大切な思い出
忘れられない出会いがあった。
夕日が沈む空。茜色に染まるコンクリートのマンションの合間。
人気の失せた公園のブランコに一人、小さな子供が揺ら揺らと遊具を揺らしていた。
烏の濡れ羽の様に艶のある黒髪。
和服を着せれば、上品な日本人形を思わせる容貌。
大和撫子と呼ぶのが相応しい、そんな可憐な容姿をしている子供だった。
そんな子供が誰もいない公園の中で、ぼんやりと過ごしている。
静かに揺れる遊具の傍らには、黒色のランドセル。
まだ買ったばかりの学童用具は、幼稚な悪意で染められていた。
落書き塗れのそれから目を逸らし、公園の外へと目を向ける。
家族に手を引かれて歩く子供の姿を見つけて、自己の願望を投影する。
されど母子家庭故に忙しく、今日も病院の夜勤で帰らぬであろう母。
彼女にそれを期待してはいけないと言う事は、幼い子供でも確かに分かっていた。
友人はいない。家族の迎えはない。
一人ぼっちの子供は、視界を揺らす衝動を堪える。
涙を零す事はない。
何だか負けた様な気がして、もう立ち上がれなくなりそうな気がして、涙を零す事だけはしなかった。
そんな風に過ごす毎日。
そんな風に続くのだろうと思っていた日常の中で、その日だけは変化があった。
公園の入り口から視線を感じて、涙を堪える子供は目を向ける。
其処に居た知らない子供と目が合った。
視線を交えた子供は、僅か気恥ずかしそうに顔を逸らして――二、三、深呼吸をした後、ブランコに揺れる子供の元へと歩を踏み出す。
近付いて来る茶髪の少年の姿に、子供は首を窄めた。
同年代の子供は近付いてくれば、叩いてくるか聞きたくない言葉を口にするか、そのどちらかだから今回もそうだと思ったのだ。
だけど、その予感は全くの的外れであった。
「お前、一人か?」
言葉を選んで、問い掛けて来る茶髪の少年。
そんな彼を俯いたままに見上げて、僅かに首を動かして応じる。
「俺もさ。こっち越して来たばかりで、一人なんだ」
何処か恥ずかしげに、同じ年頃の少年は言葉を紡ぐ。
「少し前までアメリカに居たから、こっちの事何も分かんねぇの」
言葉で理由を口にして。
「だから、さ」
怯える子供の心を解き解そうと音を重ねて。
「もしよければ、この辺の事教えてくれよ」
そして、一つの提案を口にした。
「んで、友達になろうぜ?」
にっこりと快活に笑って、手を差し伸べる。
逆光の中でも確かに見えるその掌に、子供の視線は釘付けにされたのだった。
どれだけ見詰めていたのか。数秒か、数十秒か、数分か。
差し出されていた掌を見詰めていた子供は、自信なさげに口を開いた。
「……僕、この辺の事、余り良く知らない」
差し出された掌に、悪意がない事は分かっている。
それでも不安があったから、自分は街の事なんて大して知らないと答えた。
「それでも良いさ」
けれど差し出された手は揺るがない。
「……僕、一緒に遊んでもつまんないよ。皆そう言ってる」
それでも不安があったから、クラスの皆が告げる評価を口にする。
「バッカだな、お前。つまるつまんねぇなんて、俺が決めんだよ。他人の意見なんか知るか」
そんな他人の意見なんてどうでも良いんだ、と口にした瞬間に笑い飛ばされた。
差し出された手を見詰める。
握り返しても良いのかなと逡巡したその手を、少年は一方的に握り返した。
「うっし、これで俺らは友達な!」
強引なその対応に、ちょっと不満を感じる。
だけど、初めて出来た友達と言う存在に、不満以上の歓喜を覚えた。
「んで、聞き忘れてたんだけどさ」
そんな子供の様子に気付かずに、少年が問い掛ける。
聞くタイミングがなかった事を、聞きたかった事を問い掛ける。
「お前、名前何て言うんだ?」
名前を教えて欲しい。
そう口にした茶髪の少年に対して、一人ぼっちではなくなった子供は言葉を返した。
「ヒビキ。龍宮響希」
「そっか、ヒビキってのか。いい名前じゃん」
褒められて、その少女と見紛う容貌にはにかむ様な笑みを浮かべる。
「俺はさ――」
その笑顔に魅せられながら、少年は己の名を返す。
互いの名を呼んで、二人は初めて友人になったのだった。
それは大切な思い出。
地獄の底に堕ちても、それでも忘れる事はなかった。
そんな忘れられない、大切な思い出。