その15
◇
戦う術はない。打倒の道はない。最早現状は詰んでいる。そんな状況下でも、諦めずに足掻き続ける女達。
けれど此処に集った誰もが、そんな風に在れる訳ではない。救いの見えない暗闇とは、誰もが立ち向かえる様な物ではない。
「……もう駄目だ。お終いだ」
故に膝を折った青年を、一体誰が責められようか。頭が回るからこそ分かってしまう。もう何をしても意味はないのだと。
「西は滅びる。何も出来ずに、我らは滅びる。……そして、これは唯の先触れだ」
元凶たる大魔女は姿を見せず、数百を超える大魔獣が暴れ狂う。海の底までも魚竜が満たして、海面に上がれなかった人々はもう助かるまい。
無限の魚竜は蘇生を続けて、どれ程に足掻こうとも底を尽きると言う事がない。そんな今の状況で、一体何が為せると言う。
そしてそんな現状ですら、先触れに過ぎないとディエゴは知っている。彼だけが知っていたから、無理を押してでも西に叡智を求めたのだ。
「中央には、アレが居る。あの蠢動する怪物に抗するには、人は余りに幼く弱い。鋼の叡智を得られぬ限り、遠からず人と言う種は終わるのだ」
中央の権力争い。その影に隠れて蠢いていた、全てを歪めている元凶。破壊と不秩序を司る第四の魔王が、もう間もなく動き出す。
予兆が見えた。その真実を見抜いてしまった。直接会った時には気付けず、後になって分かった時には震えが治まらなかった。彼以外の誰もが、その擬態に騙されている。
この今、その真実に気付けているのは唯一人だけなのだろう。だから備えなくてはと、元々計画していた物を急がせた。その結果がこれだ。
大志は必ず破綻する。善意は必ず空回りする。人の思いは歪められ、地獄への道を舗装する。この世界はそんな風に出来ているのだと、分かっていた筈なのに如何にか出来ると粋がっていた。その対価が、この結末なのだろう。
「うるっさいんですよ! 泣き言を言っている暇があったら、少しは手伝ってください!!」
「……カロリーネ」
諦めて膝を折り、もう何もしようとしないディエゴ。そんな兄の姿に怒りを抱いて、今も足掻いている少女は叫ぶ。
その手に握った三叉槍。水の秘宝は確かに力を発揮して、多くの命を繋ぎ止めている。だがその秘宝を以ってしても、繋ぎ止めることが限界だった。
「数が足りないんです! 手が届かないんです! 一体幾つ、間に合わなくて、けど掴めたものもあって、でもそれすら潰えようとしていて――――とにかく、何もかもが足りていないんです!!」
「……君も諦めるべきだ。此処で足掻いたとして、結局最後には全てが無くなる。手を伸ばしたとして、結果は虚無へと帰するんだ。……それに、やはり私に精霊術は使えなかった」
力が足りない訳ではない。出力が足りていない訳でもない。唯々救い上げる数が多過ぎて、全てを掴むには少女だけでは足りないだけだ。
少女と同じく、資質を持つ者。ディエゴは結局、精霊の声を聞けなかった。荒れ狂う海を統べる三叉槍を使えなかった。この場において、彼にはもう何も出来ない。
「そんな泣き言を言ってるくらいなら!!」
「今更何をしようと変わらないさ。後はもう、終わり方を選ぶ程度だ。私達人類に残された自由など、それだけしかないのだろう」
だから諦めようと語る男に、彼女は叫ぶ。諦めたくはないのだと、その意志は尊く気高いものだと、きっと誰もが認めるもの。
ああ、けれど――尊く気高いものは確かに素晴らしいが、必ず勝ると言う物ではない。行動の美麗さなど、勝敗とは全く無縁の物である。
なればこそ、結末は無残に呆気なく。本社ビルであった瓦礫の上に立つ彼らの下へと、その災厄は降り注ぐ。
「リヴァイアサン、か。そうだな、あれ程に増えたのだ。今の今まで、生きていられた事が幸運だった。それだけの話であろう」
迫る巨大な尾は、唯蠢いた結果の産物。意図して狙った物ではなくとも、それだけで彼らは終わるのだ。
全力を救出に傾けて、今も掴んだ人達を支え続けている為に何も出来ないカロリーネ。
この一撃を躱せるだけの身体能力を持ってはいるが、既に全てを諦めているディエゴ。
彼らは何も為せないまま、その尾に潰され終わりを迎える。その生は無価値であったのだと、そう定められるであろう。それとも、そんなレッテルすら残らずに、人類は滅び去るのであろうか。
「存外、終わりとは呆気ないものだ。ああ、こんなものか」
「――っ! セシリオ!!」
男は己が見る最期の光景を目に焼き付けて、こんなものかと息を吐く。少女は愛しい人の名を呼んで、縋る様に抱き締め目を閉じた。
そうして、振り下ろされた尾が砕く。瓦礫と化していた建材は、欠片も残さず粉砕される。当然、其処に生きた人々も共に。巻き込まれない、理由はなかった。
ならば、新たに理由を作ろう。此処に一つ、可能性を加えよう。明日に繋がる、その道を。
「……精霊とは、星の欠片。人の生命力を闘気と呼び、星の生命力を精霊力と呼ぶ」
呟きながら手を伸ばす。掴んだ物は、荒れ狂う海を統べる三叉槍。其処に、命の力を振り絞って祈りを込める。
彼が動けた理由など、たった一つで十分だろう。どれ程に疲れ果てていようとも、愛しい少女の悲鳴に気付かない訳がない。抱き締めるキャロが求めたのなら、少年は必ず立ち上がるのだ。
「だとするならば、使える筈だ。闘気を使えて、世界を愛せるならば、きっと誰にでも。ああ、この俺にだって、少しは使える」
キャロが助けた人々を見捨てられず窮地に陥ると言うのなら、己が代わりに守れば良い。
巨大な魚竜を押し返す程の力はなくても、その尾に吹き飛ばされても壊れぬ障壁ならば作れる筈だ。
「守ってみせろ! トリアイナッッ!!」
生み出したのは水の泡。巨大な泡は三人を包んで、あらゆる害意から守り抜く。振り下ろされた尾の動きに逆らうことなく、それでも壊される事無く押し流される。
魚鱗の上を転がりながら、内側にまで届いた震動に三者が震える。それでも、震える事が出来ると言うのは、生きていると言う証である。触れた熱を感じながら、キャロは無数の歓喜を込めてその名を呼ぶ。
「セシリオ!!」
「ごめん、寝てた。でも、もう起きたよ」
抱き着く少女を、抱き返す。ああ、今この瞬間に、互いに生を実感する。自分達は生きていると、だから彼らは前に行く。
「キャロ、一緒にやろう。今なら、俺でも少しは手伝える」
「……貴方が一緒にいてくれるなら、百人力よりずっと、もっと、頼もしいです!」
生きている限り、前へ、先へ、明日へ。今を必死に全力で、歩いて足掻いて進んで行く。その為にも、もう一度、今度は二人で。
荒れ狂う海を統べる三叉槍。水の至宝を二人で掴んで、瞼の裏に未来を描く。誰も彼もが笑って過ごせる、そんな夢幻は作れない。けれど――目指すだけなら、出来るだろう。
「何故、君は――君達は」
その姿を、目を見開いて見ている。もう終わるしかなかったと、そんな状況を覆してみせた子らを見詰める。
確かにこれは、奇跡に近い幸運だ。意志で引き寄せたのは、非合理と言える程に極小の可能性。それを齎した少年は、それ以上を目指している。
驚愕したのだ。愕然とした。当たり前の様に前に進むその姿に、諦めると言う事を知らない子どもの姿に、ディエゴは困惑しながら問い掛ける。何故、と。
「兄ちゃんのこと、誰だか分からない。知ってる人なら、ごめんな。……だけどさ、そんな俺にも、分かることがあるんだ」
振り向いた少年は、多くの記憶を取り零して来た。思い出せたものもあるけど、思い出せていないものの方がずっと多い程。
だからこそ隔意のない瞳で思い出せない青年の瞳を見詰めて、セシリオは己の想いを口にする。それは彼が、この絶望の中でも進める理由。
「俺は生きたい。生きていたい。生きてキャロと、一緒に雪が見たいんだ」
望んだのは、当たり前の幸福だ。約束したのは、その景色を一緒に見る事。唯それだけの想いが、彼を突き動かす原動力。
そうとも、一緒に明日を生きる為に。共に幸福と成る為に。それだけを見ていれば良い。それ以外など、知った事ではない。どれ程に現実が絶望的な状況でも、目指す結果は変わらないのだ。
「だから、生きることを諦めない。例え結果が変わらなくても、何時か無くなるのだとしても、その時までは前に行く。進み続けて、止まらない」
だから、足掻く。夢見た場所を目指して、其処に辿り着くまで。この空の下を歩いて進む。
進み続けて、止まらない。その果てに、辿り着くその日まで。それがきっと、生きると言う事だとセシリオは思うのだ。
「人が、滅ぶしかないのだとしても? この世界が最初から、破滅で終わると決まっていたとしても?」
「だとしても、動けなくなるまで、俺は進むよ。だって、好きな人が居るんだ」
現実にハッピーエンドなどはない。物語の様な区切りはなくて、何時か死別するその日まで非情なままに続いていく。
幸福の後にもまだ続いてしまう。人生は絶頂では終われずに、緩やかに萎んでいく様に様々な物が失われ続けてしまうのだろう。
だとしても、目指す所は変わらない。其処まで進み続けて、その後も進み続けて、動けなくなるまで進んで行く。それがきっと、生きると言う事だと思うのだ。
「それにさ、格好悪い所は見せたくないじゃん? 折角、両想いに成れたんだし、世界が終わるその時まで、一緒に笑っていたいんだよ」
セシリオの理由なんてそれだけだ。国を守るだとか世界を救うだとか、そんな高尚な願いなんて一つもない。
それでも、それで良いのだと彼は思う。そうして少年は、何時かの様ににししと笑う。その笑みが、どうしようもない程に、あの日の彼と重なった。
「何故だ」
だから、もう限界だった。心に溜めた想いが決壊して、止める事すら出来ない程に溢れ出す。止めようと思う事すら、もう出来はしなかった。
「何故、何故なんだ!? 何故、君達は何時も――彼も、君も、西の民は皆、どうしてそんな風に生きられる!? それが、愛だとでも語る心算か!? そんな報われない不合理に、どうして君達は命を燃やし尽くすっっ!!」
ああ、どうしてそんなに愚かな生き方が出来るのか。ああ、どうしてそんなに自ら破滅へ向かうのか。ああ、どうして――誰かを愛すると言う些細な想いすら、遂げられない程に世は理不尽なのか。
世界は終わる。間もなく終わる。だが仮にそれを避けられても、それでも何時か終わるのだろう。生まれ落ちた者は何一つとして例外などなく、全て死へと向かって行く。どんな想いも、後には何も残せない。
世界は無情だ。世界は非情だ。人は愚かしさを繰り返して、先人から学ぶ事すら出来ずに、破滅を只管繰り返す。だと言うのに、どうして。どうして笑って、その道を行けるのか。分かっていて、どうして走り続けるのか。
血を吐くような問い掛けに、返す言葉はとても単純な物だった。
「そうしたいから」
「な、に……」
「そうしたいから、以上の理由なんてねぇよ」
そうしたい。自ら望んで、そうするのだと。それ以外の、理由はない。
「なぁ、兄ちゃん。誰と重ねてんのか知らねぇけどさ。……その人は、不幸だったのか?」
「……あの結末を、其処に至る煉獄の様な日常を、どうして幸福だったと言えようか。愛する者を救おうとして、命を落とす結果となった! 何の罪もなかったと言うのに、どうして彼だったのだッ!?」
ディエゴと言う男の時は、きっとあの日から止まり続けている。その心はあの時に、置き去りとなったままなのだろう。
だからこそ、あの日の彼に似ている少年の瞳を前に決壊した。この少年の進む先に待つ未来はあの日の様に、救いがないのだと思ってしまった。
だから止めないといけないと、それは宛ら強迫観念。漸くに動き出した時の中で、そんな男に少年は疑問を投げる。
「それさ、本人がそう言ってたの?」
「何を――」
「その人の気持ちが分かる、とは言えないけどさ。兄ちゃんが俺と重ねてるってことは、きっと俺と似た人だったんだろ? ならさ、きっと後悔なんてしてないよ」
ディエゴが答えを出す前に、少年は己の答えを示す。きっと一緒だと、疑う事無く口にする。
それは一途な想いに生きて、燃え上がる様に消え去る西の理屈。誰にだって胸を張れる、己に誇れる己の理屈。
「救えなかったことを、嘆いていたとは思う。幸せに出来なかったこと、悔しいって思うのは当然だ。けどさ、守ろうとして死ぬことになった。その結果にはきっと、後悔なんて一つもない」
本当は救いたかった筈だろう。守り抜いて幸福に、成りたかった筈なのだ。けれど、その道を選んだ事への後悔なんてなかった。
少なくとも、その人がセシリオと似ているならば、それは間違いないだろう。だってセシリオは、後悔なんてしていない。寧ろ己を誇っている。
「だってさ、守れないまま、生きていく方がずっと辛い。動かなかったことを、ずっとずっと後悔する。死の危険を前にして、それでも救おうと思えた。そんな自分を、絶対誇りに思ってる。少なくとも、俺ならそうだね。惚れた女の為に命を賭けるって、男の冥利に尽きるじゃん」
「……君は」
ああ、何故だろうか。あの日の彼に、言われている様な気がした。だからディエゴは、そんな少年へと、震える声で問い掛ける。
「君は、こんな世界を、愛しているのか」
「うん。だって、この世界がなかったら、俺はキャロと逢えてなかったんだぜ?」
青年の縋る様な疑問に、あっけらかんと答えを返す。それはきっと、いいや間違いなく、あの日の彼も同じ様に答えたであろう事。そうして漸くに、ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェは気付いていた。
「ああ、そうか。そう、だな。アイツは、最期まで、恨み言を口にすることはなかった。ああそうだ。死に顔ですら、何処か満足そうに安らかで。――ああ、本当に、どうして今まで気付けなかった。アイツは唯の一度も、この世界を憎んだ事などなかったと言うのに」
最後に見た、死体の浮かべたその表情。苦しみ抜いたであろうに、痛みしかなかった人生だったろうに、それでも安らかな死に顔は満たされていて。
彼らは恨んでなど居なかった。共に居れた時間が短くても、その僅かな幸福を噛み締めていた。出逢えた世界を愛する為には、その一瞬があれば十分だったのだ。
何年越しか、十年は経っていないだろう。けれど余りに長いと感じる時の、果てに彼は答えを得た。
「セシリオ。カロリーネ。……今更だが、私にも手伝わせてくれないだろうか」
だから、漸くに彼の時間も動き出す。無駄な足掻きに終わるとしても、今を歩き出そうと思えたのだ。
「今なら、出来る気がするんだ。少しだけ、本当に少しだけ、なんだが」
「ああ、頼む。俺らに手を貸してくれ」
「……全く、遅いんですよ。これだから兄さんは」
何処か自信なく伸ばした手を、二人の子どもが受け止める。助けてくれと笑う褐色の少年に、遅いのだと呆れる蒼髪の少女。けれどそのどちらにも、拒絶する様な色はなかった。
「太母マリーアよ。不祥の子が、此処に祈る。まだその愛が尽きぬと言うなら、どうか聞き届けて欲しい」
だから、真摯に祈り、願いを語る。子ども達の手に引かれて、揃って三叉槍を掴みながらに想う。求めるのは、今も昔も救済だ。
(美しいものを見た。汚い物ばかりの世界で、それでも美しいものはあったのだと。そんな事、当の昔に知っていた筈だったのに)
けれど、今は昔と少しだけ違っている。助けたいと思う者が、より明確に浮かんでいる。そう思える程に、美しいものは確かにあったから。
(知っていた筈のことを、今になって想い出せた。今になるまで、忘れていた。そんな下らない男の声が、まだ届くと言うならどうか――――)
この美しさが永遠にと、其処までの高望みはしない。唯、今日で潰えず、明日に続いて欲しいと思った。唯それだけで、そんな小さな救いで十分だから。
「この子らに、未来を――」
どうかこの無情な世界にも、ほんの少しの奇跡を。その為に代価が必要だと語るのなら、この罪深い男の全てを持って行け。
顔も知らない何処かの誰かを救うのではなく、此処に今を生きる綺麗な景色を守りたい。そう思えたその時に、男の見ていた世界は変わった。
光が満ちている。蒼き光が、世界を満たしている。優しく慰める様に、その手を伸ばして来る無数の輝き。それこそが、精霊と呼ばれる星の断片。
「はい。聞き届けましょう。その子たちだけではなく、貴方の未来も――愛おしい子ら、全ての未来を――」
そして、其処に降り立つ一つの化身。其れは古き世に生きて、星に己を捧げた四の一。嘗ての自己は壊れ果て、それでも愛し続けた女。
魚の半身を持つ蒼い美女。水の精霊王メアリー・アンディーン。彼女は己の末へと微笑む。その優しく愛情に満ちた表情は、正しく慈母と呼ぶべき物。
「太母、マリーア」
「よく、頑張りましたね。愛しい私の子ども達」
驚愕し、困惑する者ら。そんな人の子を一人一人と見詰めた後に、水の精霊王は力を放つ。彼女が為した行為の結果は、余りにも分かりやすい形で訪れた。
「海が、揺れてる? 一体、何が!?」
「魔女が沈めた大陸を、私の力で引き上げています。舌を噛まぬ様、気を付けて下さいね」
海と、それを埋め尽くす海竜が揺れている。轟音と共に起きる大震動に戸惑うセシリオが零した言葉に、メアリーは優しく注意しながら言葉を返す。
これより、西の大地を元に戻すと。大魔女によって虚構に変えられてしまった真実を書き換えて、人々が生きる大地を此処に取り戻さんと言うのである。
「マリーア様!? お体がっ!!」
「案ずることはありませんよ、カロリーネ。あの少年の体内で暴れていた闇の魔王を封じ、虚言の魔女が為した因果を否定する。その対価に、私と言う存在が消滅しようとしているだけですから」
激しさを増していく震動と共に、薄れていくメアリーの身体。手足の先端から崩れる様に零れ落ちて、戻らぬ姿にキャロは絶句する。
それも当然、魔王は精霊王より強大だ。四体揃って漸くに、原初の闇を封じる事が限界だった程に力の差がある。だと言うのに毒に侵された身体で、二柱の魔王が為した行為をたった一人で覆そうと言うのだから、自己の崩壊は相応と言うべき対価であった。
「そんな、だけって!?」
「星が滅びぬ限り、四大は消えません。この消滅も一時の物。何万、何億年と先になるでしょうが、何時かは目覚めの時がまた訪れる。だから、それだけの話です。嘆く必要などはないのですよ、優しい子」
それを良しとしたのは、何時か蘇る事が出来るから。それだけが理由と言う訳ではないだろう。それに何時か蘇るのは、今此処に居るメアリーではない存在だ。
蘇った自分が今の自分と同じであるかなど、最初から保証の一つもありはしない。連続性のない自己など、別人と何が違うのだろうか。それどころか総身に回った自我を否定する毒を思えば、己と言う存在など蘇生の過程で欠片も残らず消え去るだろう。
それでも、それを良しとした。その理由はきっと、そうしたいと思ったから。それ以外の理由なんて、何一つとして必要なかった。
「……貴女は西を救って、その代償に万年の眠りに就くと」
「愛しい子よ。貴方の罪は、貴方の罪。母の罪は、母の罪です。だから貴方が為すべき贖罪は、これとは異なる形にしなさい。そう、親の罪が子に祟ると、それは合理的ではないのです」
「――っ!? それを、貴女が言うのか」
「ええ、私だから言うのです。……伝えてるのが遅れて、御免なさいね」
慈母の言葉に、ディエゴは拳を握り締める。その胸中に渦巻く感情は複雑で、単純な言葉では語れぬもの。
それでも、それを飲み干して、彼は消え行く太母を見上げる。奇しくも己の望みの一つが果たされる光景に、寂寥にも似た感情を抱えたまま。
そして、西の大地が浮上する。海に沈んだ大陸が、水の命と引き換えに浮かび上がる。繋ぎ止めていた命が、溺死した命が、踏み潰された命が、遍く命が戻っていく。
西は嘗ての光景を、此処に取り戻さんとしている。繁栄を得ていた日々には遠く、けれど多くの人が思い思いに生きていた時間には近く。だがしかし、怪異は今も残っていた。
「それで、西を浮上させてどうなると言う。その代償に、貴女が消えるのならば結局は――」
西を沈めた大魔女は今も健在で、無限に増殖したリヴァイアサンは陸に打ち上げられて尚も暴れている。魔性の物らがある限り、危機は今も去ってはいない。
それで精霊王が消えると言うのなら、結局状況は改善しない。また沈められるだけとなろう。故に問い掛けるディエゴに対し、消え行くメアリーは否定の言葉を此処に返した。
「いいえ、これで終わりです。私が動けると言う事は、即ちあの子もまた動ける様になったと言う事」
そうとも、此処で終わりだ。まだ魔性のモノらは蠢いているが、もうお終いだ。
そうなる様に、彼が動く。そう出来る彼がもう、此処に辿り着いているのだから。
「愛しい子らよ、その眼で確と見届けなさい。アレは単一で世界を滅ぼし得ると言う魔王の中でも、最強と称される竜の王」
消え行く彼女は最期に告げる。五大が内でも最強と、そう語られる魔王の存在。
彼が人の味方として在ると言う、其れこそがこの世界に置ける最も大きな奇跡であると。
「本来ならば人類にとって、最強最悪の敵と成っていた筈の者。その真なる力が、貴方達の未来を切り拓く希望の剣と成るでしょう」
蒼き美女は消滅し、代わる様に巨大な光が立ち上る。その光景を、西に住まう誰もが見ていた。
――内功想行・以って我は心威を示す――
「はっ、まさかな。時間切れが唯一無二の勝機とか、皮肉なことだな。全くよ」
魚鱗の上へと着地して、最初に気付いた彼女は呟く。立ち上がった彼に不安定さは欠片も見えず、その声には力強さが満ちている。
これが真なる悪竜王かと、頭の中で攻略法を想像する。何一つとして対処などは出来ないと結論付けて、セニシエンタは溜息混じりに撤退を選択した。
先の一戦で彼女が悪竜王を封殺出来たのは、彼が本調子でなかったからの一点に尽きる。昼夜も問わず内から魔王に浸食されて、疲弊し切っていたからに他ならない。
内と外から第一と第三の魔王に攻め立てられて精神は摩耗し、傷も癒えぬ内であったから背を押すだけで突き堕とせたのだ。今の彼に挑めば鎧袖一触、何も出来ずに敗れるだろう。
故に、気付かれる前に逃げ出すとしよう。無様に情けなく勝ち逃げさせて貰うのだと、空間を転移し彼女は消えた。
――Yasna Visp-rat Vīdēv-dāt Yašt Xvartak Apastāk――
「あの輝きは、人の光? ああ、何故だろう。涙が零れそうな程に、美しいと感じてしまう」
ディエゴが見たのは、聖剣の光か、それとも心威の光であろうか。そのどちらであったとしても、感じる想いは一緒であろう。
これは人の心の光。未来を信じて、今を生きる。そんな誰もが持つであろう、この世で最も美麗なもの。瞳から零れ落ちる熱さと共に、その力強さを感じている。
ああ、大丈夫。もう大丈夫。あの美しい輝きが、きっと未来を切り拓く。この今だからこそ、ディエゴはそう信じられた。
――ザラスシュトラが語りしは、善悪統べし神への賛歌――
「私達の行いは、無駄ではなかった。足掻き続けた果てに、あの人は間に合った」
キャロは安堵する。もう大丈夫だと言う安心感と、己達の行動が無駄には終わらなかったと言う満足感に満たされて。
そうとも、誰かが途中で諦めていたら、彼は間に合わなかったかも知れない。救える命は、もっと少なくなっていただろう。
だけど、誰もが立ち続けた。弱さ故に膝を折った男でさえ、最後には共に前を見た。だからこそ、彼が間に合ったのだと思うのだ。
――神を紡ぐは総意の願い。善悪を定むは人の意志。我が求むは揺るがぬ心――
「あー、確か、えっと、此処まで名前出掛かってんだけど……ま、いっか! やっちまえー、ド天然だけどめっちゃ強ぇ兄ちゃんよっ!!」
セシリオは忘却している。その輝きを垣間見て、一瞬思い出せそうになったが結局言葉に出来ない程度。それでも、朧げだけど思い出す。
悪なる竜王の出陣を前にして、その臣下を自称していた事もあった少年は、勝利の確信と共に腕を振る。この世で最も強い奴。セシリオにとっては、彼こそ最強の象徴だった。
――心威・解放――
「善悪定めろ――拝火経典」
浮かび上がった西の大陸。その東端から湧き上がった輝きは、人の想いを束ねた光。希望や願いを、集めた輝き。
それを身に纏うのは、銀に輝く長い髪を持つ少年。少女の様な容貌に、巨大な竜の手足を持つ。彼こそ五大最強と、称される闇の頂点。
「にゅふふー。未来を視ずとも、分かるにゃよ。もう大丈夫、ってにゃ」
「もうちょっと格好良く出迎えられたら最高だったんだけど、それはまだ高望みし過ぎかな」
転移空間から抜け出して、その輝きを見たミュシャは立ち止まる。もう逃げる必要などないと、今の彼女は分かっていた。
無数の魚竜を相手に立ち回りをしていたエレノアも、その輝きを前に見惚れる。出来ればもう少し格好良く迎えたかったが、それは高望みし過ぎであろうと我慢して。
そして、二人の少女は全く違う場所から、同じ想いを抱いて彼の名前を口にした。
『ヒビキッ!!』
「うん。後は、任せて――――聖剣・解放。フルパワーだっっ!!」
聖なる光は巨大な剣を形作って、それを少年は大きく振るう。唯一度、横殴りの斬撃が周囲の景色を一変させた。
この輝きは、望んだモノだけを切り裂き消し去る。浄化すべき魔性だけを、有無を言わさずに消し飛ばす。
無限を思わせる程に、地平線の果てまでも埋めていたリヴァイアサン。その大量の海竜が、唯一太刀で一つ残さず消し飛んでいた。
【ラ、ラララ!?】
在り得ない。それは余りにも信じられない程、一方的に過ぎた光景。無限の量が、単一の個に蹂躙される。
それだけでも在り得ぬのに、それ以上に信じられないのは魚竜の全てが浄化された事。瘴気の残滓も残せぬ程に、これではもう嘘に出来ない。
所詮アリスの言葉は虚言だ。生命そのものを創造するアカ・マナフと異なって、完全消滅したモノはもう戻せない。
最早戦力差は覆された。たった一人の怪物に、何もかもを引っ繰り返された。このままでは自分も危ないと、アリス・キテラは境界を超えて逃避する。
僅か一秒も必要なく、彼女は世界の裏側へと。地球と言う星の正反対、其処まで逃げれば一先ず直ぐには大丈夫だろうと――それは余りに、甘く見過ぎだ。
「何処に行く気だい、アリス?」
気付けば、彼は其処に居た。最強の魔王と言う怪物は、アリス・キテラを逃がさない。
【ニゲラレナイナンテウソ!!】
「いいや、所詮嘘は嘘だよ。前に、そう言っただろう?」
【ラ、La――!?】
追い詰められた現実を嘘に変え、逃げ出そうとするアリス・キテラ。その顔を五指で掴んで、響希は冷たい声音と共に力を発する。
滲み出していた虚言の権能。その源である瘴気を力尽くで抑え付け、聖なる光で浄化し封じ込めながら、詰まらぬ物を見下す瞳で下らぬとばかりに口にした。
「どうして、と。そんな目をしてる。実に単純な話だろうに。……君が権能を使うより早く、近付いて殴り飛ばせば良い。例え世界の果てに逃げようとも、光より早く走れば直ぐに追い付ける。それでも抵抗するのなら、力尽くで出来ない様に抑え付けてしまえば良い。実にシンプルで分かりやすい解答だ」
悪なる竜は最強だ。本来ならば第三魔王などでは、相手にならぬ程に力の差が存在している。全力を発揮できれば、結果はこうなる以外にない。
そうとも先には闇の魔王と共闘して内外から、それでも追い詰める事が精々だった。罠に嵌めてから魔王二柱で、それで漸くこの怪物と拮抗出来る。
それ程に、悪竜王とは規格外。無自覚だった消耗が消えた今、彼は無敵に等しい怪物と成っている。これこそが、暴虐を司る魔王の真なる力なのである。
「そう。だから簡単だ。君が何をしようと、その全てを蹂躙するのも。君を構成する全ての瘴気を此処で、浄化し切ることすらとても容易い」
既にアカ・マナフは完全に封印された。悪竜王を内側から揺らがす事も出来ず、彼は久方振りに感じる解放感と共に告げる。
今ならばアリス・キテラが何をしようとしても、機先を制して押し潰せる。星の果てまで逃げ出そうとも、秒の単位で追い付ける。負ける事など、在り得ない。
「もう終われ、アリス・キテラ=ドゥルジ・ナス。自分さえ分からなくなってしまった、哀れな怪物」
故に、此処に告げるとしよう。赤い魔女を片手で持ち上げ、竜王はもう一つの腕に光を纏わせる。
その輝きは、魔王ですらも消し去り浄化し尽くす程の物。一切躊躇する事なく、響希はその輝きを振り抜いた。
【あぁァaAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!?】
叩き込まれた一撃は、その存在を成立させている瘴気を消し去る。最早権能を使えぬ所か、生命維持すら出来ない程に。
必死に足掻いて傷を嘘に変えようとして、その度に失敗しながら崩壊していくアリス・キテラ。その末路を見届ける事すらせずに、龍宮響希は背を向けた。
「それじゃ、さようなら。迷わず死ねる程度は、祈っておくよ」
最早、アリス・キテラはお終いだ。その中核は致命的なまでに壊されて、仮に生き延びたとしても遠からず消滅する。
だからと言って死に行く童女を、哀れむ事など彼はしない。そうなってしまった事は不運で、けれどもう終わってしまった事だから――路傍の轍と、見捨てて進む。
こうして、西方大陸最後の戦いは幕を下ろす。この地で最も長い一日は、余りにも呆気ない幕引きを迎えたのだった。