序幕
◇
ステンドグラスより降り注ぐ、七色に輝く虹の光。燈火の如く移ろうて、その度に色を変え動く。照らし出すのは、巨大な劇場。
閉じた幕の裏にはまだ何もない。閉じた幕の前には空いた席しかない。其処に立つのは唯の一人、優雅を気取る影絵の女。誰にも掴めぬ湖面の月。
「ようこそ、おいでくださりました。皆様方」
空の果てでも地の底でもない場所で、移ろう影絵は静かに腰を折り曲げる。綺麗な形で一礼を、誰にともなく示してみせる。
一秒、二秒、三秒。きっかりと数を数えた後に、顔を上げて静かに微笑む。そうしてゆるりと語り出すのは、女の名乗りとこれより開かれる舞台の口上。
「私はカッサンドラ。英雄譚を謡う詩人の如くに、物語を語る者」
一体幾度、この語りを繰り返したか。一体幾度、誰かに言葉を投げたであろうか。一体幾度、その意に想いが返ったか。
其処に意味など何もない。其処に価値など何も要らない。彼女は唯々繰り返す。何時か終わりが来る時まで、それが彼女の役であるから。
「これより始まりますは、差別と侮蔑と敵意と悪意と殺意と、無数の想いが錯綜し合う虐殺劇。誰かが、或いは誰もが、命を閉ざす舞台劇」
これより始まるのは、これまでで最も醜悪となる物語。多くの人が命を落とす、恐怖劇にも似た虐殺劇。誰かが死ぬ。誰もが死ぬ。それは既に決まっている。
覆す事など出来はしまい。例え悪なる竜であれ、その理不尽は崩せない。それを定めたのが全能の神であり、それを成すのがその御使い達ならば、如何なる抵抗も無駄である。
そうとも、誰かが死ぬだろう。そうとも、誰もが死ぬであろう。だがしかし、生きて残る者らも居る。彼らはきっと、未来に語り継ぐであろう。
故にこれは恐怖劇とは成らぬのだ。多くの命が散華しようと、後に続く想いが確かと残るのだから。そうとも、これは恐怖劇などではない。未来へ続く、道の一つだ。
「己の進むべき道を定めた男は今宵、確かに知るでしょう。手を取り合うと言う事は、必ずしも素晴らしいとは限らないのだと」
破滅の道を、歩く男の名はデュラン。虐殺劇の主演と選ばれた彼の人物は、この旅路の中で知るだろう。
素晴らしいと語られる事が、必ずしも素晴らしい訳ではないと。褒め称えられるべき物事すらも、たった一つの掛け違えで崩れ去ると言う真実を。
「否定。拒絶。裏切り。人と人とが関わりの中で、決して断絶出来ぬ物。分かり合えた心算になって信じてしまえば、その足元は掬われる」
誰も彼もが手を取り合えば、果ては平和に至るだろうか。争う事の無意味さを誰もが知って、手を繋げたならば何かが変わるか。
そうかもしれない。だが一体どうすれば、本心からそう願っていると分かるのだろうか。誰も彼もが内に何かを抱えていて、ならば必然として断絶は起こり得る。
それすら気付かず、分かり合えた気になっているならそれは悲劇だ。妄信と言う名の罪こそが、最も多くの犠牲を生み出す物なのだから。
「友情。愛情。信頼。そうした想いを抱いていても、役に立てるとは限らぬもの。世は都合良く回る物ではないから、どれ程に強く想い願えど届かぬ事は多く在る」
嘘ではなく、偽りでもない。真に相手を想う情に満ちていれば、必ず素晴らしい結末を迎えられるのだろうか。
問い掛けに返す答えは一つ、否と言う他にないだろう。誰もが真摯に想い合えば悲劇が起こらぬと語るなら、世に悲劇など存在しまい。
誰かを想うが故に、人は時に理に合わぬ事を為す。他者を想う情こそが、或いは人を壊すのだ。
「裏切り者が内に居れば、足並みは乱れ揃わぬもの。役に立たない者が居れば、想いが同じく在れど不幸な幕引きにしか至れない」
青年と同じく、北にある者達。その視線の先はしかし、須らく同じ場所を見ている訳ではない。
異なる思惑を抱いている者が居るだろう。同じ想いを抱いていても、役に立てない者も居るだろう。
そんな者らを無理に束ねて、同じ場所を目指しても碌な結果にならぬのだ。果てに至る結末など、不幸な破滅以外にない。
「一足す一は、一にもならない。手を取り合えば何でも出来ると、そんなものは稚児の夢想。とかく幻想の世は残酷なれば、男の道に救いはない」
二人の人物が手を合わせても、その力は加算とならない。状況によっては、互いに足を引き合い負数にすらもなるだろう。
愛や努力や友情が全てを救うなど、所詮は子どもの夢幻だ。幻想の名を借りながら、残酷なこの世界にそんな夢想が立ち入る隙間はない。
男は全てを失うだろう。男は何も守れぬだろう。それこそが彼の罪であり、それこそが彼に下されるべき罰なのだから。
「此処に、悪なる竜の救いはない。これは唯の罪人が、失いながら償い続ける虐殺劇」
そうとも、誰かが死ぬだろう。彼の愛した誰かが死ぬ。彼を愛する誰かが死ぬ。多くの犠牲を積み重ね、果てに至る幕に救いはない。
そうとも、誰もが死ぬであろう。彼ではそれを覆せない。彼以外の誰にも覆せない。例え悪なる竜であっても、この結末は変えられない。
「それでも、彼は足掻くのでしょう。これは薄暗い英雄譚。これは救いのない救済劇。それが分かっていたとしても、きっと彼は足掻くでしょう」
邪悪な神が望み描いて、その信徒達が作り上げる惨劇は揺るがない。既に惨劇は決まっていて、後はその日を待つだけなのだ。
だがしかし、生きて残る者らも居る。彼らはきっと、未来に語り継ぐであろう。故にこれは恐怖劇とは成らない。多くの命が散華しようと、後に続く想いが確かと残るのだろう。
故に此度の演目において、最初の犠牲者は晒される。その人物の最期を切っ掛けに、物語は転落し続けていく事だろう。
奈落の底へ。地獄の果てへ。それでも、未来に続いて行く。明けない夜はないのだから、歩き続ければ何時かは朝に辿り着く。辿り着けてしまうのだ。
「果てに何か意味はあるのか――それは皆様方の瞳で、そして言葉で結論付けること。故に、影絵の語りはもう此処まで」
其処に意味はあるのか。死に意味を見出す価値とは。悲惨な結末の後に昇る朝日は、何を心に刻むのだろうか。
その結論は、全てを見終えた後に語らうべきだ。この今に出して良い物ではない。影絵の女はそう思うから、静かに微笑み先を促す。
さあ、物語の開幕は間近。今こそ舞台を幕開けよう。我儘な竜と、罪悪に塗れた裏切り者。彼らの道が交じり合い、織り成す破滅の物語を幕開けよう。
「ではどうか、暫しお付き合いくださいませ」
カッサンドラは優雅に一礼し、開幕を告げるブザーが響く。
静かに微笑む女の背にて、ゆっくりと緞帳は上がり、今宵の舞台は幕を開けた。