怪現象殺人事件
現場は壁からほど近い、壁内の神社だった。浅葱がバイクを降りる時、朔真に黒い防寒外套と赤い腕章を押し付ける。そして張られた規制線を潜ろうとすると、警官に止められた。カバネはライダースーツから羽織に戻っている。朔真は押し付けられたインバネスを羽織り、鎖骨の辺りでベルトを留め、腕章を左腕に着けた。腕章は上下に黒の縁取りがされた、原色の赤色のものだった。
「人外課所属、浅葱零とその部下だ。通っていいな?」
浅葱は警察手帳のような、顔写真の載った縦開きの手帳を見せる。警官が怯んだ隙に入り込んで境内へ上がった。
何人もの鑑識係が忙しなく動き回り、指紋や足跡を集めている。一本道の真ん中にブルーシートが被せられた遺体と倒れた木があって、その近くで、木賊驟雨が立っていた。彼も朔真と同じ、黒い縁取りに鮮烈な赤色の腕章を着けている。こちらに気付き笑顔で手を振った。
朔真は浅葱に連れられ、木賊の元へ向かう。
本当に警察みたいだ。
「犯人の目星は?」浅葱が木賊と目を合わせようともせず、問う。
「ついていたら苦労しないよ」
彼はやれやれと溜め息を吐き、持っていた資料を捲った。二枚程度の少ない資料に情報と手がかりが詰め込まれている。
浅葱がそれを覗き込むように動けば、木賊は見せまいと情報を持った手を高く掲げ、彼に向かっていーっと舌を出した。当然浅葱は彼だけを無視出来るような人格ではなく。
怒りマークを目一杯浮かべ、ほんの七八センチの身長差に背伸びしている。木賊は気にせず資料を読み上げた。
「被害者は禰宜の九条さん。お祓いしようとしたら木が倒れてきて……って感じかな。木の倒れ方がおかしかったから、俺たちが駆り出されているのさ。にしても君は小さいねえ」
「然程変わらんだろうが!」
木賊の言い分に浅葱は憤慨し、遂には魔術を使って資料を奪い取った。そこまでするか、と朔真は半ば呆れながら遺体と向き合う。立ったままはたと気付いた。
この下に、人が死んでいる。
腐臭はまだ無かったが、少しの吐き気に苛まれる。屍体なんて見たことがない。いや、正確に言えば父の葬式で見たことがあるが、それも一度きりでよく覚えていないからだ。
「あー……、まだ早かったか? お前十七だもんな」
「だ、大丈夫です……たぶん。ほら、漫画やゲームでよく見ますし」
「無理すんなよ」
浅葱は朔真を押し退けてブルーシートの枕元にしゃがみ、手を合わせた後で十字を切る。異教徒なのだろうか。頭部のシートを捲ると、頭蓋骨が陥没してしまっている男性が眠っていた。思わず前のめりになる。汗が噴き出す。固い頭骨がこうも簡単に窪んでしまうとは。
凶器──事故としてこの表現はおかしいかもしれないが、朔真たちは事件として捜査しているので、凶器と仮定しておく──は、巨木と言うには小さかった。だが一度頭部に直撃すれば、即死とまではいかずとも重傷くらいにはなるだろう。木の方は倒れたというより引っこ抜かれたという感じで、明らかに人間の仕業ではなかった。これが自分たちが呼ばれた理由に違いない。
「なぁ見ろよ、あの腕章。人外課だ。しかもかの有名な白兎隊だぜ」
ふと近くから、嘲りと恐怖の混じった声が聞こえた。腕章、というのは僕たちが着けている赤いこれだろう。
「あー、聞いたことあります。殺人犯を死刑にせずに雇用してるってとこ」
「そうらしいな。壁外でも壁内でも恨まれっぱなしなんだと」
「噂じゃ政府の狗みたいに不祥事揉み消したりしてるとか」
次々と聞きたくもない話が耳に飛び込んでくる。朔真に聞こえるのだから二人にも聞こえているはずだが、彼らは反応しないどころか、何一つ動じず捜査を続けていた。反応しないということは警官たちの話が本当なのか、はたまた単純に興味がないのか。この二人に限っては後者の方が有り得る。
しかし、自分の所属する組織が貶められるのは気に食わない。そもそもリュケイオンは人外を取り締まる組織なのだから、死刑になるほどの罪を犯した人外を死刑にしない訳がないのだ。ましてや政府の狗?他の部署はどうだか知らないが、有原隊は極東支部屈指の遊撃隊と聞いている。人数が少ないのに検挙率が高いからか、毎日のように捜査や哨戒に駆り出されるのだから、不祥事を揉み消す時間なんてないはずだ。言い訳めいた考えに自分でもひどく落胆した。
朔真は堪らず検死を止めて立ち上がり、木賊に答えを求めた。警官二人から見えないよう、自分の体で指を隠しながら彼らを指差す。
「木賊さん、あの話って」
反応なし。
「浅葱さん」
反応なし。
どちらも検死に没頭している。……ように見える。
黙っていた浅葱がついでにとでも言いたげに、小さな声で呟いた。
「めんどくせえが事実だ、が、捜査にゃ関係ないだろ。だからほっとけ」
虫を追い払うように手を振り、検死を再開する。
事実、なのか。もしかしたら極東支部は、朔真が想像していたものよりずっと黒いのかもしれない。
浅葱が検死の手を止め立ち上がって、今度は倒れた木の方へ向かった。木は先述の通り倒れてしまっているが、境内いっぱいに同じ木のものと思しき葉が散乱していて、常緑樹らしく青々と陽を受けてさんざめいている。
他にも手掛かりを求めて辺りを見渡せば林があるではないか。朔真はそこを調べるべく、木賊に一言断って社の裏手、雑木林の方へ向かった。頂上から下山し出した太陽の光を受け、木々は柔らかく輝いていた。慎重に中に入っていけば、苔の敷き詰められた絨毯の側に蛇苺が自生していて、そういえばそろそろ紅葉の時期だとぼんやり考えた。目を閉じる。爽やかな緑の匂いが鼻を擽り、仄かに翡翠を帯びた風が優しく朔真の左頬を撫でる。この小さな林の全てが、彼を歓迎してくれているようだった。
腰ほどまである岩を見つけた。誰かが座り続けたのだろうか、真ん中が少し窪んでいる。
さあどうぞ、とでも言いたげな岩に甘えて慎重に、尻を落ち着けた。
ぼんやり周りを見渡す。穏やかで、これといったものもなく、ただ、ただ時間が流れている。眠れと木々が囁く。俗世から切り離されたこの庵は、目と鼻の先で起こった殺人事件も、最悪な壁外の英雄との邂逅も、父の仇が彼だったことも、全て忘れて眠るといいと言ってくれている。受け入れない義理はない。ちょうど疲れていたところだ。
目を瞑る。
五感のうちの視覚がシャットダウン。残り四つ。聴覚と嗅覚が敏感に動く。
今、小さな動物が蛇苺の茂みを通り抜けた。きっとリスだ。カサカサと木の葉が触れ合い、その幹に蚰蜒らしき節足動物が這う音がする。耳を澄ませば、この林に住む生命たちの息遣いが近くに聞こえる。街から離れているだけでこんなにも野性動物が見られるのか。壁の近くとはいえ、まだここは壁内の旧東京だ。都会のはずである。
烏がガアと一声上げた。
朔真の意識も烏のような、黒い闇へ落ちていく。
◇
よくやったと誰かが言った。苔むした廃墟に僕がもう一人。何故だか僕はとても達成感に満ちていて、手に何かの感触が残っていた。
もう一人の僕が僕を指差して、言う。目は見えない。
『きみは、思慮深く聡明で、それでいて愚かだ。ぼくの評価が矛盾しているのではないよ。きみが、きみ自身の考えすらも、矛盾しているんだ』
何を言っているのかわからなかった。矛盾? 何の話だ?
『きっとこれからも矛盾していくよ。少しずつ、すこしずつ乖離していくんだ。きみが殺そうと思った、あのひとみたいに』
彼はくるりと背を向けて去っていく。待って、待って。君は誰なの。僕は矛盾してるの。よくやったって、何のこと。
途中で彼は振り向いた。
『ああ、それから』
顔は見えない。
『よかったよ、■■■■の■を■■■い■』
ノイズがかかって聞こえなかった。彼はじゃあねと歩いていく。僕の体は鉛のままだ。動かしたいのに動かない。動けない。待って。
僕は、まだ──。
◇
瞼を持ち上げる。そこには、
「ばあ」
さかさまの橙が、夕陽に照らされた間抜け面の朔真を映して、朔真の視界いっぱいに広がっていた。




