その4
◇
「~~~♪」
鈴の様な音色の声が、童歌を口ずさむ。
とても澄んだ歌声は心に響く、だが刻まれる感動が正の物とは限らない。
「~~~♪」
暗い暗い穴の底に、幼子の如き声が響く。
子供が歌う童歌。本来ならば心を温める歌詞が、何故だろうか不安を掻き立てる。
周囲の壁に反響する音の中に、ぐしゃり、ぐしゃり、と気味の悪い音が入り混じった。
「~~~♪」
日の光さえ届かぬ其処で、ナニカが生き血を啜っていた。
その強靭な顎門が開かれ、血が滴り落ちる肉へと齧り付く。
ぐしゃりぐしゃりと音を立てて捕食するナニカ。だが、其処に食われている生き物はいない。ならばそれは何を喰らっているのか、それは酷く単純な回答。
其処に生き物はソレしかいないのならば、ソイツが喰らっているのは己自身だ。
噛り付いた顎門が腕を引き裂き、白い色が見える程の傷を残す。
引き裂かれて血潮が飛び散る腕の傷痕からは、うじゃうじゃと蠢くナニカが零れ落ちていた。
溢れ出すそれは、悪臭と共に。
蠢くそれは無数の命。それは油虫。それは百足。それは蛇。
無尽蔵に湧き出す害獣の群れが、血肉に変じて傷を塞ぐ。
そうして腕の形になった血肉を、その怪物は再び噛み砕いて喰らい尽くした。
「マズイ」
噛み締める血肉の食感と共に、怪物の口内を満たすは血生臭い異臭。
不快な味と腕の痛みに眉を潜めて、それでも捕食する速度はまるで落ちない。
「アア、マズイ」
こんな事は本意ではない。
怪物とて、止められるならば今直ぐにやめたいと思っている。
それでも止められないのは――
「オナカスイタ」
とてもとてもお腹が空いて、どうしても耐えられないからに他ならない。
食欲色欲攻撃欲破壊欲。溢れ出る欲望は抑えられない。
余りの不味さに吐き気に襲われるが、それでも捕食する速度は決して落ちないのだ。
「モット、ナニカ」
だが此処には何もない。
食べる物は愚か、己以外には土と石しかない地面の底。
血肉を喰らわねば癒せぬ餓えは、周囲の土や石を喰らうだけでは収まらない。
故に何時しかこうして己の血肉を喰らうのだ。どうせ傷は塞がるのだから。
「~~~♪」
腕一本を捕食して、空腹を誤魔化した後に再び歌う。
鈴の音の様な澄んだ声で、心の籠った歌を歌い続ける。
気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
足りない。足りない。何もかもが足りていない。
「~~~♪」
口ずさむ綺麗な歌は、狂気と狂喜が入り混じり、聴く者の心全てを震わせる。
声も技術も音程も、内に籠った想いすらも真に迫る程に素晴らしいから、その歌は呪歌の如き魔性を帯びるのだ。
「~~~♪」
狂気に意識が染まったまま、怪物は歌を歌い終えた。
「……アア、ソウイエバ」
ふと、思い付いた様に怪物が止まる。
狂気に思考が染まった中で、時折怪物は理性を取り戻す事があった。
「ボクハ」
それはきっと、どうしようもなく不幸な事。
狂気に狂い続けていればいいのに、狂い続ける事さえ出来はしない。
「コンナカタチヲシテイタッケ?」
視線を下した先には、新たに生えて来た傷のない腕。
無数の害獣が重なり合って出来た、人の形をしたナニカ。
「アア、ソウダヨ。ドウシテ、ボクノテガムシデデキテイル?」
見た目こそ人を模していようと中身が蟲の群れならば、その怪物の全身は巨大な蟲の群体が人の形に纏まっているだけではないのか。
「ソモソモ……ボクハドンナカタチヲシテイタ?」
気が付けば、それさえ分からない。
洞窟の奥底に蹲った怪物の全身を、蛇の如き黒い鱗が隙間なく覆い隠している。
長い髪の毛から覗く黄金の両眼は瞳孔が縦に裂け、まるで幽鬼の如くに光がない。
「チガウ。コレ、チガウ」
全身の形は、辛うじて人間に見えなくもない。頭があり、胴体があり、腕と足が二つずつある。
だが違う。これは己の身体ではない。己の身体は、こんな怪物染みた物ではなかった筈なのだ。
濡れ羽色の黒髪は腰まで届く程に長く、黒色の瞳はまるで宝石のよう。
少女趣味な叔母の手で手入れされたその容姿は、日本人形の様に整っていて。
断じて、鱗まみれの手ではなかった。
胴体よりも大きな尻尾なんてなかった。
髪の毛だって、灰の様な真っ白な色ではなかった。
「チガウチガウチガウチガウ!」
怖くなった。
怖くなった。怖くなった。怖くなった。
もう何処にも自分が居ない様な気がして、どうしようもなく怖くなった。
「アアアアアアアアアアッ!!」
叫びを上げて、我武者羅に暴れ回る。
長い髪の毛を振り回しながら、宛ら怪奇映画の怪物の如く暴れ狂う。
そんな怪物の行動は、しかし然程珍しい事ではない。
何時もの事ではないが、それでも定期的にある事だった。
正気に戻る度に怪物は暴れ狂い、そして再び狂気に沈む。
歌い。喰らい。冷め。狂い。眠る。
それが彼のルーチンワーク。化外に堕ちた少年は、唯只管にそれだけを繰り返したいた。
もうどれ程に繰り返したのか。それは気が遠くなる程の時間。太陽の光すら見えない地の底で、少年は狂い続けている。
肥大化した欲求と悪感情に押し潰されて、嘗ての記憶の殆どが磨耗してしまっている。怪物はいつも通りに力の限りに暴れ回り、そしていつも通りに力尽きて眠りに落ちるのだ。
(キョウちゃん)
眠る間際の脳裏に過るのは、大切だった友達の姿。
まるで夏の日差しの様に快活に笑う。大好きだった幼馴染の笑顔。
絶対に助ける。そう約束した人が居た。
約束は絶対だ。そう教えてくれた親友が居た。
この地獄に落ちた今となって、唯一つの支えとなっていた一つの約束。
「……ウソツキ」
だがきっと叶わない。だって嘘を吐かれたから。
悪意に塗り替わった思考で恨みを抱く。
憎悪に塗り潰されていく理性が、八つ当たりめいた怒りを撒き散らす。
彼が助けてくれないから、己はこうして狂っている。
彼が嘘を吐いたから、己はこの地獄から抜け出す事は出来はしない。
彼の所為だ。彼の所為だ。彼の所為だ。彼の所為だ。彼の所為だ。
行き場のない怒りは悪意に塗れ、吹き出す憎悪が大切だった筈の記憶を歪めていく。
――なら、そんな悪い奴は殺してしまおう。
そんな言葉を、誰かが耳元で囁いた様な気がした。
(無理だよ)
けれど、そんな言葉を否定する。
それは殺したくないから、ではない。殺す事が出来ないから。
だって、彼はもう死んでいる。
死人を殺す事など、誰にだって出来はしないであろう。
気が付けば、どれ程の月日が経っていたのか。
理性は摩耗し、記憶は凌辱され、異形の怪物は狂い続ける。
言葉を忘れた。声を忘れた。歌はもう歌えない。
怪物は虚ろな瞳で、暴れる事すら忘れて死人の如くに倒れ伏していた。
最早屍と変わらない。生きているだけで、心が死んでいる。
そんな怪物が完全に壊れてしまった瞬間を待っていたかの様に、彼を縛り付けていた牢獄は突然音を立てて崩れ落ちた。
岩盤が崩れ落ちて、天蓋が砕け散る。
風が吹き抜けて、土と石しかなかった景色が一変する。
それはある意味で言えば道理であろう。
どれ程に深い暗闇であっても、どれ程に地上から遠い場所であっても、それが物質的に存在している限りは有限だ。
数年間に渡って悪竜が暴れ続ければ、当然の如く壊す物すら無くなるのが自然である。
だが同時に、拭い去れない程の不自然さも内包していた。
砕かれた土が消えている。洞窟を構成していた膨大な量が、少年を押し潰す事もなく何処かへ消えた。
彼が居たのは遥か地の底であった筈だ。なのに気付けば、太陽の光を閉ざす曇天は余りに近い場所にある。
洞窟が其処にあった痕跡すら何処にもなく、崩落したと言うよりも転送されたかの様な状況。
まるで誰かが意図して作り上げたのではないかと思わせる様な、そんな言い知れない気持ち悪さが其処にあった。
「…………」
だが、そんな明らかな異常に対して、怪物は意識を向ける事がない。否、そんな思考能力などはもう残っていないのだ。
思考さえする事が出来ない程に壊れた怪物は、気付けば砂漠の真ん中で空を見上げていた。
ざあざあと音が響く。冷たき滴が頬を伝って、夢幻に沈む瞳が見上げた。
曇天の空は雨模様。まるで滂沱の如く、絶え間なく雨が降り注ぐ。
何時しか出来ていた水溜りに視線を向けると、黄金色の光が其処に映る。その瞳は爬虫類の如く、黄昏色の瞳の中央、その瞳孔は縦に割れていた。
ガサガサと、何処からか物音が聞こえる。
瞳が動く。瞳が蠢く。
ぐるりぐるりと周囲を見回し、その蛇の瞳が音の根源を其処に捉える。
四足の見た事もない生き物が、視界の隅で動いていた。
「——キヒ」
ナニカが罅割れる様な、壊れた笑い声が聞こえた。
一体何処からと首を捻れば、開いて塞がらぬ口から音が漏れている。
「キヒ。キヒヒ」
止まらない。止まらない。止まらない。
壊れた音は止むことはなく、膨れ上がる欲望もまた止むことはない。
何かを疑問に思ったが、そんな物はどうでも良い。今重要なのは、唯一つ――
「キヒヒヒヒヒヒヒヒ」
トテモトテモオナカガスイテイテ、メノマエニハオイシソウナゴハンガアルコト。
ならば、何を耐える必要があろうか。
「イタダキマァァァス」
だから当たり前の様に襲い掛かって、当たり前の様に喰らい付く。
獣は逃れようともがくが、怪物から逃げられる筈もない。
性能が違う。性質が違う。純度が違う。
絶対たる捕食者を前にして、抗える獲物などは存在しない。
「キヒ、キヒャヒャヒャッ」
両手で掴んだ獣に生きたまま齧り付く、口内に広がる生き血の味が理解出来ない程に甘美である。
久し振りに食べた自分以外の食物は余りにも美味しくて、乾いた笑いが止まらない。
グチャグチャと噛み砕く。
生きたまま食われる獲物の悲鳴はまるで、管弦楽団の名曲の如くに己を満たしていく。
「キヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」
だから、もっと。
もっと。もっと。もっと。もっと――
――もっと壊れろ。
「キャァァァァァッハッハァァァァァッ!!」
まるで子供が食べ物で遊ぶかの様に、笑い狂う怪物は捕らえた獲物で遊び始めた。
その姿は正に怪異。紛れもない悪獣。許されない害悪。
雨音に混じって雷鳴が轟く中、閃光の輝きが暗き影を地面に産み落とす。
暴虐と欲望に狂ったその影。
肥大化した両腕の影はまるで竜の顎門の如く、地面に映った影は三頭竜を思わせた。
◇
少年は暗い場所が嫌いだった。
あの狂った日々を、嫌が応にも思い出させるから。
彼が助けてくれなかった事が、どうしようもない現実なのだと分からせてくるから。
「……違う」
冷たい水に浮かびながら、少年は己の思考を否定する。
「キョウちゃんは、助けてくれたもん」
異形と化したその右手で胸元に触れる。
その胸に刻まれた蒼き宝石より零れる輝き。彼がくれたその光があるからこそ、己はこうして自我を取り戻す事が出来たのだと分かっている。
――本当に?
耳元で誰かが囁いた。
――本当にそう思っているの?
それは悪意に満ちた囁き。
己を嘲笑う嘲弄に満ちた言葉。
思い出を塗り替えようとする憎悪の悲鳴。
――こんな怪物になったのに、それでも助けられたなんて言えるの?
化外の身体は、蒼き輝きによってマシにはなった。
身体の傷から蟲が溢れる事はなく、全身を覆っていた鱗は両手足を覆うだけに量が減った。
けど、母が褒めてくれた濡羽色の髪の毛はもうない。恐怖の余り色素が抜けて、灰の様な白になってしまった。
日本人特有の瞳の色は、今では光と闇の虹彩異色となっている。自分の面影は、果たしてどれ程に残っていようか。
――僕は知らない。僕は知らない。僕は知らなかった。嗚呼、なのにどうして僕がコウナッタ?
こうなったのは、殆ど事故の様な物。
彼が狙われていた訳ではない。彼が特別だった訳ではない。彼は物語の中核に居たのではない。
彼が怪物に成り果てる道理など、世界の何処にもありはしない。
ただ運悪く、特別な人の傍に居た。
ただ運悪く、その特別な人でも手に負えないナニカが居た。
ただ運悪く、その性質の悪いナニカに目を付けられて、呪われてしまっただけの話だ。
即ち――
――決まっている。勇者だか何だか知らないけど、全部キョウちゃんの所為じゃないか。
全ては彼の所為であろうと悪意は嗤った。
「違う」
そんな悪意を否定する。
決して認める訳にはいかない。だって己は救われたのだから。
「違うよ。違うもん」
まるで泣き出しそうになった子供の如く、ヒビキは己に言い聞かせる。
そんな彼の弱さを誰よりも知るが故に、悪意は笑みを浮かべて言葉を囁いた。
――嘘吐き。
その声は、鈴の音を転がすかの如き美しい声音。
変声期前の少年が持つ特徴的な高音は、紛れもなく少年自身の声であった。
「…………」
耳を塞いで目を閉じる。現実から目を背ける。
そうすれば大丈夫だと知っている。
この溢れ出す悪意と受け取った蒼き輝きは、相克するのだと知っている。
思考をすれば悪意と善意に流される。
相反する天秤が共にあるが故に、弱さに振り回されると知っていた。
だからこそ、深く考える事を放棄する。
微睡みの中に浸って、熟考を忘れてしまえば悪意に染まる事はない。
善意も悪意も、そのどちらも放棄してしまえば、己が染め上げられる事はなくなるのだ。
瞳を閉じて、再び開く。
その瞳はまるで夢幻を彷徨う夢遊病者の如く、焦点が曖昧でぼんやりとした物となっていく。
竜は複雑な思考を捨て、反射と単純な思考だけで行動する。
全てを微睡みの底に置き去りにして、善も悪も忘れて衝動的に動くのだ。
「此処、何処だろ?」
水底から見上げる青の更に上、その虹彩異色な瞳が捉えるのは剥き出しの岩盤と巨大な穴。
切り抜かれた空間に溜まった冷たき青は、砂漠の地下深くを流れる水脈だった。
「ミュシャ、何処かな?」
水面へと顔を出して、竜は周囲を見回した。
石と岩の壁に囲まれた砂の浜辺にて、きゅうと目を回して倒れるのは猫耳少女。
「いた」
人外の聴覚がその呼吸音を捉える。少女の無事を確認した少年は、彼女の下へと合流しようと水を掻き分けながらその浜辺へと進んでいき。
「……何、この感じ」
ふと、何か違和感を感じた。
視線を向ける。その瞳の向く先は、何処までも続く川の下流。
日の光などない地下水脈の流れる先で、ナニカが自分を呼んでいる様な気がしていた。
「ちょっと、気になる」
これは共鳴だろうか。自分に近いナニカが呼んでいる様な錯覚。
これは同調だろうか。呼び声に従えと、内なるナニカが叫んでいる。
「……ミュシャが起きたら、行ってみようかな?」
ミュシャがその目を覚ます時まで、ヒビキは暗闇の先を見詰め続けていた。