その16
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日も没して暫くの後、中央大陸は最西端に位置する土地を女は進む。供には二人、黒衣を纏った白髪の少年と片目を包帯で隠した褐色の女。
嘗ては風光明媚な田園風景が続いたこの場所も、今ではしゃれこうべだけが転がる荒野。群れの大半を亡くしたが、その両腕だけはしっかりと回収していたサンドリオン。彼女は、嘗ての故郷に何を思うか。
「いやぁ、中々中々、今回も結構愉しめた」
浮かんだ笑みが少なくとも、哀愁の類でないことだけは明白だ。つい先程まで居た西の地で、起きた事件を思い返しながら、彼女は笑みの質を変えていく。
退き際としては、先ず間違いなく最良だった。あれ以上留まっていれば龍宮響希に目を付けられ、その拳に殴り飛ばされていたことだろう。
それでも、やはり惜しいとも思ってしまう。緊急時用に持たせていた脱出用の転移符で両腕は回収出来たが、それ以外の全てを切り捨てる必要があったから。
もしたらればと、考えてしまうのは仕方のない事だろう。失った者に哀悼の意を抱いて、守れなかった悲劇に酔うのもまた一興だ。そう折り合いを付けて、彼女は次の依頼主の下へと向かう。
「大盤振る舞いしたのにディエゴの旦那を切り捨てた所為で、懐はちっとばっかし寒いがそれもまた良し。時には貧して鈍することも、程良い刺激になるってもんだ」
武器弾薬の消耗もまた深刻で、当面は様々な事に困窮する羽目になるだろう。それすら愉しもうとするサンドリオンに対し、続く二人の表情は浮かない物だった。
「……ごめん、リオン。俺がセシリオに勝ってれば」
「ルシオだけじゃないわ。ミスったのは、私も一緒よ。御免なさい、リオン。あんなに油断するべきじゃなかったわ」
「ははっ、全くだ。今回は良いとこなしで終わったよなぁ、お前ら。嗤える程に使えねーでやんの」
激闘の果てに、敵に利する事を選んで満足していた黒き白貌。終ぞ本気を出さぬまま、封殺されて最後には利用され続けた呪術師。
両者は己の至らなさこそが、主人に逃走を強いたのだと考えている。下手に戦闘を長引かせた結果魔性の参戦を許し、挙句自分達は途中で敗北して魔との戦いには介入すらも出来ずに終わった。其処に言い訳など、出来る筈がなかったのだ。
そんな風に沈み込む二人の言葉を、サンドリオンは鼻で嗤う。彼らの発言を認めた上で、彼女は振り向く事もせず、当たり前の様に言葉を返した。
「――だから、次はしっかり役に立て。敗北から何も掴めない様な、そんな無様は晒すんじゃねぇぞ」
「……うん。次は、負けない」
「ええ、そうね。この目の痛みは、戒めよ。今度は油断しないわ。誰が相手でも全力で、叩き潰してみせる」
「その意気その意気。だが、何事も程々にな。気を入れ過ぎても詰まらねぇからよ」
まだ期待されている。ならば姫の猟犬として、俯いているだけでは居られない。顔を上げた二人の姿に、振り返らずに笑みを深める。
そうだ。それで良いのだ。それが良いのだ、と。同時に気負い過ぎるなと、女は己の美学を語る。姫に飼われる猟犬ならば、必ず守るべき教えを告げた。
「命は何より尊いが、何より儚く刹那と散る物。人の生なんざ、微睡の中で見る夢と同じだ。目が覚めれば終わると言うなら、せめて夢を愉しめよ。美麗醜悪、世の全て。噛み締め飲み干し嗤ってみせな。でねぇと余りに勿体無い」
サンドリオンと言う女に、神威法の適正は一切ない。それは彼女がこの世界に、何一つとして不平不満を持たぬから。
大義も大志も、結局の所その本質は今の否定だ。現実にある何かが許せぬからと、世界を塗り替えてしまおうとする。それこそが、神に至る為に最も必要となる資質である。
だからこそ、サンドリオンは至れない。彼女はこの世の全てを愛している。希望も絶望も、愛も憎悪も、あらゆる奇跡や理不尽すらも、彼女は全て受け入れている。変えたい物など、何もない。
だから女に理想はないのだ。今ある現実に満足していればこそ、これ以上に目指す場所など何もない。どうすればより今を愉しめるだろうかと、それだけが彼女の願望だ。そして女は、その在り方を己の配下達にも求めている。
「テメェらは俺の猟犬だ。灰被り姫に従うってのはそういうことだって、しっかり覚えて着いて来な」
求めたのは、こう生きる自分が愉しいから。この世の誰より幸福なのだと、胸を張って語れるから。
愛しく可愛い猟犬達にも、この幸福を味わって欲しいのだ。故にこそサンドリオンは、愛を以って彼らに語り続けていた。
そんな女に付き従う者達は、背を追う足を緩めはしない。歪んでいるけど、愛されていると知っている。だから彼らも、愛された様に愛している。それこそが、灰被り姫の猟犬団だ。
「それで、リオン。次は何処に行けば良い?」
「なーに、行先は決まってる。喜べ、お前ら。次の依頼主もビックネームだ」
「一体何時の間にぃ、依頼主探してたのよぉ」
「そりゃ、旦那の護衛で中央に行ってた時に決まってんだろ? つー訳で、次の依頼主は聖王国のお偉いさん。恋する情が深過ぎて、イカレちまった姫様よ」
人を愛するが故にその全てを味わいたいと、あらゆる善行も悪逆も犯し尽くしたサンドリオン。彼女が進む先には必ずや、悲劇と喜劇が付いて回る。
主を愛するが故に彼女に全てを捧げるのだと、あらゆる行為を許容するその両腕達。彼や彼女が進む先には必ずや、主が望む幸福と絶望が存在する。
そんな者らを雇い入れた、次なる主は聖王国に残った唯一無二の尊き血。一人の男を愛し過ぎ、病んでしまった情深き姫。エリーゼ・シィクィード第二王女。
「彼女は語った! 今も飢えに苦しむ民を、一人でも救い導いて欲しいと! 食うにも困り、野盗に堕ちるか否かすらも選べぬ人々。そんな者らを引き連れて、王党派の領地までの護衛を! 衣食住は王党派の貴族が満たすから、僕らに望まれたのは数百数千と言う民を安全地帯まで引き連れ、その後の彼らに教導すること。その身を救い、その身を守る手段を与える。詰まりは人道的な支援と言う訳さ!」
『……で、その裏は?』
セニシエンタとしての顔と口調で、如何にも英雄らしい言葉を紡ぐ。そんなサンドリオンの発言に、二人は自然と息を合わせて裏を問う。
ニィと嗤うサンドリオンが、人助けをしないと思っている訳ではない。唯、彼女が飽き性なのだと知っている。英雄ごっこはつい先程したばかりであるから、次はきっと碌でもない事をやらかすのだろうと二人揃って確信していたのだ。
「か、かはは。そりゃ決まってんだろ! あの自分の幸福しか見えてねぇ無能姫が、このサンドリオンに依頼した。それがどういうことかってなぁ!」
案の定と言うべきか、すぐさま美女は笑みの色を変える。手段を選ばぬ薄汚い外道として、サンドリオンは言葉に語った。
エリーゼ姫が態々、サンドリオンに人々を救う事を望んだ理由。セニシエンタとしての彼女ではなく、享楽に耽る外道を名指しした理由。それを女は、こう捉える。
「戦争だ」
そう。戦争だ。もう間もなく、戦が起きる。人と人とが殺し合い、血と涙と糞尿が地を染めて、無数の悲劇が世を満たす。そんな戦場が、もう間もなく。
「一心不乱の大戦争。その準備をしろって、あの姫様は言ってんのさ!!」
何時破裂してもおかしくない程に、膨れ上がったその風船。其処でエリーゼ姫がサンドリオンに与えたのは、更に空気を加える為のポンプであった。まだ空気の入っていない、無数の風船も其処にはあった。
そうとも、姫はサンドリオンの手に委ねたのだ。この最悪の破綻者の手に、キャスティングボードを。より被害を大きくするための手段を。無能と呼ばれながらに悪魔の知略を持ち合わせる、そんな女が何を望んでいるかは明らかだった。
「飢えに苦しむ連中は、一体どれだけの怒りと憎悪を抱いているか。腹を満たして安全が保障されりゃ、その怒りも霧散するか? いいや、そうはならねぇさ。そんな奴らに武器を与えて、技術を教え込む。そりゃ、反乱の一つや二つは起こるだろうさ。そもそもこの今に反乱が起きてねぇのは、そんな余裕すらもない程に困窮しているってのが一番大きな理由なんだからよぉ」
この今に、聖王国と言う風船が破裂すればどうなるか。正直に言ってサンドリオンは、小火で終わる可能性も高いと見ている。王国の民は反乱も起こせぬ程に、痩せ衰えてしまっているから。
精々禿鷹の如く、他の大陸から手を出して来る者らが居る程度であろうと。ディエゴが懸念した様に、溢れ出す流民によって大国の経済が大きく乱される程度であろうと。そうとも、それで済んでしまう可能性もあるのだと女と姫は見ていたのだ。
「エリーゼ姫が俺を名指しにしたのは、サンドリオンの性質を見抜いたからだろうよ。小規模で直ぐに鎮圧される反乱じゃ詰まらねぇ。俺がそう感じるだろうと分かって、だから俺に依頼したのさ。直ぐに燃え尽きねぇくらいの、大火に変えてみせろとな」
理不尽に抗う人の輝きを見ていたい。嘆き苦しみ絶望したまま、腐る様に潰れていく人の最期を見ていたい。そんなサンドリオンにとって、この状況は千載一遇。小火で終わってしまうには勿体無い。
愛する人と共に、幸福な日々を過ごしていたい。己の立場がそれを許さぬと言うのなら、それすら壊し尽くしてしまいたい。そんなエリーゼにとって、小火では被害が足りぬのだ。もっと悲惨な戦場を、故に彼女はサンドリオンに助力を求めた。
痩せ衰えた人々が反乱を起こせぬと言うのなら、彼らに糧を与えて太らせよう。彼らに武器を与えて蜂起させよう。彼らを一ヶ所に集めて、小火を大火に変えてしまおう。それが両者が紡ぐ言葉の裏側で、交わし合った契約だ。
「全く以って、碌でもねぇ姫様だ。民の命を守る側にありながら、どうすれば己だけが幸福になれるかと常に思考してる。民を磨り潰す為にしかその頭脳を使わねぇから、貴族としても王族としても落第なのさ。無能の姫という呼び名が、これ程似合う奴はそうもいねぇよ」
サンドリオンはエリーゼ姫をそう評する。如何に優れた頭脳があっても、あれは民が語る様に無能でしかない姫なのだと。
そうとも、一体何処に望んで民を虐げるような王者が居るか。それが己の幸福の為だけにと、そんな者はどれ程優れた能力を持とうが暗君でしかないのだと。
だが、だからと言って嫌いはしない。そも人であると言う時点で、灰被りにとっては愛するに足る存在だ。その上彼女好みの状況を齎してくれるとすれば、暗君だろうが素晴らしい雇い主と成る訳だ。
「西は一端崩壊したが、人が全滅した訳じゃねぇ。記録は消えても記憶が残っていれば、そう遠くない内に復興しようさ。恐らく中央で大規模な反乱が起こる頃には、介入して来れる程度にはな」
西は多大な被害を受けたが、そう遠くない内に復興するだろう。一年か二年か、その程度であると彼女は見ている。故にこそ、その時までに力を蓄えさせるとしよう。
「んで、そろそろ北伐の時期も近付いている。北への大規模遠征は、中央の教会戦力を大きく削る。北の亜人共もやられっぱなしじゃ終われねぇだろうし、上手く立ち回りゃぁ北方の参戦も見込めるだろうよ」
北は例年、聖教会からの侵略を受け続けている。基本は防戦一方となっている獣人桃源郷の者達を、教会の最高位審問官達が攻め立てるのが常道だ。
だが、もしも彼らが攻めている時に背後から火の手が上がればどうなるか。最精鋭を北部に送った結果として教会が焼かれたとなれば、攻め手も焦って戻って来よう。其処で上手く動ければ、北の追撃を誘発する事も不可能ではない。
そうなれば、戦火は悲惨に広がり続ける。北と西と中央の三大陸を巻き込んで、火の手は広がり続けるだろう。
「大臣派閥と革命軍。聖教会に北の亜人。西方南部の禿鷹共に、東の修羅も巻き込めれば最高だな。歴史に類を見ない大戦にまで、発展する可能性があるぜ。こいつはよぉ」
更に更にと、想像するのは彼女にとって最高の状況。民衆にとっては最悪の状況。三大陸のみならず、四大陸目も巻き込めないかと言う発想。
其処まで上手く行かずとも、まず間違いなく大規模な戦争ならば起こせるだろう。歴史上に類を見ない、大戦争を起こせるのだ。その引き金を手にし掛けているのだと理解して、サンドリオンは歓喜に震える。
「さぁ、愉しい愉しい大戦争を起こす為! 苦しむ人々を救いに行こう!! 明日はきっと明るいぞ! 鮮血と鉄火の真っ赤に染まった、明るい朝日が僕らをきっと待っている!!」
未来は明るい。夜明けよりも赤く、日の入りよりも更に赤い。深紅と錆びた臭いに満ちた、真っ赤な未来が待っている。
その未来を想像し、愉しげに嗤うサンドリオン。足取り軽く進み続ける灰被り姫の後を追い、猟犬達も進み続ける。血風雷火の戦場まで、残る距離は決して長くない。