過去には戻らない
ガンガンガンガン。
「起きろー! 遅刻だぞー!」
ガンガンガンガン。
朔真がゆっくりと目を開けると、パーカー姿でフライパンにお玉を叩きつける、包帯まみれの浅葱が視界に入った。談話室の調理器具、だろうか。いくら談話室が隣とはいえかなりの手間だと朔真は思う。
じゃない。朝っぱらから何をやっているんだ、この人は。
「朝からうるさいんだけど!」
Tシャツ姿の木賊が扉を蹴り開け、浅葱の背後から彼に手刀を加えたので、彼は「痛ってえ!」と声を荒げる。
朔真は上体を起こし、おはようございますと言った。が、恐らく聞こえていない。ぎゃあぎゃあと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまっているからだ。
すると、再度扉が蹴り開けられる。子供用のパジャマを着た、つり目の少年が杖で床を叩いた。
「朝からぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあやかましいわ阿呆!」
「黙ってろジジイ!」
「なんじゃと!?」
啖呵を切った浅葱に、曉燕は小さな体で憤然と掴みかかる。木賊と曉燕が対立している様子はないから実質二対一だ。浅葱が自分を振り返って助けを求めてくるが、当然無視した。二人が一歩、距離を詰める。すると浅葱は扉の方を向いたまま急に黙り込んだ。朔真が扉に目を向けると、無表情の男性が腕を組んで立っていた。
浅葱が自分たちではないところを見ているのに気付き、振り向いて彼を見た木賊と曉燕もあっという間に黙ってしまい、辺りは水を打ったように静まり返った。
「俺」不機嫌そうな声色で彼は言う。「騒ぐなっていつも言ってるよね。子供じゃないんだからわかるでしょ、それくらい」
「はい」
朔真以外の三人が声を揃える。
少しだけ眉をしかめていた彼は、朔真を見てああ、と呟いた。呟くだけ呟いて、部屋を出ていってしまったのだが。
ベッドを降りる時に音を立ててしまい、三人からの注目を集める。幾分か大人しくなった曉燕と木賊は部屋を去り、浅葱だけが残った。フライパンとお玉を持ったまま。
「学校、遅刻してるからな」
んじゃ、と出ていった彼を見送って気付いた。遅刻!
慌てて時計を見ればもう十一時、授業が始まっている。なんならあと小一時間で昼食だ。朔真は急いで寝間着を脱ぎ、学生服に着替え、学校へ走った。鞄と退学届を握りしめて。
◇
息を切らしたまま階段を上り、職員室に入る。担任が席にいたので、退学届を手渡した。
「ええと、理由ですか。人外課への入局が決まったので、それで」
絶え絶えにそう言うと、おめでとうと祝福してくれた。彼女は朔真の進路指導に熱心で、人外課に入りたいという朔真の夢と真摯に向き合ってくれた大切な先生だった。こんな形で別れることになるとは思わなかった。夢が叶ったと示せてよかったと思うが、それでも少し寂しい。
先生はアーモンド形の瞳に涙を浮かべながら、みんなとお別れしていらっしゃい、と言った。どうやらもう昼食に入るらしい。朔真は「今までありがとうございました」としっかり頭を下げ、職員室を後にした。
呼吸を整える。階段を一段ずつ踏みしめるように上る。
教室の扉を前にして緊張していると、唐突にそれが開き、女子生徒が出てくる。横に避けてするりと、教室に入った。
透はすぐに見つけられた。珍しく自分の席で本を読んでいる。
「おはよ、透」
朔真が呼びかけると、彼は顔を上げて目を丸くした。
「朔真! お前、どうしたんだ? 昨日も休んだし、遅刻なんて」
無遅刻無欠席が売りの朔真が遅刻するなんて、透には信じられなかったらしい。色々あってね、と誤魔化しながら椅子に座り、透の方を向く。僕は彼に、別れを告げなければいけない。鋭い棘が朔真の胸を刺し貫いた。
「僕、退学するんだけど」
「……マジで?」
「マジ。働き口が見つかってさ。ここってバイト禁止じゃん」
言い訳は考えてあった。透に嘘をつくたびに、罪悪感でぺちゃんこになりそうになる。朔真の心は凍りつき、そうして彼によって粉々に砕かれるのだろう。
「そうか……寂しくなるな」
「ごめんね」
「携帯あればなぁー」
「ごめんねなくて」
嫌味で言われた言葉に怒った風に返せば、透が目を丸くして、朔真と顔を見合わせて吹き出す。実際は一日も経っていないのに、ひどく久しぶりに思えた。同時に今日が最後だと思うと、涙さえ零れそうだ。
「……朔真さ」
「うん」
「なんか、隠したりとか……してないよな?」
どきり。心臓が一度、大きく跳ねた。
透にだけは隠し事なんてしたくなかった。けどリュケイオンに入ったなんて言って、反抗軍との戦いに巻き込んでしまったら?咬喰真理は戦争だと言った。朔真の親しい人に危害が及ぶ可能性だって、充分にあるのだ。
「してないよ」
苦し紛れに笑ってみせる。
「……そっか、そうだよな。親友だし、今さら隠し事なんてしないよな。考えすぎだったわ」
へへ、と笑う透の笑顔に、朔真の心臓が締め付けられた。罪悪感が刻一刻と朔真を蝕んでいくのも、逃げ出したい衝動が膨れ上がっていくのも、人外課なんて辞めて透といたいと心が叫んでいるのも、全てわかった。
「あ……僕、仕事あるから。そろそろ帰るね。じゃ」
濡れて揺れる視界のまま、朔真は駆け出した。叫ぶ透を無視して教室を出、長い廊下を走り、生徒を避けて全力疾走し、滑りそうになりながら階段を降りて、下駄箱で壁に背を預けてやっとへたり込む。辺りはしんとした静寂でいっぱいだった。図書館にいる時のような冷たく、だが心地いい空気が朔真を包む。
体育座りで膝の間に顔を埋め、ぼたぼたと落ちる涙を止めようともせず、ただ、泣いていた。僕は、かなしいのだろうか。親友に嘘をついてしまったことが?それとも、別れがこんな形になってしまったことが?
「朔真」
誰かが朔真を呼んだ。透かと顔を上げた、違った。浅葱だ。昇降口から朔真を呼んでいる。
「迎えに来たんだが……その、なんだ、今日は休むか?」
彼はフルフェイスヘルメットを掲げつつ、焦った様子でそう尋ねた。不器用なりに精一杯、といったところだろうか。珍しく腕章を着けている。原色の赤に白い縁取りがされたものだ。
涙を拭い、朔真は答えた。
「行きます」
立ち上がって靴を上履きから下履きに替え、昇降口を出る。
十月にしては少し暑い日差しが照りつけていた。投げられたフルフェイスを受け止め、被る。浅葱はカバネをライダースーツ代わりにぴっちりと身に纏わせていた。液状生物はこういう使い方もできるのか。そういえば自分の検査結果はどうだったのだろう。
どんどんと思考が切り替わっていく。ああ、こうして仕事をするうちに、透のことも忘れてしまうのだろう。
バイクに乗る浅葱の後ろに跨がり、彼に掴まる。大きな音を立てて発進した。学校はみるみるうちに過ぎ去り、住宅街と公園を映すだけになった。景色が後ろに流れていく。あの高く長い壁は、遠いように見えて案外近い。
左へ曲がり、商店街を抜けて右へ曲がる。着々と例の悪弊は近づいてきていた。
浅葱は仕事としか言わなかったが、何の仕事なのだろう。また昨日のように咬喰真理と邂逅するのはごめんだ。しかし人外絡みの事件と言えば、殺人か強盗だろうか。もっと別の可能性もあるけれど。
路地を抜ける。近道だろう。信号で止まり、浅葱は朔真に話しかけた。くぐもった声だ。
「トクが派遣されたはいいが忙しいらしくてな。さっき通信が入った」
朔真は掴まっている手に力を込めた。
欲張って両方の道を歩いていては、いつか両方だめになってしまう。だから僕は選択するのだ。選択しなければ、ならないのだ。




