その10
◇
暖かな日差しの中、桃の花が風に舞う。柔らかで清浄な風が内包するのは、活きた緑が放つ命の香りだ。
何処までも続くと思われる程に、立ち並んだ桃の樹木が作るアーチの下。気付けば其処に、一人の女が佇んで居る。
薄い緑の髪を伸ばした、翡翠の瞳を持つ妙齢の女性。特徴的な耳の長さは、彼女が風守人である事実を示している。
「お帰りなさいませ。マキシム様」
「ああ、ただいま。イリーナ。予定通り、御客人を連れて来たから、案内を頼むよ」
「はい。仰せの通りに」
女の名を、デュランは知っていた。過去に遭遇した際には彼女が顔を隠していたから一見だけでは気付けなかったが、女の名前を聞いて確信する。以前切り結んだ女と、背格好も一致していた。
風森人の英雄と呼ばれ、巧みな技術で幾度も聖教の襲撃を凌いできた女。一般の僧兵では相手に成らず、十三使徒でも一対一では逃してしまう。そんな難敵がマキシムに礼を尽くす姿を見て、デュランは僅か胸の靄を自覚していた。
(風守人の英雄、イリーナか。……本当に、マキシムは桃源郷の側なんだな)
それはきっと、彼が桃源郷に属する者だと言う確信に繋がってしまったからだろう。思いたくなんてなかったのだ、友人が敵になるなどと。
十三使徒に与えられた命令は、獣人桃源郷の壊滅と其処に生きる者らを皆殺しにする事。聖教徒で在ろうとするなら、デュランはマキシムを手に掛けねばならない。そんな立場に、彼らは居る。
揺れる心を隠しながら、無駄に流れる思考を止める。考えたくない事を考えない為に、目を逸らして耳を塞ぐ。必要になれば、身体が勝手に動くから。今は何も考えたくはなかったのだ。
「あ、あの……」
「……アーニャ」
佇むデュランに、おずおずと話掛けて来るのはハーフエルフの少女。考える事を止めていたからだろうか。彼女の顔を見た瞬間、デュランは思わず本音を口に出していた。
「無事で良かった」
「――っ」
無事を喜ぶ言葉に、他意はない。咄嗟の発言だったが為に、何処までも本気であったその想い。
伝わる心に、アーニャはその目を小さく濡らす。今にも泣き出しそうな少女の姿に、デュランは己の失態に気付いて頭を抱えた。
(無事で良かった、か。……はっ、どの口が言う)
嗚呼、本当に碌でもない。無事を喜ぶ資格など、デュランは既に持っていない。何故ならば、デュランは聖教徒であるからだ。
アーニャと言う少女は、桃源郷を求めた亜人。彼女が縋る、最後の縁が獣人桃源郷。それを、デュランは壊しに来たのだ。彼女を殺しに来たのである。
(十三使徒の任は、桃源郷の壊滅。誰一人として例外なく、北の亜人を滅ぼし尽くす事。……当然、その中には、この子も含まれている)
例外はない。例外は認められない。デュランの立場ではどう足掻こうと、北の亜人を助けるなんて出来やしない。
捕虜として捕えても、仲間に使い潰される。戦利品としての獲得など、此度の遠征では許されない。助命を縋った所で、殺せと言われるだけだろう。
見逃しても、結果は変わらない。最後に縋った桃源郷を滅ぼされ、行き場を失くした少女の果てなど分かり切った物であろう。彷徨う果てに、無残な餓死だ。
(本当に、どの口が言うんだろうな。恥知らずにも程があるだろうに、デュラン=デスサイズ)
それを為すのが、デュランなのだ。彼が少女の未来を壊すのだ。そんな立場に居る男が無事で良かったと、口にして良い筈がないのである。
だと言うのに、心の底から想ってしまった。逢えて良かった。無事で良かった。それで手心を加えると言う訳ではないのだから、何て恥知らずな言葉であろうか。
涙目で見上げるアーニャに思う。感極まって、言葉を発せぬ彼女に想う。どうしたら良いのか、結局デュランには分からなかった。
デスサイズではない彼は、本当に中途半端な男であるのだ。何かを欲して見上げる小さな子どもを、抱き締める事すら出来ない。碌でもない男であった。
「うぉ、何だこりゃ!?」
男と少女が互いに異なる心境で、硬直し合う場に現れたのは鎧姿の少女。同じく全身鎧を纏った女を背負って、エレノアはゆっくりと近付いて来る。
そうして、目を丸くする。森の只中に開いた空間の裂け目と、その向こう側に広がる桃園の姿に驚愕している。一体何があったのか、彼女には全く分からなかった。
「……エレン。無事だったんだ」
「あ、ああ。そっちは……無事とは、言えないみたいだな」
それでも、分かる事もある。ヒビキの姿に少し笑って、近付いたエレノアは彼が抱き抱える猫人の姿に眉を落とす。
一目見て、気付く程に血の痕が。表面上の傷は塞がれているが、失血から来る顔色の悪さは隠せていない。そんな悪友の姿に、エレノアは響希に問い掛けた。
「なぁ、ヒビキ。駄猫は大丈夫なのか?」
「一先ずは傷は塞いだから、命には別条がないよ。エレンこそ、その傷平気?」
「……正直、心威解いたら直ぐに倒れそう。治療して貰っても」
「うん。勿論」
ミュシャの身を案じるエレノアに、彼女自身の傷を見抜いた響希は治療の魔法を行使する。
女を背負ったまま座り込んだ少女は、塞がる傷口に安堵の息を漏らす。これで心威を解除しても、意識を失う事はなさそうだと。
「……それで、エレン。この人は、誰?」
「あー、ブリジットってたか? 敵なんだけどさ。……意識のない女を、森に放置ってのは流石にな」
纏っていた力を解除して、反動にくらりと揺れる。慌ててエレノアを支えた響希は、彼女が背負った女に付いて問い掛けた。
返って来たのは、敵対者であると言う事実。深くは知らない相手を、それも己を襲って来た相手を、自身も限界に近いのに背負って此処まで運んで来た。それは紛れもなく、エレノアと言う少女の優しさだろう。
素直になれない程に不器用で、けれどちゃんと優しい友達。その姿を見ていると、悪辣な敵に嵌められて苛立っていた意識も少しは和らぐ。ほにゃりと笑った響希は、感謝の意も込めて少女の事を褒めるのだった。
「エレンらしいね。何だかんだで、お人好し。僕は好きだな、そういう所」
「う、え、お、おう」
真っ直ぐな想いに、顔を真っ赤に染めるエレノア。嬉しいけれど気恥ずかしくて、何と答えれば良いのか分からず戸惑う。
何故そうなるのかと首を傾げる響希に向かって、何かを返そうと口を開いて――だらりと垂れてきた涎混じりの発言に、エレノアはぎょっと反応するのであった。
「うへへー。あー、美少女同士のやり取りが尊いですわー。そのテレ顔だけで、御飯十杯はいけますのー」
「って、テメェ起きてたのかよ!? 起きてたなら、さっさと降りやがれっ!!」
「もう少し、もう少し、この髪から香る少女臭を堪能させて下さいまし! 出来れば鎧もキャストオフして、そのまな板な胸元も揉み解させて頂ければVery Good!!」
「誰の胸がまな板だコラァッ!? ってか、とっとと降りろや糞レズ女ァッ!!」
「ぎゃふん、ですの!?」
両手をわきわきさせて、鎧の隙間を狙うブリジット。如何にも変質者然とした姿に怒りを抱いたエレノアは、背負った彼女をそのまま地面に叩き付けた。
悲鳴を上げてのたうち回っているのに、何処か妙な余裕もありそうなブリジット。彼女の残念過ぎる発言に、響希は頬を引き攣らせ、デュランは頭を抱えて嘆息する。
「び、美少女同士。もしかして僕、また勘違いされてる?」
「……聖教の汚点が迷惑掛けたな。すまない。本当にすまない」
つい先程まで敵対していたとは思えない空気の中、戸惑う響希に謝罪する。謝罪せずにはいられない程、彼の友人はどうしようもない変態だった。
己に正直過ぎる彼女の生き様を見ていると、抱えた悩みすら小さい事に思えて来る。これを狙ってやっているなら、ブリジットは良い女と言えるのだろう。
最も実際には脊髄反射で行動しているだけな辺り、この女友達が良い女ではなく唯の変態である所以。
デュランは頭を抱えたまま、もう一つの手で地面に倒れた女の両足を掴み上げる。そしてそのまま、引き摺って連れて行く事にした。
「デュランッ! 引き摺らないで下さいまし! 貴方は美少女じゃないのだから、痛くされても全く嬉しくありませんわ!!」
「黙れ変態。もう喋るな変態。お前の言葉は聖教の恥だと自覚しろ」
「自覚してますわ! 唯、自重してないだけですの!!」
美女や美少女相手なら、これでもご褒美になると言うのか。計り知れない変態の底力に戦慄しながら、デュランは手心を挟まない。処刑人は、内心で動揺していても、冷徹な行動が出来るのだ。
引き摺りながら、彼は思う。同性愛が絡まなければ、自慢できる友人の一人ではある。変態性欲が絡まなければ、仲間想いの良い女でもある。
だが割と本気で首を刎ねておいた方が、世の女性の為ではないのだろうか。デュランはそんな風にも感じてしまうのだった。
「えーと。それで、これって一体どういう状況なんだ?」
「……正直僕も、色々あって理解が追い付いていないと言うか、全部分かってる訳じゃないから」
変態レズ女の濃さに飲まれて、唖然とするしか出来ない響希。先に進む聖教組を見送る彼へ、エレノアが問い掛ける。
結局どういう状況なのかと、問われて響希も意識を切り替えた。彼ら二人に対する敵意は薄らいでいても、もう一人への悪感情は何ら変わっていないのだ。
「取り敢えず、確かな事は二つだけ。この先に在るのが獣人桃源郷で――アイツが敵だって言う事だけだ」
「やれやれ、怖いねぇ。そんな情熱的な目で見られても、君は趣味じゃないんだけど」
怨敵を睨み付ける悪竜王の視線はそれだけでも、弱い人間ならば心臓の鼓動を止めていたであろう程の圧を持つ物。
エレノアですら息を呑む殺気を一身に受けて、嘯く男には欠片の動揺も見られない。平然と飄々と、嗤って先へと進むだけ。
響希の怒りに驚きながら、エレノアも理解を深める。マキシムと言う男が敵なのだと言う認識を、此処で彼女も共有した。
身勝手と自称する響希は、それでいて意外と人を嫌う姿を見せない。彼が怒りを見せる時には、何時だって何か理由がある時だ。
そんな響希がこんなにも、怒りと嫌悪を明確にしている。ミュシャの容体も考慮に入れれば、あの男が何を仕出かしたのかは明白だった。
「ご歓談中のところ申し訳ございませんが、体調の余りよろしくない方々も多く居られるご様子。先に桃源郷のご案内をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「あ、あぁ、悪ぃな」
無意識に剣を握り締めていたエレノアは、亀裂の向こう側に立っている女性の言葉に意識を改める。イリーナの視線を目で追えば、其処には何時しか難民達の姿があった。
十名弱の亜人達。疲れ果てた彼らにとっての、安息の地がこの先だと言うのなら先ずは進んでみるべきだろう。命賭けの旅路。その終着点である彼らの楽園は、この先にあるのだから。
そうとも、彼らは獣人桃源郷を目指していた。其処に辿り着けば救われるのだと、それだけを希望に歩き続けて来たのだ。到達点を前にして、今更行きませんなどとは口が裂けても言えぬであろう。
現実的な問題としても、彼ら難民達を響希らだけで如何にかするのは不可能だ。食料や物資の備蓄も限りはあり、もう残り少ないのだ。これ以上彼らを抱えて動くのは難しい。此処で桃源郷には何らかの支援をして貰わねば、最悪難民達が全滅する。
この男と敵対出来ない理由がまた一つ。人質は猫人だけではなかった。内心で歯噛みする響希に、マキシムは笑みを深める。
人の不幸に愉悦を見出すマキシムが統べる桃源郷を信用するのは難しい。けれど他に、頼れる場所が一つもない。何かを壊す力では、食うに困った人々を養うなんて出来ないのだから。
「それでは此処から先は私、イリーナ・マクシーモワがご案内させて頂きます。そちらにいらっしゃる亜人の方々も、どうぞこちらへ。桃源郷は、風の王は、全てを受け入れ愛します」
響希の内心を見通しているのかいないのか、エルフの英雄は一礼と共に宣言する。亜人の難民達を受け入れると言う、桃源郷の決定を。
イリーナの言葉は救いである。疲れ果てた難民達は、それでも漸く辿り着いた場所に安堵した。英雄から齎された言葉に、涙を流す程の歓喜を抱いた。
これからは理想の園で、生きていけるのだと。自分達の旅路は、決して無駄ではなかったのだと。
拳を握り締める事しか出来ない響希は思う。どうかせめて、彼らの行く末に幸あれと。その程度を願う事しか、今の彼には出来なかったのだ。
「これから、もう暫らく歩きます。景観を御観覧頂きながら、ゆるりとお進み下さい」
イリーナを先頭に、マキシム、デュラン、ブリジット、エレノア、響希、アーニャ、難民達と続いていく。
歩く彼らの視界に映る景色は、何処までも美麗で幻想的だ。舞い散る桃の花びらの中、何処までも続く木々のアーチを潜り抜ける。
足元に伸びるは花びらの絨毯。木々の向こうから聞こえるのは、清らかな水の潺と鳥の声。桃色の景色に遠く、映るは山の麓にある田園風景。
茅葺屋根の木造建築が建ち並ぶ場所が、目的地である人里だろうか。確かにイリーナが語る様に、十数分は歩くであろう距離があった。
もう少し近くに出る事は出来なかったのだろうか。これでは持たない者も居るかも知れない。そう思考する響希をまたも見通す様に、イリーナは一つの提案を口にした。
「疲労や空腹がお辛い様でしたら、桃源の仙桃はいかがでしょうか。果実がお嫌いでしたら仰せ付け頂ければ、凡その物ならご用意できます。此処は桃源郷。全てに満ちた場所故に」
足を止めて、手の平を翻す。まるで手品か何かの様に、直前まで何も握っていなかった掌中には桃の果実が現れている。
一体何処から取り出したのかと、全く見えはしなかった。影の倉庫は一般的だが、取り出す瞬間を全く認識させない技術は難度が高い。
流石は北の英雄かと、デュランやエレノア達はその動きに感心する。だが、それは的外れ。イリーナは今、桃の果実を取り出したのではない。その事実に気付いた響希は、細めた視線を彼女に向けた。
「……今、作ったの?」
「お気付きになられましたか。左様でございます。此処は夢と現実の狭間にある世界。桃源において、夢は現実となるのです」
たった今、この場で作ったのだ。掌を翻した時に、無から有を作り上げた。形無き夢を形ある現実へ、これは桃源郷の法則が一つ。
元から知っていた者らを除けば、気付けたのは響希だけ。単純な動体視力と知識量にて気付いた彼に対し、残る者らは疑問符を浮かべていた。
「どういう事だよ? 収納術とかじゃねぇのか?」
「ワタクシもさっぱりですわ。貴方は理解出来まして、デュラン?」
「……俺が知るか。そういうのは、最初に気付いた奴に聞け」
敵対する間柄でありながら険悪な空気にならないのは、彼らの気質かこの場の空気か。穏やかな風が吹く中で、三人が少年へと視線を向ける。
無言の内に問い掛けられた少年は、確実ではないと前置きしてから口にする。響希が感じ取っていたのは、イリーナが容易く為した事の異常さだった。
「あー、うん。これってさ、神威法の想行に近いんだ。想像にある物を、現実に貶める。イメージした物を、その場に作り出しているって奴……だと思う」
神威法と言われて、納得する声が一つと首を傾げたままな声が二つ。神に至る秘術は東の秘奥であって、誰もが知ってる訳ではない。
六武衆と相対して直接学び取った二人には分かる内容でも、聖教の者らに伝わる説明ではないのだ。その発言だけで理解を深める者など、聖教組では世界全土を常に監視しているマキシムだけだ。
「実際に、やってみた方が早いでしょう。お手を借りても?」
「え、あ、はい」
彼らの戸惑いに微笑んで、イリーナは歩を翻す。ゆっくりと歩いて進んだ彼女が、跪いたのは幼いハーフエルフの直ぐ目の前。
小さな手を優しく握り締める。瞳に籠った感情は、見知らぬ他人に向ける物とは思えぬ程。余りに過度な情愛に満ちていて、アーニャは戸惑いながら首肯した。
「名を、お伺いしてもよろしいですか?」
「私? え、っと、アーニャ、です」
「アーニャ。貴女はそういうのですね」
大切な宝物を見詰める様に、壊れそうな芸術品に触れる様に、優しく温かく見詰める瞳に唯々戸惑う。
一体何か理由があるのだろうかと、頭を捻っても心当たりなんて出て来ない。精々が、母の知り合いなのかなと言う程度。
幼い少女の姿に愛しい過去を重ねながら、名乗らないのはその資格がないと自覚しているから。
助けに行けなかったイリーナに、名乗る心算は欠片もない。けれど、だとしても、愛しいと言う想いは変わらないのだ。
だから彼女は、優しく手を取り言葉を紡ぐ。この手の内に戻った熱に目を細めて、今度こそ守りたいと思っている。
「ではアーニャ。イメージをしてみて下さい。今、欲しい物を。何かありますか?」
「え、えと、少し、喉が渇いた、かも」
「なら、一番好きな飲み物を。カップに入った状態で、頭の中に思い浮かべて」
優しい声に導かれて、アーニャは瞳を閉じる。そうして頭の中に、イメージするのは好きな物。
問われて浮かぶのは、一つだけ。少女に合わせる顔がないと恥じ入りながらも、その身を案じている不器用な青年が初めてくれた贈り物。
「目を閉じて、身体に感じる熱を掌に集めるのです。そして、望んだ物が其処に在ると思いなさい」
「望んだ物が、手の中にある。グラスに入った、バルザの実のジュース」
フレンの実が薔薇科の果実に近い物なら、バルザの実は柑橘類だ。中でもアーニャが好むのは、甘みが強く酸味が弱い物。
初めて食べたあの日から、好きになった甘味は優しい想い出だ。不器用で皮肉屋なお兄さんが、悩みに悩んだ後に選んだ誕生日プレゼントがそれである。
幼いとは言え、女の誕生日に贈る初めての物が食べ物で良いのかと。これはないと孤児院の皆に失望されていた青年が、くれた一抱えはある果実の山。アーニャはそれが、とても嬉しかったのを覚えている。
切り刻んでタルトにしたり、煮詰めた物をジャムに変えたり、磨り潰してジュースにしたり、皆で一緒にそのまま食べたり。あの日の味は、今でも記憶に残っているのだ。だからアーニャは、バルザの実が一番好きだ。
「目を空けて、手の中を見て」
「え? あ! 本当にある!? バルザのジュースだ!!」
目を開いて、手の中にあったグラスはバルザの実を磨り潰したジュース。口に含んだ優しい甘さは、あの日と寸分変わらぬ物。
嬉しそうにちびちびと口を付けるアーニャの姿から、目を逸らしたデュランは何を思うのか。確実な事は一つ。あの日の記憶は、彼の中にも残っていた。
「これが桃源郷。望んだ物が、何でも得られる。だから、此処では奪い合う意味なんて何もない」
「皆様も、欲しい物を思い浮かべて下さい。まだ里までの距離は長くありますから、無聊の慰めとしてよろしいかと存じます」
マキシムとイリーナが告げる。此処は桃源郷。全てが満ちている世界。望めば誰でも、何でも手に入れる事が出来る。
禁じられたのは争いだけ。だが禁じられていなくとも、争う者など先ず居ない。何故なら此処には全てがあるから、争う事に意味はない。
「…………はっ!? 望んだ物が全て得られるのならもしや! ワタクシが望めば、得られるのですか!? 美女の染み付きパ――」
「言わせねぇよっ!!」
此処では全てが手に入る。望んだ物を作り出せる。此処は夢と現実の狭間にある世界。都合の良い夢は、確かな現実と成ってくれる。
万能の力を早速悪用しようとしたブリジットに、エレノアが拳で突っ込みを入れる。美少女に殴られて悦に浸る変態女の歓声を背に、響希は一人疑念を抱えていた。
(望んだ物が、何でも得られる? そんな馬鹿な)
アーニャの動きに触発されて、思い思いに望んだ物を作り出している人々。その姿に、明確な消耗は見えない。
無から有を生み出すと言う技術は、響希であっても相応に消費する。だと言うのに疲れ果てていた難民達が、気軽に行使している。どう考えても、これは異常な事である。
(何かを得る為には、何かを支払う必要がある。相応の対価が必要なんだ。それは魔法も精霊術も変わらない)
等価交換。何かを為すには、何かを支払う必要がある。それは魔力であったり、それは精霊力や闘気であったり、或いは時間と言う物であったりと。
響希が同レベルの物質創造を行おうとすれば、多少の時間と魔力を要する。悪竜王にとっては微弱な、しかし一流程度の術師にとっては膨大な量の魔力が必要なのだ。
(なのに思い描いただけで、何も支払わずに何もかもを手に入れる? 明らかに釣り合いが取れてない。どう考えても破綻してる。これ、一体どういう原理で動いてるのさ?)
権能故に魔導の極みに位置する響希ですらそれなのに、どうして何の力も持たない難民達が容易く望んだ物を作れているのか。
彼らが対価を支払っている様には見えず、そもそも彼らには支払えるだけの力がない。明らかにおかしい。明確に破綻している。
だがしかし、確かな現実として此処に在る。だと言うのなら、一体如何なる理屈であるのか。
「これがママの愛だよ。悪竜王」
マキシムが答える。これは風の精霊王が愛なのだと。彼女は己を求める全ての者らを愛しているから、彼女は全てを与えるのだ。
「この世界は、ママの愛に満ちている。桃源郷に全てが在るのは、ママが全てを与えたからさ」
単純な話だ。物質の創造に必要な対価を、精霊王ヘレナが肩代わりしている。彼女が代わりに支払うから、誰もが満ちた世界に在れる。
それが獣人桃源郷の本質。逃げ出した臆病者達や、行き場のない敗北者達。諦めた人々が風の精霊王に抱き締められて、彼女を糧に生かされている揺り籠なのだ。
「人は争う生き物だ。己に不足が在れば、満たす為に外を求める。奪い合ってしまうんだよ。それが欠けると言う事だ。だからママは、全ての欠落を愛で満たす事にした」
嘗て、マキシムは問うた。其処までする必要があるのかと。対してヘレナは彼に語った。足りなければ、人は争う。愛しい子らの諍いを、見ていたくなどないのだと。
だからヘレナは身を削る。争う必要なんてない様に、己の中を愛で満たした。飢えてやせ細っていようと、母が乳飲み子に乳を与えようとするように。ヘレナは全てを抱き締めたのだ。
「人の欲は限りない。与え続けても満ちはしない。まるで底の開いた器の様に、もっともっとと求め続ける。だからママは与え続ける。惜しみない愛で、全てを抱き締め続けているんだ」
愛で満たされた世界で、全てを与えられた人々。其れでも彼らは求め続ける。人の欲望に際限などはなく、ならば偉大なる母は削られ続ける。
風の精霊王が消え去れば、この世界も閉じるだろう。夢と現実の狭間にある幻想は、中にある者らと共に夢へと溶ける。何時か訪れる終わりの日まで、満たされ続けた世界が此処だ。
「桃源郷は、ママの夢だ。ママは今も、夢を見続けている。この世界を愛で満たす為、眠り続けて目覚めない。ママが眠り続ける限り、桃源郷は満たされ続けたままで居られる」
人を見続けたマキシムは思う。偉大な母の愛に抱かれて、怠惰に浸る人々を観察し続けていた彼は思う。世界の全てを、彼は五百年間ずっとその目で見ていた。
その結論は、既に出ている。冷たい瞳は、最早何の感慨さえも抱いていない。今も悪竜王と相対しながら、脳の片隅で観測し続けている人の営み。それは余りにも――見苦しくて悍ましい。
「嗚呼、何て美しくも悍ましい。ママの愛に満ちた桃源郷は綺麗でも、ママに縋り夢を貪る怠惰な獣は実に愚かで醜悪だよね」
「……それがお前の本音か、マキシム・エレーニン」
「さて、ね。だとしても、僕はママが望む通りに生きる心算だよ。ママに望まれ、ママの為に動く。其れだけが、この僕の存在理由なんだから」
何となく、響希はこの男を理解した。マキシムと言う男の本質に、僅か触れた気がした。
今も許せない事は変わらない。この男が敵だと言う認識だって変わっていない。向ける怒りや敵意は揺るがず、しかし確かな理解が其処には在った。
五百年、愛しい母が苦しみ続ける光景を目にして歪んでしまったのか。はたまた生まれた時からそうだったのか。どちらにせよ、彼の悪意の根源は此処に在る。
マキシムと言う男は、心の底から精霊王を愛している。彼女を尊いと思うから、それに縋り寄生し貪り喰らう命を嫌っている。悍ましいと、其れこそ彼の本音だろう。
彼が愛するのは二つ。愛しい母と、綺麗な友人。愛しているのは二つだが、幸福になって欲しいのは一つだけ。
友人の破滅を望むのは、趣味の一環でしかないからだ。個人の好悪に過ぎぬ情で、存在理由とは違う。幸福になってと願うのは、そう望まれて生まれて来たから。
最初で最後の翠の貴種。優しい母に望まれて、愛しい母の為に動く。桃源郷を誰よりも憎み嫌っているのに、与えられた役割は桃源郷を守り導く支配者の席。そんな歪んだ男こそが、マキシム・エレーニンであった。