その4
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大切な誰かを案じているのは、決して自分だけではない。誰かを想える人ならば、きっと誰かに思われている。
そんな事、知っていた筈だった。けれど本当は、知っていた心算になっていただけだった。だからこうしてこの今に、生の情として実感している。
裏切ると言う行為。それは言葉にすればとても簡単で、為すとなればどうしようもなく重い事。覚悟していた筈なのに、今になって実感している。覚悟していた気になって、分かっていた心算になっていただけなのだと。
執務室の扉を抜けて、一歩二歩。壁に背を預けて、何時もの様に空を探す。見上げた先は天蓋で、先など見える筈もない。息が詰まる様な気がして、服の首元を開いた。
それでも楽にはならなくて、暫く見上げたまま深呼吸を一度二度。一体何を迷っているのか、もう決めたのだろうと己自身に言い聞かせる。
そうとも、もう選んだのだ。これまでの全てより、たった一人が欲しいのだと。ならばどうして、今更に後悔などが許される。
錆びついた天秤が揺らがぬならば、迷いを殺して前へ進むべきなのだ。余計な物を抱えている余裕など、未熟者にはないのだから。
「……我が事ながら、情けない奴だな。今更、本当に今更の話だろうに」
一体何の為に戻って来たのか。一体何を望み求めて、誰の心を裏切るのか。忘れるな。迷うな。立ち止まるな。
目指すべきは最善だ。少しでも多くを掴み取る。なのに迷っていては、一番さえも取り零してしまうだろう。
必要なのは最適解だ。数少ない行動で、望む全てを果たしてみせろ。立ち止まってしまったら、全てを失うのだと知るが良い。何か一つすら、その手に残る者はない。
(迷うなよ。デュラン=デスサイズ。そんな時分は、もう既に過ぎている筈だろう。なら、迷いなんて時間の無駄だ。そんな無駄を、出来る贅沢があると思うな)
守りたいなら尚の事、迷っている暇などない。救いたいなら尚の事、迷っている暇などないのだ。
元より出来ないとは分かっている。そういう才などないと知っている。それでも、為してみせると決めたのなら――今更に何を迷うと言う。
己にそう言い聞かせ、デュランはゆっくりと歩き出す。市場と違って人気の少ない施設の廊下を、何度も揺らぎそうになる足取りで。
「さて、行くか。……リースの奴が、直ぐに見付かると良いんだが」
向かう先は、十三使徒の全員に与えられた個室の一つ。其処に居るかは分からぬが、恐らくその場所が最も可能性が高いと言えた。
リースと言う女は、半ば部外者の様な者だ。聖教の秘密部隊である十三使徒の空気に、全くと言って良い程馴染んでいない。
常識で語るのならば狂人揃いの十三使徒に、馴染む方が問題だろう。馴染めぬ事こそ、彼女の善性の証明なのだ。
善良な人物が、心折られた状態で、散策出来る程に此処は明るくなんてない。一見すれば王侯貴族の屋敷の様な気品の神聖さに満ちた場所ではあるが、その実体は碌でもないと言う言葉すらも生温いと想える場所だ。
純白の壁。赤い絨毯が敷かれた道。豪奢なシャンデリアや芸術品。それら全てが一皮剥けば、直ぐに地金を晒してみせる。
例えば直ぐ傍にある、何の変哲もない壁。その中央には窪みがあって、軽く押せば秘密の通路が現れる。その先に広がる場所は、脱出用の秘密通路などではない。表沙汰に出来ない事を行う為のは、陰惨に過ぎる空間なのである。
捕虜を捕らえておく牢に、染み付いた血の臭いは拭えない。小奇麗な寝室で望まぬ行為を強要された、誰かの恨みは祓えない。血で変色した拷問器具に、纏わりつくのは犠牲者達の怨念だ。
余りに濃厚な恨みの色。人の怨念を祓う技能を持つ彼ら聖教徒が作り出しているのは、祓った以上の害悪だ。それを齎す者らが聖なる教えを騙る。何と笑えない冗談だろうか。
聖教の秘術によって、誰もが通る表層だけは綺麗に浄められている。だがその裏にある場所は、今も淀み歪んでいる。浄化しても意味がない程、重い悪意が満ちている。
霊視の力を持つ神官が立ち入り禁止にされている場所は多い。真面な精神性を持つ人間が目にしたら、秒と持たずに発狂してしまう地獄がその先には多く在る。それ程に濃密な死者の憎悪が、其処には絶えず満ちているのだ。
(嫌なもんだな。慣れと言うのは)
外面だけは清潔で、中身は汚泥に満ちている。そんな光景、聖教に長く属していれば良く見る物だ。この北部が別段、特別と言う訳ではない。
中央にある大きな教会は何処も似たような物である。表面上は綺麗でも一歩奥へと踏み込めば、凄惨な光景の一つ二つは見えてくる。だから慣れてしまうのだ。それを嫌だと感じているのは、きっとデュランだけではないのだろう。
だが誰もがそうと言う訳ではない。品行方正を気取って居ながら、裏では我欲に溺れているのが大多数。自分だけが利益を得る環境で、自制出来る者など多くはないのだ。
それが聖教会上層部の現状ならば、十三使徒の中にも似たような性質を有する者も居る。隠し扉を開けて出て来た男の様に、腐り切った性根ですらも凡庸だった。
「おっと、すみませんねぇ。………ひっ、ひぃっ!?」
裏と表に繋がる境目。扉の向こうから出て来た男はデュランにぶつかり掛けて、軽い謝罪と共にその身を退く。如何にも余裕に溢れたと言わんばかりの仕草であったが、それもデュランに気付くまでの事。
視線を合わせた途端に、彼の余裕は霧散した。ぶつかった相手がデュランである事に気付いた男は、顔を蒼くして悲鳴を上げる。今にも腰を抜かして倒れてしまいそうな程、彼は怯え切っていた。
「で、ででで、デスサイズ!? い、生きていたと言うのですか!?」
「パトリック?」
まるで猫に見付かった鼠の様に、青褪めた表情で叫ぶ男の名はパトリック・ロングボトム。十三使徒の第九位に属する人物だ。
間違っても美形とは言えない蜥蜴の様な顔立ちに、深く刻まれた隈と丸まった猫背が特徴的な男。デュランとは余り接点がない相手でもある。
真面に会話を交わした経験などもなく、顔を合わせたのも数回だけ。避けられているのだろうと、自覚はあった。しかし何故、そうまで嫌われているのかは分からなかった。
身内殺しと言う役割故か、或いは趣味趣向の不一致からか。ともあれ相手が態々距離を取ると言うのなら、無理に踏み込む必要もない。そう判断して、互いに遠ざけていた相手である。
そんな男がどうして、擦れ違っただけでこんなにも動揺しているのか。デュランにはどうも分からない。
何か後ろ暗い事でも考えていたのか。いいやそれよりも、単純に怯えていると言った方が相応しいだろうか。戸惑いながらにデュランは彼を見詰めて――零れる嫌悪を隠せなかった。
「……お前、何をしていた」
扉の向こうから現れた、男に纏わり付くのは悪臭。吐き気がする程に濃厚な血の臭いと、獣欲を晴らしたのだろうと感じる汚臭。幻視するのは、恨めしそうに見詰める残骸だ。
思わず、手が刀に伸びそうになった。このまま切り捨ててしまいたい程、この男の纏う死臭は濃い。けれどそれを阻むのは、まだ動くなと語る理性だ。此処で動けば、全てを台無しにしてしまいかねないと。
「ひ、ひぃ。な、な、な、何にもしてませんよぉ」
デュランが抱いた殺意を感じ取り、パトリックは喉を引き攣らせる。だらだらと嫌な汗を掻きながら距離を取ろうとする男を睨み付けながら、デュランは彼に関する噂話を思い出していた。
パトリック・ロングボトムは悪趣味だ。戦場で捕えた娘を犯し、嬲り殺す事を好んでいる。戦争がない時には貧民街から人を連れ去り、嬲り犯し晒し壊し殺すのだと。
そんな話を、人伝に聞いた事ならあった。真偽を確かめる為に動こうとした事はあったが、その際にはオスカーから直々に止められた。
曰く、それが事実であったとしても、聖教を信じぬ者に人権などはない。獣や貧民が嬲り者になろうとも、処刑の理由には足りぬ。お前の刃が振える時とは、虐殺者が聖教徒に手を上げた時なのだと。
故に真実を知っても、デュランの心が鈍るだけだ。ならば真実など明かさずに、蓋をしておくべきなのだ。それこそ、お前の為である。
あの日に聞いて、明かさずに置いた噂の真偽。それが真実だったのだろう。理解した今に、デュランは耐え難い怒りを感じている。向けるべき対象は、奪い続けた男と、それを追求しなかった過去の己だ。
そして、同時に想う。ああ、この男が外道で良かったと。オードリーの様な傑物と違って、コイツならば殺しても何ら恥じ入る事もない。裏切る事に、否などあるか。
(……いや、それは、違うか。それじゃぁ、こいつらと何も変わらない)
僅かそう思考して、直後にデュランは己のそんな思考を恥じた。外道ならば殺しても良い。それは亜人ならば殺しても良いと語る彼らと、何も違わないのではなかろうかと。睨みながらも胸中で、デュランは思い悩んでしまう。
「わ、私はこれで、失礼させて頂きます」
その隙を突いて、パトリックは震えながらも立ち去ろうと動き出す。声を掛けて止めようかと一瞬思うも、其処に何の意味があるのか。腹を括る覚悟がなければ、全く以って無意味である。
「……意味は、ない。いや、寧ろ害悪だ」
デュランは首を横に振り、去り行く背中を見逃した。そうしてから、想うのはまた後悔だ。二度も見逃したのだと、開いた扉から漂う臭気に眉を顰める。
何故、剣を抜かなかったのか。それは此処でパトリックと敵対すれば、己の裏切りに気付かれる可能性が高まるから。
何故、あの男を殺そうとしなかったのか。それはパトリックと言う男が、腐っても十三使徒の一人だから。彼は小物で臆病者だが、神の奇跡の一つを有しているのである。
そんな理屈で理論武装をしようとも、事実は決して変わらない。デュランと言う男は一つの外道を目の当たりにして、それを正すでもなくまた見逃したのだ。
ならば当然、あの日と結果は同じくなろう。見逃されたパトリックは、きっと何処かでまた殺す。
あの日に彼を追い詰めていれば、今日の犠牲者は生きていられた筈だから――――被害者の目で見れば、デュランもまた憎悪の対象となるのだろう。
開いた扉の先へと、臭いを頼りに血に塗れた牢獄の中を進んで行く。
辿り着いたデュランを見詰める残骸は、何も映らぬ瞳に恨みの情を宿していた。
「手当は、……もう遅い、か」
赤い鮮血の中、散らばる身体はまるでパズルだ。何処に何があるのか大雑把にしか分からぬ程に、汚物に塗れた女は惨たらしく壊されている。
僅かな呼気が聴こえる。それでも無理だ。生きてはいるが、もう治せない。少なくとも、殺し合う事に特化した処刑人ではどうしようもない有様だった。
だから彼は、何時もの様に行動する。終わらせようと、腕を振るった。誰かを助ける事は出来なくても、誰かを終わらせる事だけは誰よりも巧く出来るから。
一刀にて、全てを断ち切る。苦しませる事などはない。聖印を刻まれた刀身は、人の恨みすらも刈り取る物だ。故に死者の念すら残さず、此処に犠牲者は処刑された。
「埋葬だけは、しておこう」
祓い清め給えと剣の鞘で十字を切って、奪った命を両手に抱える。残骸はとても軽かった。
軽い女の一部を抱いて、デュランは扉の向こうへ歩き出す。ふと思うのは、何をやっているのだろうかと言う自嘲である。
死者の埋葬など、生者の為にやる事だ。女が残した無念の情すらも切り裂いて、ならばこれは己の痛みに対する慰めでしかないのだろう。奪った事が痛かった。だから、そんな情を慰めたいのだ。
全く以って無駄である。余裕がないと言う現状で、無駄は害悪とさえなろう。だと言うのに、そうしたいと思う。そうしなければ、ならないと感じている。
これを甘さや迷いと言わず、一体何と言えば良いのか。けれどどうしても、拭い去れそうにはなかったのだ。
表側へ戻ったデュランは、通路の窓から外に飛び出す。広がる中庭の一部に鞘を突き立てると、そのまま器用に穴を掘り始めた。そうして、死骸を埋める。己への慰めとして、死者の導を地面に刺した。
簡易な十字架を前に膝を下ろして、両手を合わせて祈りを捧げる。余裕なんてないと言うのに、果たして何をしているのか。自嘲する甘い青年は、けれど同時に思うのだ。
悼み葬る行為を、時間の無駄とは言いたくない。死者の為に捧げる祈りを、害悪だなんて言いたくなかった。……どんな者にも、冥福を祈られる位の救いはあって良いと思うから。
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ストックを書き上げた時、何時も悩むのは小出しにするか全部まとめて投稿するか。
前回は予約投稿で一話ずつ上げたので、今回はまとめて投稿します。