その1
◇
幼い頃から、彼はずっと比べられていた。物心付くより前からずっと、少年に居場所なんてなかった。
贅沢ばかりしてる父母から、常日頃に言われてきた。余計な修飾を除いて語れば、その言葉の本質は何時も一つ。――――お前の姉ならもっと出来たぞ。
それなりに経験を積んだ今に言われたならば、娘を売ったお前達に何が分かるのかと皮肉の一つも返せただろう。
寂れた農村の出でありながら、何の才能もない男女が貴族の様な豪遊を行える理由はそれだ。彼らは少年が物心付くより前に、彼の姉を売り払って富を得た。
そうでありながら、娘の勇名に鼻が高いとつけ上がる。売られた娘の優しさに甘え、捧げられた財貨を貪る寄生虫。率直に言って、少年の父母は碌でもない人種であった。
けれどそんな事、幼い時分には分からない。子どもにとって、家とは一つの世界であって、親とはとても大きい物。だから募り続けた彼の憤りは、たった一人の姉へと向いた。
何が聖女だ。何が選ばれし人だ。僕は此処に居るのに、父さんも母さんも僕を見てくれない。それは聖女と呼ばれる、お前の所為ではないか。
少年はそんな幼い怒りを、常に募らせ続けていた。だから、だろう。勇者と共に姉が為した魔王の封印。凱旋する彼らを称えるパレードの中、少年は想いの儘に駆け出していた。
息を荒げて、人の波を掻き分けていく。古びた布の衣服は浮浪者同然の臭いがして、道行く人々は顔を嫌悪に歪めていく。
この晴れの舞台に相応しくはないと、見下す瞳を無視して進む。小さな手を伸ばして走る。前へ、前へ、前へと。そうしなくては、ならない気がして。
「あ」
そうして、子どもは転んだ。誰かが足を掛けたのだ。五つにも成らぬ小さな子どもが地に転がって、しかし誰も手を伸ばさない。
誰もが嫌な物を見たと、目を逸らして離れて行く。汚い物が此処に在るなと、彼らは嫌悪を浮かべて去る。喝采の中心にある輝きへと誰もが向かい、少年は雑踏の中に埋もれていく。
辛かった。けれど何が辛いのか、上手く言葉に出来そうになかった。飢えていた。けれど何に飢えているのか、声に出しても分からなかった。
輝きは遠く、栄光は遠く。少年の慟哭は届かない。擦り剝けた膝と拳を抱えて、誰にも抱き締めて貰えぬまま、少年の日はそうして過ぎ去っていく――――筈だった。
「大丈夫、ですか?」
「――っ」
優しい声が、掛けられた。荒れ果てた少年のそれとは違う、白魚の様に美しい手が目の前に差し出されていた。
擦り切れた手で、涙を拭ってその人を見上げる。煤に塗れて灰色になった少年の髪とは違う、真っ白なその人を見上げている。
知っていた。父から、母から、幾度となく聞かされていた。お前も姉の様に、役に立つ人間に成れと比べられ続けていたから。
知っていたのだ。その白く儚い少女の姿を。年単位の汚れに塗れて、汚物に等しい臭いを発する。そんな子どもに怯みもせず、手を差し伸べて来るその人を。
「聖女、アリア」
姉さん、とは呼べなかった。呼んで良いとは思えなかったし、そもそも呼ぼうとすらも思い至らない。だからこそ、白き聖女は血肉を分けた彼を知らない。
聖女アリアもまた、物心付くより前に教会に引き取られた。それから十年近くして生まれた弟の存在など、軟禁され続けていた無垢な聖女が知る由もないのだ。
「はい。私がアリアです」
手を差し伸べて、微笑み名乗る。そんな聖女の顔から目を逸らし、差し伸べられた手を取らずに立ち上がる。
ぶつけたい想いは一杯あったのに、何を言えば良いか分からなくなってしまった。そんな今の子どもに出来る、数少ない意志表明。
自分で立てる。自分で進める。泥塗れの手で目尻を擦って精一杯に強がる子どもに、聖女アリアは笑みを絶やさない。
「今、傷を治しますね」
「……いい」
「痛くはないのですか?」
「これくらい、我慢できる」
「そう。君はとても強い子なんですね。良い子。良い子」
「――――っ」
少年が取らなかった、宙に所在なく浮かんだ手。それで聖女は、立ち上がった少年の頭を撫でた。
優しく、慈しむ様に。唯それだけで、想いが溢れ出しそうになった。触れ合う掌から感じる熱に、泣き叫びそうになってしまった。
心の中がごちゃごちゃと、無数の感情が入り乱れる。たった一つでも張り裂けそうになる激情が、数え切れない程に溢れている。
決壊しない様に歯を食い縛るのが限界で、それ以上は何も出来ない。拭った筈の瞳から、再び落ちる水滴にも気付けない。唯茫然と、少年は見詰め続けていた。
「これも何かの縁でしょう。お名前、聞かせて頂けますか?」
「……デュラン」
「そう。デュラン君、ですか。強い子な君に相応しい、格好の良い名前ですね」
少年を子と知る父母は、少年に何も与えなかった。彼らにとって子どもとは、己に利を齎さなければ要らない者でしかなかったから。
姉の齎した富は使い切った。だがもっともっと贅を尽くしたい。だからまた子どもを産んだのに、今度の子どもは使えなかった。そんな両親にとって少年とは、欲を発散した結果に出来た塵である。
少年を弟と知らぬ聖女は、当たり前の優しさを彼に与えた。軟禁されて育ち、祈り続けていた聖女は少年の事など何も知らない。
だから与えられたのは、誰にでもするであろう当たり前の態度。そんな安価な量産品にも似た慈愛の心は、それでも少年の枯れて飢えた心には十分過ぎる劇薬だった。
胸の中で膨れ上がる。想いが溢れそうになる。デュランは何かを言いたくて、何かを伝えたくて、それでも何も口にすることが出来ずに居る。
「おーい、アリアっち! 急にどうしたんだよ」
「キョウ、大衆の面前でその呼び方はやめんか! 我々は英雄一行だぞ! 当然、成した行いに相応しい言動と言う物があってだな」
「あー! あー! 堅物クリフは何時まで経ってもうっせぇの。ほら、さっさと行こうぜー、アリアっち! 城に帰るまでが魔王討伐さ!」
「くす。えぇ、そうですね」
跪いた聖女の背。割れた群衆の向こう側から、勇者と騎士の声が聞こえて来る。この一年にも及ぶ旅路で慣れ親しんだやり取りに、アリアは笑みを深くした。
本当に楽しそうに笑っている。その姿がとても綺麗で、その優しさがもっと欲しくて、けれど何も言えなくて、デュランは一人見詰めている。それだけしか、出来なかった。
「そんな訳で、デュラン君。私はもう行きますね」
「あ……」
少女が立ち去ろうとして、漸くデュランは動き出せた。このままでは行ってしまうと分かったから、寂しくなって手を伸ばす。
掴もうとして、泥に塗れた己の手を見る。己の手は汚くて、去って行く人は綺麗だった。だから掴んじゃいけないと、伸ばした手は宙を彷徨う。
ああ、このままでは行ってしまう。それは嫌だ。けれど、ならどうすれば良いのだろうか。
答えの出せないまま、デュランはその背を見詰め続ける。届かない星を追い掛けるかの如く、焦がれる瞳で見詰め続けて――
「何れ、また会いましょう」
立ち去る前に、聖女は優しくそう言った。寂しそうな声に気付いたから、彼女は振り返って語るのだ。今は時間がないから、また会おうと。
「……また、会う」
「はい。きっと、また会えます」
そう言って、アリアは泥に塗れた小さな手を取る。泥と手垢にその手を汚して、けれど気にせず小指を曲げた。
「キョウから教わった、約束の仕方です」
少年の伸ばした手を片手で掴んで、その小指を開かせる。そうして伸びたその指に、曲げた小指を絡ませた。
右の小指を絡ませ合って、上下に大きく振り語る。それは勇者の世界に伝わる、約束を破らないと言う誓いの儀式。彼女が語る、子どもの約束。
「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます。指切った」
指を離すと共に笑う。綺麗な笑顔で、微笑む白き神秘の聖女。彼女はたった一つだけを約束して、そうして立ち去って行った。
残されたのは、泥に塗れた一人の子ども。遠退いていく歓声とは、無縁の日々を生きる浮浪児。そんな子どもはこの日、己が生きる意味を得た。
「また、会えたら、その時は――」
今も無数に入り乱れる、種々様々な激情。感謝や憧憬。憤怒や憎悪。正負両面へと降り切れた、心はデュラン自身にも分からない。それでも、目指すべきは定まった。
「伝えたい。何を伝えれば良いか分からないけど、伝えたいんだ」
次に逢った時にはもっと、色んな事を話したい。此処に抱えた激情を、沢山沢山伝えたかった。
だから、もう一度逢える様になろう。戦いを終えて軟禁生活へと戻るであろう姉と、逢えるような立場を目指そう。
それがディランと言う名の少年が、幼い日に描いた夢。愛していると、彼は抱き締めて欲しかったのだ。
そんな少年期も終わる。魔王戦役から凡そ二十年が過ぎた。あの日は幼かった彼も、青年期を過ぎた今では二十三歳。
一見すると中肉中背ながらも、鍛え抜かれたその五体。染み付いた技術は、英雄と呼ばれる者らにも引けを取らぬ程に。身に纏う僧服は、聖教会に属する証だ。
「は――っ。今更、思い出して、何になるって言うのか」
だがしかし、一般人がイメージする聖職者とはまるで違う。襟元を開いて着崩した僧服も、荒んでしまった濃褐色の瞳も、左右の腰に携えた計六本の大太刀も、その全てが聖職者とは思えぬ物。
それも当然、彼は真っ当な聖職者ではない。数年前までは、教会において下位職と呼ばれる祓魔師団に所属していた。魔物退治と異端審問を生業としていたのだ。灰を被った彼の両手は、あの日とは違う汚れに満ちていた。
「夢にまで見るとは、我ながら女々しい話だ。……結局俺とあの人じゃ、生きる場所が違ったと言うだけだろうに」
聖教会の中庭に設けられた、芝生に身を横たえて思う。あの日の約束はまだ、果たされていない。
それは立場が故に、と言う訳ではなかった。組織内でのヒエラルキーで言えば、今のデュランは決して立場が低い訳ではない。
平時では司教級、戦時においては教皇の命すら覆せる。それが今の彼が属する“十三使徒”の有する権限だ。
そうであるが故に彼が望めば、時間は掛かるだろうが聖女との再会も不可能ではない。それでいてまだ約束が果たされていないのは、彼が望んでいないからであった。
「やぁ、デュラン。元気かい?」
「……これが元気に見えるなら、飛んだ節穴だな。マキシム」
ふと声を掛けられて、見上げた先には司教帽を被った男。司祭杖を手に持って、淡く微笑んでいる翡翠の瞳。
デュランと同じく十三使徒に名を連ねる、彼の名はマキシム。第七聖典の授受者である彼は、誰よりも速き者と言う異名を持つ。
「んで、何の用だ?」
「用がないと、会いに来てはいけないのかい?」
「いけなくはないが、気持ち悪くはある。男が男に言うセリフじゃないだろ」
見下ろされているのは趣味じゃないと、腹に力を入れて起き上がる。立ち上がって服に付いた草を手で払うデュランに、マキシムは楽しげに笑いながら近付いた。
「酷い事を言うね。僕はこんなにも、君の事を愛していると言うのに。歪んでいるのに、純粋で美しい。そんな君は、ママの次に素晴らしい」
「……キメェよ。てかちゃっかり尻に触れてくんじゃねぇよ。マザコンホモ野郎」
「汚れを落とすのに協力してるんじゃないか。あぁ、やはり良い尻だ」
同性愛者を公言している同僚の言葉に、思わず手が太刀へと伸びる。そのまま切って捨てたくもなるが、其処で損得を判断してしまう程度には冷静だった。
慣れている、と言っても良い。悲しいことに、この変態野郎はデュランの同期だ。十三使徒に抜擢されるよりも前、異端審問官より更に前、訓練を受けていた頃からの付き合いなのだ。
当時から妙に粘着されていて、共に居ると何時も命の危機とは違う危険を感じるこの人物。己の親友を自称しているマキシムへと、デュランは鞘に入れたままの刀を振るう。
刃を抜く程ではなくとも、我慢できる程でもなかった。そんなデュランの一撃に反応しながら、業と受けて吹き飛ばされる。芯をずらして的確に被害を減らしながら、マキシムはへらへらと笑って言った。
「相変わらず、釣れないなァ。この世で最も美しい純愛を、君にも教えてあげようと言うのに」
「異議ありですわ! 同志マキシム、貴方は間違ってますの! 最も美しい至高の純愛とは即ち、男と男の間にではなく、女と女の間に生まれるものッ!」
「……変態が増えやがった」
ホモが意味不明な事を口走ったかと思えば、レズが増えていた。何を言っているのか、デュランにも訳が分からない。
混乱している事を自覚したデュランは息を大きく吐いて、吸い込んでから空を見上げる。とても澄んだ青空が、遠く遠く感じられた。
「やぁ、同志ブリジット。確かに僕らは同じ志、男は男と、女は女と愛し合うべきと言う尊い理想を抱いた戦友だ。だがしかし、だからこそ、その過ちは見過ごせないな」
「いいえ、違いましてよ! 間違っているのは貴方です、同志マキシム! 男の尻の、何処に良さがあると言うのか!? 柔らかく、弾力があり、香しい。そんな女性の尻こそが、間違いなく至高の一品! 異論は認めませんわ!」
「筋肉で引き締まった硬い尻の良さが分からぬとは、実に愚かな」
「……純愛何処言ったんだよ。肉欲塗れじゃねぇか」
疲れた声で呟きながら、デュランは現れた女を見る。ストロベリーブロンドの髪を縦にカールさせたロールヘア。如何にもな口調と見た目に相応しく、その出身は王族とも縁のある名家。
上級貴族でありながら男嫌いが高じて、見合いの場で相手貴族の金的を潰して不能に変えた結果修道院に入れられたと言う過去を持つ猛者だ。更にその修道院を武力で占領して、審問官にスカウトされたと言う異色の経歴を持つ猛者にも程がある女である。
名をブリジット・ブルクハルト。無骨な全身鎧を纏い、巨大なメイスを振り回す女である。彼女もまたデュランやマキシムと同じく、十三使徒の一員だった。
「はっ、変態どもが。お前ら見てると、悩んでる自分が馬鹿みたいに思えてくる」
「ふふん。アンニュイなんて、美女と美幼女と美少女と美熟女と美老女にしか許されなくてよ。デュラン」
「綺麗な女性なら年齢は問わないとか、相変わらずブリジットの射程は範囲が広いね。その点、僕には君とママだけだ。安心してくれて良いよ、デュラン」
「何に安心しろってんだよ、全く」
基本的に百害あって一利もない様な変態達だが、気分転換の切っ掛け程度には成ってくれる。だからこそデュランは、彼らを嫌い切れないのだろう。
自覚のある変態達は、そんな変な所でお人好しであるデュランのことを気に入っていた。こうして暇さえあれば声を掛けて来る位には、気を許しているのだ。
とは言え、彼らは十三使徒。都市の一つや二つ程度は単独で落とせる実力者。聖教会が誇る最上級戦力であればこそ、暇な時間が噛み合う事は殆どない。
ならばこうして此処に二人もやって来たのは、何か理由があるのだろう。そう思考したデュランは、先の問い掛けを繰り返す。今度は同性愛者な少女に向かって。
「んで、もう一度聞くが、何の用だよ。お前ら?」
「召集ですわ。ワタクシ達十三使徒全員、円卓会議場に集まる様にと。オスカーさん直々の呼び出しでしてよ」
「……珍しいな、あのジジイが俺ら全員を集めるとか。大陸一つ落とす気か?」
唯一人でも、町を落とせる戦士達。英雄に準じる実力を持った者も属する、聖教会十三使徒。その総戦力は、全盛期の三将軍にも比肩すると称され、西の全軍事力をも上回ると語られている。
事実、彼ら全員が動けば東国以外は潰せるだろう。いや、炎の王が居ない今ならば、東国だろうと押し潰せる。それ程の逸脱者達を集めると言う事が何を意味するのか、間違いなく屍山血河が築かれよう。
「当たらずとも遠からず、と言った所だろうね。今回の北伐は、特に本腰を入れていると言う噂だよ」
「北伐。亜人殺し、か。気が進まないな」
「浄化ですわ。内実がどうあれ、名目上は救済でしてよ。亜人の血肉は、焼き尽くすことで救われる。それが一応の、大義名分ですの」
「はっ、逃げ惑う民を背中からバッサリ。それが救済とは、ほんと世も末だよ」
「なら、やめるかい? 共存派に鞍替えすると言うのも、アリじゃないかな」
「それこそ今更だ。聖女様が掲げる共存論に賛同するには、どうにも手を汚し過ぎた」
皮肉気に語るデュランに対し、ブリジットはその態度を窘め、マキシムは止めるかと問い掛ける。
そんな其々の性格が良く出たやり取りを繰り広げながら、至る結論は変わらない。今更立ち止まれる程に、歩いた道は軽くなかった。
「千や万など、当の昔に過ぎ去ってるんだ。此処から数十数百殺した所で、結局何も変わらんだろう」
「嫌味ですの? ワタクシや同志マキシムは、今までの武功の全部を合わせても千に届かないのでしてよ!」
「数百を誤差と言えるのは、十三使徒でも君やカルヴィン、後はオードリーにオスカーさん位だろうからね」
「……死体の数なんて、誇りにする様なもんじゃないさ」
その道には轍がある。無数の命を踏み躙って、求めたのは姉との再会。そうでもなければ、届かなかった。
(姉さん。俺は貴女の居る場所に近付きたくて、あの日の約束を頼りに、我武者羅に突き進んできた)
けれど、そんな道を歩いて来て、この手はこんなにも汚れてしまった。泣いて命を乞う者達を、余りに多く切り過ぎた。
聖教徒でなければ人に非ずと、同僚達の様に割り切る事は出来ていない。あれは違う生き物なのだと、納得出来よう筈がない。
だから、こうして無様を晒している。中途半端なのだろうと、それなのに走り続けてしまったのだ。そんな自覚が確かにあった。
(結果が、これだ。聖教の切り札。聖典授受者。異端審問官が最上位。十三使徒。……なぁ、姉さん。俺は、正しいのかな? この血に塗れた手は、正しいことをして来たんだろうか?)
「いいや、違う。きっと間違ってたんだろう。……正しいと信じられていたのなら、俺は」
「何か言ったかい?」
「いいや、何でもない。糞ったれな現実に、下らない愚痴を零しただけさ」
それでも、駆け抜けた背後には轍がある。今も幻視するのは、奪った者らが重ねる怨嗟と憎悪の大合唱。そんな道を歩いて来たのだ。
血に塗れた手を、あの綺麗な人へと伸ばして良い道理はない。だから行く道に先はなくて、けれど背負って来たのは重い物。故に道は、先にしか伸びていない。
選択肢など、もうないのだ。故に芝生に敷いていた白い外套を手に取る。聖教の印が刻まれたその外套は、十三使徒に属する証。
「じゃぁ、行こうか。我らを統べる偉大な筆頭さんの指示に従い、罪なき人々を狩り取る為に――――処刑の仕事を果たすとしよう」
血に塗れたその証明を、肩に羽織って前に行く。マントの様に靡かせながら、デュランは前に進んで行く。迷いと後悔を胸に宿して、それでも彼は殺すのだ。
故に“処刑人”。彼は誰かを殺す者。誰からも恐れられる呼び名と共に、聖なる教えに従い罪を重ねる。何時もと同じく下らぬ仕事だと、皮肉気に語る彼はまだ知らない。
北で彼を待つ出会い。悪なる竜を討つ戦い。それこそが運命の分岐点と成る事を、神成らぬその身が知る由もなかった。
〇十三使徒紹介
・デュラン――第三部主人公。シスコンで皮肉屋。
・マキシム――ホモ
・ブリジット――レズ