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Dragon Travel Story  作者: SIOYAKI
第三部第一幕 竜と処刑人のお話
191/257

その13

 何処までも続く空の下、桃の花びらが舞う田園風景は静かに時を刻んでいる。日が昇り、そして沈むまでの時。緩やかに流れる時間の中で、変化は極めて微々たる物だ。

 此処は停滞している。緩やかに、穏やかに、進んでいる様に見えても進む先は振り出し地点。同じ場所をグルグルと、回り続けているだけなのだろう。だからこそこの一瞬はとても優しく、だからこそこの一種はとても美しい。


 桃源の里では、人々が歓喜に湧いている。新たな住人を迎え入れ、行われるのは歓迎会。飲めや歌えや続く騒ぎを、遠く田園の端に腰を下ろして見詰める。男は喧騒の中には入れぬと、確かに自覚していたのだ。

 聖教会・十三使徒。進んで来た道の轍が、デュランに裏切りを許さない。男は桃源郷の敵なのだ。だから距離を取っている。なのに今も見詰めているのは、彼がとても不器用だから。輪に入れぬなら目を逸らしてしまえば良いのに、それさえ出来ないのは青年の性格故に。


 男は酷く、損な性分をしているのだろう。もっと気楽に生きれば良いだろうにと、分かっていても選べない。この生き方はきっと、何処かで無残に死ぬまでずっと変わらない。

 だから目を逸らしたい幸福を、目を逸らさずに見詰めている。彼らの気分を害さぬ為にと距離を取り、そんな気遣いが無意味となる程に悪逆非道な殺戮を何れ為す。それがデュラン=デスサイズと言う男が続けて来た生き方で、これから先も続けて行く事。


 心が折れてしまいそうだ。軋む痛みに悲鳴を上げたくなって、けれど身体は勝手に動いてしまうのだろう。だから目を逸らさずに苦しみ続ける事、それだけが彼に許された罪と罰への償い。

 だから一人で居ると決めたのに、気付けば隣に寄り添う影が。青空が茜色に染まるまで、活気沸き立つ人里を共に眺める。春風の中とは言え少しずつ冷たくなる中で、寄り添う小さな人肌はとても温かかったのだ。


「向こうに、行かないのか?」


 この温かさは、分不相応な物だろう。自覚はあった。軋む心は弱いから、その熱に溺れてしまいそうになる。故に何処かに行ってくれれば良いのにと、デュランは願いながらに問い掛ける。


「ううん。此処に居る。此処に居たい」


 なのに少女は首を振る。あの喧騒の中に居るのが正しい居場所であろう筈なのに、不器用な男に寄り添う事を選ぶのだ。目を離せば、消えてしまいそうに思えたから。


「……そうか」


 アーニャの声に、返せた言葉はそんなもの。他に何を言えば良いのか、何も分からず黙り込む。口を噤んだデュランに対して、アーニャも口を開かなかった。

 唯、少女は男の隣に座り続ける。デュランの胸元にも届いていない小さな身体を寄り掛からせる様に、触れ合う熱を確かに伝える。言葉にしたらきっと拒絶されるから、言葉にしない形で示していた。


 稲穂が夕日の色に染まって、桃の香りが春風に舞う。何時までも終わりそうにない喧騒を、何時までも共に見続ける。そんな二人は、何となくに理解していた。

 直感だろうか、予感だろうか。きっとこの先に救いはない。碌でもない破滅しか待っていない。そんな予感を孕んだ静寂の中、でもこの今は確かに暖かかったから――――その存在の訪れは、全く無粋であったのだろう。


「綺麗な所だろう。此処は?」


「マキシム。……嗚呼、そうだな。確かに、綺麗だ」


 翡翠の男が訪れて、アーニャとは反対側へと腰を下ろす。デュランの身体を挟んで見えた笑顔は、アーニャの目には不吉に見えた。爽やかさを伴う容姿はとても整っている物なのだが、少女はそれを怖いと思うのだ。

 彼女自身がされた事や、猫人を甚振っていた姿だけではない。このマキシムと言う男の本質は、どうしようもなく恐ろしい者なのだろう。アーニャにとってこの翡翠の青年は、触れ合う大切な人を地獄の底に引き摺り堕とす悪魔に等しい存在だった。


 そんな微笑む悪魔の訪れに、停滞していた時間が動き出す。デュランは友と信じる男へ、もう一度となる問いを投げた。


「なぁ、マキシム。何で俺を、此処に連れて来た?」


 桃源郷の実態を知り、デュランは綺麗だと思った。優しく美しい世界は、嘘に塗れた揺り籠であっても尊いのだと。

 だが、彼は十三使徒だ。その生き方を変えられない。ならば優しく美しく尊い世界であったとしても、その手で壊さぬ訳にはいかない。


「知らない方が、良かったかな?」


 嘯く男に、知らなければ良かったなどとは返せない。奪った重さを知らずして、どうして報いる事が出来るのだろうか。

 軋んだ心は痛いし辛い。けれど知らなければ良かったと、そんな甘えは許されない。他でもない、デュラン自身が許せないのだ。


 けれど、問い掛けた理由はそうじゃない。この友人の立場を思えば、此処で明かす利点が見えないからであった。


「……答えろよ。マキシム」


 マキシム・エレーニンは、桃源郷の長であった。最も古き風守人である彼は、生まれながらにして聖教とは相容れない敵対者なのだ。

 そんな彼が聖教の一員――それも最暗部である十三使徒と成る為に、一体どれ程に耐え忍んで過ごしていたのか。其処までして得た隠密性を、此処で明かすのは愚策だろう。


 最も親しいデュランですら気付いていなかったのだから、他の十三使徒も疑いはあっても確信は無かった筈だ。ならば隠し通したまま、最良のタイミングで裏切り戦果を得るべきだ。

 なのに彼はあっさりと、デュラン達に己の素性を告げた。異相の違う空間にある桃源郷の場所まで教えた。黙っていれば分からなかったその情報を、明かした理由。それをデュランは、知らねばならない。


「答えてくれ。頼むから」


 もしも計算の上での行動ならば、少しは気も楽になる。振るう刃が刈り取る命は、重いが納得できる物。

 だがもしも友誼の心がそうさせたと言うのなら、デュランはそれを裏切る事に成る。友が伸ばした手を握り返せず、切り落とす外道と成るのだ。


 だから、知りたくはない。だけど、知らねばならない。そんなデュランの葛藤を見抜いて、笑みを深めたマキシムは答えを返す。


「僕が見せたかったのは、この光景だよ。君に此処を、見せたかった」


 全てを見通す目を細める。夢で作った杯を交わし合う亜人達を見下ろしながら、家屋の一つで仲間の治療を進めている竜を見下しながら、マキシムは微笑みを崩さず問い掛けた。


「この世界を、どう思う? デュラン」


「……優しい世界だ。此処は、緩やかに時間が流れている。大切な人は、こういう所に居て欲しいって、そう思うよ」


「当然さ。此処にはママの愛が満ちている。そんな世界が、優しくない筈ないだろう」


 桃源郷は優しい世界だ。此処は美しい世界である。例え何時か目覚める夢だとしても、この今に尊い愛で満ちている事には変わらない。

 デュランもマキシムも、そしてアーニャも同じ結論を出している。此の仮初の永遠は、それでもとても素晴らしい。正しく理想卿と呼べる場所なのだと。


「けど、君はこの世界を選ばなかった。ママの愛を拒絶した」


「俺には分不相応の物だ。こんな安らぎ、許されて良い訳ない」


「君が背負った罪の多寡を、決められるのは君だけだ。君自身がそう語るのなら、成程確かに君は罪深いのだろう。君の中では、それだけが君の真実だ」


 その愛を否定したのは何故か。それは己で己が許せぬからだと、デュランは此処にそう語る。

 罪の多寡を定めるのは、法ではなく人の意志。中央の法律では合法とされる虐殺を、許せないのはデュラン自身だけなのだから。


 己で己を許さない。自縄自縛の青年に、マキシムは笑みと共に問いを続ける。止まれないなら、何時か必ず訪れるであろうその破局を口にした。


「なら、君はこの世界を終わらせるのかい?」


「…………」


「君は亜人達を殺すんだろう? この世界を壊すんだろう? 拒絶したと言うのは、詰まりそういう事なのだろう?」


「…………それが、十三使徒の役割だ」


 血を吐く様に、言葉にしたのは誓いである。不退転の意志を定めたのは当の昔で、だから此処では止まれない。

 どれ程に尊い者でも、殺さなくてはならない。どれ程に愛おしいと感じても、奪わなくてはならない。それが、今まで歩いて来た道だから。


「命は尊い――なんて言えない。握った刃を軽く振るえば、人の首は落ちるんだ。余りに容易く、この手を零れ落ちていく」


「それでも、命が紡ぐ景色は尊い。君はそう自覚している。そうでなければ、己の所業を罪深いなどとは考えない筈だ」


「そうだな。だからこそ今更、違う道なんて選べない。その尊さを奪い続けて来たのだから、此処で止まろうだなんて許されない」


 他人のそれを、奪って来たのだ。人の幸福な時間を、壊し続けて来たのだ。いざ自分の番が来たから、もう止めようだなんて許されて良い筈がない。

 刃は既に振り上げられた。後は下ろすだけで、愛しい首を落とすであろう。処刑の剣は止められない。過去に止まれなかった。逃げる事も許せなかった。ならば、進む道は前にしかないのだ。


「俺は滅ぼすんだろう。この景色を、この光景を、この尊さを――そうとしか生きられないから、処刑人にしか成れなかったんだ」


 デュランの言葉が、アーニャには遠く聞こえた。直ぐ傍に、触れ合える程近くに居るのに遠く感じた。同じ場所で同じ物を見ていても、互いの距離は遠いのだ。


 それがアーニャには、どうしようもなく悲しかった。軋む心で泣きながら、決めた決意が悲しいのだ。だから抱き締めたいと思うのに、きっとそれさえ許されない。

 だって少女は、処刑人に刈られる立場であったから。アーニャが優しく抱き締めれば、その分だけデュランは苦しみ傷付くだろう。少女が優しければ優しい程、行う罪は重くなる。触れ合う善意が、彼の心を傷付ける。


「デュラン、お兄ちゃん」


 少女だって、死ぬのは怖い。生きていたいと思う。幸せにだって成りたい。けれど同じくらいに、この大切な人が嘆き悲しんでいるのは辛かった。

 なのにアーニャではどうしようもない。何を言おうと彼は止まらず、何をしようと彼の傷になってしまう。だから少女は、その名を呟く事しか出来なかった。


「ふむ。そうか。君の決意は固いんだね。……だから君は、そのままでは必ず後悔してしまうんだ。もう向き合わなくちゃ、君は救われないんだよ」


 デュランの決意に、アーニャの哀愁。二人の姿を見詰めるマキシムは、何時もと異なる笑みを僅かに覗かせる。

 その言葉はきっと、マキシムの本音であったのだろう。多分に作意が籠った関係だが、共に友誼を抱いていたのは真実だった。


 だから、マキシムは問い掛ける。膨大な悪意と僅かな善意を其処に宿して、デュランの決意を壊し尽くす呪詛を口にした。


「君に一つ問おう。滅ぼす者よ。君は進んだ道の先で、この今以上に尊い景色を作れるのかな?」


「……何? どういう意味だ?」


「何を疑問に思っているんだ。思考を進めれば、当然至る帰結だろう?」


 立ち上がって、両手を広げて指し示す。風が映し出したのは、人と亜人が手を取り合って笑い合う人里の景色。

 其処に争いなどはない。其処に悪意などはない。其処には安らぎしかありはしない。人のイメージ出来る理想卿を映し出し、マキシム・エレーニンは語るのだ。


「君が止まれない理由は、背負った荷が重いから。今更に道を変えられないのは、その背中にある者達を裏切れないから――果てに何か報いを、齎す事で無価値でなかったと証明したいからだろう」


 それはデュランの決意にある矛盾。彼が気付いていない真実は、彼の全てを無価値に変えてしまう物。そうとも、デュラン=デスサイズに価値はない。

 彼の道は破綻している。彼の道には先がない。止まれない理由は、奪った全てに報いる価値を――なのに突き進んだ先を描けていないから、青年の行動は全て無意味で無価値である。


「だがしかし、この道を歩き続けるのならばその荷は更に重くなる。桃源郷の平穏を奪うのなら、君の背負う罪はその分だけ重くなる。ならば必然、君が道の果てで作らなければならない光景は――此処より綺麗な場所なんだよ」


 そうとも、果てに報いをと。ならばその道を進んだ果てには必ず、理想を叶えねばならないのだ。奪った命を理由に止まれないと語るのなら、奪った命よりも尊い何かが無ければ無価値だ。

 なのにデュランは分からないと、目を閉ざしたまま進んでいる。止まれないから前に行くと、ならば道が途切れた果てで何もかもを失うだろう。だって元から、何を掴めば良いのかすらも分かっていないのだから。


「それが作れないなら、果てへの歩みの全てが無価値だ。これまで進んで来た道も、これから進んで行く道も、その全てが無駄で無意味で全く以って不要な犠牲だったと言う訳だ!」


 誰も彼もを殺し続けて、至るは何一つとして報酬のない伽藍洞。手にした物は望んだ形でなかったと、未来が目に見える様。

 そんな結末を、男は指摘されなければ気付く事すら出来なかった。止まれない理由と掲げた決意と進む道の矛盾に、この今に至るまで気付いてすらも居なかったのだ。


「だから、もう一度問おう。デュラン=デスサイズ」


 理解が及んで、デュランの顔が青褪める。奪った者へ何か報いを返せるのだとすれば、それは奪った以上の結果を出せた時だけ。そうでもなければ、犠牲は無駄になってしまう。

 なのに、デュランにはこれ以上が浮かばないのだ。この桃源郷を壊すのに、この桃源郷以上に素晴らしい物が描けない。ならばどう足掻こうと、奪った犠牲に報えない。全てが無駄になってしまう。なのに今更、止まる事も出来ないのだ。


「君はこれ以上の幸福を、如何にして作り出す? 君はこれ以上の光景を、一体何処に作り上げる? 君はこれ以上に優れた理想を、どうやって作り上げる心算だ!?」


「俺、は――」


「分からない、と言う答えは無しだ。断言しよう。目を逸らしても、何時かは向き合う事になる。明確なビジョンが其処に無いのなら、君の作った犠牲も君自身の生涯も、全てに意味がない! 全く以って無価値であると!!」


 無力なる罪人は此処に。理想を描けず奪う事しか出来ない男は、結局全てが無駄だった。そうと分かったところで今更、男に選べる道などない。

 全てが無駄になる道を、軋む心で歩き続けるしか出来ないのだ。果てに何か報いをと、夢見る事さえ今奪われた。見えていた筈の未来は既に、暗闇の中に鎖されていた。


 デュラン=デスサイズは無価値だ。生きているだけで他に害を為す、なのに何も生み出さない。どうしようもない下劣畜生の外道であった。

 吐きそうだ。見っとも無く涙を流して叫びを上げれば、少しは楽に成れるのだろうか。けれどそれさえ己に許さない男は此処に、青褪めた形相で突き付けられた未来を見続けた。


「もう、止めてよ!」


 だから、泣きたくても泣けない男の代わりに少女が泣く。苦しくても苦しいと叫べない男の代わりに、この少女が言葉を紡ぎ語るのだ。


「デュランお兄ちゃんを、もう虐めないで! これ以上、酷い事を言わないで!」


 アーニャはマキシムの語った未来の全てを理解している訳ではない。青年の過去や、その所業の全てを知っている訳でもない。彼女に見えるのは、この今だけだ。

 だけど、今だけは確かに見えている。怖い男の言葉によって、傷付き苦しんでいる姿は見えているのだ。だから、もう虐めないでと。立ち上がって抗議する。恐ろしい男に向かって、大切な人の為に立ち向かった。


「分からないで、良い! 夢でも、良い! 今だけでも、良いの! だから、もうこれ以上――」


「黙っていろ、部外者。……お前の出番は、此処じゃない」


 少女の激情に、マキシムは笑顔の仮面を剥がす。其処に表れた情は、紛れもなく怒りのそれ。彼は今、友の為に怒りを抱いている。


 迷うデュランの姿に愉悦を、悩む彼へ向けた言葉は策略の一部ではある。だが確かに、友誼の情も其処にはあった。此処で確かに知ったのなら、きっと彼は後悔しない。

 向かう果てが破滅であろうと、選び取った結果であると語れるだろう。そうとも、これは彼にとっては最後の好機だ。此処が分水嶺であり、だからこそ向き合わなくてはならないのだ。


 故にアーニャの存在は邪魔だと、マキシムは風を操り彼女を飛ばす。紙屑の様に飛ばされる少女の姿に、咄嗟にデュランは立ち上がって追い掛ける。そして数瞬、デュランは確かにアーニャを抱き留めた。


「マキシム!!」


「怒ったかい? けど、何故怒るんだ? 何で君にその資格がある? 君は結局、殺すんだろう。今抱き締めた、その子の事も」


「――――っ!!」


 守りたかったが、守れなかった少女。アーニャに手を出されて怒りを示すデュランに対し、マキシムは笑顔の仮面を戻して問い掛ける。

 結局殺す立場の人間が、一体何の資格があって傷付けた事を叱責するのか。先ずは我が振りを見ろと、それは全くの正論。今のデュランに、そんな資格などはない。


 言われて、納得してしまう。怒りを収めてしまった友の姿に、マキシムは嘆息混じりに言葉を紡いだ。


「そんな様で、果てに一体何が掴める? 腕に抱いた熱を奪って、それ以上の者が君にあるのか?」


 己の意志すら貫けない。何処に進むべきかも分かっていない。そんな無様で、一体何が掴めると言うのであろうか。

 いいや、何も掴めはしない。何もない場所に手を伸ばしても、掌は空を切るだけなのだ。今抱き締める熱に勝る何かが、其処にある筈なんてない。


「僕が君に、君が至る未来を教えてあげよう」


 マキシムは語る。デュランの進む道の先、このまま進めばどうなるか。彼は此処に、その未来を予知して言葉に変えた。


「このまま聖教の教えに縋った所で、価値ある結果なんて作れやしない。彼らは端から破綻している。その教えを敬虔に守った所で、先にあるのは自業自得の愚かな破滅だ」


 亜人を排斥し、人を護ると言う教えを掲げる聖教会。その教えに従って、殺し続けた果てに得られる物など何もない。人にとっての幸福すらも、その先には存在しないのだ。

 マキシムは知っている。何故ならば彼は、聖教の始まりを知っている。彼の母である精霊王が最初に視た、その成り立ちが示している。東に植え付けられた闘争本能や西の呪詛と同じく、中央の聖教とは神が与えた呪いの一つ。魔王を生み出した邪神が、直接その手で作り上げた悪辣な仕組みの一つであるのだ。


「君が己の意志を曲げ、君の姉君と向き合った所で結果は変わらない。例え最も新しき神話に語られる英雄英傑であったとしても、出来ない事は確かにある。多少の救いは残るだろうがその程度。君が奪った数を想えば、遥かに遠く及ばないんだ」


 最新の神話とまで謳われた勇者とその仲間達。内が一人である聖女の協力を得れば、多少は救える者も増えるだろう。或いは聖教と言う悪辣な仕組みも、彼女が如何にか出来るやもしれない。

 だがしかし、その果てに作れる物など高が知れている。元より地盤となる聖教自体が泥沼なのだ。如何に彼女が優れた者でも、救える量には限りが出よう。その果てに積み上げた程度の物では、確実に桃源郷にも劣るであろう。


「十三使徒で居る限り、君は君が作り上げた犠牲の骸に報いる事が出来ない。果てに何もかも無価値に変えて、諸共滅びるだけの無様な末路に成り果てるのさ」


 どう足掻こうと、デュランは報いる事が出来ない。獣人桃源郷を滅ぼした時点で、掴み取れる全ての可能性よりも背負った荷の方が重くなる。

 なのに、止まれない。そうと分かっても、彼の心は軋みながらに叫んでいる。止まるな、止まるな、止まる事など許しはしないと。奪った事を、忘れるなと。


「……なら、俺はどうすれば良い」


 少女を抱き締めたまま、片膝をつく。手にした熱が大切だと思えれば思える程に、感じる痛みは強く激しくなっていく。

 だから、弱音が零れた。止まれないのに、進んだ先にも何もない。ならばどうすれば良いのかと、縋る様に問い掛ける。誰でも良いから、何でも良いから、何か答えが欲しかった。


「教えてくれ、マキシム! 俺はこの道を、裏切れない。なのに、この道を進んでも報いなんて何もない! なら一体、俺は何をすれば良いんだ!?」


 無価値だ。無意味だ。無駄である。積み上げた犠牲がそう成る事を許容なんて出来ないのに、そうなる他に未来がない。

 どうすれば良いのか、分からない。どうしたいのか、分からない。何が正しくて、何を選べば良くて、何を貫き通せば良いのか。


 慟哭にも等しいデュランの言葉に、マキシムは笑みを張り付ける。我が意を得たりと、これより先に語るのは彼の策謀。こうなれば都合が良いと言う未来を、翡翠の瞳は此処に語った。


「簡単な事だよ、デュラン。裏切ってしまえば良いんだ。聖教なんてさ」


「――っ!? 聖教を、裏切る!? けど、それは!!」


「敬虔に守っていても、何も無いんだ。その道を貫いても、果ては破滅だ。ならさっくりと切り替えるのが、賢い生き方だと思わないかい」


 果てに何もないのなら、もう裏切ってしまえ。それはとても分かりやすい解答で、だからこそ選べないと感じる選択肢。

 聖教徒として、積み上げて来たこれまでの全て。それを投げ捨てる行いだ。今抱える物を無価値にしたくないから進んで来たのに、それを捨てろと言う言葉であった。


「デュラン、お兄ちゃん」


「……アーニャ。けど、俺は、でも、だけど――」


 抱き締めた懐の少女が見上げている。泣かないでと、重く想い過ぎないでと、伝えようとする少女の瞳。それさえも、今のデュランには正しく伝わる事がない。

 アーニャの縋る様な視線はまるで、期待している様に思えたのだ。聖教を裏切って、自分を選んでくれるのだと。その可能性を期待している様に、デュランには思えてしまった。


 けれど、その感情がないと言えば嘘になろう。アーニャもきっと、心の何処かで期待している。死者よりも、自分を選んで欲しいのだと。

 救われたかった人達を殺した。そんな自分は、救われてはならないのだと思う。アーニャが救われれば、デュランも救われてしまう。だから許されないのだと、理由はそれだけではない。


「聖教を裏切れば、切り捨てるのは過去の罪だけじゃ済まない」


「そうだね。君が抱える自己満足の罪業だけでは済まないだろう。君はこれまで結んだ絆の多くを、その手で切り捨てる事になる」


 二十三年と言う生涯を、デュランは中央で過ごした。内の殆どを、聖教の中で生きて来たのだ。嫌な事は多く在ったが、何もかもが否定されるべき事ではなかった。

 マキシムやブリジットと言う友人との出会い。カルヴィンやオードリーと言う好敵手と築いた信頼。オスカーやチェイスに恩義があれば、サラやリースの様に守るべき人達も其処には居た。


「リース」


「知っているよ。誓ったんだろう? この北に居る間は、確かに守ると――――いや、残念だね。君が裏切れば、彼女は敵と成る。その誓いは守れない」


「サラ」


「分かっているよ。約束してたんだろう? 出立までに時間がないから、戻って来たらちゃんと時間を取ってあげると――――ああ、困った。君が裏切れば、嘘を吐いた事になる。あの幼い少女は君を恨み憎み、永劫許す事がないだろう」


「カルヴィン」


「察していたとも。友達だと、確かに信頼していただろう? 好みはまるで違うのに、不思議と意見が一致する。好敵手の友人なのだと――――けど、もう無理なんだ。君が裏切れば、彼は必ず敵と成る。これから産まれる子ども達が、当たり前に愛される社会の為に。あの男は如何なる手段で以ってしてでも、君を殺さんと獅子の牙を剥くだろう」


 リースと言う少女を、守るべきだと思った。ごく平凡で何処にでも居そうな彼女は、こんなどうしようもない場所に相応しくはない。――だが裏切る事を選んだのなら、彼女も殺すべき対象だ。

 サラと言う少女とは約束をしていた。会議の後に話をしようと、その約束は後に流れた。北方遠征が決まったから、それが落ち着いた後でと。――だが裏切る事を選んだのなら、彼女も殺すべき対象だ。

 カルヴィンと言う男は、審問官に成る前からの付き合いだ。訓練校時代からの好敵手で、悪友とでもいうべき関係。共に居るのが気安いと、感じる友であったのだ。――だが裏切る事を選んだのなら、彼も殺すべき対象だ。


「選ぶのは君だ、デュラン=デスサイズ。君だけが、この今に選択肢を持っている」


 選択肢は、デュランの手元に。望む望まないとに関わらず、彼は事態の中心に居る。彼の選択如何によって、聖教と桃源郷の未来は大きく変わるであろう。


「気付いているかな? 君の聖典はあらゆる奇跡を無力化する物。今この場所で開いてみせれば、それだけで桃源郷の未来は鎖される。罪人の法則は一息で、この夢の全てを消し去れるんだ」


 何故ならば、第十三聖典は桃源郷すら消せてしまう。夢見る人々を強引に、夢から覚ます事が出来るのだ。例え精霊王や魔王であっても、無力なる罪人の法則には逆らえない。


「優しい世界を奪われた北の住人達は、厳しい現実の中で狩り尽くされる。聖教はそれだけの戦力をこの地に集中させていて、例え悪竜王や精霊王でも民の全ては守れない。虐殺劇の幕開けだ!」


 結果がどうなるか、想像するに容易いだろう。牙を失い生きる力も衰えた怠惰な者らが、殺意を研ぎ澄ませている死兵揃いの只中に放り出されるのだ。

 虐殺が起こる。間違いなく一方的な形で、次から次へと命が潰える。悪なる竜や精霊王でも手が回らない程、あっという間に全てが殺され尽くすであろう。デュランはその惨劇を、今直ぐ一言呟くだけで起こせるのだ。


「気付いているかな? 君の聖典はあらゆる奇跡を無力化する物。君だけが全ての十三使徒の天敵足り得る。裏切りの刃は誰でも殺せる。君が裏切れば、十三使徒は壊滅を避けられない」


 十三使徒は強力だ。誰もが一芸限りであるが、英雄を超える何かを隠し持っている。マキシムが知る限りにおいても、悪なる竜の裏を掻ける者らが二・三は存在している。

 だがそんな者らも、デュランの聖典には抗えない。誰も彼もを強制的に対等の条件へと落し込める第十三聖典は、聖典授受者にとっての天敵だ。だからこそ、彼は身内殺しの位置に居るのだ。


「悪竜王に精霊王に、そして君だ。相手にした方が可哀想に思える戦力差。聖教は敗れ滅ぼされるか、或いは僅かな敗残兵が逃げ延びるか。どちらにせよ、北の安寧は約束されたも同然。聖教に残る者らでは、この盤面は覆らない」


 そんな男が裏切れば、結果は想像するに容易いのだ。其処に悪なる竜である響希や、北の英雄であるイリーナも含めれば、敗北など先ず起こり得ない。余程の例外が起こらぬ限りは、結果は決まったも同然だろう。

 だからこそ、デュランの選択は重要なのだ。彼がどちらを選ぶかで、どちらが残るか決まるだろう。彼が選ばず切り捨てた者は、此処で命を落とすのだ。そんな現実を、マキシム・エレーニンは突き付ける。目を逸らす事を許さなかった。


「何処にも行けない迷子のデュラン。何も決められない小さなデュラン。中途半端で戸惑い続ける、可愛い可愛い君の為。僕が君に、選択肢を提示しよう。目を背ける事が出来ない形で、確かに君に示してあげよう」


 マキシムは右手の指を二本立て、指折りながらに語り上げる。選択肢は二つ。選べる道は二つであった。


「一つ、このまま聖教に居続ける道。それを選べば、君の繋いだ絆は残る。君は十三使徒の仲間達と肩を並べて、神の敵を討ち続けるんだ。そうとも、神敵である悪竜王や精霊王。そして、僕やアーニャちゃんと言った、生きていてはいけない亜人と言う者達をね」


 聖教徒で在り続ければ、彼は殺す事に成るだろう。マキシムやアーニャと言った、絆を結んだ人達を。そしてその果てに、何も掴めず破滅する。未来に報いなど、何一つとして在りはしない。


「一つ、此処で聖教を裏切り桃源郷に与する道。それを選べば、君は繋いだ絆を失う。信じた仲間達をその手で討ち取り、奪い続けて来た怨嗟の声に責められ続ける選択だ。けれど辛く困難な旅路を進むだけの、価値は確かに在るだろう。だって此処は、それ程に美しいのだから」


 此処で聖教を裏切り桃源郷を選べば、彼は殺す事に成るだろう。リースやサラやカルヴィンと言った、絆を結んだ人達を。背負った罪業は、デュランを責め立て続けるだろう。どうして今更、道を変えたと。どうしてもっと早く、選んでくれなかったのかと。


「よく考えて選びたまえ。ちゃんと比較して、選ぶんだ。錆び付いた天秤は、一つあれば十分だからね」


「選ぶ? 聖教か、桃源郷か? ……いいや、誰を守るか、か?」


 今まで通りに歩き続けて、果てに何も掴めない道か。今までの全てを裏切って、ほんの僅かな救いを羨み遠くから眺めるだけの道か。

 相容れない大切な人達の内、誰を切り捨て、誰を守り通すのか。青褪めた表情のまま、先に続く道を確かめる。そんな青年の呟きに、翡翠の瞳は思わず吹き出していた。


「く、くくく、くははっ! 君は可愛いなぁ、本当に可愛いなぁ、デュラン」


「な、何が、おかしいの!?」


 可笑しい。可笑しい。可笑し過ぎて堪らないのだと、腹を抱えて嗤うマキシム。茫然とするデュランの代わりに、怒りの叫んだのは抱き締められたアーニャである。

 何がおかしいと言うのか。マキシムの言葉を整理して、復唱しただけではないのか。憮然とするアーニャの言葉に、マキシムは嗤って答えを返す。それは紛れもない事実であった。


「嗚呼、おかしいさ。余り僕を嗤わせるなよ。なぁ、デュラン。自覚してるんだろう。分かっているんだろう。――――君では結局、誰も守れない!!」


「――っっっ!!」


「だって君は、殺すしか能がない処刑人だ。今までだって、誰かを殺し続けた罪人だ。それが今更守るだとか、口にするなよ! 嗤いが止まらないだろう!!」


 息が詰まった。思考が真っ白になった。その言葉には、納得するしか出来なかった。デュランは結局、誰も守れない。

 守ると決めたアーニャの時は、村の壊滅に間に合わなかった。心を守ると誓ったリースに対して、傷付く姿に一体何が出来たと言うのか。


 何も出来ない。何かが出来たと胸を張れていたのなら、もっと昔に救われている。自信を以って、姉と再会出来ていた。

 そうではなかった。それだけが事実だ。合わせる顔がないのだと、暗に彼は語っているのだ。認めていた。己に誰も守れやしないと。


「上手く伝わらなかったようだから、ちゃんと分かりやすく言い換えよう。君が選ぶべきなのは、誰を殺すかと言う事だよ」


 だから、マキシムはもっと分かりやすい様に言葉を紡ぐ。口にしたのは、オブラートを剥ぎ取った単なる事実だ。


「聖教徒である事を続けて、僕やママやアーニャちゃんの首を刎ねるのか?」


 抱き締めた少女と、語り合う友。聖教徒で在り続ければ、デュランは彼らを殺すだろう。それしか出来ないのだ。彼は処刑人でしかない。


「桃源郷に味方して、リースやカルヴィンやサラや――君の姉君の首を刎ねるのか?」


 守ると誓った女と、競い合った友人と、己を好いてくれる少女。桃源郷に与すれば、デュランは彼らを殺すだろう。それしか出来ないのだ。彼は処刑人でしかない。


「聖教徒である事を選ぶなら、もう二度と迷うな。其処に意味はない。迷う資格すら、お前には残らないのだと自覚しろ」


 未来に至る結果を知った今、それでも聖教徒である事を選ぶのならばデュランの存在は無価値である。中身のない空洞に、悩み迷う事など余分だ。

 奪われる立場の者として、今此処に断言しよう。そんな事すら許さない。全てを無価値に堕とすと分かって奪うなら、奪う者も全てを捨てるのが筋と言う物だろう。


 故に唯の機械と成り果てて、敵対する全てを殺し尽くすだけの者と成れば良い。空っぽな処刑人として、無価値に生きて無意味に死ぬのだ。


「桃源郷に味方するなら、殺した者らに詫び続けろ。死ぬまで詫びて、死んだ後でも詫び続けて、未来永劫に渡って安息などはないと知れ」


 過去の犠牲を理解して尚、それでも桃源郷に与する事を選ぶのならばデュランの存在を死者は決して許さぬだろう。未来永劫、彼を責め立てる幻聴が止む事はない。

 もっと早くに、どうして選択しなかった。もっと早くに、どうして道を変えてくれなかった。恨む声に、デュランは何も返せない。その命が終わる日まで、彼は謝罪と贖罪だけを続ける者と成るだろう。


「さぁ、デュラン=デスサイズ。選択の時だ」


 選択肢は二つ。どちらにしても、救いなどは何も無い。だがこの選択肢しか残っていないのは、デュランの為した行為の結果だ。誰かを恨む事すらも、彼には許されていない。

 マキシムは憐れんでいる。母の救いを受け入れていれば良かっただろうにと、友の姿に嘆いても居る。だが同時に、感じる愉悦は隠し切れない。彼は心からの笑顔を浮かべて、デュランに問いを投げ掛けた。


「君は一体、誰をその手に掛けるんだい?」


「俺、は――――」


 大切な者は何か。奪うべきなのは何か。処刑の刃は、何を斬り捨てるべきなのか。

 デュランは迷いの中に居る。今も選び取れずに居る。伸ばされた友の手も、抱き締めた優しい熱も、答えを導き出しはしなかった。






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