を探していることと、その親友がここにいること。
「その親友の名前をお訊きしても?」
にこやかな笑みを湛えたまま、ガリレイは御空に訊ねる。彼はゆるく頷いた。
「シオリです。皀莢栞里」
「皀莢栞里?」浅葱が反応し、にわかに息を吐く。「なんだ、セネカじゃあないか」
「セネカ?」
御空は不安げな表情で問う。その橙色の双眸からは、自分の知る親友は今はいないのだろうか、といった怯えが見てとれた。
「皇帝ネロの師傅だな。哲学者だったか」
「それがシオリなの? 俺の知ってるしおりはそこにいる? ねえ、ねえ、ねえ」
「大丈夫だ。落ち着け」
怯えた子供の表情で浅葱にすがりつく彼と、そんな少年を呆れたような顔で頭を撫でてやる浅葱。
朔真は御空の取り乱しように、ああ皀莢栞里は大事に思われているのだな、と感じた。少なくとも、朔真が孤足透を大事に思っているのと同じくらいに。
そして院長は親友――皀莢栞里を談話室に呼び付ける。さらりとした黒髪に利発そうな茶色の瞳。浅葱は中性的だが彼は女性的で、瓶の中の人造人間・音納にも似ていた。肩が出そうな大きめのTシャツを着ている。袖で手が隠れてしまっていた。
栞里は空いていたガリレイの隣に座ると御空を見て、何度か目をしばたかせた後、小さく「御空?」と呟いた。
「シオリ!」
「え、なんで、御空はボクが」
殺したはずじゃ。
栞里がそう言えば、御空の表情は暗くなっていく。
「……俺」
彼はぽつりと零し、自分の感情を吐き出しながら、同時に涙を流し始めた。頬を伝っていく無数の雫はそれだけで少年の悲しさを表しているようで、朔真は心臓が締め付けられる感触を覚える。
「死んだけど、あれは事故だ。シオリのこと恨んだりなんかしてない」
「でも、幽霊になってるじゃないか。それにボクは……」
「それはもっとシオリと一緒にいたかったからだよ。シオリがセ……セネカ?だっていうのも聞いた!」
御空は尚も食い下がる。橙色の瞳には決意の色が浮かび、彼はきっぱりと言い切った。
「本当は記憶を無くした別人なんだって。でも、それでも、俺を覚えててくれたでしょ。だからシオリはシオリだよ」
談話室の明かりがまたたく。コンパスの中の談話室は暖炉の火によって暖かく、御空の横顔を明るくし、栞里の横顔に陰を落としていた。
静寂が部屋を覆っている。栞里は俯いたまま黙り、御空も一転不安げな顔で俯き加減だ。
「ありがとう、御空」そう言って少年は笑った。「ボクを許してくれて」
「……うん!」
互いに笑い合う二人を見て友情は素晴らしいものだ、なんて年甲斐もなく思っていると、隣の浅葱が不意に口を開く。
朔真は察知した。
――ああこの人、なんか水差すな。
「おいガキ、箱庭御空」
彼は目を丸くする二人を無視し、無遠慮に足を組む。
「お前はセネカに会えればよかったんだろ? 逝かねーの?」
「まだだよ。俺はシオリと居たいんだ」
「え、嘘ストーカー?」
「浅葱さん!」
この野郎。軽蔑と牽制の混じった肘鉄を、小声で名を呼びつつ食らわせる。この人は何だってこう空気が読めない。あの日の夜まではただのちょっと変な人だったのに。
朔真は胃がきりきりするのを横に置き、浅葱の大腿をつねる。悲鳴を上げる彼を無視し、笑顔で二人に続きを促した。
「チョーシ狂うなぁ、キミの上司」ししし、と笑う。
「ごめんね……」
「ギブギブギブギブギブちょっと待ておいギブ!」
小声で騒ぐ朔真たちを見、喉を鳴らして笑ってくれているのは院長くらいだ。浅葱の手にかかればどんなシリアスもギャグ成分が強くなってしまう。
朔真はつねる手を離し、上司をたしなめた。
「いいですか浅葱さん、親友との感動の再会を邪魔されてみてください。怒るでしょ」
「それはまあ、怒るな」
「友達いたんだ……」
「きみ喧嘩売ってる?」
慌てる栞里にも愛想笑いを送ってから、余計なことは言うなと釘を差す。
了解を伝えるように首を縦に振ったので、安心しきっていた。
「ということで、だ」
朔真の鋭い視線が飛ぶが、浅葱は意に介さない様子で話を続ける。この人のメンタルはどうなっているのだ。
彼は院長に目をやった。
「院長、皀莢栞里を俺にくれ」
「構いませんよ」
院長は院長で二つ返事でオーケーするし、いくらコンパスが支部と繋がっているとはいえ、そうほいほいと人事異動を決めてしまっていいのだろうか。俺にくれということは、皀莢栞里を支部に引き入れる、ということだろう。そして箱庭御空も引き入れると。彼なりの優しさなのだ、これは。
上司のあまりの不器用さに頬も緩んでしまう。
朔真を含め場の全員に意図は伝わったらしく、当事者二人は大きな声で浅葱に礼を言った。
「礼はいらねーよ」
室内でも被りっぱなしだったキャスケットの鍔を下げ、表情を隠す。さては照れているな。
「話はついたようですね。では、皆さん」
「あ、すいません遅くまで。すぐ帰りますから」
柏手を打った院長に朔真がそう返すと、彼はいいえ、と首を横に振った。
「いいえ、もう夜も遅い。是非泊まっていってください」
「院長、俺たち定期検診があって」
「医務室員は眠っていると思いますが?起こして検診させるのですか?」
「う、いや、それは」
「ラケル=シオン・アシュトン」
院長は引き締まった声で言う。
「……はい」
「それでは皆さん、部屋に案内しますね。栞里」
「はい、院長先生」
浅葱が大きく溜め息を吐くのを朔真は黙って見ていた。この人にも逆らえない人とかいるんだなあ、と思って、くすりと笑ってしまう。
先立って談話室を出、廊下を歩き始めた栞里に続き、最後尾を院長にして廊下を進む。コンパスの孤児たちの居住区とは異なり、職員の居住区の廊下なため、両側には窓と絵画が交互に飾られていた。
「浅葱さんと御空はここを。朔真くんはボクの部屋で」
「朝食は朝の七時です。朝六時には起床放送がありますから、遅れないようお願いしますね。シオンは御空に設備を教えてあげなさい」
「はいはい」
最後に院長は全員に向かって微笑み、廊下を戻っていった。
浅葱と御空が104Bと書かれた部屋に入るのを見届けた後、朔真と栞里は109Aへ入る。
中は綺麗に整頓されており、寮の相部屋といった風だった。ベッドが両の壁側に一つ、クローゼットが一つ、木製の事務机に似た机が一つ。片方のベッドは朔真のために慌てて置かれたものに違いなく、一人用としか思えないここには不似合いだ。
「お風呂は食堂の辺りに、共同で。時間帯は子供たちの後だから、少し遅いかも」
彼は砕けた口調で自己紹介を始める。
「改めてボクは皀莢栞里。親がいなくてここに拾われたんだけど、実はホムンクルスだった。御空とは同じ中学出身。十八です。よろしくね、朔真くん」
「神無木朔真、十七です、この間まで高校に通ってました。……父の仇を討つためというか、色々あって有原隊に」
互いにぺこりとお辞儀をし、浴場の使用時間まで、そして風呂を出てから寝るまでも、様々なことを話し合った。自分のこと、趣味の話、支部に伝わる都市伝説、共通の知人のこと。
おやすみなさいと電気を消すまで、幸せな日常が続いた。
おまけ
共同の大浴場を出て休憩所に立ち寄ると、浅葱がコーヒー牛乳を飲んでいた。
「あれ、浅葱さん」
「風呂上がったか?」
「はい」
「じゃ、俺行ってくるわ」
「入ってないんですか?」
彼の髪は濡れていた。
「最後の奴が風呂入ったら掃除しろって言われてんの。ほんとあのジジイどうにかしろって」
「誰がジジイですって?」
「何でもないです」
透き通ったテノール。浅葱の背後に音もなく現れたのは院長で、対して浅葱は土下座せん勢いで平謝りを続けている。
「実際、あなたの方が私より遥かに年上ですけどね」
「そんな訳ないじゃないすか。俺まだ二十五ですよ」
「鯖を読まない」
「二十八です……」
朔真は苦笑いを浮かべつつ、そっと休憩所を後にした。




