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Dragon Travel Story  作者: SIOYAKI
第三部第一幕 竜と処刑人のお話
186/257

その8

 ほんの一瞬にも過ぎない邂逅だったが、アーニャは確かに気付いていた。其処に居たのが、一体誰かと言う事に。


 だから、今も駆けている。前へ、前へ、前へ行かんと。彼の下へと向かおうと、そうする理屈に打算はない――とまで語れば虚言となろう。

 自分が言葉を投げ掛ければ、きっと止まってくれる筈。そう考えていたのは事実であって、けれどそれだけが全てと言う訳じゃない。何より強くあったのは、逢いたいと言う衝動だ。


 だから、今も駆けている。前へ、前へ、前へ行かんと。彼の下へと辿り着けたら、一体何を言えば良いのか。答えは今も出せていない。

 頼る事を拒んだのは、己の意志でだ。今更だ。どうして逢いに来なかったと言われてしまえば、否定の言葉は口に出来ない。どうして頼らなかったのかと、己の知る彼なら言ってくれると思うから。


 だから、今も駆けている。前へ、前へ、前へ行かんと。口にしたいのは、謝罪か否定か感謝か罵倒か、ありきたりな言葉であろうか。

 答えなんて、一人じゃきっと出ない物。確かに分かる事実は一つ。少女が前に出たのなら、彼は止まってくれるであろう。彼に止まって欲しいのだと、この今に思っているのは真実だった。


 だから、だから、だから、だから――今も駆け続けていると言うのに、アーニャは何処にも進めていない。唯の一歩も、進めてなんて居なかった。


「どう、して……」


 風が邪魔をする。吹き付ける豪風が、アーニャの歩みを翻弄する。一歩進めば二歩は後ろへ飛ばされて、転がりながらに地を舐める。

 前へ行けない。先へ進めない。何処まで行こうと最初の場所に、瞬き一つで戻される。其処から一歩も進めていなくて、けれど風が為すのはそれだけだった。


「どう、して……」


 進む歩みの邪魔をするのに、彼女の命を奪おうと言う意志はない。その衝撃に殺意はない。

 だが悪意がないかと問い掛けたなら、幼いアーニャでさえも首を傾げる。そう感じる程に濃厚な、汚泥が其処にはあったのだ。


「どうして、邪魔をするの?」


 涙混じりに問い掛ける。どうしてと、風に吹かれて消え去る呟き。蚊の鳴く様な小さな音に、彼は唇を小さく歪める。

 翡翠の瞳が輝いている。この風は、彼が支配する物。いいや、この風だけではない。ありとあらゆる星の息吹は、既に男の支配下だ。


 故に当然、男は少女の呟きすらも拾っている。空気が存在する場所で、起きたあらゆる事象を知っている。そんな男は、悪意を込めて嗤うのだ。


「決まっているだろう。その方が、僕に都合が良いからだ」


 黒き司教服に司教帽。徳の高い者こそ纏えるのだと語られる装束を、彼が好んで着込むのは一体どんな皮肉の心算か。

 尖った岩の上に胡坐を掻いて、膝に乗せた片腕で頬杖を付いている男の名はマキシム。優しげな微笑の下に、膨大な程の悪性を隠していた人物だ。


 空いた左手で司教杖を遊ばせながら、マキシムは小さな少女に言葉を掛ける。微笑む彼の瞳は冷たい。必死に進もうとしている少女を、彼はまるで塵か何かの様に見ていた。


「何事にも、程良い機会と言う物がある。君が逢いに行くのは君の勝手だけど、今よりもう少し遅らせた方が僕にとって都合が良い。だから、もう少し其処で遊んでいなよ」


 事実、マキシムは彼女に価値を見出していない。いいや、彼女だけではない。この世の多くに、其処に在る意味はないと確信している。

 彼が価値を感じる者は、この世にたった二つだけ。愛しく素晴らしい母親と、可愛らしいと思える親友だけだ。彼ら以外は全て無価値で、あらゆる要素は彼ら二人を輝かせる為の舞台装置。


 その点において、涙目になりながらも抗い続ける少女は優秀な駒である。使い時さえ間違えなければ、大好きな親友の格別な表情が見られる事だろう。

 苦悶か、悔恨か、絶望か。どれが一番素敵だろうか。嘆きの涙に耐える青年を、慰め抱き締め嗤いたいのだ。……だからこそ、マキシムは最初から“この状況を仕組んでいた”。






「……お前、何、にゃ?」


 抗う小さな少女の姿を、蔑み馬鹿にしながら見下している翡翠の男。マキシムを見上げて、ミュシャは小さく声を漏らす。


 健康的に見えるスタイルの猫人は、今では全身青痣塗れ。開いた口から歯は欠けて、鼻から流れる血は何処か間抜けさを感じさせるもの。

 既に彼女は満身創痍。無数の手傷を刻まれて、地に伏せ言葉を紡ぐ事しか出来ていない。そしてそれを為した下手人は、嗤ってこう騙るのだ。


「うん? 質問の意図が見えないね。疑問は明確に。これって、コミュニケーションの基本だろう」


 蔑む様に、馬鹿にする様に、米神を軽く叩いて言葉を紡ぐ。常識を語る様な口ぶりで、彼は悪意の汚泥を零す。

 そんな侮辱に、反応を返す余裕はない。分断されてから暫く、嬲られ続けた猫人に余裕なんてある筈がない。刻まれた傷や痛みは、安くも軽くもない物だ。


 だがそれ以上に、信じ難いと感じている。それは単純な実力の差に対しての物などではなく、己の信じる心威がまるで効果を発揮しない現状に対する驚愕だった。


「優男の仮面、下から滲み出てる、ドロドロとした汚物。それは分かる。其処までは、分かるにゃ。ミュシャの眼は、魔王の嘘でも、確かに見抜く。にゃのに、どうして――其処から先が、視えないにゃ!?」


 蒼い瞳は既に開かれている。ホルスの瞳はその力を示している。だと言うのに、嘲笑する優男の底が欠片すらも視えて来ない。魔王の嘘すら、暴いた力だと言うのにだ。

 風の精霊王の結界を見抜けないのとは話が別だ。直接見ているのに、視抜けないなどこれが初めて。ならばこの男は、魔王よりも強いのか。いいや、そんな筈はない。ならば、何か裏がある筈なのだ。


「不思議だねぇ。何でだろうねぇ。もしかしたら、裏なんてないのかもしれないよ? 君の眼は、全てを見抜くんだろう? 嘘吐き魔女の嘘ですら。……なら、僕程度の底を暴けない訳もない。逆説的に、僕は何も欺いてないし隠していない。そんな風にも、言えるんじゃないかな?」


「抜かせ、にゃ。ミュシャ達の事情を、知り尽くしてる様に騙って」


「……知り尽くしている様に、ではないよ。正しく、知り尽くしているんだ。言葉はちゃんと、使わないといけないなぁ」


 笑いながら韜晦して、口に出した前言を数秒後には撤回する。真面に取り合う心算などないのだと、感じながらも睨み付ける。

 言葉を紡ぐ度に、欠けた歯や全身の傷が酷く痛む。泣きたくなる様な状況で、けれど小さな子どもが今も抗っている。ならばどうして、視えないからとひれ伏したままでいられるものか。


 最早意地だけで、敵意の籠った言葉を口にしている猫人。そんなミュシャを見下しながら、マキシムは隠すことなくそれを明かした。


「風は全てを知っている。僕は全てを知っている。この眼は、大気が満ちる場の全て、遍く人の営みを網羅し知り尽くしている。唯、それだけの話さ」


 何故と、どうしてと、問いに対する答えとはまるで違う物。嘲弄する司教服の男の底は、この今も決して暴けない。

 蒼き瞳の輝きは、確かに力を発している。けれどその都度何かに弾かれた様に、視界が何も映さなくなってしまうのだ。


 だから、ミュシャは目を閉じた。通らぬならば、心威の行使は全く無駄だ。体力の浪費にしかならない以上、今はもう必要ない。

 息吸う度に痛む身体で呼吸を整え、心威に回していた力を強化に回す。痛む四肢に力を入れて、立ち上がる。そうしてミュシャは、己の影にその両腕を突き入れた。


「存外、僕らは似た者同士だ」


「……吐き気がするにゃ。お前みたいにゃのと、一緒にされるにゃんて!!」


「酷い事を言うね。だけど、否定は出来ないと思うんだよね。共通点は、少なからずある訳だしさ」


 影から取り出したのは、南方で手に入れた両手弓。矢を弦に掛けて大きく引き、敵に向かって撃ち出した。

 次から次へと放たれる弓の矢は、雨と言うには疎らである。瞬く間に撃ち続ける事が出来る程、ミュシャの技量は秀でていない。


 英雄所か、一流域にも達していない武芸の産物。そんな物では当然、この男には届かない。彼は十三使徒が一人。中央が誇る、最強の一角なのだから。


「共に、全てを知れる眼を持っている。共に、純粋で綺麗な輝きを持つ男の子に魅せらせた。そして共に――――良いや、これは君が気付くまで待とうかな」


「――っ!! 余裕綽々と嘯くようにっ!!」


「事実、余裕だからね。君では、僕には届かない。例え、永劫の時間を掛けようとも」


 杖を一振り、それだけで矢玉の全てを撃ち落とされる。腕を一振り、伴う颶風がミュシャの身体を吹き飛ばす。

 地面に叩き付けられ転がりながら、痛みに耐えて起き上がる。そんな猫人の視界は既に、迫る杖の石突が。咄嗟に弓を盾とするも、打たれた弓柄は枯れ木の様に圧し折れた。


「それ、高かったにゃよっっ!!」


 あっさりと砕かれて怒りを抱いたのは、物の値段だけが理由じゃない。南の露店で値切りに値切って、手に入れる前には彼も居たのだ。

 一緒に戦う上で、何が一番必要か。沢山沢山考えて、選んだ物だからこそ愛着や思い入れがある。そんな物を圧し折られて、嘲笑を向けられているのだから、我慢が出来る筈もない。


 二つに折れた弓を怒りと共に投げ付けて、ミュシャは再び己の影に手を入れる。他の武装を。戦う武器を。この男にも届く何かを、其処に見付け出そうとして――


「ぎにゃっ!?」


 気付けば、その身体を打たれていた。感じる痛みはほぼ同時に二ヶ所。だが僅かにタイミングがずれている。それはコンマ以下にも満たぬ程、須臾にて消えた微妙な差。

 後頭部に熱を感じた直後、それを認識するより前に腹部へ蹴撃を受けている。武器を取り出す直前に屈めた頭に杖を叩き付けられて、更に腹を蹴り飛ばされたのだ。


 苦痛の呻きと共に転がって、倒れた頭を踏み付けられる。見下ろす冷たい瞳を前に、ミュシャが感じたのは確かな違和感。


 明らかにおかしい。この男は今、ありえない動きをした。杖を振り下ろした状態から、一秒とせずに蹴り飛ばされた。その直後に、頭を踏み付けられたのだ。

 瞬きの間にそれだけの動作を行えたのは、マキシムと言う男が武の達人だからか。確かにそれもあるだろう。だがしかし、全身を使って武器を振り下ろした直後に片足で蹴り付けた上で相手を踏み付けるなど、物理的に出来ることなのか?


 流れる様な動作ではなく、殆ど同時に行われた。一連の攻撃はまるで切り貼りされて途中が抜けた映画の様で、だからこその違和感を強く感じる。

 そしておかしいと感じたのは、実はこれが初めての事ではない。彼に遭遇してからずっと、ミュシャは同じ違和感を感じ続けていたのである。


(また、これにゃ。過程があった筈なのに、その過程を認識出来ない。気付けば、全部終わってる。気付けば、ミュシャは何も出来ていにゃい)


 歯を噛み締めて、精霊術を行使する。自分の頭を踏んでいるなら、きっと届く筈だろうと。迫る土で出来た小さな槍を、マキシムは余裕を崩さす当たり前の様に躱していく。

 移動したのだ。後退した。ならばこの隙に、距離を取ろう。そう思考したミュシャが立ち上がったその瞬間、彼女が感じたのは強烈な痛み。表情を崩す猫人の晒された腹部に、めり込んでいたのはマキシムの膝蹴り。


「が――っ!?」


 血反吐を吐いて、大地に倒れる。その途中で、頭部に感じるのも痛み。まるでボールを蹴る様に、ミュシャの頭が蹴り飛ばされた。

 それすらも、一瞬の出来事。全てが瞬く間に終わる、余りにも早過ぎる疾風怒濤。だがしかし、その本質は速度であるのか。其処にミュシャは、違和を感じずにはいられないのだ。


(超スピード!? 瞬間移動!? 幻術か幻惑か何か!? いいや、どれも違うにゃ! ミュシャの眼でも見えにゃいけど、これはきっと、もっと悪辣でエゲツナイ物っ!!)


 傍目に見れば、その異常は明らかだったであろう。マキシムと言う男は、現れたり消えたりを繰り返している。何時の間にか、其処に居る。

 そしてそれだけではなく、時には同時に存在している。全く違う場所に、複数人のマキシムが居るのだ。そんな異常。目に見えない程の速度。空間転移で説明できるのかと言えば否。とは言え幻術や幻惑である筈などもない。ミュシャが感じる痛みは酷くリアルだ。これが嘘偽りの結果などと言われても、彼女自身が信用出来ない。


 ならば一体、これは如何なる理屈であるのか。苦痛の中で思考を進めるミュシャの疑問に、彼はあっさりと答えを語った。


「これは第七聖典。聖教における、最上級の聖遺物。現存する神の奇跡」


「……一体、何の心算にゃ?」


 ひらりと舞う書物の頁は、一体何時から開かれていたのか。いいや、違う。まだ開かれていないのに、此処に効果を発揮している。

 第七聖典とはそういうものだ。これは唯一つ、自動で開く改竄装置。未来に開いて過去を変え、相手の今を望むがままに停止させてしまうもの。


 だがあくまでも、停止と言うのは一面での見方でしかない。主観の上ではそう見えると言うだけで、その本質は違うもの。


「“錆び付いた天秤の法則”。支点の壊れた天秤は、何を乗せても同じ結果しか出してはくれない。その本質は、優先順位の固定化。あらゆる行動への割り込みだよ」


「だから、何の心算にゃと!?」


「隠す意味がないからさ。この聖典は、誰であっても攻略不可能。僕の負けなど、那由他の果てにも在りはしない」


 己の授かった力を隠すことなく、寧ろ自ら語る所以は其処に。彼は絶対の確信を持っている。第七聖典は、決して誰にも破れはしない。

 それは身勝手な思い込みではなく、明確な事実だ。例え悪なる竜王でも、この法則には逆らえない。マキシムと言う男が敗れる可能性はあっても、この聖典が破られる事は在り得ぬのだ。


「ぎぃっ!?」


「例えば、この様に」


 語る男が杖を振るう。逃げようとした少女の背中に現れて、振るった杖で背骨を強打。骨に罅が入る程の威力で、ミュシャの身体は上空へと飛ばされる。


「づぁっ!!」


「君が動こうとした行動に割り込んで、僕は何でも行える。僕が動きを終えるまで、君の行動は中断される。切り札を使おうとする行動は勿論。被害を受けて悲鳴を上げると言う行動でさえ、僕が望めば其処で止まる」


 吹き飛ばされたと言う結果に介入して、気付けば空に浮かんでいる。遥か高みから見下ろすマキシムは、己の一撃で浮き上がって来たミュシャの腹に向かって杖を振り下ろす。

 臍を出した薄着でなくとも、腹の中身を潰されただろう。そう確信出来る程の痛みを受けて、ミュシャは口から血反吐を吐き出す。磨り潰された中身を吐いて、それさえ男に触れもしない。


「あぁぁぁっっ!?」


「主観的には、時間が止まった世界をイメージすれば近いかな? 相手は動かないのだから、どんな攻撃でも当てられる。相手は動かないのだから、僕はどんな攻撃でも回避できる」


 消えた男は、ゆっくりと歩く様な速度でまるで違う場所に現れる。自分だけが動ける時間を、彼は焦らずのんびりと移動しているだけなのだ。

 マキシムは時間を止めている。彼我の主観で見れば、そう感じるしかない異常。使用者の目線で見ても、世界は止まった様に見える。けれどやはり、その本質は違うのだ。


「――――っっっ!!」


「勿論、その本質は停止でなくて優先だ。仮に君の攻撃が僕を届いて万が一にも僕を倒せたとして、それを僕は後から引っ繰り返す事も出来る。倒される前に割り込めるんだ。割り込み続ける事で僕だけが一方的に行動し、倒される前に倒し返す事で倒されたと言う結果すらも否定する。正しく、無敵な力だろう?」


 第七聖典。錆び付いた天秤の法則。その能力は、行動順への割り込みだ。あらゆる行動に介入し、それを強制的に中断させて、己だけが動けると言う能力。

 必ず先手を取る。使用者が行動を終えるまで、対象となった者はその時間を認識する事さえも出来はしない。後出しでも成立するこれは、正しく無敵と言うべき奇跡。


 誰もこの聖典には抗えない。誰もマキシムを止められない。光より早く動こうと、無限に加速しようとも、彼は必ずその先に歩いて辿り着いてしまう。故にこそ――速度違反者(スピードスター)なのである。


(ああ、そうか。コイツは――ミュシャの眼が開く前に介入して、心威を弾いているんにゃね)


 霞む視界の中でミュシャは、漸くに己の心威が通らぬ理屈を理解する。視通そうとした直後に介入されて、聖典の力で弾かれていたのだ。

 人の魂が生み出す力と、神より授けられた奇跡の力。ぶつかり合えばどちらが勝るか、誰にも分かる解答だろう。魔王すらも逆らえぬ法則を前にして、ミュシャは余りに無力であった。


(消耗は、恐らく微々たる物。少なくとも、コイツの体力的には、取るに足りない程度で連発可能)


 そして同時に理解する。己には勝機が欠片もないことを。体力の消耗を狙うにしても、余りに無謀と言える理由が見えている。

 マキシムは今も、呼吸一つ乱していない。ミュシャが心威を使う度に聖典で妨害していると言うのに、全く疲れた様子を見せてはいないのだ。


 恐らくは、燃費が余程良いのだろう。或いは消費が多くとも、気にならぬ程にマキシム自身の生命力が強いのか。

 どちらにしても、結果は一つ。ミュシャでは持久戦でも、勝ち目を見付けられぬと言う物。かと言って、それ以外の術など論外だ。


(攻略法は、たった一つ。コイツの聖典は攻略出来ない以上、体力切れを待つ事だけ。けど、ミュシャには無理にゃ。恐らくそれは、ヒビキ以外の誰にも出来にゃい)


 どんな相手より先に動けて、ずっと自分だけが行動出来る。そんな反則を前にして、攻略手段などは一つ以外に存在しない。

 龍宮響希と言う名の少年の様に、マキシムが何をしても傷付かない程の強靭な肉体を持つこと。そうすれば、マキシムの方が先に力を使い果たす。


 それだけが、唯一無二の勝機。それ以外には、何一つとして勝ち目がない。何故ならどんなに優れた解決策を見付け出したとしても、発揮する前に必ず潰される。発揮した後でも、引っ繰り返されてしまうから。


(なら、ミュシャに出来るのは――)


 勝ち目はない。勝てる道筋などはない。ならば何をするべきなのか。一体何が出来ると言うのか。

 地面に転がり、血反吐を吐きながらに考える。大地の精霊を集めて傷を癒しながら、見上げた先には冷たい瞳。何時でも倒せるであろうミュシャを、敢えて嬲り続ける。そんな外道を、彼女は睨んだ。


「……一つ、教えろにゃ」


「うん。何だい?」


 彼にとって、この猫人に価値はないのだろう。他でもない、その冷たい目が千の言葉よりも雄弁に語っている。お前など、唯の玩具でしかないのだと。

 所詮は暇潰しの時間稼ぎ。マキシムが執心するのは、今も異なる場所で起きてる戦闘。前へ行こうと抗い続ける小さな少女を、どのタイミングで解放しようかと図っている間の手遊びだ。


 ならば、この今にミュシャが出来る事とは何か。決まっている。その余裕に付け込んで、知れる限りを暴く事。元より頭を使う事(それくらい)しか優れぬのだから、それだけは成してみせねばならぬであろう。


「風森人! 翠の貴種であるお前が、一体何を望んでいるにゃ!?」


 だから、その言葉で注意を惹く。血を吐く声で指摘したのは、司教の服に隠れた真実。マキシムと言う男の素性であった。


「ふふ、ふふふ、ははは、はははははははははははははははははっっっ!!」


 風森人。そう呼ばれた男は嗤う。心底からおかしいと、狂った様に嗤っている。

 翠の貴種。そう呼ばれた男は嘲笑する。漸くに気付いたのかと馬鹿にしながら、気取った言葉と仕草で騙った。


「良いね。良いね。中々に素敵だ。一体どうして、気付いたんだい? クロエの末裔」


「抜かせ、にゃ! 隠す気、にゃんて、端から、なかった、癖にっ!」


 黒い司教帽を脱ぐ。其処から溢れ出したのは、帽子の中に隠していた長い髪。新緑の様に深く、翡翠の様に淡く、輝く色は風の色。

 発する気配は、強い強い精霊の力。星の息吹と共に在る。四大の一つが其処にある。風の精霊王より全権を代行した彼は、この世全ての風を支配する超越者。


 溢れる風に、幻影の神聖術が吹き飛ばされる。晒された二つの耳は人のそれではなく、先の尖った長い物。其れは彼がエルフだと、確かに示す証明だった。


「あ、が――っ」


「オスカー殿や、デュラン達はまだ気付いてないんだ。これは君を有能と称えるより、彼らを無能と嗤うべきなのかな? 亜人が正体を隠して、信仰の門を叩くとは思わなかったのだろうけど。北部出身だと教えたんだから、桃源郷の出だと察してくれても良いだろうに」


 笑いながらマキシムは、倒れるミュシャを蹴り飛ばす。転がる無様を笑い飛ばして、誰もを無様と見下している。

 そうとも、誰も彼もが無能ばかりだ。世には感情と思い込みで動く愚物ばかりで、長き時を生きた男にとっては詰まらぬ者らで満ちている。


 エルフの英雄であるイリーナが貴種だと言うのは真っ赤な嘘。マキシムが配下であるイリーナに命じた勘違いさせる為の演技を、誰も彼もが見抜けていない。

 それ程愚かであるならせめて、少しは純粋な美しさに歪んだ矛盾を孕んで欲しい。見ていて嗤える滑稽な無様さで、ゴミの様に死ぬまで踊ってみせろと言うのが彼の理屈だ。


「改めまして、始めましてだ。南が誇る、クロエの末裔。力ではなく、優れた智慧を持つ者よ」


 騙る。騙る。騙る。騙る。言葉は嘘と偽りばかり。見下す意志と侮蔑の想いで、彼はミュシャを嗤っている。彼は誰もを嗤っている。

 そうとも、この世は木偶人形と案山子ばかりだ。そう語る男の認識は、驕り高ぶり慢心と言える物ではない。そう語れるだけの実力を、この男は有していた。


「僕は聖教会が最暗部、十三使徒の第七席次。天秤宮。誰よりも速き者。そして――獣人桃源郷の長にして、最も古き風森人。最初で最後の翠の貴種。マキシム・エレーニン=スピードスターだ」


 十三使徒の中でも、最悪の聖典を有する授受者。惑星全ての風を操る、世界最古の風森人。貴種の一つである彼は――――間違いなく、十三使徒の最強だ。

 オスカー・ロードナイトも、デュラン=デスサイズも、この男の全力には届かない。焔の王なきこの今なら、彼は一人で全ての大陸を滅ぼし尽くせる。そんな最強最悪の十三使徒と、一騎打ちになってしまった事こそ猫人にとっての不運であろうか。


「僕のママと、君の母祖は、残念ながら余り仲が良くなかったようだけど。子どもにまで、因縁を引き継ぐ所以もない。僕らは仲良くしようじゃないか」


「仲、良く、にゃって……」


「ああ、仲良く、さ」


 這い蹲ったミュシャに対して穏やかに、言葉を掛けながら足を上げる。そして、踏み付ける。仲良くなろうと語りながら、マキシムはミュシャの手を踏み躙るのだ。


「そうとも、僕らはきっと仲良くなれる。だって、望んだ道の果ては違えど、其処に至るまではきっと、とても近く似通ってるのだから――」


 ぐちゃり、ぐちゃりと骨まで潰す。赤い華が咲いて、猫人が悲鳴を上げる。そんな姿を見下しながら、語る言葉は何処までも空々しい。

 仲良くなろうと、欠片も思っていないのだ。利用し尽くす駒としてしか、他者を見ていない人の形をした怪物。風の亜人は微笑みながら、己の望みを口にした。


「手を取り合って、協力しよう。君は愛した少年を、僕は焦がれるあの友を――その最期まで、見届ける為にさ」


 マキシム・エレーニン。この男が価値を見出すのは、この世にたった二人だけ。片方の幸福を願っていて、片方には不幸を望んでいる。

 それは歪んだ愛情だ。余りに醜い執着だ。腐臭がする程に濃厚で、吐き気がする程悍ましい。そんな男は微笑んだまま、片手で杖を大きく振り上げる。


 仲良くなろうと語った相手に、悪意の矛先を振り下ろす。頭蓋を強く殴打され、赤い飛沫が飛び散り舞う。こうしてミュシャの意識は、暗闇の中へと消え去った。






ホモだけに糞野郎

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