その5
◇
そうした紆余曲折を経て、デュランは目的地へと辿り着く。リースの私室を前にして、彼は僅か思い悩んだ。
扉を前に、持ち上げた掌に血を幻視する。浄めた今には痕の一つも残っていないのに、幻視したのは自責が故だと理解している。
また奪って来たのだと、そんな実感がある。だからこそ、迷っている。これより逢おうとする女は、何処までも平凡な人物だから。
他に何か方法はなかったのか。救えぬ人々に振り下ろされた処刑の刃を前にして、そう嘆いた女。今から彼が逢おうとするのは、そんな当たり前な優しさを持つ人だ。
また奪って来たばかりの男が、今更に何を言えば良い。一体何を語れば良い。いっそ扉の向こうに居なければ、そんな風にも思ってしまう。
けれど、何時までもこうしてばかりは居られない。何も浮かばないからと、立ち止まっていられる理由もないのだ。ならば己の感情なんて割り切って、先に進むべきだろう。深い呼吸で迷いを吐き出し、デュランは扉を三度叩いた。
「……はい。どちら様、ですか?」
反応があったのは、叩いてから数十秒は経った後。返る声は何処か力なく、少し掠れている様にも聞こえた。
出逢ったのは、ほんの一月程度前。別れていたのは、ほんの数日程度の事。だと言うのに、その声を聞いたのは何だか久し振りな気がした。
何と返すか。誰と問われているのだから、我を名乗るだけで良いだろう。僅かな沈黙の後で、デュランは己の名を告げた。
「俺だ。デュランだ」
「デュランさん!?」
掠れていた音に、ほんの僅かな力が籠っていた。予想外の好反応にデュランが目を丸くしている中、バタバタと慌ただしい音が扉の向こう側で響いている。
一体何が起きているのか、答えに至るよりも前に扉が開く。顔を見せたのは、そばかす顔の女。今の今まで横になっていたのだろうか、編まれていない赤毛が長く伸びていた。
「本当に、デュランさん!? 良かった! 戻って来てないって聞いて、私、それで――」
いや、寝てはいなかったのだろう。飛び付いて来た彼女の目元に浮かんだ隈の深さに、デュランは随分と迷惑を掛けていた事を自覚する。
喧嘩別れに近い形だったとは言え、親しくしていた相手が戦場に出て一晩戻らなかった。パトリックの反応を見るに、死亡説まで流れていたのであろう。
訓練もせずに初陣と、そんな境遇の彼女にとってそれがどれ程のストレスとなった事か。想像するに容易い話だ。それが誤報であったと分かって、リースは素直に喜んでいる。
胸が、ちくりと痛んだ。大切だと、想われていた。それがどれ程の大きさかは分からずとも、無関心では居られない程度の情を抱かれていた。その想いすらも裏切ったと言う事実が、どうしようもなく辛かった。
「あ、その、ごめんなさい。急に、捲し立てちゃって」
「いや、良い。それと、悪かった。心配を、掛けたみたいだ」
「いえ、そんな。私が勝手に、気にしてただけですから」
己の痛みを誤魔化す様に、気不味そうに目を逸らすデュランの姿。彼の様子に首を傾げていたリースは、己の姿を返り見て頬を朱に染めた。
捲し立てる様に言葉を投げ掛け、それだけでは我慢がならずに抱き着いた。そんな年頃の少女は薄い寝間着姿で、だから彼も目を逸らしたのだと誤解したのだ。
慌てて一歩離れて、恥ずかしそうに苦笑する。頬を赤く染めたリースの姿に、デュランは安堵の息を吐いた。
片や異性を意識して、片や己の行いを自責して、互いに異なる理由で顔を逸らす。相手を見詰める事も出来ずに、二人は言葉を交わすのだった。
「今、少し良いか? 話したい事があるんだ」
「……はい。その、よろしければ、中にどうぞ」
デュランの問い掛けに、頷きを返してリースは部屋の中へと案内する。導かれるままに、デュランは彼女の後に続いた。
リースとしては異性を部屋に招く行為に僅かな抵抗もあったが、かといってこの場で話続ける程に軽い会話を求めても居ない。それはデュランも同様だった。
「…………」
「…………」
大きなベッドに腰掛け、上着を羽織ったリース。彼女に進められるまま、椅子に腰掛け向き合うデュラン。互いに語る言葉はない。何を言えば良いのだろうかと、気不味い沈黙が其処にはあった。
何せ別れ方が血に塗れていた形であったのだ。言い争いと言うには一方的な形であったが、互いに拒絶を向け合ったのは真実だ。それから数日振りとなる再会だ。言葉に詰まるのも、まあ道理と言えるだろう。
リースは平凡な女だが、理屈が分からぬ程に頭が弱い訳じゃない。熱が引いて冷静になった今では、己が無理を言ったのだという自覚もあった。
あの状況で、他に救いなんてなかった。だと言うのに期待から、男に多くを求めて勝手に失望した。それは余りに無体であろうと、今では確かに反省してもいた。
対してデュランが何も語れぬのは、裏切りが故の自責が半分。もう半分は、女を口説くと言う行為に不慣れであったから。どうすれば良いのか、不器用過ぎて分からぬのだ。
ともあれ、何時までもこうしている訳にもいかない。何の為に此処に来たのかと己に活を入れると、デュランは口を開こうとする。先ずは何でも良いから、取っ掛かりとなる話をしようと動き出す。
「な、なぁ――」
「あ、あの――」
そう思ったのは、どうやらデュランだけではなかったらしい。間が悪く同じタイミングで、被せ合った二人は互いに機先を制し合ってしまう。
気不味いと、感じたのは二人同時に。元より話辛いと言うのに、出鼻を挫かれては更にと言う話。デュランは上を見上げて、リースは小さく俯いて、同じ意味の言葉を告げた。
「……先に言ってくれ」
「お、お先にどうぞ」
どちらから言うべきだろうかと。互いに強引さが欠ける性格な以上、譲り合うのは道理であろう。
このままでは、結局話が進まない。頭を軽く掻いた後、デュランは意を決して先に口を開くのだった。
「なら、先に言うぞ。……余り顔色が良くなさそうだが、ちゃんと寝ているのか?」
「え、あ、その、少し、は――」
「本当に、か?」
「……ごめんなさい。正直、余り寝てないです」
出だしと選んだのは、相手の体調に関する話だ。見るからに調子の悪そうな顔色を、案じていたのも事実である。
それが自分の身を案じてと言うのなら、悪いと詫びるだけでは済まないだろう。だが何となく、それだけでもないのだろうと確信していた。故にデュランは、更に問い掛ける。
「俺の身を案じて、ってだけではないよな」
言葉は断じる様に、確信があった。心配を掛けていたのは事実であろうが、それだけではないのだと。明白な程に、分かりやすい事実もあった。
リースの目元にある深い隈。そして見て分かる程に色濃い疲労は、一日二日の不眠程度で付く程に軽い物でもない。そんな風に見て取った。そしてその推測は、誤りでもなかった。
「……あの、その――夢を、見るんです。あの時の、夢を」
瞳を閉じる。瞼に浮かび上がるのは、何時だってあの時の光景だ。助かったと、助けられたと、そう思った人達が居た。あの時の彼らは、確かに安堵と感謝を瞳に抱いていた。だと言うのに直後、彼らは皆壊された。
人体が異常に膨れ上がって、風船が弾ける様に血肉や皮が弾け飛ぶ。その下から溢れ出したのは、目を覆いたくなる程に神聖さしか感じぬ異形。吐き気を堪えて蹲ったリースの前で、壊された人々は信頼していた青年の手で殺された。
「沢山の命が穢されて、助けられた筈の人達が壊されて、救えないから斬り捨てられた。あの光景が、目を閉じると浮かぶんです。……だから、その、他になかったのかとか。どうしようもなかったのかとか。そんな事ばかり考えちゃって。切り替えないといけないって、分かっているのに出来なくて」
理屈は分かっていても納得できない。理由は察する事が出来ても認めたくない。それ程にあの惨劇は凄惨で、それ程にリースは妄信していた。
デュラン=デスサイズが傍に居る。この凄い人なら如何にか出来る。きっと如何にかなるのだと。きっと如何にかしてくれるのだと。……本当は今でも思っている。
他にあった筈だ。こんなにも強い人ならば、もっと良い結果が出せた筈なのだ。そんな風に思ってしまうのは、誰も彼女に教えてなんてくれなかったからなのだろう。
「神父様は、教えてなんてくれなかった! 聖教が、こんな酷い事をしてるって! オスカーさんは、教えてなんてくれなかったんです! 亜人だからって、こんな事! 許されて良い筈なんてないのに!」
気付けば言葉は止めどなく、抱え込んでいた想いが溢れ出す。どうして何でと、分からないから嘆いている。誰かが教えてくれればきっと、……何かが変わっていたのだろうか? いいや、そんな事はない。
「でも、一番情けないのは、私が何も出来ない事! 泣いているだけで、喚いているだけで、結局何も出来ていない! それはいけないって分かるのに! ならどうすれば良いかも分からなくて! 私、何をすれば良いの!?」
分かっているのだ。理解している。どれ程に喚き立てようとも、確かな事実は変わってくれない。リースは何もしていない。それだけが変わらぬ真実だ。
信じて頼って任せて諦め、今になっては喚き立てて嘆いている。そんな女が想うのは、己自身のみっともなさ。何よりも何もしなかった事が悲しくて、何をすれば良いかも分からぬ事が悔しいのだ。
想いを全て吐き出した後、リースは力なく座り直す。顔を俯けて項垂れて、それでも冷静にはなれていない。膝の上で握られた拳の震えと、甲に落ちた僅かな水滴こそがその証明と言えるだろう。
「……分からない。答えなんて、分からないさ」
そんな女を前にして、何を言うのか。デュランの口は自然と動いていた。理由は一つ。彼も彼女も、同じ疑問と後悔を抱えていたから。
「聖教は間違っている。俺達は間違えていた。……それでも歩き続けるしかないと、ずっとずっと歩いて来た」
亜人だから殺して良いと、そんな理屈はあってはならない。誰かを傷付ける事が正しいのだと、そんな主張は間違っている。そんなのは、子どもにも分かる理屈であろう。
どんな理由があろうとも、拳を振るう事は悪なのだ。どんな理屈があったとしても、人殺しなんてしてはいけない。傷付け奪う行為が当たり前になってしまえば、それは一体どんな地獄か。
聖教の教えは、地獄を生み出す。それが分かって、けれど仕方が無いと言い訳した。その先にはきっと何かがあるのだからと口にしながら、間違った道を歩き続けた。
「今も、そんな風に戦っている奴らが居る。歩き続けた果てにはきっと、何か意味があるんだと信じて」
それが嘗てのデュランで、そして今のカルヴィンやオードリー達なのだろう。真っ当な精神性で居れば、おかしいと言う事には気付くのだ。なのに歩き続けると言う事は、そうするだけの何かがあるからに他ならない。
嘗てのデュランは、余りに曖昧な理想を見ていた。今になって思う。信頼できる仲間だったと、胸を張って誇れる彼らとの違いはきっと其処だった。そしてその違いはもう埋まった。今のデュランが求めるのは、もう曖昧な理想じゃない。
「けど、そんな物はないんだ。正しくない行為の先に、綺麗な物なんて残らない。だって、そうだろ。道の半ばで壊し続けた者達こそ綺麗に見えた。そんな道を歩いて行って、果てに一体何が残る」
奪う者ばかりが綺麗に見えた。壊す物ばかりが壊してはならない物だと思えた。けれど壊す、理想の為に。そんな道の先に、本当に綺麗な者が残る筈はない。己の手で、それを壊してばかり居たのだから。
瞼を閉じて、その裏に浮かぶ姿を想う。この今に一番守りたいと感じている少女の事を。恐ろしいと思うのは、嘗ての理想を追い続けていれば、その少女すらもこの手に掛けていたであろうと言う事実である。
もっと早くに気付くべきだったのかもしれない。けれど、今に足を止めて良かった。まだ間に合った。身勝手だとは分かっているが、デュランはそう思ってしまう。だから、彼は口にするのだ。
「なら、今からでも、歩く道を変えるべきなんじゃないのか。今の俺は、そんな風に想うんだ」
間違っている道ならば、立ち止まってしまえば良い。振り返って、元来た道を戻れば良い。最初に居た場所には辿り着けないかもしれないけれど、間違い続けるよりはずっと良い。
やり直せないなんて事はない。立ち直れない事なんてない。想いがあれば、人はきっと何処からだって再起出来る。意志さえあれば、人はきっとどんなに間違えた後でもやり直せる。
そう、今は信じたい。自分で口にしながら、欠片たりとも自信なんて湧いて来ない。だけど、きっとそうだと信じたかった。
「……何となく、言いたい事、分かります。けど――」
俯いていた女は顔を上げる。或いは裏切りを示唆させる言葉さえも口にした男を、リースは潤んだ瞳で見詰めて想いを音の葉に乗せた。
「皆がやりたくない事でも、誰かがやらないといけない。だから手を貸して欲しいって、そう言われて、私は此処に居るんです」
道を変えよう。聖教に反しよう。その言葉に頷けない理由を、既にリースは持っている。彼女は、一人じゃない。彼女の命は、彼女だけの物ではなかった。
「そうすれば、村の皆を優遇してくれるって。けど、それだけじゃない。こんな私にも、出来る事がある。それは誰かがやらないといけない事で、だからやってみようって」
背に負った荷がある。支えなければならない者がある。悩み、悔やみ、嘆いていても――裏切りだけはしてはならない。此処以外に、行く場所なんて何処にもないのだ。
「だから、聖教以外の場所はない。この道以外に、進める道なんてないんです」
だから、彼女は悲しそうな表情で否定する。男の言葉を、聞かなかった事にしようと首を振る。リースと言う女は何処までいっても、聖教徒でしか居られない。
説得は失敗した。元より見込みが甘かったのだ。デュラン達は、リースの事情を深く知らない。流されるだけの娘であると、それでどうして翻意を促す事が出来るのだろうか。
デュランは静かに口を閉ざして、けれど諦めはしなかった。女の目には、確かな情があったから。男の裏切りに気付き掛けながら、踏み込んでは来ないから。まだ機会は残っている。
「……リースの事、聞かせてくれるか?」
「そんな、特別な事なんて、ないんですよ」
「構わない。当たり前の話で良いさ」
知らないから届かないのなら、今から知っていけば良い。リースが聖教から抜け出せない理由を知る為に、デュランは彼女に過去を問い掛けた。