選手交代
段差に座っている。誰が来るのか、いつ来るのか、何も知らない。知らないでここにいて、こうして待っている。時計を見ないから時間の感覚はあまりないが、記憶が正しければ、今日で三日目だ。
同じ人物が二人いた。今、段差に腰かけて誰かを待っているこのローブと、遥か極東で警察紛いの職に就く青年だ。
そろそろ戻りたいなあ、と頬杖をついて小さく溜め息を漏らす。彼の頭の中ではいくつもの声が、口々に賛成している。
ほんの気紛れで彼と入れ替わり、その直後に神無木朔真という特異点が現れた。奇抜でゲーム性のあるものを好む性質がある自分は、行かないという選択肢を初めから作っていなかった。面倒だが神性には逆らえない。
「覚めよ、覚めよ、以下省略」
いとも簡単に途中式を省略──詠唱を破棄し、欠伸しながら手を打ち鳴らせば、極東で働く青年が彼の前に現れた。
「一ヶ月ぶりだね、零」
「そうだな」
片方はローブを纏っているが、背格好や声はもう片方と同じだ。彼は青年に対して質問を始める。
「神無木朔真について、教えてくれないかい」
「遥真さんの息子だ。最初は俺を遥真さんの仇だと思ってて、なんでかやめたんだが。俺の事情を知ったらまた殺しにいくかも、だとか、僕の殺意と向き合ってくださいね、なんて言いやがった」青年はからからと笑う。「今は検診受けて寝てるよ」
遥真といえば、彼にとって大事な人物だった。自分を育て生かしてくれた無二の師であり、友であり、家族に近かった。遥真は死んでしまったが、その理由も殿を務めたからである。皆を庇っての死だ。
彼は「そうか」と小さく言い、大きくなったな、と朔真の幼少期に意識を向けた。幼い頃に一度だけ会っている。その時は確かひどく懐かれたはずなのに、殺すとまで言われるようになったのは皮肉なことだ。
彼を恐る恐る胸に抱いたことを思い出す。壊れないように、壊さないようにと、つとめて平静を装いながら。あの小さかった命に殺されるならば構わない。誰に殺されても構わないが、そちらの方が、幾分か文学的に思えて好きだった。
「他に訊きたいことは?」
「ああ、そうだ俺、辞めるよ」
「辞めるのか」青年は目を丸くした。「なんでまた」
「辞める。後任はいるからまあ大丈夫だろ。このご時世、誰も来ないしね」
「理由は?」
「面白くないから、だな」
「流石と言った方がいいか?」
「言ってくれ」
「流石だね」
「ありがとう」
彼は明るく笑った。一人二役のような小芝居に、あるいはコントじみた会話に。
ところで、と青年が言う。仕方なく彼は耳を傾けた。
「そう簡単に辞められるもんなのか?」
「いや、君には」
「……ああ、なるほど」
「理解が早くて助かる。苦労と迷惑をかけるね」
彼は青年に向かってそう呼びかける。
「いや。元々俺のすべてはお前が握ってるんだ、今更どうってことないさ。しっかりやれよ、浅葱零」
彼らは入れ替わり、職務を入れ替え、また新しい人生を歩む。それはもう二度と入れ替わらない。
浅葱だった青年は、死ぬまでローブの彼を演じ、役割を果たす。
ローブは元の自分に戻り、元の人生の続きを歩み続ける。
元々この二人は、一度入れ替わっていた。今度入れ替わることで元に戻る訳である。
「よし、お前のアルケが底をつく頃にまた来るよ。水を注ぎにな」
ローブは彼に別れを告げ、宙で横薙ぎに手を動かし、そして出来たひびに指を引っかけて広げた。宙にぽっかりと楕円形の、穴が空いた。ローブは浅葱零となって、彼にローブを投げて、穴をくぐる。




