その17
◇
西で最も長く感じた一日から、一晩明けた日差しの中。崩れ落ちた町並みに、作業を続ける人の影。今も残る水溜まりを踏み超えて、多くの人が町を行き交う。
諦めた瞳などはない。彼らは合理的だから、そうすることに意味を見出さない。折れる心などはない。彼らは冒険者の血筋であるから、どんな状況でも挑戦を続けるのだ。
故にこそ、町の復興は進んでいる。ノルテ・レーヴェの町並みは以前とは程遠く、それでも人が住める形を取り戻しつつあった。
「町の復興は、順調。だがやはり、灰被りの離反による戦力低下と、周囲への影響力の低下は避けられないか」
そんな跡地の只中にある、一番大きなテントの中。執務用の椅子に腰掛けた男は一人、筆を走らせながらに呟き思う。
極めて早期の対応が効果を発揮し、この町の復興はもう確かなイメージが頭に浮かぶ程の物となった。
しかしそれでも、一日二日で他の町まで手を伸ばせる程にはならない。となれば当然、他の町への影響力は下がると言う物。
この町を復興させた後、他の町へ手を伸ばすにはどれだけ掛かるか。武力の象徴にも切り捨てられた以上、反抗勢力は少なからず出て来るだろう。
理想へ至る道が遠のいた。そう実感して、ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェは大きく息を吐く。そうして溜息を一つとした後、顔を上げると立ち入って来た者らに微笑み掛けた。
「やぁ、おはよう。君達。昨夜は良く眠れたかな?」
テントの入り口から、入って来たのは三人の少年少女。ぴんと立った猫耳に、くるりと巻いた猫の尻尾を持つ栗毛の少女。白銀の鎧を纏った、金髪碧眼の少女。そして、銀に輝く長い髪を靡かせる、少女にしか見えない少年だ。
「ま、疲れ切ってたし、敵地であってもぐっすりだったにゃよ。……部屋のベッドも、提供された食事も、災害直後とは思えにゃい位に上質な物だったしにゃ」
「それは何より、緊急時の対策を徹底していたのが功を奏したようだね。備蓄を増やす努力をしていた甲斐もあると言うものだ」
その内が一人、先頭を歩いていたミュシャが皮肉交じりに言葉を紡ぐ。彼女の皮肉に気付いて尚、微笑みを揺るがせずにディエゴは返した。
そんな男を蒼く染まった瞳で見て、猫人の少女は肩を竦める。開き直った天才は全く以って手に負えないと、溜息混じりに彼女は男の意志を受け入れた。
故に一歩を退いたミュシャに対して、逆に進んだのはエレノアだ。年齢通りには見えない幼い容姿の少女は、その小ささに不釣り合いな敵意を見せて睨み付ける。
「んで、お前さ。どういう心算だよ。敵対していた相手に一転、掌返したみたいに歓待しやがってよ」
「何、命乞いの様な物さ。精鋭部隊を失い、灰被りに三行半を突き付けられた。そんな今の私では、君達と敵対し続けるのは自殺行為の様な物だからね」
魔女が倒され、魚竜が消えた後。掌を返す様に、彼女らを受け入れたディエゴ。崩壊した町の中で、彼は即座に歓待の準備を整えてみせた。
復興の指示を出すよりも早く、彼らが過ごす場所を用意した。建物こそ此処と同じく仮設のテントではあったが、用意された料理と寝具は豪奢としか言えない物。
はっきり言って、信用など欠片も置けない対応だ。ミュシャと響希が調べて毒の類はなく、食べなくても捨てられるだけだと言われたから口に含んで、その美食っぷりに更に苛立ちを募らせた。
こんな物を用意する位なら、その労力を復興に回せば良いだろうにと。そんな潔癖な少女に対して、ディエゴは何も隠さず語る。これは対抗手段を失くした男の、無様な命乞いでしかなのだと。
「……出来る限りの優遇をするから、これまでのことは水に流せって訳か。碌でもねぇな、お前」
「合理的な判断、と言って欲しいな。戦っても勝てないから、無条件に降伏するのは当然だろう。……受け入れないし許せないなら、私の首を刎ねれば良い。最も、君達にそれは不可能だろうがね。サンドリオンと違って無抵抗な相手は殺せないだろうし、今私が死ねばこの町の復興は大きく遅れて沢山の人が路頭に迷うことになるのだから」
「ちっ、本当にイラつくな。セニシエンタとは違う方向で、けど同じくらいには、碌でもない奴だよ」
「ふむ。誉め言葉として受け取っておこうか」
のらりくらりと微笑みを崩さない男は、これでもやはり西の頂点に至った人物なのだ。こういった交渉こそが、彼の本領を発揮する場面であるのだろう。そうした場では酷く有能で、腹黒い男なのである。
命乞いと言いながら、殺される事はないと確信している。だからこそ微笑み続けるディエゴに対し、エレノアは不快を隠さず露わとする。この男とは相容れないと結論付けて、彼女は口を閉ざして一歩を退いた。
「……ディエゴさん」
「何だい、悪竜王君?」
故に最後に残った一人が前に出て、彼に向かって問い掛ける。もう微睡んでいない竜王に、ディエゴは笑みを絶やさず向き合った。
「貴方は改心もしてなければ、諦めても居ないんですね」
「さて、何を以って改心とするかは疑問だがね。諦めてはいないさ。致命的な敗北をした訳ではなく、私は今も生きている。ならば諦めることなど、許される訳がない」
この男はまだ、己の理想を捨ててはいない。多くの物を見た後も、自分の結論こそが正しいのだと確信している。一目見て、そう分かってしまう人物だった。
だからこそ、この男はまた繰り返す。ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェは挫けない。数年は力を貯める為に費やすだろうが、権勢を取り戻せばまた改革に動くであろう。そう確信出来る、瞳の色をしていたのだ。
「世界を救えるのは、鋼の叡智だけである。私の結論は変わらない。そして、失ってはならない物も思い出せた。ならば為すべきことなど決まっている。私は何時か生み出すよ。数字で管理された理想の国をね」
「…………嘘は、言わないんですね」
「嘘偽りを交えずに、正真正銘本音を語る。それが今の私に見せられる、最大限の誠意という訳さ」
男の姿に、不安が募る。良かれと思って最悪を生むのが、彼ら水の系譜に連なる一族の欠点だ。故にまた、最悪の展開を産み兼ねない。
この男は改心しない。殺されなければ止まらない。きっと何度でも繰り返す。そう確信する響希に対し、ディエゴは本心を隠さず本音で返す。
それは偽っても意味がないと、そう知っているから。それだけではなくて、彼が語った様に最大限の誠意でもあるのだろう。
本来ならば、先の事変で死んでいた筈の男である。今生きているのは、この竜王に救われたから。だから彼になら、殺されても仕方がないのだ。そう考えるから、こうして少年に問うている。
私は止まらない。殺されなければ止まらない。ならば、君はどうすると?
殺したくはない。誰かを望んで、傷付けたくはない。今の響希は微睡から覚めたから、死を望む男を殺せない。ならば、どうすれば良いと言うのだろうか。
(傷付けずに、止める方法。暴力だけでは、変わらないこと。僕には一体、何が出来るんだろう)
考えて、考えて、考える。けれど答えは出せなくて、響希の強大な力もこんな事では意味を成さなくて――だから、男を止める事が出来たのは、彼ではなかった。
「安心しなよ、竜の兄ちゃん。俺とキャロが、そうはさせないからさ」
「……セシリオ、キャロ」
救いの言葉は背後から、振り返った先には二人の子ども。褐色の少年と蒼髪の少女は寄り添いながら、強い瞳で前を見ている。小さき彼らは、既に道を定めていた。
「はい。昨夜、セシリオとたくさん話し合ったんです。今後は私達が二人で、兄さんを見張ります。この人がまた間違いをする前に、正しい道へと戻せるように」
「実際、鋼の叡智ってさ、発想自体はそう悪いもんじゃない気がするんだよな。それに全部任せようってのがおかしいだけで、統治の一助とするなら以外とありじゃね?」
「勿論、今の魔法科学技術だけで再現させる心算はありませんよ。魔王や大魔獣への対策を考えれば、兄さんが毛嫌いしていた精霊技術の進歩は絶対に必要ですからね」
言葉でも、力でも、止められない男が居る。ならばこの子ども達は、その男と共に居る道を選んだ。彼が道を誤らない様に、間違えても元の道に戻れる様に。
初心はきっと、間違った物じゃない。願いはきっと、悪い物ではない。だからそうとも、やり方を間違えなければ良いのだ。子ども達は、もうそれを知っている。
そんな子どもの言葉に、今度はディエゴが肩を竦めた。この子ども達には敵わないと、彼はもう認めていたのだ。だからこそ、もう二度と間違える事はないのだろう。
「つー訳で、ここでお別れだな」
男がもう道を間違えない為に、少年と少女はこの地に残る。響希達が先を目指し続けるならば、彼らは此処に留まれない。故に互いの道は、此処で別れる。
微睡の晴れた瞳で、響希は小さな子どもを見詰める。夢を見ていた様に曖昧ではあったけど、確かに覚えている彼の道。一目惚れした少女の為に、駆け抜けて来た少年の軌跡を。
「正直、一緒に旅してたってこと、あんまり記憶に残ってない。頭には、残ってないんだ」
曖昧にだが覚えている響希と違って、セシリオはもう覚えていない。身の丈を超えた力の代償は、彼から多くの記憶を奪った。
己の踏み越えた道の過程は、もう記憶の中にも残っていない。それをセシリオは寂しく感じていて、だからこそ彼は笑って紡ぐ。
「だけど、何でかな。これでさよならって、そう考えると寂しく感じた。……だからきっと、心には何かが残ってるんだと思う。何もかもが、消えちまった訳じゃない」
「セシリオ。うん、そうだね」
寂しいと感じるのは、きっと大切だったから。大切だと今も心の何処かで感じているから、この離別を悲しく思う。
故にこそ、この情こそが絆の証明。互いの記憶は薄れても、無くならない物がある。胸に宿った聖剣の輝きに保証され、響希は嬉しそうな笑みを作った。
「兄ちゃん達は、中央に行くんだよな」
「うん。今の状況じゃギルドの援助なんて望めないだろうし、直接聖王国へと忍び込む予定」
結局、この大陸に来た目的は何も果たせなかった。冒険者ギルドも水害の影響で、連絡も付かない状況だ。この今に支援など、望める筈もない。
だから、此処に来た意味などなかったか。そう問われれば、響希は首を横に振って答えるだろう。だから、時間の無駄であったのか。そう問われれば、響希は強い言葉で否定する。
意味はあった。価値はあった。無駄じゃなかった。此処に来て良かったと、心の底から思っている。
「向こうは荒れてるって、今後はもっと酷くなるらしいって」
「けど、行くよ。大切な人達が其処に居て、為すべきことが其処にはあって、だから行かないとって思うんだ」
「そっか、なら退けないよな!」
にししと笑う少年の、その生き方に確かに学んだ。恋する想いの尊さと、それを貫く大切さ。大好きな者を、大好きだと語れる素敵さを。
何時か自分も彼の様に、恋することが出来るだろうか。この小さな友人が見せたような、大恋愛が出来るのだろうか。それはまだ、龍宮響希には分からない。
「俺はこっちに残る。それはディエゴの兄ちゃんが心配だからってだけじゃなくて、キャロと一緒に居たいからだけでもなくて、西が俺の居場所だって思うから」
けれど、大切な者を大切だと、語れる様に成りたいと思った。愛する人に愛していると、誇れる様に成りたかった。
だから、ああだから――この小さくて幼くて、それでも前に居る先人に倣うとしよう。何時か彼の様に、大好きな者を大好きだと言いたいから。
「だから、今はさよならさ。また会う日まで、俺はここで生きていく」
「ああ、うん。さようなら。また会う日まで、僕はここから先へと進むよ」
突き出した手と手をグーで重ねて、笑って語ってさようなら。この出会いと別れを胸に刻んで、互いに進むべき場所へ。
「だけど、さ。いざって時には手伝うよ。何が出来るか分からねぇけど、何も覚えちゃいないけど、俺は兄ちゃんのことを助けに行く。他でもない、俺がそうしたいって思うから」
「うん。その時は、よろしく。……勿論、僕も助けに行くよ。セシリオも、キャロも、大切な仲間で友達だから」
『だから、また会おう』
口にしたのは、そんな言葉。全く同じ台詞を放って、少し驚き笑みを深める。そうして彼らは、今日から明日へと歩き出すのだ。
そんな少年達のやり取りを遠巻きに、微笑みながら見詰めていた少女達。男が夢や理想を語らうなら、女は何時も現実的に。これから為すべきことを語り合う。
「さって、そんな訳で目指すは中央にゃんだけど」
「先の災害で定期船も転送装置も、どっちも全滅してます。復旧にはどうしても、時間が掛かってしまうようですから」
「ここで待つってのは、無いな。と成ると、ピコデ・ニエべ山脈を北上して、陸路で北方大陸に。其処から南下する船を探すしかねぇ訳か」
中央に向かうと言っても、そのまま直ぐにと言う訳にはいかない。西の転移装置は壊れているし、北部の港町であるリントシダーは壊滅している。
飛行機や飛空艇と言う手段も西にはあったが、そのどちらも災害の影響を受けて動かせない。となれば当然、移動は陸路となってしまう。北方経由で、行くしかないと言う訳だ。
(僕が抱えて海を跳び超えるとか、海を渡れる魔物を生み出すとかでも良いんだけど、きっと二人とも嫌がるんだろうなぁ。……最後の手段にしておこう)
少女らの相談を耳にして、響希は内心で小さく呟く。アカ・マナフの悪影響を受けていた時と違って、今の彼なら失敗などは先ずありはしない。
その気になれば何時だって、中央入りが出来るだろう。最も、彼の場合はこれまでの行動が行動だ。提案を言葉にしたとして、信頼などは欠片もあるまい。
失った信頼を取り戻すのは、何時だって大変なのだ。しみじみと感じながら、それでも最終手段の一つと残しておく。必要が迫れば、彼は少女らを抱えて突撃する気で居た。
そんな彼の胸中を知らず、それでも待ったを掛ける者が居た。少年少女らのやり取りをまるで眩しい物を見るかの如く、目を細めて見ていた男。ディエゴは静かに、己の懸念を言葉にする。
「無い袖は振れないとは言うが、私としては船や転送装置が使えたとしても、北方経由で向かうことを進めただろうね」
「何でだよ。無駄に時間が掛かるだけじゃねぇか」
「中央には奴が居て、奴は悪竜王君が居る西に注目しているからだ。船など出せば、その瞬間にも気取られる。例え悪竜王君でも、アレは一筋縄ではいかないだろう。戦うとしても、ギリギリまで見付からない方が良い」
「……北部経由なら、見付かり難いにゃか?」
「近々聖教会の手で、大規模な亜人浄化が行われる。数年に一度の恒例行事でね。北伐と呼ばれているんだが、その影響で人の行き交いが激しくなるだろう。だから中央へと紛れ込むには、最大の好機と言う訳だ」
ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェが、北方大陸を経由する事を進める理由。それは彼が中央に出向いた際に知った、諸悪の根源と言うべき黒幕の存在が故に。
あの男は確実に、西の動乱を見ていた事だろう。悪竜王と言う自分を超え得る存在を、最大限に警戒している筈なのだ。教会よりも王国よりも、その男に見付かる事が一番不味い。ディエゴはそう考えるから、少年少女に向かって警鐘を鳴らす。
「ってか、奴って誰だよ。一体誰を、アンタはそんなに警戒してんだ?」
「……そう、だね。君達は――特に君は、知っておくべきだろう。エレノア・ロス」
そんなディエゴの言葉に、裏を視抜いたミュシャは素直に頷く。響希も嘘は言わないだろうと納得していて、故に問い詰めるのはエレノアだ。
一体何を遠回しに語っているのかと、敵を睨み付ける様な瞳の少女の言葉に少し沈黙した後でディエゴは答えた。その事実を彼らは知るべきであったし、この少女に限って言えば知らねばならない事だった。
そうとも、中央に置ける元凶とは、エレノアにとっての仇敵に他ならない。彼女から全てを奪った、その男こそ元凶なのだ。
「その男こそ、諸悪の根源。先代聖王を暗殺し、第一王女を殺害し、エリーゼ姫を狂わせて、ダリウス大臣を立脚させて裏で操り、雷将クリフォードを追放し、刀匠オリヴィエを惨殺し、聖教会すらも掌中に掴みつつある怪物」
本当に、その男だけが元凶だった。元から差別と言う腐敗の温床はあったが、それでも多くの民が笑っていた国。聖王国を壊し尽くしたのは、たった一人の男であった。
それはダリウスではない。彼は政治的センスを黒幕に買われて、恐怖と欲望で操られていただけの傀儡。それはエリーゼではない。彼女があれ程病的に狂ったのは、その黒幕の仕業である。
彼は、最強の聖騎士に比肩するだけの剣の技量を有した男。彼は、彼の大賢者にすら比する魔法技術を持つ男。彼の武才は中央において並ぶ者なく、その戦場での嗅覚は東の先将すらも上回る程の物。
全盛期と呼ばれた時代、唯の一度も底を見せたことがなかった。それでも尚、刀匠も雷将も、彼の勇者ですら勝る事は叶わなかった。誰よりも忠義に厚いと語られた王の忠臣と、民に信じられていたその英雄。名を――――
「“空将”ハンス・ヨアヒム・マルセイユ。彼こそがこの十年で聖王国を腐敗させ、今尚人類全てを滅びへと先導している元凶だ」
「……は?」
ハンス・ヨアヒム・マルセイユ。その名を聞いた時、エレノアの胸に宿った感情は怒りや憎悪などではなかった。唯々、彼女は訳が分からないと混乱した。だって、在り得る筈がないことだから。
空将と呼ばれた男は、誰よりも素晴らしいと語られた英雄。己にとっては名付けの親で、幼い頃に幾度となく遊んでくれた小父さんで、第三の父と慕う人の名であったから。
「ヨアヒム小父さんが、パパやママの、仇? 嘘、でしょ……」
乾いた声と共に呟く。隠された真実を見抜くと言う力を持った相棒を見詰めて、頭を横に振る姿に硬直する。
信じられない。信じたくはない。けれど、この友の言葉は信じるしかない。だから、思う。だから、彼女は思ったのだ。
どうして、こんなことになったのだろう。切り捨てる事の出来ない過去の傷痕は、たった今に開いて血潮を流していた。