マッチ箱の男
三十年ほど前のことになるかな。
そのころワシは貨物船の船員でね、この話は、ある北国の港町に立ち寄ったときのことなんだ。
その晩。
長い航海の疲れをいやすため、みんなして街へとくり出したんだ。ところが、たいそう霧が深くてね。街灯の灯りがボンヤリかすんでいたのを、今でもはっきりと覚えておるよ。
そのうちワシは仲間とはぐれちまって、しばらく一人で歩きまわっていたんだが、そんなとき、ほんのりした灯り――ひなびた喫茶店を見つけたのさ。
ワシはその店に入ることにした。霧に濡れ、凍えるほど寒かったもんでね。
ドアを引き開けると、カウンターの中に年老いた主人がいるだけで、客は一人もいなかった。
店の中は薄暗く、灯りといえば壁にある一本のロウソクだけ。暖炉どころかストーブもない。
それでもなぜか暖かだったよ。
「霧が深いですね」
ワシは濡れたコートをぬぎ、カウンターの椅子のひとつに座った。
「今晩はとくにです。そしてこんな夜、私はいつも思い出すんですよ。マッチ箱の男のことをですね」
カップに湯気の立つコーヒーを注ぎながら、主人は奇妙な話を始めたんだ。
「マッチ箱の男って?」
ワシがたずねると、
「ええ、こんなふうにですね」
主人は小さなマッチ箱に、ひとさし指をつっこんで見せたのさ。まるで指人形のようにな。
ワシがコーヒーを飲む間……。
「ずいぶん昔のことなんですが、この街には、頭がマッチ箱の男がおりましてね」
そのマッチ箱の男の話を、主人は息も継がず語ってくれたんだよ。
通りに街灯がたくさんあったでしょう。あれってみんな、昔はガス灯でしてね。まあ、電気のない時代はどこもそうでしょうが……。
あのガス灯に毎晩、灯をつけてまわっていたのがマッチ箱の男なんですよ。街のだれから頼まれるわけでもなく、昔からそうすることがあたりまえのようにですね。
その男、頭がマッチ箱のほかは、私らとちっともちがっちゃいませんでした。それでもだれもが気味悪がって、口なんぞききませんでしたがね。
ええ、私も何度も見かけましたよ。
そのころの私は浮浪児でしてね。夜になると街をうろついていましたから、よく見かけたものです。
そんな、ある晩のことでした。
そう、雪の降る冷えこむ夜でしたね。
私はあまりの寒さに、路地の片隅でひざをかかえてふるえていたんです。あのままじゃ、朝には凍え死んでいたかも。ええ、あの人が手をさしのべてくれなかったら……。
あの人は私の前にかがむと、
「これを使いなさい」
頭であるマッチ箱から、マッチ棒を一本取り出しました。マッチ棒といったって、それは大きなロウソクほどもありましたがね。
恐怖で、私は口がきけないでおりました。
すると……。
「すぐに暖かくなるからな」
あの人はマッチ棒を地面に突き刺し、それに両手をそっとかざしたんです。
するとどうでしょう。
マッチ棒の先に、火がついたではありませんか。
「明日からは自分でやるんだぞ」
炎の灯ったマッチ棒を残し、あの人はすぐに路地から立ち去っていきました。
マッチ棒の炎はほんとに暖かでしたね。体の芯から暖まるようでした。そしてそれは、朝までずっと燃え続けていたんです。しかも、ちっとも短くならないままにですね。
翌日の晩。
私は言われたように、マッチ棒に両手をかざしてみました。
すると同じように炎が灯ったんです。
それからほどなく。
私は、遠くの孤児院に引き取られましてね。そして大人になって、この街にもどってきたときには、もうあの人はおりませんでした。
時代がすっかり変わっていたんです。
この街に電気が引かれたんですよ。ガス灯はなくなり、みんな電気の街灯になっていたんです。
それで……。
あの人は、この街を去ったんでしょうね。
「こんな話、信じてはもらえないでしょうが」
主人は最後にそう言って、ワシに少しだけ笑ってみせたんだ。
もちろん、ワシは信じなかったさ。
そのマッチ棒、今もあるんですか?
よほどそう聞こうとも思った。
でも、やめたんだ。なかったら、それまでの楽しい話がぶちこわれてしまいそうだったからね。
それでな。
この奇妙な話をしたのは、これには続きがあるからなんだ。
その続きだが……。
店を出たワシは見たんだよ。
窓に映った主人の影、そう頭がマッチ箱の形をしてるのをな。さらに帰りすがら、不思議に思うことばかりだった。
喫茶店の壁にかかった灯りのロウソク。
ワシが店にいる間、少しも短くなったふうになかった。それに暖炉もストーブもないのに、部屋の中はたいそう暖かだったではないか。
あの灯りはロウソクではなく、おそらく大きなマッチ棒だったんだよ。
主人はずっと大事に持っていたのさ。
もしかしたら、彼自身がマッチ箱の男だったのかもしれんな。
翌日。
ワシはあの喫茶店を探してみたんだよ。
だがな、どこをどう探しても見つからなかった。ただそれらしき場所に、見るからに古い街灯が立ってはいたんだが……。
こわれたガス灯が一本、ポツンとな。