その1
◇
朝日が昇る僅か前から、俄かに活気を帯び始める。市場に満ちる生の感情は、正の物とは断じて語れぬものであろう。
商機を嗅ぎ付けた者らが扱う品の質こそ、空気が淀み濁る理由。熱の籠った視線を惹き付けているそれらは、命の価値を貶めている物である。
剣や槍。弓に矢と言った物から、中には西で再現された銃器まで。人の命を奪う為に作られた物が、此処には余りに多くある。
首輪を付けられた奴隷達。遠征隊が途中で捕えた亜人から、食うに困って身売りに流れた貧民など。消耗品として使い捨てられる命があった。
無論、そう言った物だけではない。命を繋ぐ食料品や、傷を癒す秘薬の類。身を守る為の防具や、多種多様な道具も確かに此処には並んでいる。それでもやはり、最も多いのは負の方向の物であろう。
此処は既に戦場なのだ。治すよりも壊す方が簡単だから、被害を減らす為には敵を多く排除した方が遥かに早いから、奪う為に必要な物ばかりが多くある。士気を保つ為に、欲を発散する為のモノが余りに多かった。
「……ここは、相変わらずだな」
青く晴れた空の下、活気に溢れた露店が並んだ風景。だと言うのに何処か腐臭がするのは、そんな裏側を知ってしまった所為だろうか。それとも或いは、本当に綺麗だと感じる光景を見た直後だからか。
ただ歩いているだけで鬱屈としてくる気分を、深い溜息と共に吐き出し思考を切り替える。悲惨な目に合うのであろう商品から目を逸らし、くすんだ灰色の髪をした青年は目的の場所へと向かっていた。
「変わらないさ。変わる理由がないからね」
濃褐色の瞳に憂いを湛えて、破れたコートを靡かせながら進むデュラン。彼に半歩遅れる形で隣を歩く翡翠の瞳は、楽しげな微笑と共に言葉を返す。
変わる理由なんてない。聖教は、今も奪う側にある。少なくとも、此処に居る彼らはそう信じているのだ。だからこそ侵略者の齎す市場は、凄惨とした一面を有し続けている。
北方大陸は最南端。北伐に備えて聖教会が作り上げた前線基地の外周に、この活気の中に陰惨さが隠れた場所は存在していた。
同行していた商人達に、自由取引を許可している区画。その目的は兵の息抜きの為の場であり、同時に有事には盾として消費する意図もある場所。余りに命が安い場所こそ、この商業区画なのである。
そんな場所に、デュランは戻って来ていた。共にあるのは、友人であるマキシム一人。たった二人で、目指した場所は此処から先。
彼が心から嫌悪を抱くこの場所に、舞い戻った理由は一つ。目指す場所は、前線基地の指令室。今はまだ、裏切りの意志はバレていない。故に十三使徒として、出来る事を果たしに来たのだ。
◇
時間は僅か遡る。悪竜王に挑み敗れた処刑人が、少女との触れ合いの果てに己の選ぶ道を決めた後のこと。
夜の帳が落ちた桃源郷の里の一角。小さな茅葺屋根の民家の中に、囲炉裏を囲む者らの姿がある。小さな炎に揺らめいて、大小合わせて七つの影を映していた。
内の一人は、デュラン=デスサイズ。くすんだ灰色の髪を持つ青年の全身には、無数の包帯が不格好に巻かれている。
そんな彼の真横で立っているのは、金糸の髪と翡翠の瞳をした少女。風守人の血を引く彼女が、青年が包帯塗れとなっている原因だ。
「皆に集まって貰った理由は、さっき説明した通り! お兄ちゃんの、手伝いをして欲しいからなの!」
アーニャは周囲を見回しながら、大きく息を吸い込み言葉を語る。頭を下げて集めた者らに、求める事は唯それだけ。
沢山の物を掴みたい。大切な人達を取り零したくはない。だが、二人だけで出来る話でもないだろう。その程度の、自覚ならばあったのだ。
「多くを望むと決めたは良いが、正直何処から手を付けた物かと言う無様さでな。悪いが、知恵と力を貸してくれるか?」
アーニャと言う少女には、戦う力も知恵もない。デュランと言う男にあるのは、誰かを殺す技術だけ。共に救い守ると言う目的には、兎角不釣り合いだと言えるだろう。
ならばどうすれば良いか。話は簡単だ。自分達に出来ないと言うのなら、出来る誰かの手を借りれば良い。一人二人では出来ずとも、皆で手を取り合えばきっと出来るのだ。
「おーほっほ! ワタクシの力が必要、と言う事ですのね! 良くってよ。友人の頼みくらい、聞いて差し上げますわ」
無駄に高笑いしながら、真っ先に答えを返すのはブリジット・ブルクハルト。縦に巻いた桃髪を揺らしながら胸を張って笑う姿は、高飛車な美人令嬢と言えばこうだと言える程に記号的。
その見目に反して中身は令嬢と言うのも憚れる程に残念な物だが、実際彼女は中央でも歴史のある名家に産まれた貴族である。生まれ育ちが良ければ、人品も良くなるとは限らない好例だろうか。
「……まぁ、聖教の連中と共闘するのに思う所がない訳じゃねぇけどよ。アーニャの頼みなら、多少の不満は飲み込むべきだな」
貴族らしからぬと言えば、金髪碧眼の少女の態度も同様だろう。胡坐を掻いて膝に頬杖を乗せている姿は、言葉使いも相まって高貴さなど欠片もない。
とは言えエレノア・ロスの生い立ちを思えば、それも仕方がない事だろう。八つを前に家が政変に巻き込まれ、以降は浮浪児同然の生活を余儀なくされたのだ。淑女としての礼節など最早、記憶の片隅で埃被っているのである。
「ええ、手を貸すと決めたのならば、不平不満は収めるべきでしょう。互いに足を引き合って、望みを通せる程に彼ら十三使徒は甘くない」
二人の貴族よりも綺麗な所作で、鈴を転がせる様な音を紡ぐのはイリーナ・マクシーモア。北の英雄と呼ばれた、風守人の女傑である。
末席とは言え英雄と称される程の実力者である彼女は、実体験として聖教は十三使徒の厄介さを知っている。嫌と言う程に、苦渋の味を舐めて来た。
聖典授受者とは、単一の技術に置いては英雄すらも凌ぐ者。得意分野で唯一芸を競っては、遅れを取ると断言出来る者達。
そんな彼らが、敵陣には後十人も残っているのだ。互いに睨み合っていては、精霊王や悪竜王であっても万が一と言う事はある。そうと知るが故に、彼女の言葉は苦言でもあった。
「デュランやアーニャに、手を貸すのは良いよ。今の君達は、嫌いじゃない。……だけど、さ」
イリーナの視線を受けて、口を開いたのは悪竜王。腰まで届く程に長い銀髪に、蒼と黄金と言う二色の瞳を持つ少年だ。
言われても仕方がないのだと、そんな自覚は響希自身も持っている。それでも駄目だと、感じているのは不倶戴天の敵が居るから。
美しい少女の様な顔を苛立ちに歪める。龍宮響希と言う少年は、今も嘲笑を浮かべている男をこそ警戒していた。
「ふふふ、何だい悪竜王。そんなに見詰められても、君は趣味じゃないんだけど」
囲炉裏を挟んだ反対側で、馬鹿にした笑みを張り付けているのは翡翠の瞳を持つ男。長く伸びた両の耳と、翠の髪は彼がこの地で生まれた証である。
今も僧服で身を包んでいるのは、その素性に気付けなかった者らへの皮肉であると同時に確かな信仰の証。そうとも彼程に、この“世界を生み出した神”を信奉する人間など居ない。
何よりも悪辣を嫌いながらも望み、誰よりも人間を愛しながらに見下している。邪なる神の真実を知る己こそが、最も聖教徒と呼ぶに相応しいのだ。そう断言出来るだけの知識を、マキシム・エレーニンは有していた。
「――先ず真っ先に、お前から叩きのめすべきだってのが僕の結論。マキシム・エレーニン。聖教なんかより、お前が一番危険だよ」
「過分な評価、どうも。それで、来るかな。悪竜王?」
五百年を生きる怪物。最も古き風守人。マキシムこそが、何より誰より危険な男だ。龍宮響希はそう確信している。聖教を相手取るより前に、この男を倒さねば碌な結果は訪れないと。
悪竜王と言う魔王の中でも最も強大な存在に危険視されているマキシムは、思ってもいない言葉を返して更にと続ける。彼は端から見抜いていたのだ。龍宮響希は今、マキシム・エレーニンを殺せない。
「そうされると、僕も困る。困ってしまうから、思わず君の大切な者に手を出してしまいそうになるくらいだ」
「……分かっているよね。それをやったら、お前は絶対許さない」
「君こそ、分かっているんだろう? 僕の行動は、あらゆる全てに優先される。例え光より早く動けても、僕には決して追い付けない。……君が僕に拳を振るえば、その前に僕は君から全てを奪い取れる」
理由は一つ。龍宮響希は、第七聖典を防げない。マキシムの行動は誰よりも優先されてしまう。例え追い掛けようとも、決して追い付けない類の力だ。その上、彼の聖典は直接的な干渉を齎す類の物でもない。
最強と呼ばれる魔王でも、彼の力は干渉力よりも抵抗力に秀でている。響希が第十三聖典を強引に打ち破れたのは、彼自身を無力化させようとする干渉に抵抗出来たからに他ならない。
マキシムを止める為に必要なのは、聖典の発動を妨害出来るだけの干渉力なのだ。そしてそんな力は、世界の何処にもありはしない。
錆び付いた天秤の法則は覆せない。彼の行動は止められない。必ず後手に回ってしまう以上、いざ戦闘が始まれば龍宮響希は全てを失う事になるだろう。
この場に居るエレノアや、今は違う家屋で休ませているミュシャ。最愛とも言える仲間達が殺されて、その後にならねば認識する事さえも出来ない。
そして何より厄介なのは、マキシムと言う男が翠の貴種である事。彼は魔法による蘇生を、出来ない様にしてしまえる。本当の意味で、響希から全てを奪い取れるのだ。
無論、其処までやられれば響希としても許容の外だ。どちらか一人を奪われた瞬間に、悪竜王はマキシムだけを滅ぼし尽くす怪物となって世界の果てまで追うだろう。
速度違反者も、所詮は誰よりも早く動けるだけ。今の彼が持つ力だけでは、どう足掻こうと響希自身を滅ぼすには不足している。聖典を使えない程に消耗した時が、マキシムの最期となる訳だ。
「僕は何時でも、君から全てを奪い取れる。だがそうすれば、君は僕を未来永劫追い続けて何時か必ず殺すだろう。詰まり僕の破滅は君の破滅で、君の喪失は僕の敗北と同義な訳だ。言い換えると、僕らは既に運命共同体とも言えるんだよ。悪竜王」
「……運命共同体? 反吐が出る事を言うなよ。変態野郎」
「だが事実だ。僕では君を倒せないけど、君に僕は殺せない。そして目的までの道が同じ以上、否応なしに僕らは“味方”と言う訳さ」
故に両者は拮抗している。互いに下手な手出しが出来ないのだ。マキシムが真っ先にミュシャを落とした理由の一つは、それを分からせる為でもあったのだろう。
理解が至って、だから何が出来ると言うのか。他の聖典授受者ならば、聖典を使わせる前に速攻即死の一撃を叩き込めたかも知れない。だがマキシムの聖典は自動発動であるが故に、そうした不意も突けないのだ。
先ずはミュシャの身体から毒を抜く事。次にこの男の隙を見付け出し、確実に一撃で息の音を止める事。それしか対処の術はないのだと、分かっていても堪える事が難しい。
まるで計っているかの様に、此処までならば大丈夫。そんな限界寸前の領域で、マキシムは都度煽りを向けて来るのだ。元より腹立たしい男が一々苛立たせて来るのだから、響希としても堪った物ではなかった。
「精々、仲良くやろうじゃないか。悪竜王」
嘲笑を浮かべるマキシムに、響希は苛立ちながらも歯噛みする。拳を握って殴り掛かりたくもなるが、如何にか耐えられそうでもある分だけに性質が悪い。
睨む少年と嗤う青年。加速度的に場の雰囲気を悪化させていく両者の姿に、頭を抱えるのは彼らを集めた二人である。全くどうしてこうなったのかと、嘆息混じりにデュランは口を挟んだ。
「その辺にしとけ、マキシム。どっちが悪いかと言えば、今回限りはお前が一方的に最悪だ」
「やれやれ。酷い言い草だね。僕は君とママの為だけに、動いていると言うのにさ」
デュランはマキシムを友人だと認識しているが、だからと言って彼の腹黒さを知らぬ訳でもない。何せつい最近まで、一番の友人にすら素性を隠していた奴なのだ。
どうせ碌な事を考えてはいないのだろう。何やら暗躍している素振りもある。だがしかし、それでもやはり友人としての情もある。味方であるとも、信じている。だがやはり、それとこれとは話が別だ。
悪竜王との諍いの原因は、マキシムの行いである事に間違いはない。少年の大事な人を傷付けて、詫びる所か煽る様な行為を繰り返しているのだから当然だ。
どうしてこんな事をするのかは分からないし、先々の事を考えれば頭も痛くなってくる。だがやはり友人だから大丈夫だと、信じてしまう甘さはデュランの美点で欠点だろう。
「響希お兄ちゃんも、今は抑えて。マキシム――さんは、私達の中で、多分、一番頭が良くて、一番性格が悪い人だから。どうすれば良いか、分からない状況で一番必要な人だと思うの」
「分かった。今は抑える。だけど――」
アーニャはデュラン程に、マキシムを信じている訳ではない。初めて見た時から感じている、言いようのない怖さは今も変わらない。
それでもデュランが信じているから、そして今は必要な人材でもあるから、対処をするのは後に回そうと言うのが彼女の下した結論だった。
実際、現状ではどうしようもないのも確かだ。響希も一先ず納得すると、拳を解いて敵意を収めた。だがしかし、それでも最低限、譲れない事もある。故にマキシムに向かって、響希は断じる様に言葉を紡いだ。
「お前の指示には従わない。背を預けての共闘だって御免だ。それが、僕が手を貸す条件」
「ああ、別に構わないよ。背中を気にしながらと言うのは趣味ではないし、君は此処に居るだけで十分。そういう形で、策を組み立てれば良い」
指示に従えば、どうなるか分からない。背を預ける程に、信頼なんて出来はしない。敵意を収めても警戒を隠せぬ少年の言葉に、マキシムは笑みを深めた。
現状、全ては彼の予想通りに。真に優秀な策士と言うのが、一手で複数の成果を得る者ならば彼は間違いなくそれであろう。こうして悪竜王に警戒される事ですら、マキシムは望んでいたのだ。
五百年は昔から、こうなる事を夢見ていた。その執着は甘くない。最早怨念と称する程に、脳味噌のない案山子は歪んで摩耗し腐っている。