序幕
◇
頭上のステンドグラスより溢れる光。
七色に輝く儚い光はまるで万華鏡の如く、移り変わる光が場を照らし出す。
虹に映し出されるは無数の客席。
その前にあるのは、緞帳が下がった檜舞台だ。
「ようこそ、おいでくださりました。皆様方」
そんな舞台の上に立ち、女は優雅に礼をする。
「私はカッサンドラ。英雄譚を謡う詩人の如くに、物語を語る者」
虹に浮かび上がった女は宛ら影絵の如く。
或いは水面に映った月の如くに、その存在が曖昧だった。
美しいと言う事は分かれども、その細部までは認識する事が叶わない。
だがそれで良い。カッサンドラはかくあるを良しとしている。
物語の演者ではなく、舞台の一切を取り仕切る監督者でもない。そんな女は影絵の黒子で十分なのだ。
「さて、皆様は月下推敲と言う言葉をご存じでしょうか?」
カッサンドラは、唐突にそんな言葉を口にする。
それは詩人を気取る影絵が、真実を婉曲に伝えようとする含んだ物言い。
「故事に曰く、賈島と言う者は月明かりの下、敲くがよいか推すがよいかと、己の詩に相応しい言葉はどちらか悩んだそうです。その故事から生まれた四字熟語。字句や表現を深く考えて、何度も修正して仕上げることを月下推敲と申します」
月下推敲。文章を推敲すると言う言葉の、語源となった故事である。
前提として不必要な導入を入れた影絵の女は、纏わりつくような笑みを浮かべた。
「即ち、より良きを生み出すには、試行錯誤が必要となる。唯書き連ねただけの文言では、人の心には響きませぬ」
それは誰しもが知る事だろう。
それは誰しもが分かる事だろう。
試行錯誤を重ねる事もなく、傑作が出来上がる事は稀だ。
誰しもが一度作り上げた物を顧みて、そうしてより良く仕上げていく。
「それは詩に限らず、文に限らず、あらゆる全てに言える事でしょう」
あらゆる全ては、積み重ねの上に立っている。
その土台に積み重ねた量と質こそが、その完成品の精度を保証する。
最初から完璧に出来る物など例外だ。
そんな特殊な例は少数だからこそ、例外事項とされるのだ。
「一つの傑作が生まれる前には、数十、数百と言う駄作が生まれる。失敗こそが成功を生むと語る様に、真に優れたるモノの前にはそうではなきモノが存在しているのです」
失敗は成功のもと。失敗は成功の母。
成功したとされる傑作の前には、ごく一部の例外を除いて失敗作が存在する。
カッサンドラがこれより語るのは、そんな傑作の前に出来た失敗作の物語。
「そう。それは聖なる剣とて同じ事。人の想いを繋げる希望の剣が、生み出される前にそれは作られました」
それは聖なる剣の前に作られた。
魔王を倒す事を目的として作られた、幾多の失敗作の一つ。
「魔剣」
魔に堕ちた剣。魔に染まった剣。
どちらにせよ本来の役を果たせぬそれは、結局の所失敗作。
「望んで求めた物ではない。異なる結果に辿り着いてしまった失敗作。聖なる剣と同じ手法で作られた、人を救えぬ邪悪な剣」
呪われし魔剣は、人を救わない。
魔王を殺せぬ邪悪な剣は、持ち主全てを狂わせる。
「此度の物語は、魔剣を巡る物語」
此度の演目は、そんな魔剣の物語。
悪なる竜が関わるのは、そんな魔剣を手にした少女。
「魔剣を受け継ぐ少女の瞳に、宿った色は憤怒と憎悪。その正しき怒りが向かう先は、彼女にとって許せぬ仇」
少女は怒りと憎悪を抱えている。
耐え難い程の業火に焼かれるのは、道を見失った復讐者。
「魔剣を手にした復讐者。望んで不幸へと向かう少女は、我儘な悪意では救えません」
少女は救えない。身勝手な悪意では救えない。
何故ならば、少女は救われる事を望んでいない。
復讐を果たした後に滅び去る事を望む少女の心には、暴力による救いなどは届かない。
「自分勝手な救いは届かず、自暴自棄と知りながらも破滅へと向かう少女は止まらない」
停止装置が壊れた自動車。回り続けて止まらぬ車輪。
何時か谷底に墜ちると知って尚、それでも憎悪は拭えない。
そうである以上、悪なる竜では救えない。
「そう。それを止められるのは、唯一つ」
ならば、それを止められるのは唯一つ。
破滅に向かう少女を救えるモノは唯一つ。
「正しい義ではなく、身勝手な悪でもなく。ならば――」
そう。彼女を救えるモノがあるのだとしたら、それはきっと――
「いえ、今は語らないでおきましょう」
カッサンドラはくすりと笑って、そうして言葉を飲み込んだ。
影絵の語りはこれにて終わり。
これより先は劇場にて、観客自身の心と瞳で結論付ける事。
「さて、此度の竜は如何なる物語を紡ぐのか」
さあ、物語の開幕は間近。今こそ舞台を幕開けよう。
「どうか暫しお付き合い下さいませ」
優雅な一礼と共に、カッサンドラは静かに微笑む。
開幕を告げるブザー音が虹の劇場に響き渡り、ゆっくりと緞帳は幕を開けた。