六武衆と呼ばれる者達
◇
巨大な翼が空を打つ。羽搏き一つで空を揺らして、雲を吹き飛ばすのは山より大きな獣。怪物は人の町から遥かに離れた空の上から、細長い瞳孔で敵を見る。
黄昏色の瞳に映る敵手の姿は、巨大な魔とは比較にならない程に小さき者。吹けば飛んで消えてしまいそうな小さき影は、しかし儚いと語るには不釣り合いであると断言出来た。
「ハッハァァァァァァァァッ!!」
嗤う様な雄叫びと共に、一人の男が空を跳ぶ。飛翔ではなく跳躍だ。闘気術にて、足場を作り出している。何もない筈の虚空を蹴って、直角的な動きで空を舞うのだ。
駆ける速度は、竜の飛翔にも見劣らぬ程。燃える様な喜悦を浮かべた男の貌には、深く刻まれた火傷痕。傷だらけだが顔には笑みしか浮かんでいない。そんな男の名を、リアムと言った。
「オイオイオイオイどうしたどうした! 逃げてんじゃねぇぞ、糞蜥蜴ぇっ!!」
空を翼で飛翔する竜を、亜人の男は追い掛ける。逃がしはしないと嘲笑しながら迫る男に、竜は犬歯を剥き出しにして吠える。逃げている訳ではないのだと。
竜と言う存在は頂点だ。あらゆる魔物の中でも、最も強大な力を有すると称される。中でも上位に位置するであろうこの大型竜は、冒険者達が判別するランクにすればAA級を下回る事はないだろう。
或いは接触禁忌の域にも達するかと感じる程に、鱗に覆われた巨体は強靭だ。真面な武器など通らぬ巨体が、すれ違うだけで町の一つ二つは消し飛ぶ滅びる。これはそういう域の怪物であり、故に自負があったのだ。
逃げる? 阿呆か。我より弱き者を前にして、一体どうして逃げねばならない。翼を羽搏き空に舞うのは、迫る敵手を打ち破る為の布石であると。
「■■■■■■―――ッ!!」
大きく息を吸い込んで、口の端に火が灯る。業火と化した瘴気の渦を、咆哮と共に撃ち放つ。地平線の果てまでも、赤い炎が覆って見せた。
余りに巨大な火炎放射。一息で大陸が焦土と化すであろう出力は、至近で放てば自身すらも巻き込む物。故に竜は距離を取り、こうして破壊の威を示すのだ。
大地に直撃などはない。だがブレスが齎す余波だけでも、遠く掠めた山の肌が溶けている。それ程の破壊の直撃を受けて、人が生きている筈もない。故に煙が晴れた先、生きている者など居る筈もなく――否、彼は今も健在だった。
「ハッハァァァァァァァァッ! 温いぞ糞蜥蜴ぇっ! んなもんで、俺を焼けるとでも思ってたかよ! 俺を誰だと思ってやがる!!」
真面な人間ならば、先ず即死しているだろう火力。普通は熱量に耐えられないし、どうにか防いだとしても窒息死するであろう地獄絵図。そんな炎に飲み込まれ、平然としている男は一体如何なる怪物か。
いいや、否。男は唯の人間だ。亜人と言う特異な生まれをしているが、その本質は唯の人。誰もが当たり前に持つ命の力に覚醒し、それを磨き上げただけの人である。この強大な魔と比すれば、塵の様な小さき命だ。
肉体強度が違っている。存在強度が違っている。所持する命の総量が、天と地程に離れている。能力値で見れば、竜の吐息に耐えられる道理もない筈だ。
なのに何故、リアムは此処に生きているのか。のみならず、何故に無傷で駆けているのか。其処には当然、裏がある。種も仕掛けもある手品の一つ。男の腕に刻まれた、二つの刺青。その片方が淡く輝いていた。
(懐かしいなァ。コイツを使うのは、六武に入る時の死合以来か)
リアムと言う男は勘違いされやすいが、力押しよりも小手先の技術を重んじる性を持つ。格上殺しと言う彼の資質は、冷静な判断力と忍耐強い精神力と豊富な手札から来る物だ。
故に当然、亜人と言う生まれを彼が活かさない筈もない。己の肉体そのものが魔法の発動媒体となる事こそ、亜人の持つ最大の強み。ならばその両腕に刻まれている刺青は、刻印魔法の術式だ。
無詠唱で、最低等級の魔法を発動する為の仕込み。六武に名を連ねる以前には多用していたが、闘気術を専攻として以後は氣を歪ませると言う理由で使わなくなっていた暗器の一つ。
右の腕は紅蓮の炎を、左の腕は蒼白の氷を、意志一つで発現させる。竜の吐息に飲まれた瞬間、リアムは氷の魔法を使っていた。
無論それだけでは防げぬ為に、闘気の鎧も併用していた。同時に二種の守りを発現していたが故の無傷であったのだ。
(使わされた。それ程に、追い詰められている。だが――それがどうした!)
嗤って侮蔑の言葉を吐く、無傷の亜人の胸中に余裕は然程ない。隠していた札も明かして如何にかこうにか、一撃を凌げたと言う程度でしかないのだ。
それでも、リアムは強気に嘯く。肉体と気量の双方で劣っていても、精神力では勝っているのだと示す様に。こんな名もない怪異如きに、苦戦などは許されないと語るかの様に。
そうとも、苦戦して良い理由がない。敗北なんて論外だ。この先には、勝利以外ありはしない。我を誰だと思っているのだ。
この身は東の最強と、数えられた六武の一人。高々禁忌の域に達した程度の魔物を前にして、彼が苦戦し敗れる道理なんてない。
「東国六武衆! 第六席! 獣人リアム! 俺は東の最強に、見出された臣下だぞ! こんなクセェ息の一つで、潰せるなんて舐めんじゃねぇぇぇっっ!!」
喝破と共に闘気を発する。濃厚なまでの意志が乗ったその氣こそ、リアムが無傷でいられる理由。竜はそう誤解した。
質量では劣っていても、密度では遥かに勝っているのだと。事実、確かに密度は勝っている。だが、総量の差を覆せる程ではない。だが、竜は誤解したのだ。
それ程に、強烈な意志があった。言葉が宿す重みはまるで重力の様に、物理的な衝撃を伴って襲い来る。巨大な竜は、僅か恐怖を感じて身を退いていた。
「■■■■■■―――ッ!!」
後退した巨竜は、そんな自身に怒りを覚えて咆哮する。小さく儚い者らに怯えたなどと言う事実、超越種たる竜にあってはならない。
魔物の頂点と言うべき存在は、純粋な暴力であらゆる全てを蹂躙するべきなのだ。そうでなければならない。それがどうして、矮小な者に怯え慄くなどあって堪るか。
怒りと共に咆哮し、再び口に火を灯す。集めた炎を集束させて、今度こそ殺し切るのだと――再び炎が空を焼いた。
「だから――温いって言ってんだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
空を焼いた炎が、内側から切り裂かれる。紅蓮の赤を貫いて、迫るは火傷姿の亜人。此度は無傷と言う訳ではないが、重症などにも至っていない。
竜が息を吸い込み吐いた動作の隙に、接近していた男の位置は既に拳の射程内。空を跳ぶリアムは大きく腕を振り被り、紫紺の闘気を纏った手刀を放った。
「五方神鳥が四ぃぃぃっ! 北紫幽昌ぉぉぉぉぉっ!」
東の武王の象徴たる、五方を護る鳥の一。北の紫紺が齎すは、絶対零度の闘気刃。振り落とされた刃は此処に、竜の鱗を貫いた。
鋼鉄などでは傷一つ付かない鱗があっさりと切り裂かれ、内に満ちた血肉を凍て付かせる。神鳥の羽搏きは竜に確かな傷を付け――だが、それが限界だった。
「■■■■■■―――ッ!!」
「ちぃぃぃぃぃぃっ! かってぇんだよっ、糞がぁぁっっ!」
貫いて、肉を断ち、肉を凍らせた。しかし竜の巨体から見れば、付けた傷など微々たる物。指一本を落とされたにも満たない傷では、致命傷は遥か遠い。
攻撃は通る。だが、相手の体力が余りに大き過ぎるのだ。この規模の攻撃では、千度や万度繰り返したとて致命の域には至らぬだろう。これが種族の違いである。
そして、千度も好機などありはしない。痛みに吠える巨竜は大きく羽ばたいて、空を高速で飛翔する。背に牙を突き立てた害虫を、振り落とさんとする為に。
激しい軌道と風圧に、リアムの身体は宙に浮く。掴む物もない彼は中空へと吹き飛ばされて、其処に追撃として叩き込まれるのは高速の移動が伴うソニックブームだ。
「ぐ、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!?」
元より無理矢理な形で空を跳んでいたのだ。安定性などありはしない。吹き付ける風に圧し負けて、リアムは地上へ墜ちていく。町から大きく離れた草原へと、轟音と共に墜落した。
大地にクレーターが生まれ、その中央でリアムは歯を食い縛る。流石に無傷と言う訳にはいかず、手傷を負った彼は痛みを堪えて立ち上がり――――直後、頭上の巨大な炎を直視した。
降り注ぐのは、都合三度目となるドラゴンブレス。リアムは冷や汗を掻きながら、咄嗟に左腕を頭上に上げる。右手の指で刻印をなぞって、氷の魔法を発動する。
数瞬遅れて、降り注いだ吐息は草原を炎で包む。中央大陸にある広大な草原地帯が野焼きに晒され、穀倉地帯すらも巻き込み全てを薙ぎ払う。この世の地獄と見紛う景色が生まれていた。
(ち――っ。流石に、使わねぇと駄目、か……)
蒸し風呂など比較にすらならない高熱の中、荒い呼吸を整えながらにリアムは想う。小手先の魔法程度では、この熱量には拮抗さえも難しい。
闘気の鎧のお陰でまだ持つが、それを維持する氣の総量にも限界が近い。このまま同じ事を続けるだけでは順当に、種族の差で押し潰されるのが目に見えていた。
この状況を覆す、切り札は確かにある。種族差故に押し潰されると言うのなら、その性能値を並べてしまえば良いだけの事。彼の心威は、そうした地力を補う為の物である。
そう。リアムはまだ心威を使ってはいない。巨大な狼男と言う姿ではなく、狼の耳と尾を生やしただけの亜人としての姿のままだ。故にこそ、こうして追い詰められているのだ。
狼狂いの心威を使えば、圧倒的なまでの性能差は覆る。満月の夜ではなく日が差す昼だが、それでも狼男と化したリアムの力はAA級の魔物以上。其処に技巧が加われば、こんな竜など敵ではない。
「いいや、まだだ。此処で、こんな奴相手に、心威に頼る様じゃ届かねぇ!」
だが、だからこそまだ駄目だ。心威に頼ればあっさり勝てるが、それではリアム自身が成長しない。今の限界を超えねば届かぬ高みを、リアムは確かに目指している。
「テメェは、踏み台だ! 俺が“最強”に挑み、あの“最強”を超える為の、乗り越えるべき一つの轍だ! 進む過程に過ぎねぇんだよ! だったら、なァッ!!」
嘗て信じた最強。忠義を誓った鳥の王。彼を打ち破った少年に、何時か勝つと決めた。必ず倒すと決めたのだ。絶対に、負けたくないと思っている。
あの竜王は存外に脇が甘い。今のままでも、人質を使い罠に嵌めれば十に一度は勝てるだろう。だがリアムが欲しい勝利とは、そんな物ではないのである。
罠に嵌めて殺すのではない。策に掛けての不戦勝なんて欲しくない。単純な力と力をぶつけ合って、打ち勝ちたいと願っている。
リアムにとって唯一無二である主は、実力だけで一度は竜の王を破っているのだ。ならばどうして同じ結果も出せずして、彼の最強の臣下を名乗れるものか。
左の腕に力を込めて、氷の魔法と北の神鳥を此処に混ぜ合う。どちらか一つで届かぬならば、どちらも合わせてその先へ。それでも届かぬと言うのなら、リアムは己を包む限界と言う名の殻を自ら砕いた。
「竜王殺しをしようって言うんだ! 十羽一絡げな格下如きに、苦戦する訳にはいかねぇよなぁぁぁぁぁぁっっ!!」
器の拡大。己と言う芯を軸にして、存在規模を格上げする。嘗て悪竜王との戦いで、炎王が為して魅せた事。それを今、リアムは確かに果たして魅せた。
故に、この結果は当然だ。吹き付け続けていた竜のブレスが凍り付き、手刀によって切り裂かれる。リアムは頭上に向かって大きく跳び出し、左の刃で切り上げた。
「■■■■■■―――ッ!!」
一の刃が、竜の吐息を切り裂きその鼻先に突き刺さる。痛みに叫ぶ竜が怯んだ隙に、振り抜いた手刀を返して振り下ろす。氷の刃は、竜の翼を断ち切った。
右の翼を断ち切られ、落下を始める巨大な竜。鼻先から大量の血を流す魔物にはしかし、巨大なる物としての気概があった。空の王者であるのだと言う自負があったのだ。
「っ、うぉぉぉぉぉ!?」
己だけが落とされて堪るかと、右の前足を振り下ろす。迎撃として放たれていた手刀に掌を貫かれるが、知った事かとそのまま力任せに振り抜いた。
氷の刻印があるのは左の腕だけで、咄嗟に動かした右の腕には竜の身体を断ち切るだけの威力がない。ならば当然、リアムは竜の右手を手刀で突き刺したまま、焼けた野原へと叩き付けられた。
「は、が、はっ……はは、まだ、足りねぇかよ」
落下する竜の全体重を乗せられて、圧し潰された男は血反吐を吐いて嗤いを浮かべる。今にも死にそうな程に命の危険を感じながら、リアムは左の手刀を振るった。
竜の右腕が断ち切られる。上体を揺らして痛みに吠える竜を前に、リアムはゆっくりと立ち上がる。カジュアルな服装を己の血で真っ赤に染めて、しかし彼は歓喜していた。
「だが、そうだ。これで良い。これが良い」
限界を超えたからと、それだけで圧倒出来てしまう敵など要らない。より強く、より高い場所を目指す為、必要なのは死地である。
確信する。この竜を倒せば、己は更に強く成る。自分自身が強く成れば、単純強化である狼狂いの異能も力を増す。この死地から生還すれば、得る物はとても多いのだ。
「ひりつくような限界寸前。このまま己を縛ったままで、乗り越えてやろうじゃねぇか!」
人の貌のまま、獣の如き形相で雄叫びを上げるリアム。そんな彼に触発されたのか、傷だらけの竜もまた強く吠える。負けて堪るかと、思う心は揃って同じだ。
「■■■■■■―――ッ!!」
「ハッハァァァァァァァァッ!!」
飛べなくなって地上を舞台に、しかし激しさは増している。火を吹く竜と氷を纏った狼の戦いは、苛烈に鮮烈に続くのだった。
タンクトップ姿の青年と、巨大な竜が続ける攻防。それを遠く離れた町の城壁にある側防塔の上から、微笑み見守るのは藍染された浴衣の女だ。
「あらあら、リアム君ったら楽しそう。あれですわね。雪を見て燥ぐ犬みたい」
朧月夜は笑い続ける。楽しそうだと語る彼女にとって、その死闘ですらも子どもの遊戯と変わらない。
命を奪い合いですら、彼女にとっては呼吸と同程度の日常行為。殺し合っているのなら、血反吐を吐いてのたうち回るも当然だろう。
笑いながら隙を伺い、挨拶を交わす様な気軽さで心の臓を奪い取る。それが東の修羅と呼ばれる生き物で、此処に佇む和装の美女もそんな修羅の一人である。
異常と言える程の武才を持ち、恋慕と愛情に偏向している。彼女の特別性などその程度、それ以外の点では極々真っ当な東の民。東方大陸にはこんな輩しかいないから、他の大陸から嫌悪と恐怖を向けられるのだ。
「しかし、これはどういう事でしょうか。中央大陸で、竜種と見えるとは。天変地異の前触れか、それともはてさて――」
同胞の戯れを慈愛の瞳で見詰めていた朧月夜は、ふと思い付いたかの様に呟きを漏らす。暴れ回る巨竜の存在には、違和感しかなかった。
本来、竜種とは数が少ない魔物である。人の立ち入らぬ秘境の奥深くに、極少数しか存在しない大魔であるのだ。
五大陸でも竜が出現されると言われる場所は極僅か。東国は火山帯に巣食う炎竜や、ピコデ・ニエベの最西端に眠るとされる氷竜辺りが有名か。
そんな竜が住まうと言う場所に向かっても、必ず遭遇するとは限らない。意図して逢おうとしても、探すだけで数年から数十年は掛かるとされる。
大多数の人間が、生涯一度として見える事すらない怪物。強者と言われる者ですら、命を賭さねば倒せない超越種。故にこそ、竜殺しは偉業と語られるのである。
だと言うのに、一体どうして。伝承に語られる様な魔物が、こんな中央大陸の街外れに出没していると言うのか。朧月夜は袖で口元を隠しながら、くすりくすりと上品に笑った。
「何やら少々、愉しくなってきましたね」
明らかな異常。まず確実に、周囲の生態系は崩壊している。この影響は、一体何処まで波及するのか。
中央の国力が落ちるのは当然だろう。動乱が激しくなるのは道理であろう。ならばそう。此度の件の黒幕は、それを狙っているとでも言うのであろうか。
思考を回して、しかし答えは出そうにない。元より分析するのは然程得意と言う訳じゃない。今も戯れている子犬が遊び終えた後、任せてしまうが最上だろう。朧月夜はそう結論付けると、思考を一つ切り替えた。
「あ、アンタ達は一体?」
そんな彼女へ、言葉を投げる一つの影。鉄の剣と鎧で武装した、凡庸にも見える男。町の警備兵である彼は、朧月夜の背中に向かって問い掛ける。
彼や町の住人にとっては、全てが唐突な出来事だった。数日程前に街道に現れて、誰を襲うでもなく佇んでいるだけだった巨竜。
実害はないが為に先延ばしに出来たが、何れはこの恐るべき怪物と戦わねばならぬのか。そう怯えていれば、また突然に現れたのは二人の旅人。亜人の男は巨竜に向かって襲い掛かり、その連れの女はこうして笑って見守るだけ。
一体全体、何が起こっていると言うのか。明らかに異常と見える女に事情を聞くのも少し恐ろしくあったが、予想だにしていなかった善戦を繰り広げる亜人の姿は希望でもあった。
実害がないとは言え、巨大な魔物が居る影響で流通は滞り始めていたのだ。故にこそ可能であれば、撃破撃退したかった。そんな状況下でこの善戦だ。あの男に手を貸せば、町に飛来した巨竜を倒してくれるかもしれない。そんな期待の一つ程度はしてしまうのが人情だろう。
「いや、何でも良い。あの竜をアンタ達がどうにかしてくれるって言うなら――」
「……はぁ。面倒ですね」
まずは協力を求める為に、何かを語ろうとした男。彼の言葉を大きな溜息で遮って、呆れた様に朧月夜は視線を向ける。
道端に転がった小さな塵を見る瞳。全く以って情の籠っていない視線に怯んだ男は、故に気付く事すら出来はしなかった。
頭を抱える様に額に触れていた朧の指先が、ゆっくりと喉元辺りにまで下ろされる。その先端に煌めくのは、蜘蛛の糸を思わせる様な細く鋭い鋼であった。
「い、ぎぃ!? な、なん――」
「この後に及んで人の振り。地を這う蟲けらめ。我ら六武を、愚弄しないで頂けますか」
直後、男が感じたのは痛み。太陽の光を反射して、微かに煌めく糸に気付く。蜘蛛の毒が突き刺さったその先は、兜を被った男の眉間。
ぐちゃりと、嫌な音が中で響いた。まるで生きているかの様に蠢く糸は、中身を念入りに磨り潰す。そうして朧月夜が指を弾くと、男の頭は弾けた柘榴の如くに飛び散った。
頭部を無くした男の身体が崩れ落ちる。中身の弾けた鉄兜が、空しく地面を転がり落ちる。仰向けとなった遺体の頭部から流れ出す体液が、女が踏み締めた大地を濡らす。
一面の赤が地を満たし、弾けた脳漿の隙間で何かが蠢いた。脳の残骸を掻き分けながら、蠕動運動で逃げ出そうとする異形。それは小さな虫である。
脳の残骸を囮代わりに、逃げ出そうと這い摺る異形。だが異形の潜伏さえも一目で見抜いたこの女が、その逃走を見逃す筈もない。詰まらなそうに嘆息したまま、朧月夜は脳漿ごとに小さな虫を踏み潰した。
「人の脳に巣食う寄生虫。見付けてしまえば、処理しないと言う訳にもいかない」
東の最強集団。東国六武衆。そんな彼らにしてみても、寄生虫と言う存在は面倒だ。何故なら彼らは人である。生命操作を極めても、素の肉体規格は常人のままなのだ。
目を覚ました状態で、闘気を練り上げていれば並大抵の危険などは取るに足りない。真空中や海底の中でも、彼らは生存出来るであろう。だがそれは、闘気で身を守っていればこその話。
眠りに落ちた無防備な状態で、空気を奪われれば窒息するし、海の底に放り込まれてしまえば水圧に潰れよう。当然意識のない状態では、虫に寄生される可能性とて存在するのだ。
故にこそ、繁殖し切った寄生虫とその苗床は見過ごせない。放置すれば危険となる。とは言え、見付け出す事は簡単だ。寄生された苗床はその氣を乱れさせるから、気付かない筈もない。なれば朧月夜にとって、これより為すのは唯々面倒なだけの屠殺作業。
朧月夜は静かに瞳を閉じて、己の眼球へと生命力を集束させる。そうして再び開いた瞳で、町を見下ろした彼女は深く深く嘆息した。
「……全く、楽しそうなリアム君が羨ましい」
彼女の目には、歪に歪んだ氣が映る。寄生された苗床は、地方首都と言える程度には大きな町の端から端まで遍く場所に満ちている。
寄生虫の繁殖については詳しくないが、この数から見るに恐らく寄生されていない者の方が少ないだろう。或いは無事な人間など、もう一人も居ないのか。
繁殖してしまった寄生虫。その総数は、千や二千を超えている。一体何時から、この町は魔物の巣に成っていたのか。一体どれ程の人が、犠牲になってしまっているのか。今の彼らに、寄生されていると言う自覚はあるのか。
そんな無駄な事、朧月夜は考えない。其処に興味すらも、抱きはしない。故に彼女は無感動なまま、白魚の様に美しい十の指で糸を操る。心威によって伸ばした糸に際限など在る筈もなく、ならば町の全土が即ち女の間合いであった。
「手間を掛けるのも億劫ですし、纏めて根こそぎ掃うとしましょう。――鋼糸術が五、驟雨寒雷!」
糸が絡む。糸が刺さる。居並ぶ家屋の隙間から、或いは鉄さえ貫いて、十の糸は渦巻き乱れてあらゆる命を奪い去る。
町を行き交う者らの額に、露店で語らう店主と客の額に、家屋の中で団欒する一家全員の額へと。宛ら止む事のない豪雨の如く、町の全土に余すことなく降り注ぐ。
そして、赤い華が咲く。僅か十の糸が貫き晒す犠牲者は、一人や二人などでは済まない。十や二十なんて数でもない。百や二百でもまだ足りない。
犠牲者達が吊るされる。まるで繋がる数珠の様。一つの糸が数十を超える人の頭蓋を前から後ろに貫通して、速度を緩める事すらせずに次の誰かの頭蓋に刺さる。
悲鳴が上がった。恐怖を叫んだ。一体どうしてと誰かが涙を零していて、しかし女は退屈そうな表情を欠片たりとも動かさない。朧月夜は無情なまま、指先を弾いて糸を大きく動かした。
「では、さようなら」
最期に一つ言葉を贈って、これを葬送の儀とする。弾ける果実は町の各地で、生きとし生ける者など残らなかった。
朧月夜は、感染者以外を巻き込んではいない。だが、誰もが死を迎えた。それは詰まり、それ程に感染は進んでいたと言う事。町一つ。其処に生きる誰もが、虫の苗床にされていたのだ。
「やれやれ、草履で踏むのは間違いでしたか。汚れてしまいましたわ」
大量虐殺を終えた後、女が呟いたのはそんな音。誰も彼もを殺し尽くしてしまった事よりも、跳ねて着物に付いてしまった血の痕をどうするかの方が重要だと言わんばかりに息を吐く。
事実、彼女の抱いた感慨などその程度。朧月夜は愚道に半歩堕ちた者。己の道に関わる事象以外には、須らく価値がない。そう断ずる者が愚道者なれば、どうして情を抱く事が出来ようか。この女は破綻者なのだ。
対処は遅きに失したのだと、義憤を抱く事はない。最早誰も助からなかったのだと、悲しむ振りすら行えない。
仮にリアムと月夜の立場が逆ならば、彼は胸糞悪いと吐き捨てながら怒りを堪えていただろう。だが此処に居るのは朧月夜だ。故にこそ――
「そんな訳で、この汚れ。どうしたら良いと思います、黒幕さん?」
気軽な口調で投げた言葉に、挨拶以上の意味などない。道ですれ違った相手に会釈をする程度の内心で、朧月夜は糸を用いて殺しに掛かる。
数秒前に多くの命を奪った糸が、周囲の建物を輪切りにしながら一点へと集まる。集束させた十の糸で槍の穂先を象って、朧月夜は振り向き様に振り下ろした。
標的は女の遥か後方。虐殺の瞬間に、視線を向けて来た何か。それが潜んでいるであろう、西側に立つ側防塔の影。
巨大な町を取り囲む、防衛用のカーテンウォール。それごと全てを押し潰さんと振り下ろされた白き巨槍は、轟音と共に壁を大きく粉砕した。
ならば、その黒幕は巻き込まれたのか? 中央が大都市一つを地獄に変えたであろう下手人は、この一手で滅びたのか? いいや、否。朧月夜の手に、仕留めた感触などはなかった。
【ケタケタ】
警戒しながら糸を操る朧月夜の耳に、聴こえて来るのは嗤い声。場違いと感じる程に甲高い音の葉は、まるで子どもの燥ぐ声。
キャッキャウフフと無邪気に遊び回っている。小さな小さな子どもの様な、声が周囲に響いている。声の主は変声期を迎える前の男であろうか、それとも小さな女であろうか。
【ケタケタ】
いいや、そのどちらかではない、そのどちらもだ。声は一つの音ではない。無数の音が重なり合って、同じ様に嗤っている。
ケラケラケタケタケラケラケタケタ。子どもが性質の悪い悪戯をして、それに嵌った無様な大人を嗤っている。そんな無邪気な醜悪が、無数の声には混じっていた。
だが同時に、笑っていない。勘に過ぎぬが、そんな気がする。粉塵の向こう側から聞こえる音に警戒しながら、朧月夜は構えを取った。
【ケラララララララララララ】
嗤い声の主はしかし、姿を見せる事はなかった。粉塵が晴れた先にあったのは、砕けて崩れた瓦礫の山だけ。
一秒、二秒、三秒と。何も変化がない事を確認した朧月夜は、ゆっくりと構えた両手を下ろすと、深く息を吐き出した。
「……消えた、ようですね。今はまだ、表に出る心算はないと言う事でしょうか」
僅かに警戒を続けながら、声の聞こえた場所へと向かう。闘気を発して空気を足場に、東の塔から西の塔の跡地へと。
其処に居たのはほんの一瞬であろうに、濃厚に漂うのは瘴気。気の扱いに長けた六武に属する彼女だからこそ、気配の主を導き出せた。
「この氣は、アリス・キテラ?」
嘗て南方大陸にて、相対した第三魔王。虚偽を司る大魔女の、気配を其処に朧は感じた。
しかし、同時に首を傾げる。どうにも違和感が付き纏う。間違っていない筈なのに、間違っていると思えてならない。
「けれど、それにしては、何だか歪んでいたような」
気配の持ち主は、アリス・キテラだ。それは間違いない。だがしかし、アリス・キテラの気配にしては余りにおかしいのだ。
一言で言えば雑多である。余計な物が多過ぎる。絵具のパレットの上にある混色広場を思い浮かべれば、それが一番近いだろうか。命の色が、単色じゃなかった。
本来、氣の持つ色とは固有の物だ。魂の発露である生命力が持つ色は、その心の芯に決定される。精神状態に応じて明度が変わる事はあれ、彩度が揺れる事はない。
だがしかし、時には例外と言う物もある。例えば先の寄生虫。その苗床にされた者達の魂には僅か別の色が入り混じり、その彩度が揺らぐのだ。故にこそ、気で判別可能なのである。
「アリス・キテラに、寄生している何かが居る? それともこの混ざり具合を見るに、共生しているのでしょうか? ……残滓がもう少し濃かったら、判別出来たかもしれないですね」
大魔女本来の色を赤とすれば、残った名残は全色混ぜた溝色だ。それでも筆で塗り込めば、薄っすら赤が見えてくる。
アリス・キテラで間違いないと、断じられる程度には元の色が残っているのだ。ならば結論は、寄生か共生。別の命が巣食っていると見て間違いない。
恐らくは、それが嗤い声の主であろう。声の数から断ずるに、巣食う命は一つや二つなどではない。悍ましき群体と化した影が、朧の脳裏には浮かんでいた。
「俺の、勝ちだぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
朧月夜が結論に至るのと時同じく、大地を揺らす轟音と共に勝鬨の雄叫びが響く。町から僅か離れた場所で続いていた戦闘に、漸く決着が付いたのだろう。
「丁度リアム君の遊びも終わったようですし、少し相談してみましょうか」
あれで意外に、知性派である亜人の男。こうした物事を考えるのに向いているのは、己よりも彼であろう。
元より不慣れである。そんな人間が無理に思考を進めても、正しい解には至れぬ筈だ。朧月夜には、そんな自覚があったのだ。
故に朧は傷だらけの同胞の下へ、小走りになって駆けていく。気付けばその口元には、三日月の様な笑みが浮かんでいた。
「しかし何やら、楽しい祭りの予感。とても素敵な事が起こりそう」
本来居ない筈の魔物に遭遇した。隠れて繁殖していた異形の存在に気付いた。そして悍ましい魔王の影を見た。
これより中央大陸は、更なる動乱に巻き込まれていくのだろう。まず間違いなく、史上最大の地獄が其処に生まれる筈だ。
誰もが望まぬ地獄絵図。だが彼女にとっては、それこそ福音。愛しい男に相応しい女となる為に、朧月夜の願いはあの日から変わらない。
魔王に相応しい妃ともなれば、地獄の底こそが女磨きの場として相応しい。故にこそ、もっと荒れろと願っている。あらゆる生命が等しく無価値となる地の獄を、朧月夜は待っていた。
〇
リアムの両腕が刻印魔法なのは、実は厨二ノート時代からある初期設定。
これまで使わなかったのは、未熟な内は闘気が影響を受けてしまうと言う本文中でも挙げた理由が一つ。
それと獣化している時には刺青の形も変わってしまうから、刻印魔法として機能しなくなってしまうと言う理由もあったりします。